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16話

 鉄と油の匂いが満ちる町工場に、久しぶりに明るい声が響いた。

 麻生一郎は、試作品の扇風機が低いモーター音を立てて回り出す瞬間を、息を詰めて見守っていた。


 羽根はブリキ製で、軸受けも粗い。それでも——回った。

 ひゅう、と風が生まれた。たった数秒の回転。それでも、現場の空気が一変した。


 「動いたぞ……!」

 誰かがつぶやき、それが合図のように工員たちの表情がほころび、肩の力が抜けた。

 この数ヶ月、軍需ばかりに資材を奪われ続け、彼らは“何かを作る手応え”をすっかり忘れかけていた。


 扇風機が動いた瞬間、工場の奥で年配の職人が、目元をぬぐうようにして笑った。

 「まだ、俺たちは作れるんだな」

 その言葉を聞いた麻生は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ——この国の再生は、こういう現場から始まる。


 雇用は十数名規模だ。だが、確かな “復活の芽” だった。

 軍需から民需へ。小型家電という“生活のための工業”。

 ここから全国に広げられるかもしれない。麻生は一瞬、本当に光が差し込み始めた気がした。


 しかし、希望は長く続かなかった。


 翌日、工場責任者が青い顔で官庁に駆け込んできた。

 「燃料の配給が……止まります。軍需優先の再割り当てで」

 言い終える頃には、彼の声は震えていた。


 麻生はその書類を受け取り、強く目を閉じた。

 止まる理由は分かっている。

 戦況悪化で、軍が“動く物すべて”を優先する状況に入りつつあるからだ。

 だが——あまりにも残酷だ。


 昨日灯った小さな希望が、今日には踏み潰される。

 そうした光景を、国民はもう何度も味わっている。


 麻生は沈黙のまま計算用紙を広げた。

 工業稼働率、燃料の推移、食糧消費、主要都市の配給曲線。

 すべてを重ね合わせながら、国民生活が“どこまで落ち込むか”を冷静に割り出していく。


 ——日本国民の耐久ラインは、残り九〜十ヶ月。


 数字は冷淡で、しかし誤魔化しようがなかった。

 このままでは、戦争がどうこうよりも、“生活の連鎖的崩壊”で国がもたない。


 扇風機の羽根が回ったあの瞬間。

 あれは希望ではなく、“国民が本来持っていた力の証明”だった。

 だが、その力を生かす環境を、いまの日本は維持できていない。


 麻生は机に手を置いた。

 ——この国は、戦争に負けるのではない。生活に負けるのだ。

 静かに、そう結論づけた。


 ◇


 吉田は、総理官邸の窓から霞がかった空を眺めていた。

 街の動きは鈍く、人の足取りは重い。

 闇市に並ぶ列は伸び続け、警察は疲弊し、治安は急速に軟化している。


 「……余力が、削れていく」

 外交という仕事は、国民の精神に残る“余白”を元手にして行われる。

 しかし、今の日本にはその余裕がない。

 光が見えたと思えば、すぐに潰される。それが、人々の心をすり減らしていた。


 執務机の上には、生筋有喜から届いた最新の報告書があった。

 吉田は深く息を吸い、数字の羅列に目を落とす。


 ——反応開始後の安定持続率:0.072秒

 ——出力係数:前回比+12%

 ——臨界近傍の収束率:未達(必要値の47%)

 ——素材消費量:試験単位あたり増加

 ——冷却過程の分散:基準外(+18%)


