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血のように、真っ赤で濃厚な海の中を私はたゆたう。ここはどこであろうか?私は死んだのだろうか?
あの時、私の心臓は確かにアンドラスによって貫かれていた。恐らく、私は死んだのだろう。ここは死後の世界か、それとも今現在失われつつある私の意識が無意識に見せている夢のようなものなのか。
妙に身体は軽い。裸の身体は、流れに逆らうことなく、静かに流れていく。
ああ、と私は呟いた。終わったんだ、と。
復讐も、何もなせないまま、私は死んだのだ。ただそれだけが空虚に心の中に響いた。
結局、私は何物にもなることはできなかった。存在の証明も、復讐も、何も成し遂げられぬまま、死んでいくのだ。
悔しくて、情けなくて、涙が出た。
『そうやって、また諦めるの?』
不意に声がした。私の周囲にあったかい海は消え、無の空間に私の身体は浮き上がる。そして、私の眼前に光の輪郭の影が現れる。背丈は私と同じくらいである。輪郭でしか想像できないが、私によく似た姿かたちに思える。
「仕方がないじゃない。もう、私は死んでしまったのだから」
アンドラスのように、私は人間を辞めてはいない。そうである以上、私の死はもはや決定的であり、覆すことのできない現実なのだ。
諦める以外の道は、残されてはいない。
『本当にそうかな?君はそうやって、逃げたいんだろう?』
「私は・・・・・・・・・・・!」
反論しようとした私に、嘲笑を向ける光。クツクツと、不快な声が聞こえる。
『悔しいだろう、不快だろう?なぜそう感じるのか、と言えば、それが君の本心だからさ』
影は嗤う。その声、そして口調はまさに私自身であった。そうか、こいつは。
『その通り。君の中の無意識だよ、ボクは』
影はそう言うと、形をとる。そして、目の前には私とうり二つ、いや、瞳の色だけは金色に輝いていた。
「何の用?もしかして、説得しに来たのかしら?だとしたら、無駄」
私は言った。
「私にできることはない。たとえ、死ななかったとしても、あいつに勝つのは不可能よ」
『ふぅん』
「私」はそう言うと、私を見て笑う。
『サクヤやローザ、それに妹との約束を破ることになっても?』
「・・・・・・・・・・・」
約束を破りたくはないが、それもどうしようもないではないか。そう言おうとして、私は口を閉ざす。そんなこと、目の前の「私」が知らないはずがないのだ。
私の想いを組んだように、影は笑う。
『どうせ私がいなくとも。そう思っているんだろう?』
「・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙。
『いつも与えられてきた。復讐の理由も、愛も、生きる動機も。だから君は、自分が無力で何の価値もない、なんて考えている。けれど、それは間違いだよ』
影は言い、安らかな顔で私を見る。まるで、ローザのような微笑を浮かべており、その顔には慈愛が籠っているように思えた。
『あなたにも、与えることはできる。愛されるよりも、愛すること。それが重要なのよ』
「どういうこと?」
私が問うと、彼女は「今はまだ、わからなくてもいい」とだけ言い、笑う。
『ねえ、聞こえる?』
耳を澄まして、「私」は言う。私も目を閉じ、耳を研ぎ澄ませる。すると、微かだが、声が聞こえてきた。私を呼ぶ声、それはサクヤの声だった。それとともに、ローザの声も聞こえた、気がした。
「私を、呼んでいる・・・・・・・・・・?」
『そうよ、あなたを呼んでいる。あなたを望み、待っている。あなたは決して、無意味でも無価値でもないのよ。確かに生きて、望まれている』
「けれど」
私は困り果てて、自分と同じ形の影を見る。
「私にはもう、どうしようもないんだ!」
「私」はやれやれと肩を振り、私に一歩近づいた。
『だから私がアドバイスしてあげているんじゃない』
そう言うと、仕方のない子、と彼女は私の頭を撫でた。
その手の感触を、どこかで覚えている気がした。そう、遥か昔、まだ記憶もない、昔に・・・・・・・・。
『まったく、世話のかかる子。けれど、立派になったわね、ヴェンティ』
その言葉で、私ははっとした。そして、彼女を見る。
その時には、彼女の姿は私ではなく、私と妹によく似た、けれど別人の姿へと変わっていた。
