それでも君が好きだよ~全て忘れていく孤独な君へ~
全世界にまん延したウイルスが、ある技術を大きく発展させた。
人と人とが接触するという当たり前の世界が崩れ、何度も変異するウイルスに数千万人もの死者を出した未曽有の危機に大きく進化した技術。
それはヒトのサポートをするロボット技術だった。
ウイルスに感染せず、洗浄殺菌も容易なロボットは爆発的に進化した。と同時に無機質なロボットたちを、ヒトはより人間に近づけようとした。姿かたちを、表情を、動きを、声を、会話をヒトに似せる。ヒトに寄り添うロボットたちは新たなパートナーとなり、親しみや慰めを求めてヒトと寸分変わらぬ姿に進化していった。
◆
一か月に一度のメンテナンスのために、山根創介は病棟の廊下を歩いていた。
口元には半透明のポリ繊維マスク。薄いブルーの作業ジャンパーの制服姿に50を超え白髪が増えた姿は少々くたびれてはいるものの、一介の整備士風情ではないように見える。
ヒューマノイドロボット・メンテナンスキットが詰まったキャスターバッグを引く彼の半歩前を、同じくマスクをした年かさの女性医師がテキパキと進んでいく。175cm、痩せぎすの山根と対照的に、頭一つ低く少しふっくらした白衣姿。年齢は40を越えてはいるがかわいらしい雰囲気の女性だった。
「山根さんも毎月お疲れ様ですね。半年に1回のメンテナンスでいいんでしょ?」
「いや……紗良ちゃん、気になりますし……アンもどうしてるかなと」
ハキハキ話す女性医師にボソボソと返す山根。
ウイルス不透過のクリアマスクにはペーパーマイクが内蔵されており、襟元のマイクロスピーカーから発声されるため、山根の弱い声もマスク越しであっても問題なく会話ができる。
「山根さんはまだまだお忙しく?」
「今はしがないメンテナンス部員ですからね。大した事はないです。沢口先生は……いつもお忙しいのに今月もありがとうございます」
「いえいえ――」
歩みの速度を緩めた女性医師――沢口瑞樹の声のトーンが落ちる。
「アンがあんな風になったのも私たちのせいですもんね」
「……」
もう何度も繰り返された会話。
大手アンドロイド開発製造企業、元開発室長の山根と、K大学付属病院、脳神経医師の沢口がこの廊下を歩く度に繰り返される。
忘れているわけではない。口癖のように、どうしてもこの会話になるのだ。
「えっと……あ。紗良ちゃん、今月19歳になりますね」
沢口は再び歩く速度を上げ、声のトーンを戻した。
「ということは、アンちゃんも確か19歳になるんですよね?」
「2030年型の量産前最終プロトタイプですから、その一年前に製造されました。正確に言うと1歳年上の20歳になりますね」
沢口は茶目っ気のある笑顔で山根に振り向く。
「そんなわけで、紗良ちゃんにはケーキとぬいぐるみをプレゼントしようと思うんですよ。アンちゃんには何がいいでしょうね」
「そうですね……今日持ってきた新型バッテリーが……」
真面目な顔で答える山根に、沢口が前を向いたまま楽しそうに笑った。
「私、何かおかしなこと言いましたか?」
「5年前と全く変わってないですね。山根さんって」
あまり人付き合いが得意ではない山根だったが沢口には気を許している。二人は紗良とアンを守るために共に戦った戦友だった。
「……もう5年経つんですね……色々ありましたね、沢口先生も私も……」
やがて白く無機質な廊下の途中に透明なプラスチックボードでその先を区切った区画が現れた。簡素なドアが付いている。
沢口は持ってきたリモコンでセンサーを解除し、そのドアの鍵を開けた。
――何度来ても慣れないな。
沢口が先に通り抜け、山根とキャスターバッグがそのあとに続くと、彼女は静かにドアを再び施錠した。
※※
二人は薄暗い廊下の末端に到着した。目の前の病室のドアをノックする。返事はない。
ドアを開けると、ひと月前……いや、5年前から変わらない光景が現れる。
薄明りだった病室の光量を徐々に上げていく沢口。
そこには白いベッドが置かれており、一人の少女が眠っていた。