 吉田は数字を追うたび、胃の奥がじりじり痛むような感覚に襲われた。


 確かに“一瞬だけ”安定した。

 しかし必要な最低ラインには、まだ遠すぎる。

 この数値では、とても外交のカードには使えない。


 「……これでは、アメリカに嗅ぎつけられた時に言い訳ができない」

 未完成の脅威は、逆にこちらを追い詰める。

 日本の“何かが進んでいる兆し”だけで、アメリカは過剰反応する民族だ。

 彼らは合理主義だが、“宗教的な恐怖”に触れると感情が跳ねる。


 吉田は生筋の顔を思い浮かべた。

 彼は限界を削りながらも、研究員をまとめ、数字を積み上げ続けている。

 だが、“一瞬の安定”すら掴めない日もある。

 それが現実だった。


 外交の駒は減り続けている。

 国内の不満は膨張している。

 国民耐久ラインは、麻生の計算と同じく“残り一年も怪しい”。


 吉田は静かに書類を閉じ、額に手を当てた。


 ——この国は、持ちこたえられるのか。

 ——いや、持たせるしかない。


 窓の外で風が吹き、どこか遠くでサイレンが鳴った。

 その音は、吉田には“時間が減っていく”合図のように聞こえた。


 ◇


 入籍の手続きを終えてからというもの、俊道とわかの暮らしは、

 外から見ればほとんど昨日までと変わらなかった。

 同じ小屋に寝起きし、同じように日の出で起き、畑と浜を往復する。

 それなのに、ふたりの間に流れる空気は微妙に違った。

 わかが洗濯物を干すときの動きはどこか柔らかく、

 俊道が畑へ向かう背中にも、以前より確かな目的が宿っていた。


 「今日はあの棚、板を足そうと思う」

 縁側で芋をふかしているわかに、俊道が静かに告げる。


 「干物のですか?」

 「うむ。浅瀬漁の人たちが、もっと持ち帰れるようにしてやりたい」


 浅瀬漁は、日本統治期に入ってから急速に導入された“簡易で安全な漁法”だった。

 腰まで浸かる程度の浅い海で、潮の満ち引きと小魚の流れを読んで網を使う。

 沖に出る必要がなく、危険も少ないうえに、女性や年寄りでも参加しやすい。

 台湾南部の人々はすぐにそれを受け入れ、それぞれの生活のリズムに合わせて柔軟に取り入れていった。


 ただし、問題は“保存”だった。暑い台湾では、せっかく獲った魚がすぐ傷む。

 そこで俊道が日本の干物文化を応用し、棚の高さ、板の角度、風の通し方まで指導していくと、

 「これはいい」

 「前より長く持つ」

 「味が落ちない」

 地元の漁師たちは目を丸くした。


 この日も、数人の漁師が浜で俊道を呼び止めた。

 「西野、昨日の網、あれで正しいか?」

 「こっちは干し棚を増やしたいんだが、どこに置けば風が通る?」

 「この魚、塩の量はどれくらいだ?」


 俊道はその都度、現場で確かめ、手を動かし、必要なだけ説明した。

 長々と語らない。だが理解が早く、結果が出る。

 いつしか地元の漁民たちは、彼を“浜の兄さん”のように頼り始めていた。


 離れた場所からその様子を見つめるわかの目は、自然と細く優しくなる。

 ——この人は、もう死ぬために生きているんじゃない。

 ——誰かの暮らしを支えるために、ここにいる。


 その変化を、自分が傍で見守れることが嬉しかった。


 畑では、バナナ農家とのやりとりが増えていた。

 もともと台湾のバナナは品質が良く、出荷量も大きい。

 しかし、海上輸送で傷む、熟しやすい、保存が効かない——その弱点のせいで、

 市場に届く頃には価値が大きく落ちてしまう。


 ある日、農家の若い男が俊道に問うた。

 「西野さんよ、日本では果物をどうやって持たせるんだ?」

 「持たせる?」

 「腐るのが早いんだよ。せっかく獲っても、遠くへ運べねぇ」


 俊道は少し考え、それから静かに言った。

 「……乾かす方法がある」


 「乾かす?」

 「そうだ。日本では野菜も果物も、干して保存する。バナナもできるはずだ」


 そこからの数日は、半ば実験の連続だった。

 輪切りにする厚さを変え、砂糖をまぶすか否か、陰干しと天日干しを組み合わせるか。

 天候の読みも大切で、湿気が強い日は乾燥が進まない。

 ああでもない、こうでもないと試し続けるうちに、

 「……これ、甘いな」

 「普通のバナナより甘く感じるぞ」

 「保存も効くし、これなら日本へ送れるんじゃないか?」