「母さん・・・・・・・・・・」
呆然と私が呟くと、何も言わずに彼女はほほ笑んだ。
『あなたはまだ、こっちに来てはいけない。やり残したこと、やりたいこと、いっぱいあるでしょう?』
当然だ、と言う言葉の代わりに、嗚咽が漏れた。思いが溢れてくる。
生きたい。生きたい。
サクヤとサクラを見に行くのだ、彼女の故郷に。
ローザの故郷にもいってみたい。まだまだ、いろいろなことを学ばなければいけない。
アイリーン、ジェームズ。彼らとも、もっともっと、関わり合いたい。
知らない世界を、見てみたい。
私の見てきた世界は常に黒くて、暗黒だった。そんな私を闇から救い出してくれた彼らとともに、私は光の中を歩きたい。
そして、そのためにも私はアンドラスを乗り越えなければならない。私や多くの人々を傷つけてきたアンドラスを、倒すのだ。
私は、VENGEANCEなのだ。
「私は、生きたい!死にたくなんて、ない。諦めたくはない」
そう言い切った私を見て、母は私をまた撫でた。子供じゃないのに、というと、あなたは何時までも子供、と彼女は言う。
『どれだけ離れようとも、私はあなたの母よ。ともに居られた時間はあまりにも少なかった。けれど、あなたを愛しているわ。だから、あなたは生きなさい。ヴェンティ』
髪を撫でる。
『どんなに過酷な環境の中でも、咲き誇りなさい。醜くとも、確かに大地に根を下ろし。誰に理解されずとも、自分だけは裏切らない生き方をしなさい』
母の手が光る。母の輪郭が薄れていく。
「待って、母さん!」
まだ、話すことはある。やっと、会えた。なのに、こんな形で別れるなんて。
『またしばらく会えないけれど、それは悲しいことではないわ。ヴェンティ。あの人と、・・・・・・をお願いね』
母は笑い、私に手を振った。
そして、私の視界を光が包む。光の中、どこに行けばいいかわからない私を、声が呼んだ。
『ヴェンティッ!!!』
私はその方向に、静かに腕を伸ばし、叫んだ。
「サクヤァァァァァァァァッ!!!!」
目を覚ました時、私の胸の傷は消えていた。
私の身体を抱きしめていたサクヤと、遠くに立つアンドラスを見ているローザ、それに彼女の近くに座り込んでいた妹の姿が目に映る。
「ほう」
ローザと対峙していたアンドラスが片目を上げて私を見る。
「血を掲げたはずなのに、なかなか蘇らぬと思えば、まさかまだ生きていたとはな。大した執念だ、それともなにか人間の言うところの奇跡でも起こったのかな?」
まあ、どうでもいいことだ、とアンドラスは笑う。
それを無視しては立ちあがると、心配するサクヤの手を握りしめる。「大丈夫」と言い、静かにその手を離した。そして、ローザの差し出してきた刀を受け取る。ローザの視線を受け、私は静かに受け取ると、アンドラスを見た。
「どうやら、また死にたいようだな。娘よ」
「私は死なない」
刀を抜く。鞘から抜いた刀は、不思議な輝きを放っていた。けれど、不思議とそれは怖くはない。暖かな波動のようなものを感じる。見えている世界は、暗いはずなのに、光に満ちていた。
いや、違う。世界が変わったのではない。変わったのは、私だ。
すう、と息を吸い、私はアンドラスに行った。
「決着をつけましょう、ヒュドラ」
「望むところだ、VENGEANCE」
アンドラスは刀を構え、不敵に笑みを浮かべる。
「はあぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
叫びを上げながら、私は奔る。アンドラスは、まるで地獄の獣のような唸り声で私に突進してきた。人間とは思えない動きで跳びかかり、神速の刃を振り下ろす。それは先ほどまでとは陽にならない速さと力であった。けれど、それがどうした。
私はもう、諦めない。私を戻してくれた母のために、私のために祈ってくれた人のために。
なにより、自分自身のために。
「ああああああああああああああああ!!!」
がむしゃらに剣を振るう。魔性の剣を払うように、刀は剣戟を打ち払う。
「なんと・・・・・・・・・・・ッ!」
驚くアンドラスは、それでもあきらめずに剣劇を振るう。けれど、私には届かない。
「何故だ、なぜ当たらぬ!?」
私は何も言わず、アンドラスの背後に回り込み、刀を振る。アンドラスは反応したが、少し遅かった。背中を切り裂いた刃。鮮血が飛び散った。
