第20日-7 予期せぬ事態 ★
三〇五号室から現れた白衣の女性――〈クリスタレス〉を違法に研究しているこのサルブレア製鋼の主の顔は、七年前に実家の食堂に来ていた『マーサ』と同じ顔だった。
予想もしなかった対面に、頭が真っ白になる。
「何をしている!」
女性が大声で喚いた瞬間、ピートの左腕が俺の手から擦り抜けた。
しまった、と気づいた時には遅かった。身をよじり、振り向きざまに下から突き出されたピートの左腕が俺の顎にヒットする。
「ぐっ!」
身体が後ろに投げ出されたのが分かる。目がチカチカして視界が白くなる。
白く? 辺りはオレンジの非常灯しかついていない、薄暗い通路。彼女の瞳の色すら分からなかったのに。
まさか、本当に? 彼女なのか?
履歴書に貼られていた写真。『マーサ』はマーティアス・ロッシだった。
爆発事故でアヤを失い、〈クリスタレス〉を違法に研究して逮捕され、最後は精神を病んで焼身自殺――。
そうだ、〈クリスタレス〉。真っ先にその有効性に気づき、研究していた人間がマーティアス・ロッシ。
大学院生の身でオーパーツ研究所に召集された、彼女なら。それだけ優秀な頭脳を持った、彼女なら。
当時のオーパーツ研究所の研究内容は知り尽くしている。オーパーツ監理局のやり方も。
素人の野良研究者なんかじゃない。
そんな彼女なら、オーパーツレーダーを開発することだって……。
これまで得た情報のピースが目まぐるしく脳裏を駆け巡り、外から内へと当てはめられてゆく。
あれから七年。研究が形になるには十分な時間だ。
だけど、〝あの昼下がりの『マーサ』〟=〝狂った研究をし続けるマーティアス・ロッシ〟。
手元にあるこのピースだけは、上手く填まらない。填めたピースもすべてグチャグチャに撒き散らしたくなるような、そんな衝動に駆られる。
『リルガ、状況は!? リュウライ!?』
耳元でミツルの声が響き、ハッと我に返る。
細い視界に、薄暗い通路の光景が浮かぶ。壁際に押し付けられたグラハムさんがピートに絞めあげられていた。
『リュウライ、確保より帰還です! 聞こえますか!?』
聞こえている、と返事をする暇はない。ごちゃごちゃと昔のことを考えている場合でもない。
まだくらりとする頭を抱えながら立ち上がる。
白衣の女性研究者が俺に銃を構えようとしているのが視界の端に見えた。そちらを見ないまま右手で彼女の肩を突き飛ばす。
骨ばった細い肩の感触に胸の奥が抉られるような感覚を味わいながら、真っすぐにピートに駆け寄る。
ジタバタしていたグラハムさんの身体から力が抜ける。手から零れ落ちそうになる《トラロック》。歯を食いしばったピートの顔がこちらへと向く。
それらをコマ送りのように見つめながら、再び懐から紅閃棍を取り出し、ボタンを押す。ギュンッと伸びた棍を勢いのまま前に突き出し、ピートの脇腹を抉った。
「ぐほっ!」
男の細い体が通路の奥に吹き飛ぶ。意識をなくし、倒れてきたグラハムさんの身体を左腕で支える。
身体は温かい。大丈夫だ、気絶しただけのはず。
百八十センチあるグラハムさんはそれなりに重量もある。《クレストフィスト》第一段階〝トライアングル〟を起動。左腕を強化してグイッと肩に担ぎ上げる。床に落ちた《トラロック》を拾い低い姿勢のまま、開け放たれた三〇五の扉に突進する。
「待っ……きゃっ!」
右腕で紅閃棍をブンと振り回し、こっちに来ようとした女性研究者を退ける。仰け反って空いたスペースから体を滑り込ませ、部屋の中に入った。すぐさまバタンと扉を閉じ、内鍵をかける。
紅閃棍を懐に仕舞い、グラハムさんの《トラロック》をボディバッグに仕舞う。
右腰のホルスターから《ワイヤーガン》を抜き、スイッチを押して起動。
「ピート、逃がすな!」
再びバタンと開いたドアから女の声が聞こえてくる。
トリガーを引いて窓の桟に狙いを定め、撃つ。ワイヤーの先が鋭い鉤先状になり、アルミニウムの枠に絡みつく。
背後から迫りくる気配。ワイヤーが引き戻される勢いを利用してジャンプ、机に右足をかけて飛び越える。
