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王都の屋根の上を私は奔りぬけていく。暗闇の中、仄かな月明かりを頼りに私は背後から襲いくるプレッシャーをちらりと見た。闇の中を、軽々と刀を構えたまま、その無機質な白い仮面を私に向ける幽鬼を。
灰色の外套を着て、私を負うその姿は、死神の様にさえ見える。
追ってくる死神のその名前。うわさだけは聞いたことがある、人を斬り、試す戦場の亡霊。
私は懐から苦無を取り出すと、それを投擲する。だがそれは、亡霊の持つ刀によって防がれた。渇いた音とともに、苦無は遠く地上に向けて落ちて行く。
やはり、無理があったか、と思い、身を翻し、再び逃亡を開始する。私を追ってくる亡霊の目的は不明だ。ヒュドラーの関係ではないのだろうが、厄介であった。
身体能力的には互角だが、接近戦に持ち込まれれば、こちらの不利は明らかであった。その刀は神業であろう。私ごときでは、肉片にされるのがオチである。
このままでは逃げ切ることもできない。
私を追ってくる亡霊は戦士である。だが、私は違う。
私は戦士ではない。だから、正々堂々、などと言う言葉は使わないし、利用できるものは何でも使うのだ。
私は頭の中でどうするか、を考えながらその日のことを思い出していた。
サクヤと出かけて数日後。サクヤの機嫌は目に見えてよかった。それだけ喜んでもらえていれば、私としてもうれしい。
頬杖を突きながら、私は彼女のよく映える黒髪とそこに輝くピンク色の花びらを見て笑う。心は穏やかであった。フフ、と自分の物とは思えない笑みが零れ出た。
「ヴェンティ、何笑っているの?」
「ん、何でもないよ」
「なんでもないわけないと思うけどっ!」
そう言い、サクヤが近づいてくる。その顔が近づいてきた。そんなサクヤに不意を打つように私はその唇を重ね合わせた。咄嗟の出来事に反応できなかった昨夜の頬に朱がさし、ボン、と熟れたトマトのようになった。
「ヴェンティ!」
「ははっ」
笑いながら、私たちはじゃれ合う。
私は気を紛らわせた。そうやって、確かな思いと感触を、心に、身体に刻み込むように。
その手の微熱を、視線を、匂いを、記憶の中に焼き付けるように。
昼間も変装をして、街中を歩く。今日はサクヤもいないので、彼女のことを心配する必要もない。自分一人の身であるから、危険な場所にも憂いなくいくことができる、と言うことだ。
王都の中の治安は、お世辞にもいいとは言えない。目に見える部分では、なるほど確かに治安がいいだろう。だが、貧民街や裏ではそうではない。胸糞の悪くなることばかり、である。
私たちの『復讐』をもってしても、このような悪全てを取り除くことはできない。だからと言って、ヒュドラーの理想が正しい、と言うわけではないのだ。
結局、何が正しくて正しくないか、などとはその人自身が決めること。だから私は、アンドラスを、ヒュドラーを止める。私自身の正義のために、復讐のために、私は剣を振るう。
きっと、それでいいのだ。理由など。無機質で、ただ流されてきたあの頃の私とは違う。もう、二度と失いたくはないから。
ふと、視線を感じ私は後ろを振り返る。だけど、そこには誰もいなかった。
微かな違和感を感じながらも、私は歩き出す。来るならば来い。私は屈しはしない、と。
夕闇が迫り、完全な闇が下りてくる。月が空を支配し、太陽が消えたころ、私たちの時間が始まる。闇の蠢く時間が、裁きの時間が。
久方ぶりに紅いフードとマフラーに身を包んだ私は、闇の王都に駆けだした。
