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274.お兄ちゃん、喜びを噛みしめる

 さて、メランが部屋にやってきた翌日の事だった。

 この世界では絶世の美少女である僕だが、血の通った人間である以上、生理現象には抗う事ができない。

 そんなわけで、アシュレイが寝息を立て始めたのを見届けた僕は、一度お花を摘みに部屋を出た。

 それほど長い時間というわけじゃないし、リグにはきちんと見守っておくようにお願いしていた。

 にも、関わらず……だ。


「なっ……!?」


 部屋に帰ってきたとき、アシュレイの姿が無かった。

 ついさっきまで確実にベビーベッドの上で、すやすやと眠っていたのは間違いない。

 おまけにリグの姿もないとなれば、考えられるのは……。


「まさか、誘拐!?」


 と、一瞬考えたものの、すぐにかぶりを振る。

 ここは黒の領域のど真ん中だ。

 前人未到の地の最奥であり、外部から誰かが入ったとは考えづらい。

 加えて、城の中で生活している人も限られる。

 僕以外の人間はメランとコリックしかいない。

 1週間以上ここで暮らしていて、他の人間の姿は見たことがないから、おそらくそうなのだろう。

 2人のうちのどちらかがアシュレイを連れ去った?

 まさか、僕が真っ当な人格者にアシュレイを育て上げようとしていることに気づかれたのか……?

 次々と疑問が浮かんでは消えるが、今は考えている暇はない。

 とにかく探そうと、部屋を出ようとしたその時だった。

 

 ──カランカラン。


「あっ……」


 子ども部屋の奥から音がした。

 金属が床に落ちるような音。

 この子ども部屋には、簡単な調理も行える保管部屋のようなものが併設されている。

 今のは間違いなくそこから聞こえた音だった。


「アシュレイ、そこにいるのですか?」


 おそるおそる開けっ放しの扉に近づき、顔を出す。

 すると、まず見えたのはリグの後頭部だった。

 そして、その奥には、半ば泣きべそを掻きながら、部屋をハイハイで歩き回るアシュレイ。

 その姿は見て、僕はホッと胸を撫で下ろした。


「何だ。こちらにいましたのね」


 大方、すぐに目覚めてしまったものの、僕の姿が無いので不安に思い、探し回っていたのだろう。

 まったく、ベビーベッドから自力で抜け出すほどになっていたとは恐れ入る。


「アシュレイ」


 名前を呼ぶと、ようやく僕の存在に気づいたアシュレイは、泣きそうな顔から一点、ニコニコと笑った。

 うっ、本当に可愛いな……。

 この可愛さの塊を思いっきり抱きしめてやろうと、両手を広げようとしたその時だった。


「えっ……」


 アシュレイが膝を立てた。

 そして……。


「ま、まさか……」


 ゆっくりゆっくりとバランスを取るように、自分の身体を持ち上げて行くアシュレイ。

 今までもつかまり立ちや伝え歩きはたびたびしていた。

 しかし、今は周囲につかむことができそうなものは一つもなく、身一つ。

 つまるところ、今、アシュレイは、ひとりで"たっち"をしようと挑戦しているのだ。

 思わず手に汗握る僕。


「頑張れ!! 頑張れ、アシュレイ!!」

「リグ!!」


 僕と同様、リグも彼の頑張りを熱い視線で見守っている。

 2人が見守る中、奮闘するアシュレイだったが、その身体が大きく揺れたと思うと、後ろに豪快にしりもちをついた。

 保管部屋は、あちらの子育て部屋本体のようにマットがひいてあるわけではなく、固くて冷たい石の床がそのまま露出している。

 それなりに痛かったであろうその衝撃に、それでも、アシュレイは泣かずに耐えた。

 再度挑戦を試みるアシュレイ。

 2度目の試みに、もはや僕は、指を結んで祈っていた。

 そして、次の瞬間……。


「あぁ……!!」


 左右の足で微妙に足踏みをしながらも、彼は立っていた。

 その姿はまさに威風堂々。

 さすが将来の黒の王、となんだか納得するような貫禄に、僕は思わず手を叩く。

 だが、それだけではなかった。

 さらに次の瞬間、彼は一歩、そして、また一歩と、こちらへと歩を進めた。

 歩いている。

 ほんのゆっくりとだが、確かに彼は歩いている。

 僕の方へと、着実に。

 言葉も出ず、ただただ彼の頑張りの一挙手一投足を目に焼き付ける。

 そして、ついに僕の元へとたどり着いた彼を、全力で抱きしめた。


「アシュレイ!! よく頑張りましたわ!!」

「あー!! うー!!」


 赤子の成長を感じられるということは、こんなにも嬉しいことだったのか。

 一人で立つ、という一つの大きな壁を乗り越えた瞬間を目の当たりにして、僕は自分でも感じた事のない喜びを噛みしめていた。

 同時に、自分の中で、アシュレイの存在がどんどん大きくなってきていることを僕は確かに感じていたのだった。

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