いや。正確には、眠り続けていた。
彼女は14歳の時から5年間、眠り続けているのだ。成長抑制薬を常に投与され、全身の細胞の動きを極限まで遅くしているために19歳には見えない。恒温状態の部屋の中、そんな身体に過度な負担がかからないよう掛布は薄手であり、少女の小柄な体型を浮かび上がらせていた。
彼女――清瀧紗良は、原因不明、治療法もわからない奇病に侵されていた。
『進行性多発性大脳神経耗弱症』
そう名付けられた病は、彼女の大脳の神経系シナプス――その繋がりが破壊され、外れていくというものだった。
人間の記憶とは大脳の神経細胞同士の繋がりと、そこを流れる電気信号の集合で作られている。なんらかの刺激を受けると神経細胞同士がシナプスで繋がっていき、そこを通る化学物質や電気の流れ方によって記憶が固まっていくのだ。
この病は一度連結したシナプスがあちこちで外れてしまうものだ。せっかく繋がっていた神経が再び外れていくということはすなわち――記憶が消えていく――という事だった。
若年性アルツハイマーである。
新しくもろい連結のシナプスから順に外れていく。これは新しい記憶から順に消えていく、アルツハイマーの症状だった。
しかし、彼女の病には不可思議な点があった。
大脳の記憶神経のみが侵されるという事。
彼女の病に奇跡があったとするなら、生命維持や身体の成長などには問題がなかった事。
数年後には生命維持の細胞も破壊され死ぬ可能性が高いアルツハイマーとは違い、記憶だけがさかのぼって消えていく。
「紗良ちゃん、アンちゃん、体調はどう? 山根さんがお見えですよ」
沢口の声に返事はない。
「お邪魔しますね」
付けているマスクの位置を確認してから入室する。
「やあ、久しぶり。紗良ちゃん、アン。変わったことはないか」
山根も物言わぬ二人に声をかけ、病室に入った。
「どれくらいかかりそうですか」
「前回と状態が変わっていないようなら、1時間くらいかなと」
山根はそう言うと、眠り続けている紗良の横でイスに腰かけている女性に目を移した。
その女性は静かに目をつむり、姿勢よく座る姿は微動だにしない。壁からたくさんのケーブルが床を流れ、そのイスの周りを埋めていた。
年のころは大学生くらい。肩口までのライトブラウンの髪に、白いベールを被っている。そして、白のブラウスシャツにデニムのロングパンツ姿。顔立ちは整った美人というわけではない。ただ、絶妙なラインを描く愛嬌があった。
まさに、実のお姉さんがお見舞いに来ているかのようなたたずまいだった。
この子がアン。
2030年型第三世代サポート型ヒューマノイドロボットのアンだ。身の回りのサポートとして目覚ましい進歩を遂げたロボット。人間にそっくりに、という執念で作られた芸術品。
人間との違いは、このスタイルで重量が90Kg超あること、人間と外見上に見分けがつくようにと条例で決められている首の認識チョーカー、そして、感情がないところだった。
今は第五世代型のロボットが出回っている。アンは今では旧型品だった。なんせ開発は20年前だ。2歳の紗良のパートナーとして、山根が提供したものだった。そして、そのことで山根は開発室長を追われるきっかけとなった。
(14歳の紗良ちゃんが眠り始めて2年後。アンは、俺と沢口先生の言葉がきっかけでこうなってしまった)
それから3年。自責の念に駆られて、山根は毎月、お見舞いという名のメンテナンスに来ているのだった。
「そうだ! 紗良ちゃん、アンちゃん、せっかく山根さんがいらしたんだから、お誕生日のお祝いをみんなでしましょうよ。山根さん、いかが?」
明るく話しかける沢口の声に山根は現実に引き戻された。
「そ、そうですね……」
「それじゃ、1時間後に。ケーキを持ってきますからみんなで食べましょう」
ナイスアイデアというようなウキウキとした口調でそう言うと、沢口は病室の天井の片隅に取り付けられているモニタカメラに顔を向ける。
「山根創介氏によるメンテナンス。機密に関するため、20時12分から21時15分までモニタを停止」
