悪役令嬢エレノアは、拳で理不尽を黙らせる
1万字予定の短編が、なぜか毎回倍以上になる不思議。
ロレーヌ家といえば、ここラスベリア王国の貴族たちの中でも、きわめて古くから続く家系である。
初代国王の妹の嫁ぎ先であり、長子は代々、公爵位を賜ってきた。
また王の側近ともいえる宰相職を務めた人間を、最も多く輩出していることでも有名だ。
――もっとも、ここ数代はその職を逃しているのだが。
現在の当主、リチャード・ロレーヌもまた、その一人だった。
もともと強引な手段を好む男ではあったが、権力争いに敗れて以降、その性質はより露骨になった。
ロレーヌ家の栄光を取り戻すためなら、もはや手段は選ばない。本人もそう豪語しているほどだ。
その最たる被害者となってしまったのが、ロレーヌ家の長女――エレノアである。
◆
王都にある邸宅の自室。
エレノアは優雅な所作でティーカップを傾けながら、招いた客人の到着を待っていた。
しっかりと手入れされた、ウェーブがかったプラチナブロンドの髪。
夜の深い海を思わせる切れ長の瞳と、形のいい鼻筋に、薄い唇。
まだ十五歳ながら、ぞくりとするほどの美しさを纏っている少女。
だが、その整いすぎた容姿と凛とした佇まいのせいで、どこか冷酷そうにも見えるらしく、陰では──。
(また「悪役令嬢みたい」なんて言われているのでしょうね)
そんな噂が立つのも、今に始まったことではない。
そして今のエレノアは、その噂に拍車をかけるほど、猛烈に機嫌が悪かった。
彼女の雰囲気に慣れている使用人たちでさえ、怯えて遠巻きにするほどである。
眉をきつく吊り上げた表情は、もともと鋭い顔立ちを、より一層近寄りがたいものにしていた。
「エレノア、眉間に皺が寄ってるぞ。せっかくの美人が台無しだ」
その声に、エレノアは顔を上げる。
目の前にいたのは、四つ年上の兄、ウィリアムだった。
彼はこの空気をまるで気にする様子もなく、いつもの調子で声をかけながら、彼女の正面に腰を下ろす。
「ただでさえ怖がられるのに、そんな顔してると、同世代の女の子が寄ってこなくなるぞ。ほら、見てみろ。みんな怯えてる」
言われて初めて周囲に気付いたエレノアは、軽く息を吐き、使用人たちに向き直る。
「あら、ごめんなさい。でも――これから私は、さらにあなたたちを怖がらせてしまう自信があるの。ですから、しばらくお兄様と二人きりにしてもらえるかしら」
その一言で、使用人たちは即座に退室した。
取り残されたウィリアムは、ぎょっとした顔になる。
「ちょっと待て。お前の機嫌が悪い原因、もしかして俺か? 何か気に障ることを……ああ、さっき同世代が寄ってこなくなると言ったからか?」
「お兄様、少し黙ってくださいまし。私にはそれなりに友人と呼べる方々もおりますの。余計なお世話ですわ」
そして、エレノアはちらりと兄を見上げて付け足す。
「それに、私以上に悪人面している方に言われたくありません」
「ひどくないかそれ」
ウィリアムもエレノア同様、顔立ちは整っている。
だが初対面の人間には、まず間違いなく怖がられる顔立ちだ。
彼が笑うだけで、何か良からぬことを企んでいるのでは、と邪推されるほどである。
昔はそのせいでなかなか友人ができず、悩んだこともあったらしい。
しかし今は、自分の容姿を受け入れ、前向きに生きている。
その理由を、エレノアは知っていた。
数年前、兄の婚約者となった侯爵家のキャサリン嬢。
政略結婚でありながら、彼女はウィリアムに一目惚れしたらしい。
(凶悪面が標準の兄に、よくまあ……)
そう思わなくもないが、二人の仲は良好だ。
デレデレと婚約者を甘やかす兄を見るたび、少し気持ち悪いと思いつつも、
(私も、いつかは……)
そんな期待を抱いていたことも、確かだった。
だが。
運命の女神は、エレノアに微笑まなかった。
「それで。用件はなんなんだ?」
紅茶を啜るウィリアムは、先ほどまで婚約者と会っていたらしく、実に上機嫌だ。
その幸せオーラが、今のエレノアには少々眩しい。
彼女が兄を呼び出したのは、呑気にお茶会をするためではない。
八つ当たりだと分かってはいる。それでも誰かに吐き出さずにはいられなかった。
エレノアは一呼吸置き、刺々しい声で告げた。
「私の婚約者が――ランペスト家のロイド様になりましたの」
「ぶっ」
ウィリアムが思いきりむせた。
カップを置き、口元を拭った後、ゆっくりと顔を上げる。
「……なあ、エレノア。ランペスト家って、もしかして『あの』ランペスト家か?」
ウィリアムの質問に、エレノアは嫌そうに頷いた。
その瞬間、彼の表情は絶望一色になる。
「……終わったな」
頭を抱えるウィリアムを見ながら、エレノアは思った。
(ええ。私も、そう思いますわ)
◆
「エレノア、午後からの予定はキャンセルだ。今から外出するから準備をしなさい」
午前中のマナー講座を一通り終えたエレノアの元へ現れたリチャードは、挨拶もそこそこにそう告げた。
「お父様、一体どちらに向かうんですの?」
「友人が開く小規模な茶会だ。そこでお前に紹介したい人物がいる」
その一言で、エレノアは状況を察した。
ウィリアムに婚約者が決まったのも、ちょうど同じくらいの年齢だった。なるほど、今回は自分の番というわけだ。
すぐさま侍女たちが駆け寄り、手際よくエレノアを支度させていく。
瞳の色よりも淡い色合いの、爽やかなドレスを纏ったエレノアは、着飾る侍女たちですら思わず息を呑むほどの美しさだった。
「まるで妖精のように可憐で、美しいお姿でございます」
その言葉に、エレノアはわずかに頬を染める。
「あなた達の腕が良いのよ。……とはいえ、肝心のお相手がどなたなのか、まだ分かっておりませんけれど」
「ご安心くださいませ! 今のお嬢様をご覧になって心を奪われない殿方などおりません!」
散々に持ち上げられたエレノアは、自然と気分も上向きになり、そのまま馬車へと乗り込んだ。
リチャードからは、相手の名前は到着してからの楽しみだと含み笑いでかわされ、それ以上の追及はできなかった。
正直なところ、リチャードとの親子関係は良好とは言い難い。
彼は野心を追い求めるあまり、滅多に屋敷へ戻らず、親子としての会話もほとんどなかった。
子供の世話はすべて母キャロルに丸投げし、その母もまた、夫の関心を得られなかったことで心を折り、自室に籠もるようになって久しい。
結果として、エレノアとウィリアムは、乳母や使用人たちの手によって育てられたと言っていい。
それでも――ウィリアムの婚約者を選んだのは、確かにリチャードだった。
ウィリアムの婚約者であるキャサリンの実家、カロデン侯爵家は、家柄も人望も申し分なく、キャサリン自身の評判も良い。
人を見る目だけは、父にはある。だからこそ、今回もきっと、悪い縁ではないはずだ。
エレノアはそう自分に言い聞かせていた。
やがて馬車は、一軒の邸宅の前で停止した。
窓越しに見ただけでも、その規模は一目瞭然だった。
期待に胸を膨らませながら中庭へ進んだエレノアだったが、視界に飛び込んできた装飾の数々に、思わず眉をひそめる。
悪魔を模した金の彫刻。
宝石を過剰に散りばめた剣の鞘。
禍々しい文字で文章がびっしりと書き込まれた花瓶に、血に染まった人々が逃げ惑う絵画。
どれも高価であることは分かる。だが、品がない。
悪趣味を通り越して、嫌悪感すら覚える。
さらに言えば、ロレーヌ家という高位貴族の訪問にもかかわらず、屋敷の主の出迎えがない。
(……まさか、我が家より上位なんですの?)
