バケモノ少女の旅立ち
とてとてとて。
年の頃は八つ程度であろうか。まだ幼く、小柄なその少女はただ茫然と、何かを考えることもなく、惰性で歩いていた。
獣も出て来ないような、険しい冬の山道。まだ雪が降っていないのが不幸中の幸いであるが、あと数日もすればしんしんと白い結晶が舞い落ちて来兼ねない季節。子供に…況してや少女に、たった一人で山道を歩かせるなんて親の顔が見てみたい、と善良な市民は思うのだろう。――――少女の格好が普通であったのなら。
身を温めるのはボロボロに擦り切れ汚れた、薄手の外套一枚。その中に着ている服も、お世辞にも上等とは言い難い。大怪我でもしているのか。薄横れた包帯を全身に纏っているのも気味が悪い。浮浪児の如きその様に、眉を寄せる者は多かろう。
その小さな身体を懸命に動かして山道を歩く少女は、数日前に家を追い出され―――――否。少女の住んでいた村から逃がされたばかりであった。
少女はヤドルムスという国の、国境付近にある山の麓の小さな小さな村で生を受けた。隣国――――アルフェラード帝国の侵略に怯える近隣の村々とは違い、のほほんとした穏やかな村で生まれた彼女は閉鎖的なそこでは少しばかり特殊な存在であったと言えよう。旅人が通りかかるか、時折隊商が品物を運んでくる以外には人の出入りが殆どと言っていい程にない村。そんな村の中で彼女の両親は共に外の人間であったのが、特殊であった一つ目の理由である。若くして『スローライフ』とやらを始めたいと村にやってきた父と、そんな父を追いかけて村までやってきたどこぞの貴族のお嬢様だったらしいという母。なんとも珍しい男女の組み合わせであったが、これだけならば少女は今尚、父と共にのんびりと村で暮らしていただろう。
問題があったのは、少女のその容姿である。どういう訳だか、少女には生まれながらにして全身に赤黒い痣があったのだ。それは刻一刻と形を変えて少女の体を蛇のように這いまわり、蔦のように絡みついた。何かの病気か、と高名な医者や神官、果ては怪しげな呪い士まで呼んで大騒ぎであったのだと、とある村人は語った。結果、医者は治療法どころか原因さえ分からないと匙を投げ、呪い士はとんだペテン師だと判明し、神官は『呪い』であると断じた。元貴族の母は前世の不浄の証と言われる『呪い』を持った子だと言われて卒倒したが、反対に父や村人たちは少女を穏やかに受け入れたという。
少女の母である女は彼女のことを『恥』とした。少女に触れることを嫌がり、神官から与えられた神への祝詞とやらを刻んだ包帯をミイラのように全身に巻かせ、極力家の外に出さないようにし、「普通に生んであげられなくてごめんなさい」と息をするかのように少女への懺悔を繰り返した。
聡い少女はこの『母』のことが大嫌いだった。幼いながらに愛されていないことを理解し、繰り返される謝罪は己の保身と、「悲劇の女」である自分に酔うためだけのパフォーマンスであると悟っていた。
己を生んだ時に体を壊してベッドから起き上がれない体になったのだと、恩着せがましく繰り返し話す『母』よりも家事を教えてくれる近隣の村人たちの方が、少女はよっぽど好きだった。毎日せっせと看病をする己をゴミクズでも見るかのような目で見下してくる『母』よりも多くのことを教えてくれる、滅多に会えない父の方が大好きだった。何かが出来るようになれば口先だけで褒めてくれる『母』よりも、会えば何も言わずに頭を撫でてくれる年若い神父の方が好きだった。
だからこそ、先日『母』が儚くなったことに不謹慎にも喜んだ。これからは大好きな父と二人、自由に暮らせるのだ、と。けれど父は難しい表情で少女に僅かばかりの食料と何かの紙切れ、それと無いよりはマシ程度の心もとない装備、そしてどうやって調達したのは不明な驚くほど多くの金を渡して、一言「逃げろ」と言った。少女はこれに何の疑問も持たずに頷いた。少女にとって、『父』とはいつだって正しい存在であったからだ。言語を始め、算術に歴史、礼儀や作法といったマナー、地理、『母』への接し方に、果ては他国の言葉まで、本当に多くのことを教えてくれた。そして、そんな父の言うことを聞いていれば悪いことはまず起らなかった。どんな時も父の教えの通りに思考を止めず考え続けた。お陰でたくさんの場面を切り抜けて来れた。どうやっても切り抜けられないと悟った時はすかさず父に相談し、そのアドバイスも糧とした。
故に少女は父の「逃げろ」という言葉に、何から逃げればいいのかも分からないままに頷いて、その指示の通りに村を出た。
村を出てしばらく。山を少し登ったところで少女は父親に持たされた荷物の中身を確認した。一日三食、三日分程度の食料と、革袋に入ったずっしりとした路銀、ナイフや薄手の毛布…その他諸々、旅に必要なものが小さな背のう二つにぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。よくもまあ、こんな小さな背のうにこれだけ詰め込めたものだ、と少女は目をパチクリさせて奥底に隠すように入れられていた手帳を開く。はて、これはいつも父が持ち歩いていた手帳ではなかっただろうか。何故ここに、と訝しく思いながらも黒革のソレをペラペラと捲る。
「セレスティア・クランベア?」
―――――南部にあるペトライアという街の、セレスティア・クランベア様に手紙を渡しなさい―――――
手帳のある一ページに、栞代わりに挟まれた紙に書き殴ってある、聞いたこともない名前を少女は呟いた。誰だろうか。まあ、父が行けと言うのならば行くだけである。何度かその紙を読み直し、そしてその結論に辿り着いた少女は傾げた。手紙とは何だろうか、と。手紙とは何たるか、知識としては知っている。けれども実物を見たことはなかったのだ。数分もの間、首を傾げていた少女は出口の見えないその疑問について考えるのを止めた。分からないのならば人に訊けばいい。幸い、渡さねばならない相手は分かっているのだ。この、セレスティア・クランベアなる人物については一切知りもしないがきっとその人が教えてくれるだろう、と。要は、全く見当のつかないことを考えるのに飽きて匙を投げたのである。
そんなことよりも、これは話に聞く『お使い』とやらではないか、と少女は考える。近所の友人から聞いていた『お使い』に比べたら随分と移動距離がある気がするが。それでも、何らかの理由で遠く離れたセレスティア・クランベアなる人物に手紙を届ける。これはまごうことなき『お使い』だ!!
ふんす、と意気込んだ少女は手早く荷物を片付けると張り切って山道を登って行った。これは重大な仕事なのだ、と。
―――――こうして、少女の長い長い「はじめてのおつかい」が始まったのだ。