ヒュドラーのせいで、私に関しては広く知れ渡っているようであるため、注意は滞りなくする必要があった。厄介なことだが、それはもとより想定済みだ。ヒュドラーが一筋縄でいかないことを。
ふと、私は言い争う声を聴いた。私はそちらを見た。そこでは、男と女性がもめあっていた。そして、男が女性を突き飛ばし、その服に手を駆けようとしていた。
私は屋根より飛び降りた。びり、と足にしびれが襲うが、身体はすぐにそれに慣れ、奔りだす。割って入るように私は男の前に立ちふさがると、その顎を蹴り飛ばした。ぐば、と叫び、男が転がる。
「無事?」
私の言葉に、女性は放心していたが、ハッと気づき、頷く。逃げるよう促すと、女性は走って逃げていく。
私を睨む男は、「余計なことを」と言っている。
「てめえのせいで、娼婦に逃げられた。どうしてくれる?」
「どうも」
私はそう言い、フードの奥から眼光を飛ばす。男はそれでも怯まない。
見たところ、ただのチンピラらしい。殺すまでもない、脅せばてきとうにどこかに行くだろう。そう思い、腰から刀を抜くと、男の顔色が変わる。
「ヴェ、ヴェンジェンス・・・・・・・・・・!!」
「あら、私のことを知っているの?なら、話は早いわ。失せなさい、今なら命はとらない」
私はローザの声をまねてそう言った。私の声では舐められるだろうから、業と声を変えた。私の巣の声では、どうしても子供らしさが残っているからだ。男はそれまでは背の低さなどでなめきっていたが、一気に態度を変え、悲鳴を上げて逃げ出した。
ふう、と息をついた私だったが、その直後、私は背後に殺気を受けていた。は、と振り返った私は咄嗟に刀を抜き放つ。そして、刃が交わり、一瞬火花が散った。
「ッ、う・・・・・・・・・・!!」
押し負けて弾き飛ばされた私は、右足で踏みとどまり体勢を立て直す。そこに、二刀目が振り下ろされる。
疾い・・・・・・・・・・・・!
左手に刀を持ち替え、右手で懐から取り出したナイフを投擲するが、陰は咄嗟に刃を引っ込めて、ナイフを回避した。その時になり、ようやく敵の姿が見えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・!まさか、こんなところでお目にかかるとは・・・・・・・・・」
なんていう不運、と私は舌を打った。
そして、その名を呟いた。
「グリムリーパー・・・・・・・・・・・・!!」
「・・・・・・・・・・・・・・」
幽霊のように印象さえ受ける、その無機質な白い仮面。靡く長い茶髪。男か、女か、それすらもわからない。けれど、その身に宿る殺気は、恐ろしいものであった。アンドラスやローザと似たものを感じた。
ペロ、と乾いた唇を舐めて濡らす。緊張にかすかに筋肉は引きつり、冷や汗が背中を濡らしていた。
逃げることは、赦さないであろう。まったく、厄介なことだ。
私は背を向けて走り出す。どちらにせよ、このままではやられる。どうにかして、私に有利な状況を作り出さなくては。
見た様子、グリムリーパーには刀以外に武器はない。手数においてはこちらが上。どうにか相手を消耗させ、隙を作れれば、あるいは。
私は近くの箱を伝い、近くの民家の屋根に飛び移る。それを追うように、グリムリーパーも同様に屋根に乗り移った。身体能力はどうやら、こちらと同程度らしい。自分を棚に上げるのもおかしいが、化け物か、と思う。
私は奔りだした。漆黒の中を。
そして、今に至る。
屋根から降りて、路地を走る私と追跡者。
(しつこい)
プレッシャーはまだまだその殺意をゆるめはしないで私の後ろを走ってくる。
そして、私は前を見て舌打ちした。
(しまった、この先は・・・・・・・・・・!!)