それにしては、やはり趣味が悪すぎる。
嫌な予感を抱えたまま中庭へ辿り着いたエレノアの前に現れたのは、でっぷりと腹を突き出した男と、その隣に立つ、彫刻のように整った顔立ちの少年だった。
もっとも、その口元に浮かぶ意地の悪い笑みは、驚くほどよく似ている。
親子であることは一目で分かった。
(どうか、この人たちではありませんように)
エレノアの儚い願いはしかし、次の瞬間に打ち砕かれた。
「ゼリナム殿。本日は顔合わせの機会を設けていただき感謝する。……エレノア、彼がお前の婚約者、ランペスト家の嫡男のロイド君だ」
視界が揺れた。
倒れ込みそうになる衝動を、エレノアは気合いで踏みとどまる。
ランペスト家。
比較的新しく伯爵位を得た家で、元は平民の商家出身。
莫大な資金力を武器に急成長した一族であり、近年は特に羽振りがいいと、そう聞いている。
だが同時に、黒い噂が絶えない家でもあった。
闇オークション。違法薬物。高金利の金貸しと、その返済が滞った貴族を使った裏稼業……。
どれも確証はなく、噂の域を出ない。
だが、だからこそ厄介だった。
(こんな家と関わることがどれほど危険か……。子供である私にも分かりますのに)
非難の視線を父へ向けても、リチャードは気づかぬふりで話を続ける。
悪趣味な装飾を称賛するその姿に、エレノアは本気で頭が痛くなった。
やがて大人たちは屋敷の中へ消え、エレノアはロイドと二人きりで取り残される。
せめて彼が、多少なりとも常識的であれば……そう願ったのも束の間だった。
「お前のような高慢な女と婚約してやるんだ。生涯をかけて感謝するんだな」
値踏みするような視線のあとに吐き出された、嫌悪感を隠しもしない声と言葉。
続けざまに、可愛げがない、目つきが悪い、悪役の鑑のような女だと、淀みなく罵倒が降り注ぐ。
幼い頃のエレノアなら、目の前の失礼な人間に間違いなく拳を飛ばしていただろう。
ウィリアムと共に駆け回り、喧嘩では負け知らずだった、あの頃なら。
ロレーヌ家の庭で木剣を振り回し、年上の使用人の子供たちを相手にしても最後まで立っていたのは、いつも彼女だった。
転べば自分で立ち上がり、泣き言より先に相手の懐へ踏み込む。
殴られれば殴り返し、掴まれれば迷いなく急所を狙う――教えられたわけでもないのに、身体が勝ち方を覚えていた。
今でも、目の前の細身の少年を黙らせる自信はある。
だが、彼女はもう、公爵家の令嬢だった。
言い争うのは無意味だと感情を押し殺し、受け流していれば、今度は「反論できない空っぽの女」だと嘲られる。
切り返せば、罵倒は倍になって返ってくる。
(……相手をするだけ無駄ですわね)
そう悟ったエレノアは、それ以上関わることをやめた。
拳を振るわなかったのは、理性の勝利だ。殴ってしまえば、それこそ醜聞になる。
問題を起こさず別れたことに、エレノアは内心で自分を褒めた。
だが。
馬車に乗り込み、父へ抗議しようとした時には、すでにリチャードは執務へ向かった後だった。
残されたのは、冷たい伝言だけ。
「淑女らしく一歩下がって婚約者に仕えること。くれぐれもロイド君の機嫌を損なわないように」
その言葉を聞いた瞬間、
エレノアの怒りは、完全に爆発した。
◆
「まさかお父様が、ここまで馬鹿だとは思いませんでしたわ!!」
エレノアは堰を切ったように叫んだ。
「別にお金に困っているわけでもないのに、どうしてランペスト家と手を組みたがるのですの!? いいえ、分かっていますわ。どうせお父様のことですもの、更なる資金を投じて貴族たちをこちら側につけ、今現在、宰相職を賜っている名門のランスター家を出し抜きたいのでしょうけど――それにしたって、もっとましな相手がいるはずじゃございませんこと!?」
言葉は止まらない。
「そんなに破滅したいのかしら!? でしたらどうぞご自由に。最近、風通しの良くなった頭で決めたご判断には付き合いきれませんわ! ああ、お父様曰く、少し量が減ってきただけで剥げてない……でしたかしら。ふさふさの家系だから禿げるわけがない、なんて仰ってましたわね。ふん、鏡を見てから言ってほしいものですわ!」
エレノアは一息に畳みかける。
「少ない毛髪を薄く広げて、あたかも髪があるように見せかけているのが、バレていないとお思いなのかしら。それならいっそ、男らしく丸刈りにするべきですわっ!!」
そう言い切ると、エレノアは勢いよくカップを手に取り、中身を一気に飲み干した。
そして、まだ足りないとばかりに続ける。
「なんですの、あのランペスト家は。趣味があまりにも悪すぎですわっ! しかもロイドってあの男、一体何様なんですの!? 私の気位が高い? 私は由緒正しい公爵家の令嬢ですわ。高くて当然じゃありませんこと!?」
吐き捨てるように、さらに言葉を重ねる。
「それに、そんな言動をした覚えなど一切ないのに、勝手に色々と決めつけて――どう考えても、彼の方が傲慢で、気位が高くて、性根の歪んだ嫌味な人間でしたわ!! 散々、自分の顔自慢をしていましたけれど、あの程度で心が揺らぐほど、私の審美眼は曇っておりませんわ!」
エレノアは少し間を置き、一転して冷ややかに笑う。
「ふふっ、あの父親の血を引いているのであれば、数十年後にはどうせ肥えた豚野郎に成り下がって、今の美貌も見る影もなくなるに違いありませんわ。……あら嫌ですわ。豚って意外と筋肉質ですし、それこそ豚に失礼でしたわね」
そこまで言い切って、ようやくエレノアは息をついた。
お代わりを注ぐ者がいないため、ウィリアムが黙って三杯目の紅茶を淹れ終えた頃、ようやく嵐は収束する。
「……落ち着いたか?」
ウィリアムの問いに、エレノアはまだ乱れた呼吸を整えながら、頷いた。
「ええ。ありがとうございます、お兄様。持って行き場のない愚痴を聞いていただいて」
こんな感情を抱えたまま日常に戻るなど、エレノアには到底できなかった。
かといって、誰彼構わず話せる内容でもない。
好き放題まくしたてたおかげで、胸の内は幾分すっきりした――それだけは確かだった。
だが、肝心の問題は、何一つ解決していない。
「にしても、そのロイドって野郎……よくもまあ、俺の妹を馬鹿にしてくれたもんだ」
ウィリアムは低く呟く。
「俺がその場にいたら、その場で存在を消滅させていたかもしれないな」
怒りが頂点に達した時、ウィリアムは静かに笑う。
それがどれほど危険な兆候であるかを、エレノアはよく知っていた。
人相も相まって、傍から見れば、ただの悪役そのものである。
「エレノア。よく耐えたな」
だが今度は一変して、目尻を下げ、兄は妹の頭を優しく撫でた。
「お前が一番辛かっただろうに」
顔は怖いが、根は優しいウィリアムのその仕草に、エレノアは嬉しさと気恥ずかしさが入り混じる。
誤魔化すようにぷいと顔を背け、彼の手を軽く払った。
「やめてくださいまし。もう小さい子供じゃありませんのよ」
「ああ、悪い悪い」
しかし、すぐにウィリアムの表情は曇る。
「……それにしても、最近の父上はますます気が触れている気がしてならない。あんな家と婚姻を結ぶなんて、お前の言う通り自殺行為だ。今はまだ噂の域を出ていないからいいが、そのうち必ず……」
「まさかお父様、ランペスト家の黒い噂を知らないほど耄碌しておいでですの?」
「さあな。知っていたとしても、自分だけは大丈夫と高を括っているのかもしれないな。そんな訳ないのに」
ウィリアムはこめかみを押さえ、深くため息をつく。
このままでは、ロレーヌ家そのものが危うい。
高位の貴族であればあるほど、あの怪しげな家と縁を結んだロレーヌ家を敬遠するだろう。