 そんな声が農家から上がり始めた。


 俊道は、手のひらにのせた小さなドライバナナを見つめながら、

 「輸出するには量が要る。手間もかかるが……いずれはできるかもしれん」

 慎重な言い方をしたが、胸の内には確かに灯るものがあった。


 わかはそばで静かに頷き、嬉しそうに笑った。

 「乾かすだけで、こんなに変わるんですね」

 「……日本の、貧しい家の知恵だ」

 「その知恵で、誰かが助かるんですね」


 その言葉に俊道は答えず、ただ空を見上げた。

 風が、棚に並べられた薄切りのバナナを揺らし、甘い香りが広がっていく。


 しかし、俊道の動きは地元だけではなかった。

 駐在する将校や書記官が、彼の働きに興味を示し始めていた。


 軍の調査官がやって来たのは、その数日後のことだ。

 「西野君、最近ここの動きが活発らしいな」


 その語調に敵意はなく、むしろ感心の色があった。

 棚に並ぶ魚、干からびていくバナナ、畑で育つ芋や野菜。

 軍部が介入しなくてもスムーズに回っている光景は、彼らにとっても珍しく映ったのだろう。


 将校は少しだけ声を低めた。

 「……ここは本土よりも生活の回復が早い。正直、助かる」

 「そうですか」

 「だが、日本へ送れる物資となれば、話は別だ。期待は大きいが、負担も増える。やれるか?」


 俊道は迷わず言った。

 「できる分だけ、やります。ただ……この土地の暮らしが壊れない範囲で」


 将校は一瞬驚き、それからふっと笑った。

 「慎重だな。だが、それがいい」


 そのやりとりを、少し離れた場所でわかが見守っていた。

 彼女の視線は温かく、そしてどこか誇らしげだった。

 ——堂々としている。

 ——戦場から流れ着いた人なのに、今は誰よりも地に足がついている。


 地元の農民や漁師たちも、俊道とわかを“夫婦として”自然に受け入れていた。

 「西野、こっちの棚も見てくれ」

「奥さん、またあの汁を作ってくれないか?」

 そんな声が飛び交い、わかはときどき顔を赤くしながら応えていた。


 夕方、すべての仕事が終わった頃。

 小屋の前に並べられた干物とドライバナナを眺めながら、俊道はぽつりと言った。


 「……こんなに増えるとは思わなかった」

 「ふふ。俊道さんの“手入れ”が上手だからですよ」


 わかが茶を注ぎながら笑うと、俊道は照れくさそうに顔をそむけた。

 だが、その頬には確かに“生きている人間”の色が戻っている。


 海からの風が、潮と甘い香りを運んだ。

 棚の下では子どもたちが笑いながら走り回り、農家の男たちが明日の天気を語り合い、

 漁師たちは網をたたみながら夕暮れの海を見つめていた。


 わかはその光景を胸に刻みながら、静かにつぶやいた。

 「……明日も、きっといい日になりますね」

 俊道はゆっくり頷いた。

 「そうだな。そう思える日が、続けばいい」


 戦争の影はまだ遠くにある。

 だが、ここには確かな生活があり、育ち始めた未来があった。

 そして——その中心にふたりが立っていた。


 ◇


 俊道さんは、ときどき急に“なにか思いついた顔”をする。

 あれは、畑の芋がよく育った日とか、干物棚の風通しがうまくいった日とか、

 理由はさまざまだけれど、私にはすぐ分かる。鼻がわずかに動くのだ。

 「ふむ……」という、あの小さな合図である。


 その日もそうだった。

 暑さでバナナの房がどんどん熟してしまい、

 農家のおじさんたちが「困った、腐る前に食べきれん」と頭を抱えていた。

 それを見た俊道さんは、例の“ふむ顔”になった。


 「わか、包丁と板を借りる」

 唐突にそう言うので、私は思わず笑ってしまった。

 何を始めるのか見当もつかないが、妙な失敗はしない人だ。私は素直に用意した。


 俊道さんはバナナを分厚く切って、並べて、しばらく眺めたあと首を傾げた。

 「……いや、これは干し芋よりも厚いか」

 「芋と比べるんですか?」

 「似たようなもんだろう」

 そう言って本気で困っているのが面白かった。


 芋の干し方も柿の吊るし方も、私は子どもの頃から見てきた。

 けれど“バナナを干す”なんて発想は一度もなかった。

 そもそも柿の渋を抜くように、バナナの渋なんて聞いたことがない。


 俊道さんはさらに悩む。

 「干し柿は風だ。干し芋は日差しだ。バナナは……両方試すか」