一度グリップから手を離して両腕でグラハムさんを抱え直す。
床に着地した左足を軸にして回転、回し蹴りを放つ。追いかけてきたピートの顎にヒット、細長い身体が右方向に飛び、壁に激突する。
プランと桟からぶら下がっていたワイヤーガンを再び右手で握る。右足を桟にかけて蹴り出し、思い切り外へとジャンプする。
シュワーッという細いワイヤーが銃口から出る音。高い塀の真上、最高到達点でオーパーツをOFFにした。鉤先状から元の柔らかいゴム状に戻った先端が窓枠から外れ、俺たちの身体が宙に投げ出される。
右手でグリップにあるボタンを操作、ワイヤーを回収する。グリップエンドで左手首のバングルのボタンを操作。
第三段階〝ザ・サークル〟――グラハムさんを中心として半球状のシールドが現れる。本来は銃撃や刃、オーパーツの属性攻撃などを防ぐシールドだが、下に向ければ落下時の衝撃を和らげることもできる。
グラハムさんの身体を両腕で抱え直し、同時に体を丸めて手首を下へ。受け皿のようになった半球シールドが地面とぶつかりドンッという振動が伝わるが、強化した左腕と丸くなった身体で落下の衝撃に耐えきる。
反動で再び浮き上がった体を回転し、両足で着地。
シールドをOFFにし、ひとまず道端にグラハムさんを寝かせる。《ワイヤーガン》をホルスターに仕舞いながら、サルブレア製鋼を見上げた。
飛び出してきた西側の窓は開いたままだが、ピートの姿は見えない。部屋に電気がついて明るくなっているが、この場所からは部屋の中までは見えない。
どうやら追いかけるのは諦めたとみていいだろう。三階から覗き込んでも、俺たちの姿は塀の影になって見えないはずだ。一階まで降りて後を追ったところで追いつけるはずもない、と考えるに違いない。
ほう、と大きな溜息が漏れる。
「脱出成功」
通信をONにしてとりあえずそれだけ告げると、
『……良かったです』
というミツルの涸れた声が聞こえてきた。恐らく俺とグラハムさんを起こすためにマイクの向こうで叫び続けていたのだろう。
「証拠は無事だけど、グラハムさんが敵に絞められて気絶した」
『え……』
「だから詳しい報告は後で。早く安全な場所で休ませたい」
『解りました』
プツンと通信が切れた。安堵からフッと息が漏れる。
脱出するためとは言え、気絶したグラハムさんをだいぶん振り回してしまったが大丈夫だろうか。
締め技で落ちた場合は自然に起きるはずだが、一度起こした方がいいか。気を失ったまま長い間放置しておくのは良くない。
とりあえず胸元を緩めないと、と作業着に手をかける。
真ん中のファスナーを下まで下ろしたところで、ピクリと身体が動いた。首元のボタンを外しながら顔を覗き込むと、うっすらと目を開けたグラハムさんと視線が合う。
何か言いたそうに唇が動いたので、そっと顔を近づけると。
「ごめん、リュウくん……俺ソッチの趣味はナイのよ……」
「…………僕もです」
さっきとは違う溜息が零れつつ、言葉を返す。
開口一番がその台詞とは。どうやら後遺症などはないらしい……。
グラハムさんはどこまでもグラハムさんだった。
「ひとまずこの場を離れましょう。起きられますか?」
「ああ。……くぅ、クラっとすんなぁ」
背中に手をかけて上半身を起こしてあげると、グラハムさんがボヤきながら右手でおでこをさすった。
とりあえず意識は戻ったようだが、やはり体の動きはだいぶん緩慢だ。
「肩、どうぞ」
「サンキュ、ちょっと掴まらせて。とりあえずノースの店で休ませてもらうか」
「はい」
暗い夜道を北へ。喫茶店『ノーチラス』を目指し、俺とグラハムさんは寄り添いながらゆっくりと歩き始めた。
不意に、真っ暗な空から、パラパラと水滴のようなものが落ちてくる。雨だ。
「……少し、急ぎましょう」
「…………あぁ」
意識が朦朧しているのだろうか、だいぶん間が開いてからグラハムさんが吐息のような声を漏らす。
小雨だったから、ずぶ濡れになる程ではない。雨粒がパラパラと地面に弾けていく。
しかしその雫はひどく冷たく、ボロボロになった俺達を嘲笑うかのような音を奏でていた。




