7.妬む声〜アーノルド視点〜
私はハリソン侯爵家の跡継ぎとして順風満帆に生きてきた。学園在学中は生徒会会長を務め、多くの友人達にも恵まれていた。
その中でも親友と言えるのはリーブス伯爵家のライアンだった。
彼と私は性格は真逆だったが不思議と馬が合った。
親友であり好敵手でもあった彼と私はお互いに高め合える存在で、この関係は生涯続くと思っていた。
でもそんな関係が歪んできたのはいつからだろうか。
私が幼い時からの婚約者と婚姻を結び、続くように彼も政略結婚をした。
お互いに『政略結婚に乾杯だな…』と酒を酌み交わし苦笑いをしていた頃は二人とも『家の為の犠牲者』であったはずなのに、気づけば俺だけが取り残されていた。
ライアンは妻になったアリーナと奇跡的に相思相愛になり幸せな生活を送り、彼に瓜二つの長男にも恵まれ誰もが羨む夫婦になっている。
ライアンが無二の親友なのは変わらない、だが…好敵手ではなくなっていた。
隣に並んでいたはずの彼は今は俺の横ではなく前にいる。
なんとか追い付こう、また隣に並ぼうと頑張ったがどうしてもその背に手は届かない。
どうしてなんだっ。
爵位だって私のほうが上だ。
文官としてだって出世しているのは先なのに…。
それなのに…どうしてお前だけが幸せになっているんだ…。
私だって結婚生活に問題を抱えているわけではない。傍から見たら順調と言えるし私自身もそう思っている。
だがライアンとアリーナ夫妻の幸せに満ちた姿を見せつけられると自分が手にしている幸せがちっぽけなものに感じてしまう。
これでは駄目だ…、こんな人生で満足しても意味はないだろうと私の中で焦りが生まれる。
彼が悪いわけではない、ただ自分が勝手に卑屈になっているだけだ。
それは生まれて初めて味わう挫折だった。
つまらないプライドが邪魔をして誰かに悩みを打ち明けることも出来ず、この感情から目を逸らす日々。
だがライアンのことを大切な親友と思う気持ちには変わりがないので、歪んだ思いを上手く隠しながらライアン夫婦とは良い付き合いを続けていた。
彼らの不幸なんて望んではいなかったから、それで良かったんだ。
それなのにカトリーナ・ガザンの帰国によって私の中で抑えていた気持ちが刺激された。
幸せそうな声で妻への愛を語るライアンを見つめるカトリーナを見て思ったことは『俺だけじゃなかったんだな…』ということだった。
彼女も私と同じように彼らの幸せに歪んだ思いを抱いているのはすぐ分かった。
は、はは…、ここにもいたな。
彼らの幸せを見て、自分が幸せじゃないことに気づいてしまった憐れな奴が。
カトリーナが何を考えているかなんてすぐに分かった。なぜなら自分もそんな黒い感情を心の奥底に持っていたから。
でも彼女と私は違った。
私は理性でそれを抑えていたが、彼女は抑えることよりも解放することを選んだ。
ライアンは学生時代から優しい奴で困っている人がいたら放っておけない性格だった。
それを知っているカトリーナは儚げな雰囲気を漂わせ『言い寄ってくる人がいて…』と嘆き、巧みに彼から妻と過ごす時間を奪っていく。
夜会のたびにそれを繰り返し、彼の妻が一人でいる姿を見てカトリーナはほくそ笑んでいた。
でもそんな彼女に気づいていたのは私だけ。
他の友人達は学園の女神だった彼女を信じ切っている。それも仕方がないことだ、学園在学中は誰から見ても本当に素敵な女性だったのだから。
『人は変わる、悪い方にも良い方にも…』
だが善人はそれに気づかない。
ある夜会でいつものようにカトリーナを囲んで談笑していると彼女は唐突に昔のある出来事を持ち出してきて『みなはその時にどう思っていたの?』と訊ねてきた。
みなは深く考えもせずにその時感じたことを口にする。私も適当に答えて、ライアンも同じようなことを口にしていた。
なのにカトリーナはライアンの言葉にだけ反応をしてくる。
「そんな風に思っていたなんて酷い、傷ついたわ…」
慌ててライアンは謝るが彼女はなぜか許さない。それほど酷いことを言われたわけでもないのに。
「そうね、この夜会の間だけ呼び名を変えたら許してあげるわ。うーん、呼びたくない恥ずかしい呼び名がいいわね。
子供の頃の愛称なんてどうかしら。
私は『リーナ』って呼ばれていたの。あなたはライアンだから『ライ』かしら?