行き止まり、と言うことに気づいたが、その頃には道はなかった。後ろの仮面の幽鬼は私の逃げ場を完全にふさいでいた。
なるほど、どうやら罠にかけようとしてかかっていたのは私のほうであったようだ。
背後は壁。足場になりそうな場所はない。この状況を脱するには、方法は一つ。
正面突破。けれど、それは非常に難しい。
無事に生き残れたとしても、腕の一本や日本、覚悟しなければならない。
けれど。
死ぬわけにはいかない。
すー、と息を吸い、私は眼光を正面のグリムリーパーに向ける。そして、刀と真紅のナイフを構えた。
相手も静かに、刀をひき、構える。無駄のない構え。
しばしの沈黙の後、どちらともなく動き出した。
「はあぁああああああああああああっ!!」
「・・・・・・・・・・・・・・ッ!!」
剣がぶつかり合う。足をひねり、剣を受け止めたまま、ナイフでグリムリーパーを狙う。その刃がグリムリーパーの白い仮面を傷つけ、わずかに肌が見える。ぱちゃ、と鮮血が頬につく。
その瞬間、私はグリムリーパーに蹴り飛ばされ、カウンターの一撃を受けた。素早い剣戟が、私のすねを浅く切り裂き、続いて左肩を切り開く。
血を押さえ、私は受け身を取る。そして走り出す。
倒すことは目的ではない。逃げ道の確保が目的である。だから、私の狙いは成功した。
追撃を開始するグリムリーパー。だが、と私は笑い、空を見た。
月に映る、飛ぶ何か。それを見て、私は言った。
「今だ、ホークアイ!!」
その声とともに、ヒュン、と私の横を何かが通る。そしてそれはグリムリーパーに向かう。
グリムリーパーは足を止め、その矢を手でつかむ。白い仮面は無駄だ、とばかりにこちらを見る。だが、それでいい。
矢筒がさく裂し、周囲に光が漏れた。思わず、グリムリーパーは顔を覆う。その瞬間、私は全速でその場を離脱した。
離脱した私は、ジェームズと合流した。
「危なかったな」
「ええ、ありがとう」
逃げながら、ジェームズへの応援を頼んだのだ。こういう時のために、ツァールとの連係の練習もしていたのだ。
半ば賭けであったが、どうやら間に合ったようだ。
「まさか、グリムリーパーが王都にいるとはなあ」
「まったく、そのとおりね。ローザたちにも報告しとかないと」
「それより又随分やられたな。っていっても、アレ相手にそれですんだだけまし、か。さ、お姫様が心配しちゃお前も堪らんだろ、帰るまでにある程度処置、済ますぞ」
コクン、とうなずいた。サクヤのことだ、また大騒ぎする。あまり心配はかけたくない、というこちらの気持ちを読み取り、ジェームズは近くの荒くれの家から拝借したという救急箱を広げ、ガーゼを傷口に押し当て、軽い処置を施し始めた。
――――
「振られたね」
「・・・・・・・・・・・」
呆然と立つグリムリーパーに、いつの間にか背後に立っていた白髪の老人が言う。彼は先日、ヴェンティとサクヤがあった、あの異国人タツミであった。
だが、あの時のような穏やかな笑みではなく、どこか影を感じさせる笑みを浮かべてグリムリーパーを見ていた。
「さすがは『VENGEANCE』といったところだね。まったく、人間と言うものは興味深いよ。そう思うだろう?」
「・・・・・・・・・・・」
仮面は沈黙を返し、刀を鞘にしまう。そして、その手を白い仮面にかけると、その面を外した。
中から現れたのは、少女であった。年のころは十七、八。サクヤたちカグラツチ人によく似た面差しの少女は、茶髪の髪を鬱陶しそうにあげた。
「で、なんで私にあの娘を襲わせたのよ?理由、聞いていないんだけど?」
キ、と睨む少女。少女をなだめるようにタツミは手を振る。
「落ち着きなよ、マツリ。そうだねえ、理由は特にはないよ」
「ちょっと!」
「けれど、これで分かったよ。ちゃんとね」
老人はそう言うと、紅い少女の去った方角を見て、その黒い瞳を輝かせた。
「ちゃんと、ね・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・相変わらずね、タツミ」
少女は呆れたように老人を見る。肝心なことは相変わらず何も言わない。もう長年の付き合いだが、それにももう慣れてしまった。悪いね、と彼は笑うと、懐から黒い眼鏡を取り出し、それを顔にかけた。
「さて、僕たちは傍観させてもらうよ、『VENGEANCE』。君たちが果たして、未来を切り開けるか、あるいは・・・・・・・・・・・・・」
そう言うと、タツミと少女の姿がかすみ、闇の中に消えていった。
朧月は何も見ていない。