そして、リモコンでモニタカメラを停止させた。
「それでは、よろしくお願いします。アンちゃん、よく診てもらってね」
沢口が出ていくと、病室はかすかな空調音と、酸素マスクの呼吸音、医療機器から響く小さなピコン……ピコン……という音だけになった。
山根はアンの首のチョーカーにケーブルをつなぎ、持ち込んだメンテナンス機器の準備に入った。
「なあ、アン。沢口先生っていい人だな」
ぽつりと呟く。
「よし――それじゃあ、始めるか」
※※
清瀧紗良の病は深刻だった。
しかし、彼女は3つの幸運を持っていた。
「彼女の両親は有名な医者であった事」と「その両親が賢明だった事」、そして「叔父が最新のヒューマノイドロボットの開発をしていた事」であろう。
彼女は2歳の頃、彼女の両親とともに事故に巻き込まれた。
彼女は生き延び、彼女の両親は死んだ。
まだ若い両親の生涯逸失利益は莫大だった。
彼女は2歳にして莫大な遺産を得て、孤独になった。
かわいそうな彼女を養女にしたいと言う自称、親戚が何人も現れた。
山根は最も近しい彼女の親戚ではあったが、彼はヒューマノイドロボットの研究しか頭になかった。育児などという煩わしい事に関わりたくなかった彼は、彼女に興味一つ持っていなかった。彼は自らのロボットをより人間に近づけたい。その一心しかなかったのだ。
しかし、自称親戚たちはそれを許してくれなかった。
問題は、彼女の両親が生前残していた肉声。
『私たちにもしもの時があれば、一切を紗良に遺す。そして、彼女には自分の事だけでなく世の中に役に立つよう使ってもらいたい』
自称親戚たちは何とか曲解しようとし、山根にもそれとなく圧力をかけ始めた。
山根は彼女を養女にしないと言う。しかし、彼らは信用しなかった。疑心暗鬼に駆られ欲望にまみれた彼らは山根と紗良へ執拗に関わろうとした。
ある日、道を歩く山根に車が突っ込んできた。同じころ、病院にいた紗良の身にも事件が起きた。
運よく二人とも無事ではあったが、不穏な空気を感じた山根は自らに降りかかる火の粉を払うために動いた。
「私が、紗良の面倒をみます」
目の色が変わる自称親戚たちを尻目に、弁護士に宣言した。
「彼女の育児には最新鋭のサポートロボットの力を借り、遺産の一部はその運用費用とさせてもらいます」
自分は最新のロボットの研究が続けられ、遺産は紗良の物となる。育児はロボットに任せて実践データも得られる。
山根にとっては全てを解決するアイデアだった。
果たしてその宣言は認められ、2歳の紗良の元に研究中の最新型プロトタイプの「アン」があてがわれた。
その時、山根は試してみたかったプロジェクトを密かに実行に移した。
『アカシックレコード・プロジェクト』
人の脳にセンサーを取り付け、その記録を莫大なデータとして蓄積する。その人間の脳神経の動きを完全に記録するのだ。何を見聞きし、何を感じ、何を憶えていったか。この情報パターンをロボットに埋め込めれば、人間の思考が再現できる。これによって彼の研究するロボットは、今までと比べるべくもなく飛躍的に人間に近づくだろう。
会社も興味を示した。紗良の遺産も育児のためということで研究開発に利用させてもらう。
事故に遭った紗良の脳の後遺症を防ぐという名目でセンサーが埋め込まれた。
彼女の脳の動きは全て、コンピューターの中に保存される事になった。
その中継機能として、サポートロボット「アン」は紗良のそばを片時も離れない。
人間により近いロボットを造りたい。
そのために山根は姪を犠牲にした。いや、犠牲にしたという感覚はなかった。仕方がないという気持ちも一切なかった。
全て、タイミングがよかった。
それだけだった。
そして、非人道的なプロジェクトが始まった。
※※
紗良はアンによくなついた。
山根はほとんど家に戻ることはなかったし、物心ついた時から彼女のそばにずっと一緒にいたのはアンだった。
食事の世話をしてくれ、勉強を教えてもらう。疑問に嫌がらず答えてくれ、悩みも愚痴もいつも、いつまでも、静かに聞いてくれる。喜べば一緒に喜び、怒れば気遣い、涙は流さないが一緒に泣いてくれた。