最悪の場合、ウィリアムの婚約者から婚約破棄を申し出られてもおかしくない。
「……ねえ、お兄様。この婚約、何とかなりませんの?」
望み薄だと分かっていても、エレノアは問わずにはいられなかった。
「身分を笠に着たいわけではありませんけれど、あちらは伯爵家で、うちは公爵家ですわよ? 立場をわきまえないあの男は不相応だと、毎日訴え続ければ……」
「無理だろうな。父上は資金力しか見ていない。お前が我慢しろ、の一点張りだ」
「ならいっそのこと、私があのロイドを殴り倒して、向こうが怒って婚約破棄、というのは?」
「やめておけ。傷付くのはお前だ」
ウィリアムは即座に首を振った。
「噂が広まれば、社交界で後ろ指を指される。そんな役目を妹に背負わせる気はない」
「ですが、このまま悪縁に巻き込まれるくらいなら……」
それでも、ウィリアムは譲らなかった。
「ランペスト家は、そう簡単に縁を切りたがらない。高位貴族の中で、あそこに近づく愚かな当主は父上くらいだ。それに父上は、まだ家督を譲るつもりもないだろう。宰相になるまでは、な」
「そんなの、無理に決まっていますわ」
エレノアは吐き捨てる。
「あの家と手を組む愚か者に、その才があるとは思えません」
「……野心に憑りつかれているんだろうな」
エレノアは窓の外をぼんやりと眺めた。
詰んでいる。
そう思わずにはいられない状況だった。
すると、ウィリアムがぽつりと呟く。
「……それでも、可愛い妹が暴言を吐かれ続けるのは、兄として耐えられない。いっそ、奴の口を物理的に封じるか」
その剣呑な光に、エレノアは即座に制止をかけた。
「お兄様。お気持ちはありがたいですが、手を下すのは最終手段ですわ。そんなことをしたら、キャサリン様が悲しまれます」
「……そうだな」
「それに、こうしてお兄様が話を聞いてくださるなら、今は耐えられそうですわ」
そしてエレノアは、にこりと微笑む。
「お兄様も、このまま何もしない、なんてことはありませんわよね?」
「ああ。父上をどうにかし、お前とあの男との婚約を向こう有責で破棄する。ロレーヌ家の名誉も、必ず回復させる」
「でしたら、それまで私も殴り飛ばさないよう努めますわ」
そう言って、エレノアは悪戯っぽく付け足した。
「……ただし、夜毎に少々の『気晴らし』をするくらいは、神様もお許しくださると思うのですけれど」
ウィリアムに内容を問われても、彼女は決して詳しくは語らなかった。
命を奪うようなものではない。
けれど、確実に心に引っかかる――そんな程度のものを。
◆
というわけで、婚約者となったロイドとは、親交を深めるためという名目のもと、月に二度ほど義務的にランペスト邸で茶会が開かれることとなった。
もっとも、エレノアにとってそれは茶会などという優雅な響きからは程遠い、不愉快極まりない時間である。
例によってその会は、ロイドによる一方的な非難から始まった。
高慢だ、可愛げがない、冷たい女だ……。
内容は毎回微妙に違えど、結局のところ彼女の存在そのものが気に入らないらしい。
エレノアは、初回で学んだことがある。
こちらが何か言い返せば、その倍以上の言葉が返ってくる。しかも中身はなく、ただ不快指数だけが増していく。
ならば相手をしない方がまだましだ。
そう判断したエレノアは、ロイドが汚い声で囀っている間、目の前に置かれたカップを黙って口に運ぶことにした。
趣味の悪い装飾が施されたそれは視界に入るだけで気分を害するが、皮肉なことに用意される茶葉だけは一級品である。
――せめてこれだけは、無駄ではない。
上質な香りが喉を通るたび、彼の言葉は徐々に意味を失い、ただの雑音へと変わっていく。
慣れとは恐ろしいもので、繰り返されれば人は不快さすら処理できるようになるらしい。
それほどまでに気に入らないのであれば、ロイドの方から婚約破棄を申し出てくれればいいものを。
そう思い、エレノアは父にも直接訴えた。
だが返ってきたのは予想通りの答えだった。
――我慢しろ。
――淑女として耐えろ。
取り付く島もない。
とはいえ、溜まり続ける鬱憤を完全に放置するほど、エレノアは出来た人間ではなかった。
茶会から戻った夜は、静かに気持ちを切り替えるための小さな気晴らしに時間を使う。
効果のほどは分からない。だが、何もしないよりはずっといい。
そんな日々を送るエレノアのいるロレーヌ公爵邸には、最近、ある人物が頻繁に顔を出すようになっていた。
「やあ、エレノア」
王家特有の眩い白銀の髪色。
微笑むだけで場の空気が華やぐ、第二王子アルフォンスである。
幼い頃からウィリアムの強面をまったく気にしなかった、数少ない人物の一人。
ウィリアムの友人である彼は、当然エレノアにとっても顔なじみだった。
「申し訳ありません。兄はまだ戻ってきておりませんの」
「聞いているよ。今日は僕が少し早かっただけだ」
一国の王子を客間で一人待たせるわけにもいかず、エレノアは代わりに応対することになった。
紅茶を口にしたアルフォンスは、懐かしむように目を細める。
「成長するにつれて、君はますます綺麗になるね。昔、虫を追いかけて一日中走り回っていた頃が、ずいぶん遠い」
「いつのお話ですの。私ももう十五ですわ」
「立派なレディだ」
「ええ。ですから、多少腹が立つことがあっても抑えられる程度には」
その言葉に、アルフォンスの眉がわずかに寄った。
「……ウィルから聞いている。相当ひどい扱いを受けているそうだね」
「最近は、真面目に聞くのが馬鹿らしいと思っておりますわ。聞き流すのが一番ですの」
さらりと言ってのけたあと、エレノアはほんの少しだけ声を落とす。
「……それに、色々と発散する術もありますので」
「色々?」
問い返され、エレノアはにこりと微笑んだ。
その微笑みに込めた意味を、アルフォンスがそれ以上問いただしてこないことに、エレノアはすぐ気付いた。
(――さすがに長い付き合いですわね。)
幼い頃から共に過ごしてきた彼なら、今のエレノアが何かを企んでいると分かっているのだろう。
同時に、ここで踏み込んでも答えは返ってこないと理解している。
余計な詮索をせず距離を保ってくれる、その分別が心地よい。
エレノアにとってアルフォンスは、第二の兄のような存在だった。
エレノアは何も言わず、ただ静かに微笑みを保っていると、アルフォンスが気遣わし気に声をかける。
「無理はしないでほしい。何かあったら、僕に話しても構わないからね」
「ご心配なく」
エレノアは即座に答える。
「お兄様で事足りておりますわ」
きっぱりとした口調に、アルフォンスは一瞬目を瞬かせ、やがて苦笑した。
「……なるほど。君の怒りを一手に引き受けているウィルも、大変だ」
エレノアは、わずかに眉を上げて微笑んだ。
「まあ、失礼ですわ。これでも私、かなり自制しているつもりですのよ」
「自制かい?」
「ええ。昔でしたら、お兄様の制止を振り切って、部屋中を暴れ回っているところですわ。それを、ほんの三十分ほどの愚痴を、美味しいお茶と共に飲み下すだけでいいのですから」
アルフォンスは軽く吹き出し、もう一度同じ言葉を放った。
「やっぱり君の怒りを引き受けているウィルは、大変だ」
「妹を受け止めるのは、兄としての務めですわ」
ここで話題を変えるように、エレノアは問いを投げる。
「ところで殿下。婚約者様とのご関係は、以前よりは進展なさって?」
返ってきたのは、曇りのない笑顔だった。
――それだけで、答えには十分だった。
アルフォンスの婚約者、現宰相の次女フローラ。
彼女がこの婚約を快く思っていないことは、もはや周知の事実である。