 この言い方がまた真剣で、私は口元を押さえて笑わずに耐えるのに必死だった。


 試してみると、これが驚くほど面白い。

 薄く切ると早く乾くが味が軽い。厚く切ると甘いが乾かない。

 陰干しすると香りが強く、天日干しだと歯ごたえが出る。

 農家のおじさんたちまで参加しはじめ、浜の作業棚にずらりとバナナが並んだ光景は、

 正直ちょっとしたお祭りのようだった。


 そして——最初の甘い香りが漂った瞬間、俊道さんは小さく頷いた。

 「ああ、これは……いける」

 その表情がなんだか可愛くて、私は胸の奥がぽっと温かくなった。


 干し芋でも、干し柿でもない。

 でも、どこか懐かしくて、どこか新しい。

 俊道さんが持ってきた“日本の知恵のかけら”が、台湾の海風と混ざって形になっていく。


 あの人は、自分では気づいていないけれど——

 死ぬために飛んできた兵隊さんじゃない。

 誰かの食卓を少しだけ豊かにする、不思議な優しさの人だ。


 バナナが甘く乾くたび、私はそう思う。

 明日、この甘さを誰が喜ぶのか。

 それを想像するだけで、なんだか私までうれしくなってしまうのだった。


 挿絵(By みてみん)

 バナナは輪切りではなく縦に割り、表面積を広げて天日に干されていた。

 水分が早く抜け、保存性が高まるため、限られた時間と資材の中で選ばれた合理的な乾燥方法だった。


 ~おまけ~

 生筋研究所・技官メモ 『バナナは干すと、なぜ甘くなるのか?』


 ——以下は、企画院研究補助官・田沼が、生筋総裁へ提出した“謎の私的覚え書き”である。

 内容は軍事とも外交とも無関係だが、やたら熱が入っていた。


 ◇


 総裁殿、最近台湾方面で“バナナを干したところ非常に甘くなった”との報告が届きました。

 そこで本日は、例によって誰にも頼まれていないのに、

 私は「なぜ甘くなるのか」を科学的に整理いたしました。


 まず結論から申し上げます。


 ドライバナナが甘くなる理由は、

 1)水分蒸発による糖濃縮

 2)デンプンの糖化(熟成促進)

 3)酵素反応の加速

 という三本柱で説明可能です。


 順にいきます。


 【1)糖濃縮】

 バナナの水分はおよそ75〜80%。

 これが乾燥により50%、30%、と下がるたび、相対的に“糖の比率”が跳ね上がります。

 例えるなら——

 会議メンバーの半分が帰った途端、声の大きい人の存在感が倍増する

 あれと同じ構造です。

 つまり、甘味が強化されたのではなく“甘味が目立つ環境になった”わけです。


 【2)デンプンの糖化】

 バナナは熟すとき、内部でデンプンが分解され、ブドウ糖・果糖・ショ糖へ変わっていきます。

 乾燥はこの熟成をゆるく後押しします。

 温度上昇+水分低下は、酵素反応を進める“地味な後押し”になるためです。


 つまり、

 まだ才能が完全に開花していない若手社員に、ちょっとだけ追い風が吹く

 そんな感じです。


 【3)酵素反応の加速】

 ポリフェノールオキシダーゼ(PPO)などの酵素は、乾燥途中に軽く働き、香りや風味を深くします。

 この作用は弱い加熱と似ており、

 「ほんの少しだけ料理の腕が上がる」みたいな微細効果を生みます。


 以上をまとめると、

 乾燥とは、余計な水分を抜きつつ“甘味の本体にスポットライトを当てる技法”と言えます。


 このプロセスは、干し芋・干し柿・干し葡萄など、

 東アジアから中東まで広く共有される“人類共通の食料戦略”です。

 つまり台湾で生まれた現象ではなく、

 俊道氏が導入した日本式乾燥法により“品質が跳ねた”と考えるのが妥当です。


 ◆ビジネス的示唆

 乾燥によって軽量化・保存性向上・甘味強化が同時に達成されます。

 輸送コストは下がり、付加価値は上がる。

 これは地味ながら強烈な産業効果を持ちます。


 もし戦後、民需が復活した暁には——

 “台湾ドライバナナ”は市場商品として成立する可能性があります。

 あくまで私見ですが、総裁の求める“自立した地方経済モデル”の一部になり得ると確信いたします。


 以上、田沼の勝手な分析でした。

 次回は「干物棚の風洞設計と乾燥効率の相関」をまとめます。(※総裁が止めなければ)

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