アンの画期的な機能は叱るという機能だった。
社会の大多数の持つ価値感をクラウドで照合し、紗良がそこから逸脱すると注意をした。
山根曰く、アンには感情がない。そう見えるのは316種類の表情バリエーションから極力無理のない選択をしているだけだと。
紗良は、そんなアンへの想いを育てていった。
紗良は幼稚園に行き、りぼん結びのやり方を覚えた。アンが丁寧に教えた。
小学生になり、足し算引き算を覚えた。アンがりんごとミカンを並べた。
笛の吹き方を覚え、ピアノを弾き始めた。アンはいつまでも音の外れた曲を聞いた。
気になる男の子ができた。アンは相談された。
チョコレートの作り方を覚えた。アンと一緒に作った。
※※
彼女の脳の異常に最初に気が付いたのはアンだった。
「紗良のシナプスがこの半月の間、今までと違う動きをしています」
紗良が14歳の時だった。
その報告を受けた山根は一層、逐一記録しておくように指示をした。
イレギュラーは大切な情報だ。解析に時間がかかるだろう。しかし、これも人間らしい思考を得るためのよい機会だ。一瞬、紗良の脳内に埋め込んだセンサーの事が頭をよぎったが、あり得ない、関係ないと意識の外へ追い出した。
「紗良が憶えた事を検索する際、シナプスの流れが順調ではないように見えます」
アンはたびたび報告した。紗良の情報を分析すればわかるはず。
山根は、まだ、気づいていなかった。いや、気が付かないようにしていた。
「アン、わたし、今朝のごはんまだ食べてないよ」
「先ほどお食事されましたよ、紗良」
「あっれー? そっか、おなか減ってないからおかしいなって思ってたんだ」
「アン、今日って何曜日だっけ」
「今日は日曜日ですよ、紗良」
「わわわ! 月曜日だと思っていたよお!」
「アン、なんでわたし、このレターセット、持ってるんだろ」
「2週間前に、『かわいいなあ、山根のおじさんにこれでお手紙書いたら喜んでくれるかな』と、買っていましたよ」
「え。わたしそんな事言ったっけ」
紗良の記憶は、直近のものから少しずつ消えていった。
「アン! お気に入りのあの服、なんでどこにもないの!」
「紗良、半年前、もう着ないからと捨てていましたよ」
「わたしがそんなことするわけないじゃない!」
「ワタシの記録によると6月24日の粗大ごみの日に――」
「そういうこと言ってるんじゃないの! アンはロボットだから全部記録しているんでしょ? 正確にね! アンが正しいよ! どうせわたしが嘘ついているんだ!! わたしの憶えていることは嘘ばっかりなんだ!! そうでしょ、アン!」
一気にまくしたてる紗良にサポートロボットとしてどのような反応をすればよいのか。
アンはひたすらクラウド検索をした。
ワタシは正しい記録は保管している。紗良は間違った記憶を作ろうとしていく。
ヒトは記憶が消えた部分を自分の都合のよい解釈をし、記憶を上書きしていく。
アンは、紗良の脳の動きが逐一わかる。そして記録していく。しかし、それを指摘する度、紗良は混乱していく。
紗良の大脳神経細胞は次々と破壊されていった。
そこで、会社の息がかかった附属病院で医療検査が行われた。
診断結果。
『若年性アルツハイマーと思われるが、記憶細胞のみが破壊されていく奇病』
事の重大さに気が付いた会社は危険を感じ、山根にすべての責任を被せた。
プロジェクトは急きょ停止され、破棄された。
山根は奇妙な理由を付けられ開発室からメンテナンス部に移された。
閑職にまわされ、監視が付く日々。山根は失意の中、呆然自失となり、ただメンテナンス業務をこなすだけのロボットのような人間になった。
あれから2年が過ぎた。ただただ無気力な彼を見て、会社も監視の目を緩ませた。
今まで紗良のことはアンに任せ、仕事ばかりしていた山根だったが、時間ができてしまった。
様々なメンテナンス業務の合間ではあったが余裕ができた彼は、ある日ふと何かを取り戻した。
そして、ようやく紗良とアンの事に目を向けたのだった。