「理解に苦しみますわ。殿下ほどの、聡明でお優しく完璧なお方の、何が不満なのか」
「褒めてくれてありがとう」
「事実ですもの」
「でも、そうだな……立場と理想の問題だね」
アルフォンスは肩をすくめる。
「彼女は王妃になりたがっていたからね」
なるほど、と腑に落ちる。
アルフォンスに非があるわけではない。
彼は決して婚約者を蔑ろにしない。
それでも関係が改善しないのは、個人の努力だけではどうにもならない壁があるからだ。
次期国王である第一王子には、既に仲睦まじい婚約者がいる。フローラが割って入る隙はどこにもない。
「本音を言えば、兄上やウィルが羨ましいよ」
「……激しく同意いたしますわ」
ほどなくして帰宅したウィリアムを、二人は同時に見やった。
「二人で何を話してたんだ?」
「お兄様が幸せそうで何より、というお話ですわ」
それは社交辞令でも、取り繕った言葉でもない。
エレノアの、偽らざる本心だった。
「……そうか」
ウィリアムは一瞬だけ戸惑ったように目を瞬かせ、それから照れたように視線を逸らす。
悪人面と言われる顔を緩めるウィリアムを眺めながら、エレノアは胸の奥で静かに息を整えた。
――自分のためにも。
――そして、何よりこの兄の幸せのためにも。
この歪な婚約も、父の愚かな野心も、必ず、ここで終わらせなければならない。
エレノアは誰にも気取られぬよう、そっと拳を握り締めた。
◆
エレノアがロイドと婚約して、まもなく一年が経とうとする頃。
彼女は、この国の貴族であれば必ず通う、王都の学園に入学していた。
――だが学園生活は、安寧とは程遠い日々だった。
ロイドも同い年であるため、当然のように同じ学園へ進学してきたのだが、廊下ですれ違うたび、彼は何かにつけてエレノアに悪態をついてくる。
視線を合わせただけで、舌打ち交じりの嫌味。
挨拶をすれば、聞こえよがしの嘲笑。
最初のうちは、無視を貫くつもりでいた。
しかしここは学園だ。常に人目がある。
曲がりなりにも公爵家の令嬢が、伯爵家の嫡男に一方的に侮辱され続けるなど、沽券に関わる。
――仕方がない。
エレノアは、ほんの少しだけ本気を出すことにした。
必要最低限の言葉と、感情を削ぎ落とした、冷静で正確な指摘。
それだけで、ロイドは言葉を失い、最後には「身分を笠に着た冷酷な女だ!」と捨て台詞を吐きながら、半ば泣きそうな顔で去っていった。
それ以来、同じような光景が何度も繰り返された。
結果として、学園内にはこんな噂が広がる。
――婚約者に優しい言葉一つかけられない、冷酷非情な公爵令嬢。
もちろん、エレノアの事情を知る者や、ランペスト家の悪評を耳にしている者たちは、彼女に同情的だった。
だが、声高にそれを擁護する者は多くない。
ランペスト家は黒い噂こそ絶えないものの、弱みを握られている貴族は少なくなく、下位貴族の生徒たちの多くはロイドの腰巾着と化していた。
ロイドはそうした取り巻きを従えながら、『いかに自分の婚約者が可愛げのない女であるか』を得意げに語って回っていた。
元々悪役令嬢のようだと噂される容姿。
そこに、冷たい対応の数々。
入学当初から、エレノアへの風当たりは強かった。
廊下を歩けば、遠巻きにされる。
クラスメイトに声をかければ、引きつった笑顔と、小さな悲鳴。
――慣れている。
そう思おうとしても、さすがに心が削れないわけではなかった。
そのうえ、廊下ですれ違うたびに向けられる、ロイドの粘ついた悪意。無視するには、あまりにも執拗だ。
結果、エレノアは今日も今日とて、言葉だけで彼を完膚なきまでに叩きのめし、「冷酷な女だ!」という罵声を背中で受け取ることになる。
正直、踏んだり蹴ったりである。
それでもエレノアは、表情一つ崩さず日々をやり過ごす。
夜ごとに、誰にも悟られないよう、ロイドと婚約以来続けてきた小さな儀式を行いながら。
そんな中。
噂も外見も意に介さず、屈託なく話しかけてくる少女が現れた。
「おはようございます、エレノア様っ!」
「ごきげんよう、アマンダ」
平民出身ながら、エレノアと並ぶほどの成績を収め、特待生として入学した少女――アマンダ。
陽に焼けたオレンジ色の髪と、太陽のような笑顔が印象的な少女だ。
二人の出会いは入学式の日だった。
ブラウスのボタンはちぐはぐ、リボンは歪み、スカートを翻して走り去ろうとする姿を見咎めたのがきっかけである。
「まったく……慌ただしい方ですのね。せめて鏡をご覧になってから外に出るべきですわ」
リボンを結べず半べそをかくアマンダにため息をつきつつも、エレノアは丁寧に手本を示した。
それ以来、アマンダはすっかりエレノアに懐いた。
悪い噂も聞いてはいたらしいが、
「自分の目で見たことしか信じません!」
と、まるで気にしていない様子で、二人はすぐに打ち解けた。
やがてアマンダは、自身の将来について打ち明けてくる。
王城で働き、しっかり稼ぎたい。だが、そのためには礼儀作法が不可欠。
アマンダに教師役を頼み込まれ、エレノアはある条件を告げた。
「厳しくなりますけれど、覚悟はおありで?」
「もちろんです! むしろ私が泣いても喚いても、気にせずにビシバシお願いします!」
こうして、アマンダへの放課後の礼儀作法指導が始まった。
――そこに、エレノアをなんとしても悪役にしたいロイドが現れるのは、必然だった。
「最近、アマンダを虐めているそうじゃないか」
聞く耳を持たない決めつけで、相変わらずの悪役令嬢呼ばわり。
エレノアは、言葉だけでロイドに対して淡々と切り返す。
そのやり取りを幾度も目にしていたアマンダは、気遣うように言った。
「エレノア様……本当に大変ですね」
「分かっていただける方がいるだけで、救われますわ」
「大丈夫です! 私以外にもエレノア様の味方はいますから!」
ロイドに何を言われようと、腹立たしいことではあるが、終わりがあると分かっていれば耐えられないわけではない。
ウィリアムからは、間もなく全ての準備が整いつつあるとは聞いていた。
それでもアマンダの言葉は、ささくれ立つエレノアの心を浮上させてくれる。
思わず笑みが浮かぶエレノアだったが……一つだけ、気にかかっていたことがあった。
ロイドがアマンダに向ける視線だ。
粘つくような、獲物を値踏みする目。
「アマンダ。最近、私のいないところであの男からの接触は?」
尋ねると、ある意味予想通りの言葉が返ってきた。
「えっと……実は、図書室とか、中庭とか……視線を感じると、だいたいあの人がいて……」
エレノアは、静かに頭を押さえた。
嫌な予感が、確信へと変わる。
「……気をつけなさい。あの男は、あなたを狙っているかもしれませんわ」
「えっ、狙撃ですか!?」
「違います」
エレノアは即座に訂正する。
「異性として、です」
アマンダは全力で嫌な顔をした。
口からは、「うへぇ」という音も漏れている。
その反応を見つめながら、エレノアは静かに続けた。
「あの男は、誰彼構わず手を出すほど無分別ではありませんわ。ですが――相手は選んでいます」
「選んで……?」
「ええ。家柄に傷がつく恐れのある高位の令嬢には近づかず、立場が弱く、拒みづらい相手ばかりを狙う。そういう男ですわ」
事実だった。
ロイドはこれまで、何人もの女子生徒に不必要な接触を試みてきた。
エレノアが把握しているだけでも、数は一人や二人ではない。
そのたびに、エレノアは間に入ってきた。
婚約者として、そして何より、目の前で不快な光景を見過ごせる性格ではなかったからだ。
「……エレノア様が、その子たちを助けていたんですか?」
「婚約者である以上、彼の行動を止める権限はありますもの」