ふふふ、今更子供の時の呼び名なんて恥ずかしいわよね?この罰だけで許してあげるわ、簡単なことでしょう」
変なことを言い出した彼女の真意が分からなかった。
隣には困った表情を浮かべているライアンが救いを求めるように私を見ている。
どうして突然こんなことを言い出したんだ?
いったいカトリーナは何がしたい…。
考えているとこちらに向かって歩いてくるライアンの妻の姿が目に入ってきた。
ああそうか…カトリーナは彼の妻を間接的に傷つけようとしているのだ。
もしアリーナが彼らが互いに愛称で呼ぶ声を耳にしたら、ショックを受けるに決まっている。
それを彼女は狙っているのだろう。
「…それはちょっと勘弁してくれないか」
そう言いながらライアンは親友である私に向かって助けを求めてきた。
自分がするべきことは彼女を諌めることだと頭では分かっていた。
それなのに…私はほんの軽い気持ちで、お手上げのポーズをして見せた。
それを援護射撃と思った彼女はあくまでもゲームだという乗りで明るく声を上げた。
「もう、ライったら!許さないから」
不自然なほど『ライ』に力を入れて言葉を紡ぐ様子は周りからは下手な演劇のように聞こえてそれがお遊びにしか聞こえない。
ライアンもそう感じたようだった。
だがその言葉を聴いたアリーナの顔色はどんどん青ざめていく。
彼女だけにはそれが仲睦まじい証のように思えていた、カトリーナの思い通りに。
位置的にアリーナの姿が見えているのは私とカトリーナだけだった。
ライアンの妻が誤解して傷ついてるのを見ながらカトリーナはふざけた調子で話し続け、ライアンから『リーナ』という望んでいた言葉を手に入れた。
この言葉を聴いたアリーナの顔には絶望の表情が浮かんでいるのが見えた。
私はすぐに自分の行いを後悔する。
こんなつもりではなかった、ただ軽い気持ちでやったことだ。
彼らの幸せを壊す気なんてない。
ただちょっとだけ痴話喧嘩でもして、困った表情をするライアンが見たかっただけ。
いつもの悪ふざけで終わらせるつもりだったのに。
なんとかしたくて、いつものように調子よく笑い話にしようとする。
「はっはっは、二人は昔に戻ったみたいだな。
本当に息が合っているっていうか、まるで長年連れ添った夫婦みたいだな。では熟年夫婦に乾杯といこうじゃないか。ほら、カンパーイ!」
「「「乾杯!!!」」」
私のくだらない冗談に調子を合わせてみな笑ってくれたので、仲間内のおふざけで話が終わったとホッとする。
アリーナの顔色が戻ったことを確認したくてその姿を探すが見つからない。
必死になって周りを見渡すとこちらを背にして歩く後ろ姿が見えたが、彼女の表情までは分からない。
『大丈夫、きっと冗談だと伝わったはずだ』と無理矢理思い込もうとするが、不安は拭えない。
本当ならばライアンにすぐ近くにアリーナがいたこと、誤解しているかもしれないことを言うべきだった。
だが軽蔑されたくなくて彼にこのことを告げる勇気は持てなかった。
カトリーナの企みを知っていたのに何もしなかった私は彼女と同罪だった。いや…親友なんだから罪はもっと重いだろう。




