9.掻き消された声
横を向けば必ず彼がいてくれる。
以前は当たり前だったけれども最近ではそうではなかったからこそ、この時間がどんなに大切なものなのか実感する。
何気ない日常が本当に大切なものだと知っている人は少ない。
大切なものを失いかけた時になってその存在を手放せないと気づいて人は後悔し嘆き悲しむのだ。
でも幸運なことに私は間に合った。失う前に彼をこちらに振り向かせることが出来たから。
それはライアンの気持ちを考えれば奇跡に近いことだろう。
奇跡でも神様の気まぐれでも構わない、私はこの幸運に感謝をするだけ。
久しぶりの社交に疲れも見せずに微笑んでいる私を見る彼の表情は柔らかい。
「***、具合は大丈夫そうだな。良かったよ、なかなか抜けられないから君がまた倒れたらと気が気でなかった。あと少しで挨拶も終わるはずだから、早めに切り上げて屋敷に帰ろうな」
気遣ってくれる甘い声が心を満たしてくれる。
「心配してくれて有り難う。体調は良いし、久しぶりにあなたと一緒にいられて本当に楽しいわ。
でもルイスが恋しいから早めに帰りましょう」
「なんだかルイスにヤキモチを焼いてしまいそうだよ。俺に似ている息子だから気分は複雑だな…。
少しは俺のことも構って欲しいな、***」
わざと拗ねたような口調で話すライアンはそう言いながら私の身体を自分の方に引き寄せ頬に口づけを落としてくる。
以前なら照れて避けることもあったけど、今は求めるように受け入れる。
彼との他愛もない会話が私の心に染みる。
カトリーナが現れる前はこれが当たり前の日常だったけれど、彼が彼女の側にいた頃はなくなっていた。
でも今は取り戻せている。
…もう大丈夫かしら。
前の彼が戻ってきてくれた。
もう離れないと信じていいよね…。
遠く離れた場所にカトリーナ・ガザンの姿が見える。私はもうその姿に怯えないでいられる。
このままお茶会が終わるまで彼の手を離さずにいればいい。
そしてこれからもずっと彼の手を離さない。
…そうすればきっと大丈夫。
お茶会を楽しんでいる私達の元にアーノルドが小走りに駆け寄ってきた。
『ちょっといいかな…』と私の方をちらりと見てからライアンの耳元で何かを告げる。
どうやら火急の用件を伝えに来たようだ。
アーノルドの話を聞き終わると彼は私の方を向いて話し出す。
「すまない、***。ちょっと王宮の方で人手が必要らしいんだ。騎士だけでは足りないようで文官にも声が掛かっている。君と一緒にいる約束をしていたのに…。本当にごめんな」
「私は大丈夫よ、ここで椅子に座って待っているから。お仕事なんだから行って頂戴」
仕事ならば仕方がない、引き止めることはせずに彼を送り出す。
彼は心配そうに『ここで待っていてくれ、なるべく早くに戻るから』と言って私から離れていった。
彼がいなくなると久しぶりの社交で自分が思った以上に疲れているのが分かった。近くの椅子に座って休もうとしたけど空いていない。
仕方がないので少し離れた木陰で休むことにした。
暫くするとなぜか周囲の人々が騒ぎ始める。
『紛れ込んでいるっ』『いったいどこにっ』といった言葉が飛び交っているがなんのことだが分からない。
そして突然甲高い叫び声が響き渡り人々は一斉に逃げ始めた。
そちらを見ると参加者の中にこの場に相応しくない剣を持った男達の姿があった。
どうやらお茶会に潜んで機会を窺っていたらしい。彼らは口々に『これは正義だっ』と叫びながら王妃様の方へ進んでいく。
行く手を遮る邪魔な人々を剣で薙ぎ払いながら。
優雅なお茶会は一瞬でカオスとなる。
剣を手にした男達は複数箇所に潜んでいたので神出鬼没のように見え人々はどこに逃げたらいいのか分からず半狂乱となる。
そのため騎士達が男達のもとに辿り着くことさえままならない状況だった。
叫び声と怒声と視界を遮る土埃に混乱は増していく。
冷静さを保っているのは誰もいない、まさに阿鼻叫喚だった。
私は恐怖で動くことも声を上げることも叶わずただ震えていた。
幸いなことに周りには武装した男の姿はない。
だ、大丈夫…ここなら大丈夫…。
じっとしていればすぐに終わるから。
私に出来ることはなにもないが、心の中では夫の名を呼び続けその身の無事だけをひたすら祈る。
『どうか彼が巻き込まれたりしていませんように。神様…お願いします、どうか…どうか…』
目の前の惨劇が起きている時でも一番に想うのは夫のことだった。
『退けっ!』、ドサッ……。
すぐ近くで怒声と何かが崩れ落ちる音が聞こえた。
ハッとして後ろを振り返ると武装した男の前で切りつけられ男性がうつ伏せに倒れ『うっ、うぅ…』と呻いている。
声を上げながら近くにいた人々は我先にと走り出す。
でもどちらに行ったらいいか分からず、四方八方に逃げようとするので多くの人がぶつかり合って地面に倒れてしまう。
私も誰かに押されて転んでしまった。
すぐに立ち上がろうとしたけれど足を痛めてしまい立ち上がれない。
剣を片手に持った男はこちらに近づいてくる。
逃げ場はなかった。
いや…こっちに来ないでっ。
だ、誰かっ助けて…。
恐怖で助けを呼ぶ声すら出てこない。もし声が出てたとしても他人を助ける余裕のある人は周囲にはいない。
みな自分が逃げることで必死だった。
取り残された私は初めて死というものを意識した。
心に浮かぶのは夫と息子のことだけ。
ただ、ただ…彼らに愛を伝えたかった。
その時、ライアンの姿が人の波の隙間からちらりと見えた。彼は私と別れた場所の辺りで必死の形相で動き回っている。私から彼の姿は見えているけれど、逃げ惑う人々で彼からは私が見えない。
こちらに気づいてもらおうと手を振るが彼が気づいた様子はない。彼は私がいる所と逆の方向へ行こうとしてしまう。
違う、私はここよ。
ここにいるわっ!
彼の腕にもう一度抱きしめられたい、ルイスを残して死ぬことなんて出来ない。
そう想った。
私は彼の名を力の限りに叫んだ。
「…ラ‥イ……!」
私の口から出てきた言葉は『ライアン』ではなく『ライ』だった。
あの日に失った大切な言葉。
それを私は今取り戻せた、きっと私の愛を神様が認めてくれたから。
こんな状況なのに嬉し涙が溢れてくる。
私の声が届いた彼は振り向きこちらに向かって走って来る。
『ライ、こ…』と言い掛けた言葉は最後まで言えなかった。
彼の目に私は映っていなかった。
彼が向かった先にいたのは私ではなくカトリーナのところだった。
怯えている彼女を抱き上げた彼は私に背を向け去っていく。
私はそれをただ見ていた。
そうか…、そうだったわね。
私じゃなかった。
彼が本当に愛する人は…。
神様が浮かれていた私に現実を教えてくれた。
『愛されていないという現実』を…。
神様は真実の愛の味方だった。
ドサッー!!
なぜか背中が一瞬で熱くなり力が抜けて地面に倒れ込む。
『どうして…』と思っていると血溜まりが広がっていき自分が切りつけられたことを知る。
意識が薄れていくなか最後に見たのはライアンとカトリーナの後ろ姿だった。
私は最後に彼の幸せな姿を目に焼き付け、…微笑みながら静かに目を閉じた。