淡々と告げながら、エレノアは内心で小さく息を吐いた。
リチャードに訴えたところで、意味がないことは分かっている。
どうせ返ってくるのは『我慢しろ』の一言だ。
それにウィリアムの計画も、すでに終盤に差しかかっているとはいえ、まだランペスト家に大きな咎のない今の段階で婚約を破棄すれば、ロイドは完全に野放しになる。
そうなれば、彼を止められる立場の人間はいなくなるだろう。
(それだけは、許せませんわ)
だからこそ、エレノアは耐えていた。
婚約者という立場を盾にしながら、彼がこれ以上踏み越えないよう、抑え込んでいたのだ。
「あの男は、何をするか分かりませんわ」
エレノアは、アマンダを心配そうに見つめ、はっきりと告げる。
「少しでも不安を覚えたら、必ず私に知らせなさい。遠慮は不要です」
「……はい!」
――この忠告が、杞憂で終わることを願っていた。
だがその願いは、後日、最悪の形で裏切られることになる。
◆
学園に通い始めて、ちょうど一年が経とうとしていた。
ロイドと婚約してからというもの、これまでの日々は、エレノアにとって決して穏やかなものではなかった。
ロイドから受ける不当な扱いだけが原因ではない。
ランペスト家との婚約は、想像以上にロレーヌ家の立場を揺るがしていたからだ。
ロレーヌ家とランペスト家の婚約。
表向きは『資金力のある新興伯爵家との縁組』。
だが裏では、きな臭い噂を嫌うまともな貴族たちが、少しずつロレーヌ家と距離を取っていった。
学園でエレノアが遠巻きに見られることも多かったのは、彼女の冷たい美貌だけが原因ではない。
ランペスト家と縁を結んだ愚かな家の娘だという評価が、まともな貴族の子どもたちから下されていたのもある。
とくに――ウィリアムの婚約者、キャサリンの実家であるカロデン家は、当初は強く警戒を示したそうだ。
ロレーヌ家の判断がどれほど危うい選択かは、政治に深く関わるカロデン家は誰よりも理解していた。
ウィリアムは、ことが起こってからすぐにカロデン家へと赴き、全てを正直に話したらしい。
ロレーヌ家が危うい立場にあることも、現在当主であるリチャードが宰相になるという野心に憑りつかれ、まともな判断が出来なくなっていることも。
そしてウィリアムが今、不利な状況を覆そうと水面下で動いていることも。
全てを説明し、ウィリアムは頭を下げた。
「どうか、時間を頂けませんか。必ず結果を出します」
だが、やはり一筋縄ではいかない。
当然渋るカロデン家だったが、最終的に彼らを説得したのは、キャサリン自身だった。
「ウィリアム様は必ずやり遂げます。それができる人だと私は信じています」
と。
その言葉に、きっとウィリアムは救われたのだとエレノアは思う。
ウィリアムは、すると言ったら必ずやり遂げる、有言実行の男だ。
このままの状況に指をくわえ、ロレーヌ家が破滅へと向かう様を黙って見ている人間ではない。
だからこそ、エレノアもここまで耐えてきた。
◆
「……準備はいいか?」
部屋を訪れたウィリアムは、いつもと変わらぬ落ち着いた声でそう言った。
今日は学園の卒業パーティー。
エレノアたちは卒業生ではないが、在校生も出席を許される、いわば夜会の予行演習のような場だ。
学園の生徒だけの出席なので、作法を細かく気にする必要もない。
それでもエレノアは、完璧な淑女としての佇まいで、
「ええ」
と、淡く微笑んだ。
そしてほっとしたような声色で続ける。
「正直に申し上げますと」
「うん?」
「今日は、あの不愉快な顔を見ずに済むと思うと……少し、ほっとしておりますわ」
ロイドは迎えに来ない、と事前に連絡があった。
理由は曖昧で、誠意の欠片もないと、リチャードは露骨に不機嫌になっていたが……。
エレノアとしては彼が来なくてよかったと、むしろ喜んでいた。
迎えに来た馬車の中、二人きりで、彼から会場に着くまで罵詈雑言を浴びせ続けられたら、うっかり手が――腕が滑りかねない。
エレノアが正直に告げると、ウィリアムはふっと笑った。
「エレノア、お前にも相当我慢させた。だが、もうすぐすべてが終わる。そうだな、明日の朝までには多分……事態は大きく動く」
「いよいよですのね」
あの日ウィリアムが言っていた。
『父上をどうにかし、お前とあの男との婚約を向こう有責で破棄する。ロレーヌ家の名誉も、必ず回復させる』
その準備が完璧に整ったのだろう。
そして裏で動いていたのはウィリアム一人ではないことも、エレノアは薄々察していた。
最近、アルフォンスが妙に忙しそうなのだ。
ウィリアムと密談めいたこともしているし、よくよく思い返せば、アルフォンスがこの屋敷を頻繁に訪れるようになったのも、エレノアとロイドの婚約が決まってからだ。
けれど、それを口にすることはない。
エレノアがしなければならないのは、学園の一人の生徒として、普段通りの様子で、何食わぬ顔でパーティーに向かうこと。
「では、行ってまいりますわ」
そう告げるエレノアに、ウィリアムは、昔よりも格段に穏やかになった笑みを向けた。
◆
学園の大広間は、いつもとは別世界のようだった。
天井から下げられた灯りが柔らかく揺れ、色とりどりのドレスが行き交い、音楽と笑い声が混じり合う。
エレノアは、自然と視線を巡らせ、アマンダの姿を探す。
今日のために、彼女はアマンダにドレスを貸していた。平民出身のアマンダは、こうした場に着ていく衣装を持っていなかったからだ。
「本当にいいんですか!?」
「ええ。どうせクローゼットで眠っているだけですもの」
そう言って渡した時の、あの嬉しそうな顔。アマンダはこの日を、心から楽しみにしていた。
だから……その姿が、どこにも見当たらないことに、胸の奥がざわついた。
(……おかしいですわね)
会場の隅から隅まで目を走らせても、見慣れたオレンジ色の髪が見当たらない。
談笑する生徒たちの輪の中にも、壁際にも、入口付近にも。
嫌な感覚が、ゆっくりと背中を這い上がる。
(落ち着きなさい。ただ遅れているだけかもしれませんわ)
自分に言い聞かせながら、近くにいた女子生徒に声をかける。
「失礼。アマンダを見かけませんでしたこと?」
返ってきたのは、首を横に振る仕草だった。
「いいえ……見ていませんわ」
「そうですか、ありがとうございます」
別の生徒にも同じ質問をするが、答えは変わらない。
誰も、アマンダを見ていない。
そして、ふと気づく。
(……ロイドも、いませんのね)
本来なら、今日のような場では、婚約者として傍にいるはずの人物。
迎えに来なかったこと自体は、今さら驚くことではない。
だが……。
アマンダがいない。
ロイドもいない。
それが、どうしようもなく胸に引っかかった。
(まさか……)
過去の記憶が、次々と脳裏をよぎる。
アマンダや他の女子生徒に向けていた、粘つくような視線。
立場の弱い相手だけを選ぶ、あのやり口。
何度も、何度も、怯える女子生徒とロイドの間に入ってきた光景。
エレノアは、唇を噛みしめる。
探しに行くべきだ。
嫌な予感を放置してパーティーを楽しめるほど、彼女は鈍感ではない。
ドレスの裾をつまみ、歩き出そうとした、その瞬間だった。
「――誰か探しているのか」
ざわり、と空気が揺れた。
人垣の向こう、視線が一斉に集まる先にロイドがいた。
その腕に、半ば引き寄せるようにして掴まれているのは――アマンダだった。
嫌な予感が、最悪の形で現実になった瞬間だった。
アマンダは必死に身を捩っているが、ロイドはそれを許さない。
「暴れるな」
低く、苛立ちを孕んだ声でそう言い放ち、ロイドが一瞬、凄みを利かせるように目を細めると、アマンダの動きが止まる。