「うぐぁ!!?」
アンドラスは悲鳴を上げ、私に切りかかる。けれど、当たらない。
流れは私のものになっていた。私の放つ剣劇を、今度はアンドラスが防御する。
「私が、この世界の神となるはずの、私がァ!!」
ヒュドラの意識と同化したアンドラスが、顔を歪めて叫ぶ。銀の髪がぶわりと舞い、真紅の瞳は妖しく輝く。けれど、そこに恐ろしさはない。
「恐怖や妄執、欲望。そんなものに頼らなければ戦えないお前に、私は負けない」
「弱き人間が、御託を!」
「そうやって見下すことしかできない。だから、お前は理解できない。私を突き動かす力を!」
「おのれ,おのれ,オノレェ!!」
アンドラスの刀は、ピシリと音を立てた。アンドラスが目を思い切り見開く。
そして、私の振るった一撃がアンドラスの刀を叩き折った。
アンドラスは呆然とそれを見ていた。
「馬鹿な」
そして、私を見る。
「終わりよ、アンドラス」
刀が、アンドラスの首を斬りおとす。
斬り飛ばされた首が、絶叫しながら言った。
「まだ、だ・・・・・・・・・・・まだ、まだ憑代は・・・・・・・・・・」
そう言い、アンドラスの紅い瞳が妹を見る。妹に憑依するつもりなのだろう。だが、同じミスを私は冒すつもりはなかった。
「アンドラス、いや、ヒュドラ!その魂ごと、暗黒に消えろッ!」
「やめろ、ヤメロォぉォォォォォォォォォ!!!!!」
アンドラスの首の中に詰まる、邪悪な魂。それが見えた気がした。私は安堵ラスの首の中より急ぎ出てきたそれを、狙い澄まし、刀で切り払う。
刀より放たれた斬撃が、闇の力を振り払い、滅する。
『ヴァカナ、ワタシ、がシヌ、のか・・・・・・・・・・このような、娘二・・・・・・・・・』
ヒュドラはそう言い、私を見た、気がした。
『赦さぬ。ユルサヌゾ、VENGEANCE・・・・・・イツカ、復讐してやる。冥府よりカエリ、いつか、カナら、ズ・・・・・・・・・・・・・』
ヴぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!
獣の方向が響き、ヒュドラ、そしてアンドラスは肉体ごと消滅した。
空を覆っていた暗黒は消え去り、再び陽が天に戻る。
終わった。ついに、終わったのだ。
「いいえ、まだ、終わってはいないわ」
「マツリ!?」
アイリーンとともに現れた謎の女性に向かい、ローザが叫ぶ。マツリと呼ばれた女性は傷だらけのアイリーンをローザに任せると、私に近づいてくる。
「まだ、終わってはいないわ。さっきも言ったように、奴はまた蘇ろうとするでしょう。だから、今度こそ、完全な封印を施さなくては。そして、本来いるべき世界に、ヒュドラを連れていかなければ」
そう言い、マツリと言う女性は私を見る。
彼女は首筋にぶら下げていた一つの宝玉を私に見せる。
「ヒュドラの魂の断片。それを先ほど封じた。これに、あなたの刀で斬ったヒュドラの魂の断片を吸わせる」
ここにかざして、と言うので、刀を翳すと、刀から何かが抜け出たような感触がした。
「これでいい。あとは、その刀で私を切りなさい」
「マツリ?」
ローザの言葉に、マツリは静かに首を振る。
「なに、死ぬわけではないわ。ただ、この世界から消えるだけよ。私の役目は、終わったから」
ローザとマツリの間の関係はよくはわからないが、それでも彼女が敵ではないことはわかる。そんな彼女を斬れ、と言われて素直に斬れるわけがない。
「優しいのね、ヴェンティ。けれど、これは必要なことよ。さあ、あなたの手で、忌まわしき宿命を終わらせなさい」
マツリはそう言い、両手を広げる。その瞳に、迷いはない。ならば、私がするべきことは、一つだ。
私は両手で刀を握り、それで彼女を斬った。
斬られた彼女は、ふ、と笑った。
「これでいい、これで・・・・・・・・・・・・・・・・」
そして、マツリの姿は光に包まれ、消えた。
後に残ったのは、小さな光の残滓だけであった。
「全部、終わったのね」
サクヤの言葉に、私はいいや、と首を振る。
「これからが始まりだよ」
そう言い、私は空を仰ぐ。太陽は眩しい。手を伸ばせば、届きそうで、けれど届かない。でも、それでいいんだ。
この空の下で、私は生きていく。
たとえ、過酷な環境であろうとも、強く生きてみせる。
砂漠に咲き誇る、薔薇のように。