興味はアンと紗良の関係性だった。
「ワタシはどうすればいいのか、わかりません。紗良の記憶をシミュレートしました。紗良は断片的な記憶に整合性をつけるため、異なる記憶で補完しています。事実と異なっていきます」
山根は膨大なデータを分析し始めた。
アンの記録した情報は緻密だった。紗良が受けた五感とその状況、紗良が行った行動、動作。その際の脳細胞の動き。シナプスがどう連結され繋がっていったか。
すべてが記録されていた。
そして、山根の心が変わった。
紗良の記憶の中には、山根に向けられたモノが多く残っていたのだ。
※※
「アン、明日は土曜日だけど、やまねのおじさん、帰ってくるかな」
紗良が赤いランドセルを机に置く。
「ここ8週のうち帰宅されたのは2日ですね。帰ってきてくれるといいですね、紗良」
「わたし、3人でピクニックに行ってみたいんだあ。結衣ちゃんがお父さんとお母さんと一緒に行った花野高原が楽しかったって!」
「アン、だいぶピアノだいぶ上手くなったでしょ? 山根のおじさん、驚くかな!」
「そうですね。楽しみですね、紗良」
山根は寝食を忘れて紗良のデータを解析していった。
※※
「紗良の記憶がどんどん失われていきます。動作などの脳の動きは問題ありません。しかし、記憶に関しては」
アンの報告に一瞬、間が空く。AIの処理系統に電力を回しているのだろう。
「およそ小学3年生程度の記憶まで失われてきました。修学旅行の思い出、初恋の男の子の名前を忘れていました。書いている文字も漢字がほとんど無くなり、ひらがなが多くなっています」
そんな時に出逢ったのが脳神経医師の沢口だった。K大学付属病院に移送された紗良の主治医だった。40歳手前の彼女は小柄で山根以上にスマートな姿、明るく楽しそうに話す女性だった。
「先生、それは本当ですか!? 紗良のシナプスを回復する方法があるんですか!?」
マスク越しに思わず大声を出してしまった山根は、イスに座り直し、背後に立つアンを見上げた。
アンは通常状態の表情パターンのいくつかを表現している。まばたきが多くなっているのはAIの状況認識系が追い付いておらず、身体制御系に影響が出ているせいだろう。
同じくマスクを着けた沢口はパソコンを操作し、壁のプロジェクターを見るよう促した。
「ええ。ES細胞ってご存じですか?」
「すべての細胞に変化させることができる細胞……ですね?」
「そう。これを脳細胞に転換させるの」
「そんなことが……」
「ロボット技術だけでなく、再生医療の方も技術が進歩しているんです。ただ――
沢口は額に指を当て、困ったというようなポーズを取った。
「皮ふとかの細胞から変化させるiPS細胞の技術と違って、同じ細胞再生技術でもES細胞はやり方が違うんですよ」
チラリと山根の方を見る沢口。
「ヒトの受精卵から変化させるんです」
※※
「将来赤ちゃんになる細胞を使って、脳神経細胞に変化させます」
「……」
沢口の口調が明るく砕けた感じから変わっていた。
「倫理面、拒絶反応の問題もあるのですが、今回は脳神経細胞ですから、よりリスクを少なくしたい――」
半透明マスクで表情は見える。沢口は一旦口を閉じて、ゆっくりと開いた。
「ですので、紗良ちゃんの卵巣から摘出して人工授精させ、培養して大脳に移植します」
※※
「紗良ちゃんはすでに十分に性徴が見られています。排卵もされています。可能です」
時間はなかった。悩む時間さえ惜しかった。明日の朝になれば紗良の記憶がどこまで消えていくのかわからないのだ。
幼稚園? いや、もっとかもしれない。
山根は紗良の記憶を失くしたくなかった。ほぼ帰宅せず、彼女の記憶の中に実際の自分は現れない。だが、全く消えてしまうのは、苦しかった。ひたすら苦しい。
勝手な話だ。いくら後悔してもしたりない。
そして、それ以上に苦しい想いがあった。
これ以上進行すると、アンの記憶まで消えてしまうだろう。
アンは完全に今までの思い出――記録を持っている。だが、紗良は今までのアンとの思い出を失ってしまう。
それだけは……それだけは!