恐怖に縫い止められたように、彼女は唇を噛み、声を失った。
それだけで、ロイドが嫌がるアマンダを無理やり拘束しているのが分かった。
(……救いようのないほどに卑劣な男ですわ)
エレノアの胸に冷たい怒りが広がると同時に、身体が動いていた。
エレノアは人の輪を割り、迷いなくロイドの前に立つ。
「――彼女を、離しなさい」
周囲はしんとした空気で満たされていた。
エレノアの静かで、しかしはっきりとした声が会場中に響き渡る。
ロイドはエレノアを見つめ、合点がいったように鼻で笑う。
「ほらな。そうやって取り返して、お前はまたこの女をいつものように虐めるつもりだろう?」
「……あなたは、一体何を言っているのですの。この状況はどう見ても、あなたがアマンダを虐めているようなものですわ。いいからその手を離しなさい」
ロイドは拒否するように首を大きく横に振ると、声を荒げ、周囲に向かって腕を広げた。
「俺はこいつを助けているだけだ! エレノア・ロレーヌに虐げられてきた、最たる被害者がこの娘だ!」
そしてロイドは、己が見てきた、エレノアがアマンダに強く当たる場面を皆の前でまくし立てた。
「礼儀作法がなっていないと、俺はこの目で、何度も何度も怒鳴りつけている場面を見た! 可哀そうに……このアマンダは時に涙ぐんでいたほどだ!」
空気が凍りつき、視線がエレノアに集まる。
好奇の目。疑念の目。距離を測るような、冷たい目。
エレノアはようやく、腑に落ちた。
今日に限って、ロイドがこれほど強硬に出た理由がだ。
この場には、観客がいくらでもいる。
アマンダにはエレノアが彼女を虐めたと証言をさせた上で、エレノアは『冷酷にも平民を虐げた悪役令嬢』とでも皆に知らしめたいのだろう。
仮にここでエレノアがいつものように強く言い返したとしても、それはそれで、事実を言い当てられて婚約者に当たり散らす令嬢だと、周囲に見せつける。
ロイドはエレノアのことが気に入らないが、かといって婚約を破棄する気はない。
ゼリナムからも止められているだろうし、公爵家の権威がランペスト家には必要なのも分かっている。
だからこそ――公衆の面前で、エレノアの立場を貶める。
それが、ロイドなりの勝利なのだ。
(本当にくだらないこと)
この場にいる周囲の反応は、まちまちだった。
ランペスト家の名を知る者は、関わるのを恐れて沈黙する。
ロイドの取り巻きは、ひそひそと「やはり冷たい女だ」と囁く。
一方で、エレノアの友人や、かつて彼女に助けられた生徒たちは、顔色を変え、違うと言いたげに首を振っていた。
なににせよ、エレノアを陥れるためだけに、友人であるアマンダを利用しているところは許せない。
エレノアが力づくでも奪い返そうと、ロイドに向かって手を伸ばした時だった。
「ち、違います!」
震える声。
それでも、声を張り上げ、アマンダは叫んだ。
「エレノア様は、そんな人じゃありません! 礼儀作法だって……私が、厳しく教えてくださいってお願いしたんです! 甘やかさないでほしい、泣いても厳しくしてほしいって!」
ロイドが苛立ったように舌打ちする。
「それにエレノア様はとても優しい方なんです! 私だけじゃなくて、この方にちょっかいをかけられて困っている生徒がいたら、エレノア様はいつも助けていました!」
「おい、黙れ! 俺は可愛い顔を歪ませながらエレノアからの仕打ちに耐えてきたお前の為に今こうして……」
「だ、黙りませんっ! それに今日のドレスだって、エレノア様が、持っていない私のためにわざわざ私の好みで似合う物を貸してくれて……っ、だから、エレノア様はとてもいい方で」
「っ、黙れって言ってるだろう!」
乾いた音が響いた。
ロイドの手が、アマンダの頬を打った音だった。
アマンダの腕を掴んでいたロイドの手が離れ、小さな身体が、床に崩れ落ちる。
「――アマンダ!」
思考より先に、エレノアは駆け寄っていた。
膝をつき、彼女を抱き起こす。
アマンダは肩を震わせ、赤く腫れ始めた頬に手を置きながらも、強張った笑顔をエレノアに向けた。
「へへっ、私、ちゃんとエレノア様が悪くないって、言えましたよ」
アマンダの腕には、ロイドの手の痕がくっきりと残っている。
――逃げられないあの状況で、アマンダは恐怖に耐え、エレノアを擁護した。
エレノアはそっとアマンダの髪を撫でる。
「よく、頑張りましたわね、アマンダ」
そしてエレノアは近くにいた友人にアマンダのことをお願いすると、ゆっくりと立ち上がる。
――エレノア本人を害するのならば、まだ耐えられた。
だが……エレノアは、友人をこんな目に遭わされて黙って我慢できるような人間ではない。
エレノアの胸の奥で、何かが、はっきりと、音を立てて切れた。
アマンダの頬と腕に残る赤い痕。
床に倒れた小さな身体。
それを仕方がないとでも言うような、ロイドの表情。
怒りで視界が、静かに、冷たく染まっていく。
「……今、殴りましたわね? 何の咎もないアマンダを」
ロイドは、肩をすくめて吐き捨てる。
「だからなんだ。こいつが認めないからだろうが。俺はな、直々に助けてやろうとしたんだ! それを、こいつが――」
本当に、どこまでも、救いようのない男だ。
自分が何をしたのか、理解する気さえない。
権威を振りかざし、力で押さえつけ、弱い者を使って自分の正しさを演出する。
そして今、目の前で――友人を殴った。
エレノアの思考は、すでに怒り一色に塗り潰されていた。
エレノアは、その場でドレスの裾に手をかけ、ためらいなく裂いた。
ざわ、と周囲がどよめく。
続けて、靴を脱ぐ。床に置く音が、やけに大きく響いた。
ロイドはエレノアの行動を見て、鼻を鳴らした。
「……なんだ? まさか、アマンダの代わりに、お前が俺を殴るつもりか?」
愉快そうに見下ろし、明らかに侮蔑の表情を浮かべ、ロイドは言った。
「やってみろよ。そんな細腕で、何ができる?」
エレノアは答えない。
ただ、ゆっくりと肩を回し、手首をほぐし、足の位置を自然に整える。
ふと、エレノアの中に懐かしい感覚が蘇った。
幼い頃、兄と屋敷の裏で何度も拳を交えた日々。剣ではなく、素手で。
転び、殴られ、それでも必ず立ち上がり、勝利をこの手で掴んできた。
そして今も、エレノアは身体を動かすことが好きだった。
たまにウィリアムと手合わせもしている。 勝ったことも、一度や二度ではない。
ここ最近で手合わせした時は、ウィリアムの方から参ったと声を上げていた。
――ただのか弱い女性だと思っているのなら、それは、致命的な誤算だ。
エレノアは、一歩踏み込んだ。
「お返しですわ」
透き通るほどに凛とした、静かな声。
けれど、その瞳は完全に怒りで燃えていた。
次の瞬間。
「歯を、食いしばりなさいませ!」
空気を裂くような音と共に、エレノアの拳がロイドに向かって一直線に放たれた。
重く、速く、一切の躊躇も遠慮もない――本気の一撃。
エレノアの拳が、アマンダの腫れた部分と同じ、ロイドの頬に触れた途端。
メキッという骨と肉が軋む音が、確かに響いた。
その勢いのままエレノアが拳を振り抜けば、二本の足で支えきれなかったロイドの体が、ふわりと宙を舞った。
ロイドは情けない悲鳴と共にそのまま床に叩きつけられ、転がり、止まる。
非常に無様に、みっともなく。
「がっ……!」
彼の口から声にならない音が漏れる。
ロイドはぴくり、と痙攣するように、指先を動かすことしかできない。
――会場が、凍りついた。
音楽も、囁き声も、すべてが消えたかのように静まり返っている。
エレノアは置いていた靴を履き直すと、コツコツと音を立てながら倒れたロイドの前まで歩み寄り、痙攣する彼を見下ろす。
「一発。今のは殴られたアマンダの分ですわ」
ロイドはそれでも、床に伏したままなんとか震える声を絞り出す。
「こ、こんなことして、ただで、済むと……! 婚約破棄してやるぞ!? 本当にいいのか!!」
「ええ、どうぞご自由に。その際は、あなたのお父様に、きちんと説明なさることですわね。か弱いと馬鹿にしていた女に殴られ、立ち上がることもできず、公衆の面前でこれほど無様な醜態を晒したから別れたい、と」
エレノアは踵を返すと、アマンダのもとへ戻るり、友人たちと共に彼女を支えた。
そして、会場に向き直ると、深く一礼する。
「……卒業生の皆様、このような場で、醜態を晒してしまったことをお許しくださいませ。本来であれば、皆様が主役の大切な夜でしたのに」
ざわめきの中、誰も責める言葉は発しなかった。
エレノアは、アマンダと友人たちを連れ、その場を後にする。
その心の中で、エレノアはそっと呟いた。
(――お兄様、申し訳ありません、友人が殴られて……我慢ができませんでしたわ)
けれど後悔はなかった。
これが――エレノア・ロレーヌの、選んだ答えだったのだから。
アマンダや友人たちは、エレノアを責めなかった。
むしろ、アマンダはエレノアの胸元に縋りつき、声を上げて泣いた。
「ありがとうございます……っ!」
その背を、エレノアは何度も撫でた。
「もう大丈夫ですわ。あなたは、何も悪くありません」
友人たちも口々に言う。
「アマンダが殴られたのよ? 殴り返せない彼女の代わりに、あなたが殴っただけじゃない」
「正当防衛どころか、正義よ」
その言葉に、胸の奥で何かがほどける音がした。
それでも、エレノアは分かっていた。
(家に帰れば……嵐ですわね)
予想は、寸分違わず当たった。
屋敷に戻るなり、報告を受けた父リチャードは、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「何を考えている!! 公衆の面前で婚約者を殴るなど……!!」
怒声とともに、リチャードの手が振り上げられる。
だが──その手は、振り下ろされることはなかった。
がしり、と空気を裂く音とともに、誰かがその手首を掴んだからだ。
「そこまでだ、父上」
低く、しかしよく通る声。
ウィリアムだった。
「放せ、ウィリアム! この愚かな真似を──」
「愚かではありませんよ、父上」
ウィリアムは、はっきりと言い切った。
「友人が殴られ、その場で助けに入った。それだけの話です」
そう言うとウィリアムは、まだ怒り狂うリチャードを残し、エレノアを連れて部屋を出る。
ウィリアムの隣を歩きながら、エレノアは思わず唇を噛む。
「申し訳ありませんでした。お兄様が、あれほど時間をかけて準備を進めてくださっていたのに……私の我慢が足りなくて」
ウィリアムは一瞬だけ、エレノアをじっと見つめ――ふっと力を抜いたように息を吐いた。
「いや、お前らしいよ。むしろ今まで、よく耐えた」
エレノアは、思わず顔を上げる。
「ですが……私が殴ったせいで……」
「問題ない」
即答だった。
あまりに迷いがなさすぎて、エレノアは言葉を失う。
そんなエレノアの様子を見て、ウィリアムは口元に、わずかに悪戯めいた笑みを浮かべた。
「それにしてもな……お前の本気の拳を、何の防御もなく受けたんだ。あの男の顔は、間違いなく変形しているだろう」
一瞬の沈黙。
そして、エレノアはぽつりと返す。
「……そうですわね。骨と肉が軋む感覚が、こちらの手にも、はっきりと伝わってきましたから」
言い終えた後で、自分が何を言ったのか理解し、はっとする。
「……あ」
「ははっ!」
ウィリアムは、ついに声を出して笑った。
「やはりだ。昔から、お前の拳だけは信用できる」
「信用される部分がそこなのは、心外ですわ」
そう言いながらも、エレノアの胸の奥にあった重苦しさが、少しだけ溶けていくのを感じた。
もしかしたら己の行動のせいで計画に支障が出ると怒られるかもしれない、と思っていたが、そんなことはなかった。責められることもなかった。
それだけで、どれほどこの心が救われたか分からない。
「それでも、社交界では悪く言われるかもしれませんわね」
「言われるとしたら、ロイドの方だ。殴られた平民の少女を見て、何もしなかった連中は、今頃自分の良心と相談してるよ。安心しろ。お前を責めるより先に、あいつの無様さが酒の肴になる」
「本当に……大丈夫なんですの? お兄様の計画に支障は」
エレノアが恐る恐る問うと、ウィリアムは今度は真剣な表情に戻った。
「言っただろう。仕込みは、終盤だと」
ウィリアムは、ゆっくりと妹の頭に手を置いた。
「エレノア、見ているといい。――ここからは、俺の番だ」
ウィリアムがにやりと笑う。
その顔はまさしく、物語に出てくる悪役令息のような顔で、エレノアも釣られて笑ってしまった。
「まあ、お兄様。悪いお顔ですこと」
そして、事態は動き出した。
◆
翌朝、王城より一つの発表がなされた。
ランペスト家に関する大規模な不正行為が確認され、闇オークション、違法取引、金銭の流れ――そのすべてが洗い出されたという内容だった。
さらに、その闇に関与していた貴族たちの名も公表される。
多くは下位貴族だったが、その中に含まれていた一つの名を見て、エレノアは思わず息を呑んだ。
ランスター家の次女、フローラ。
――アルフォンス殿下の、婚約者。
(……なるほど)
宰相家そのものではない。
だが、フローラ本人は確かに、闇の場に出入りしていた。
しかもただ参加していただけではない。
出回り始めた噂話では、フローラは参加したオークションの場において、耳を覆いたくなるほどの奔放ぶりで、違う男たちと寄り添う姿が何度も目撃されていたという。
これでは、婚約を続ける理由など、どこにもない。
その瞬間、エレノアは理解した。
(殿下が、お兄様に手を貸していた理由……)
友人だから、だけではなかったのだと。
アルフォンスの個人的な感情もないとはいえないが、怪しい場に出入りする人間の血筋を王家に取り入れるのは、何としても避けなければならないのだから。
ランペスト家当主ゼリナム、および不正に深く関与していた者たちは、王法により処刑された。
嫡男ロイドについては、未成年であり、直接の関与が確認されなかったため、生涯にわたり王都郊外の施設に幽閉されることが決定した。
そして、続けて発表された内容に、エレノアは言葉を失った。
――ロレーヌ家当主、リチャード・ロレーヌは、王族の命を受け、密かにランペスト家の内部調査を行っていた。
その為、あえて危険な縁を結び、周囲から距離を置かれる立場に身を置いていたのだ、と。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
(いいえ、そんなはず……)
(父が、自ら囮を買って出た? 正義のために? ――ありえませんわ)
エレノアは、誰よりも父を知っている。
あの男がそんな殊勝な理由で動くはずがない。
だが、世間は違った。
ロレーヌ家は、『孤立を恐れず、闇に立ち向かった正義の家』として称えられ、距離を取っていた貴族たちも、掌を返したように賞賛を送った。
エレノアとロイドの婚約破棄も、当然の帰結として認められる。
昨夜の出来事――友人を守るために拳を振るった行為さえも、正義感の証として語られ始めていた。
ようやく、すべてが繋がった。
だからウィリアムは王族――アルフォンスを巻き込んだのだ。
この『物語』を作るために。