※※
紗良の大脳神経の再生治療が始まった。
凄まじい量の大脳神経細胞を増殖させ、紗良に定着させていく。これには相当な時間がかかる。
そこで取られた方法が、成長抑制処置だった。
どれだけ増殖が間に合うかわからない。何年かかるかわからない。どれだけ定着するかわからない。
その時間稼ぎのために、紗良の体の成長を鈍化させるのだ。そうやって十分な記憶ができるまで脳神経細胞を増やし、定着させる。
費用はあった。山根がかつての貢献で得ていた資産を、全てまわした。
そして、紗良が横になっているベッドのそばには常にアンが居た。
そんなある日、お見舞いに来た山根と回診中の沢口に、アンは尋ねた。
視線は紗良を見つめたままだ。彼女は全てを記録しようとしている。
「もうすぐ、紗良は17歳になります。ワタシは考えました。ワタシは紗良の記憶を持っています。紗良が物心ついてから、いかなる時も傍を離れず、全てを見て聞いてきました。彼女の脳の動きもすべて完全に記録しています」
視線は紗良に向けたままだ。AIの処理が追い付いていないのだろう。第三世代のAIの問題点だった、違う動作を一斉に処理する能力が高くないせいだ。
「ですので、ワタシの記憶を彼女に移してください」
二人は目を見張った。
確かに脳細胞の連結を化学物質を使って再構成するのはできなくはないだろう。
山根のかつての非人道的な実験によってその技術は飛躍的に進歩し、会社が治験を進めようとしているのは、脳神経医師の沢口経由で聞いている。ただ、問題があった。
「アンちゃん、『記録』と『記憶』は違うのよ」
沢口が努めて穏やかに言った。
「アンちゃんが持っているモノは記録。人間である紗良ちゃんが持っているのは記憶なの」
アンの瞳が一瞬だけ暗くなった。まるで戸惑っているようだった。
山根には、アンがロボットたちの共有クラウド記録にアクセスし、解釈処理系に電力を回しているのだとわかった。
「記録とは、残すためのモノ。記憶とは、忘れてしまうことが前提」
アンが自らはじき出した答えだった。
「そうだな、アン。それも正しい」
山根は穏やかな表情でアンを見た。
「記録は正確に残すモノ。だが、記憶には感情が大切なんだ」
アンの瞳が再び一瞬暗くなる。
沢口が優しく語りかけた。
「アンちゃん。あなたが紗良ちゃんと初めて出逢った時、どう記録している?」
「2030年3月3日。紗良はワタシを見て動悸が高まりました。人間だろうかロボットだろうか判断しようとしたのが最初のログです」
「それじゃあ、初めて意識し始めた男の子に話しかけられた時は?」
「2039年7月13日。どのように対応するかあらゆる行動を検討した結果、ある漫画のキャラクターを参考にして動きを再現していました」
「その時の不安や期待、嬉しい、楽しい、悲しい。アンはそれを記録できているのかな?」
アンのまばたきが増えた。
「残念ながら、わかりません」
山根が悔しさをにじませながら続けた。
「記憶はな。その時の想いが繋がっているんだよ」
紗良の寝顔を見、後悔にさいなまれる。
「記録に想いが繋がること。それが記憶だ。紗良に記録を転送できたとしてもそれは事実の羅列にしかならない」
アンは、まばたきを止めた。
「わかりました」
そして、静かに目をつむる。
「ワタシは今から全ての機能を制限して、ワタシの記録と、想定されるオモイを連携する処理を行います」
姿勢制御を最低限にしたのだろう。アンの体のあちこちがダラリとする。
「紗良が目覚めたときに、山根さまやワタシの思い出を失っていないように、全機能を使ってワタシの記録の再構成を行います」
アンの呼吸が深く早くなる。AIの過熱を防止するためだろう。
「紗良が入院し昏睡状態になった2047年10月30日より以降の再構成は不要ですから、少しは負荷が下がります。必要なのは2032年、紗良が2歳の時から昏睡直前までの記憶」
アンは閉じていた瞳を開いた。沢口を見、山根を見た。そして、瞳だけで会釈をする。
「それでは紗良をよろしくお願いいたします」
アンは紗良をしばらく見ると、再び目を閉じた。そして、微動だにしなくなった。
※※
1時間が経ち、山根のメンテナンスも終わった。
あの時からアンの体には十分な電力を送るための電源ケーブルを増設した。何かの役に立つかもしれないと、クラウドへの専用回線を強化した。AIの加熱を防ぐために冷却用のベールを頭に被せた。新型のパーツが出るたびに差し替えていった。
そして――
廊下をバタバタと走る足音が響き、ドアが弾かれるように開いた。
「山根さん! 紗良ちゃんの!」
片手には小さなケーキ箱、もう片手にはクマのぬいぐるみを抱えた沢口が飛び込んできた。
「山根さん! 来ました! 脳神経細胞の十分な量の定着と、機能回復が認められました! 紗良ちゃんの! 紗良ちゃんのっ!!」
弾かれるように立つ山根。そして、その横で衣擦れの音がした。
アンの体が再稼働を始めていた。
彼女はゆっくりと目を開くと、まず紗良の寝顔を見た。
そして、山根がかつて見た事がない表情を作った。こんな表情プログラムはしていない。
「おはようございます」
ゆっくりと体の稼働状態を試すように動かす。
「長い夢を見ていました」
山根と沢口の方に向きなおると、アンは静かに口を開いた。
「さあ、お願いします。始めましょう」