だが、ここで終わりではなかった。
――その日の深夜。
使用人ただ一人すら通らない深い夜、水を飲むため部屋を出たエレノアは、リチャードの書斎に明かりが灯っていることに気づく。
何気なくその場を通りかかると、中にはリチャードとウィリアムがいた。
息を潜めて室内を伺っていると、
「よくやったな、ウィリアム」
珍しく、誇らしげにそう言ったのはリチャードだった。
「まさかランペスト家の不正が表に出るとは思わなんだ。私も危なかったが……ロレーヌ家の名誉は守られた。さすがは、私の息子だ」
その言葉に、ウィリアムは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが――父上。ここからが本題です」
そう言ってウィリアムが机の上に置いたのは、一束の書類。
遠目に見えたそれは、ランペスト家の内部資料のようだった。
リチャードの顔色が、見る間に変わる。
「これ、は……」
「父上が、本当にランペスト家の闇に関わっていた証拠です」
「なぜ、これがここに」
「父上が関わった証拠を、アルフォンス殿下から内密に、全て受け取っていたからですよ」
「なな、なぜ、処分をしていないんだっ! これが他の目に晒されたら私の立場が……!」
「あえて私が残していたんですよ。ちなみに世間には公表していません。殿下にも、伏せていただいています。――まだ」
ここで言葉を切ると、ウィリアムは、はっきりと言った。
「ですが――これが表に出れば、ランペスト家だけでなく、父上ご自身も終わります」
「き、貴様……!」
「さあ父上、選んでください」
ウィリアムは、一歩も引かなかった。
「英雄となっている今のこのタイミングで、英雄のままここで引退するか。それとも――全てを失うか」
「……そんなことをすれば、お前もどうなるか分かっているだろう! 一緒に破滅する気か!」
「私の知る父上は、その道は選ばないはずです。いいですか、よく考えてください。私なら、父上が届かなかった宰相に手が届き、ロレーヌ家の栄華は取り戻せます。……今ならその礎として、あなたの名前が刻まれます」
リチャードに沈黙が落ちる。
王家からの信頼。
ロレーヌ家の名誉回復。
そして、現宰相であるランスター家が揺らぐ、今という好機。
――だが、その座にリチャードが就く未来を、ウィリアムは許さない。
長い沈黙の末、リチャードは、力なく椅子に座り込んだ。
「……分かった。全てお前に従おう」
こうして、ロレーヌ家の家督はウィリアムへと移り、リチャードは表舞台から退くこととなりそうだった。
エレノアは、ただ静かに、兄の背中を見つめていた。
ウィリアムは、すべてを終わらせた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……本当に」
エレノアは、続きを心の中で呟いた。
(すごい人ですわ。私の――自慢のお兄様)
その時。
ウィリアムが、ほんの一瞬だけ、視線をエレノアへ向けた。
そして、誰にも気づかれぬほど僅かに、片目を閉じる。
一瞬遅れて、その意味を理解する。
(……ああ、私がここにいたこと、気付いていましたのね)
エレノアは、思わず小さく息を吐いた。
(やはりあの方は、私の自慢のお兄様)
けれど。
(……ウィンクは、正直あまりお上手ではありませんわね。少し怖いですわ)
◆
すべてが一段落した、穏やかな午後。
ロレーヌ家の応接室で、エレノアは紅茶のカップを手にしていた。
向かいに座っているのは、第二王子アルフォンス。
今回もまた、兄ウィリアムが不在の間の、場つなぎとしてのお茶会だった。
二人の間には、気負いも、甘さもない。
互いに婚約者を失った身ではあったが、そこに気まずさはなかった。
アルフォンスは、紅茶を一口飲んでから、ふと思い出したように言った。
「そういえば……今の君、社交界ではずいぶん話題だよ。特に女性陣の支持がすごい。――拳の一撃が」
エレノアは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……あれは、あまり褒められた行為ではありませんわ」
「貴族や淑女の行為としては、確かにね。けれど君の行いは正しいと、僕は思っている。僕は君を全面的に支持しているよ」
アルフォンスは笑い、冗談めかして続ける。
「正直に言うと、君を王家に取り込みたいという声も、まったくないわけじゃない。婚約者もいなくなったことだし……どうかな、僕と」
エレノアは微笑みつつも、迷いなく首を横に振る。
「お断りいたしますわ」
「おや、即答だね。君から見たら僕は、聡明で優しく完璧な人……なんじゃなかったかな」
「その評価は今も変わりませんわ。ですが、殿下とはそういう関係にはなりたくありませんもの。もっとも、王家が無理やりに推し進めるのでしたら、私に拒否権はございませんけど」
「そんなことはしないよ。だけど、残念だ。僕はフラれてしまったね」
そう言いながらも、アルフォンスの表情に落胆の色はなかった。
「殿下は、いつまでも私の大切な第二のお兄様のままでいてくださいませ」
「そうだね、僕も君のことは本当の妹のように思っているから。だけど……僕の新しい婚約者探しが少し難航していてね。どうなることやら」
アルフォンスがふっと息を吐く。
それに対しエレノアは、穏やかな声で言った。
「実は、私のもとに釣書が届きましたの」
「へえ?」
「以前、学園で助けた子爵令嬢がおりまして。その従兄弟にあたる方です。ダレストロ家の嫡男だそうで」
「なるほど、公爵家か。血筋も立場も、問題なしだ」
「最初に会った時、こう言われましたの。『君の話を、いとこから聞いていた。とても立派な人だと思っていた』と」
エレノアは、わずかに笑う。
「ですから、つい返してしまいましたわ。『私、顔が怖いとよく言われますの。悪役令嬢みたいだと』」
「それで?」
「『噂と顔で人を判断するほど、僕は愚かではない。それに君の笑った顔はとても愛らしい』、と」
嬉しそうにわずかに頬を染めるエレノアを見つめ、アルフォンスは、安心したように表情を和らげる。
「彼になら、大事なエレノアを任せられそうだ」
「……私、どうするかゆっくり考えるつもりですわ。幸いお兄様も、私の判断に任せると言ってくださっておりますし」
「そっか」
アルフォンスは、少しだけ遠くを見るように微笑んだ。
「じゃあ、僕も……いい人と巡り会えるといいな」
「ええ。殿下なら、きっと」
その時、扉が開いた。
ウィリアムが、婚約者のキャサリンを伴って入ってくる。
二人は寄り添い、穏やかで、揺るぎない幸福をまとっていた。
「すまない、待たせた」
エレノアとアルフォンスは、自然と視線を交わし、微笑み合う。
――守るべきものを守り抜いた二人の姿を、誇らしく思いながら。
エレノアがアルフォンスの前を立ち去る間際、彼はぽつりと言った。
「そういえば……あの男、最近ひどいらしいね」
「?」
「牢に閉じ込められている、君の元婚約者、だよ。急に髪が抜けて、転びやすくなって、体に肉が付き始めて、原因不明の不調続きだとか……自慢の美貌は、今や見る影もないそうだよ」
エレノアはにこりと微笑んだ。
「まあ……今になって、効いてきたのですわね」
「……君、何をしたんだい?」
「ただの、子供じみた遊びですわ」
そう言って、彼女は静かに告げる。
「毎晩、呪っていましたの」
一瞬の沈黙。
そして、アルフォンスは声を殺して笑った。
「……内容と方法は、聞かないでおくよ」
エレノアは、悪役令嬢のような微笑みを浮かべたまま、その場を静かに立ち去った。




