第八話 認知と触覚の整合率 88.2%
ふと今まで二人っきりの所謂【甘い場面】は書いていなかったと思いまして。
真帆櫓さんサイドの方のお話でも出たマッサージネタを一つ。
何分にも下世話なお話ですので、ご注意を。
「ええと、これをこのくらい?」
「そう」
「で、こうして、少し揉みこんで」
「そうね」
俺は、艶を帯びてテカテカになった自分の両手をやや微妙な気分で見下ろした。
たっぷりとした油分はヌルヌルして、余り気持ちのいいものではなかった。でも、何でもやるって言った手前、そんなことは口が裂けても言えない。
周囲には、ラベンダーっぽい(正直、よくは分からないけど、多分、そんな感じ)ハーブ系の清涼感のある香りが漂い始めていた。
「じゃぁ、始めるよ?」
「はい。どうぞ。お願いします」
そして、目の前に差し出された脚に俺は恐る恐る手を滑らせた。
切っ掛けは、そう、洗い物を終えた真帆櫓さんが、キッチンから戻りしな、エプロンを外して、ちょっとだるそうに片手を肩の辺りに当てたことだった。
その仕草を目に留めて、俺はすかさず口にしていた。
「肩、凝ってんの?」
一連の動作はどうも無意識だったらしく、真帆櫓さんは俺の視線の先を目で追って、そこにある自分の手を見てから、苦笑のような笑みを漏らした。
「ちょっとね。この所、仕事が立て込んでたから」
「揉もうか?」
それは余り考えずに口を付いて出てきた言葉だった。
以前もそんな会話をしたことを俺は思い出していた。
確か、朝の通学途中の電車内でのことだ。あの時、真帆櫓さんは朝から少し疲れた顔をしていて、気になった俺が声を掛ければ、肩凝りが酷いことを控え目に打ち明けたのだった。細い肩が担いでいた鞄は、やけに重くて、それも原因の一つなんじゃないかと思ったのも記憶に新しい。
俺自身は肩凝りとは無縁だし、肩揉みなんて幼いころに親父に対してやった位で、もう長いことやったことなかったけど、出来ないことはないと思う。要するに加減さえ間違えなければいい訳だ。
ゆっくりと首を回した真帆櫓さんは、少しだけ辛そうに見えた。コキコキといい音がして、視線が合えば苦笑い。
「それじゃぁ、少しお願いしようかしら」
リビングにやってきて、俺が座っていたソファーの前に背中を向ける形で腰を下ろした。
俺は、その日、真帆櫓さんの家に居た。期末テストが終わってから直ぐの週末で、思いの外、高得点を弾き出した国語のテストの結果に、内心、ホクホクしながらやってきたという訳だ。
真帆櫓さんが提示した基準点を超えたら、一つ願いを聞いてくれる、そんな俺にとっては実に都合のよい約束を取り付けていて、それを励みに苦手な古典を頑張ったのだ。
おねだりを何にするかは既に決めていた。直前まで散々悩んだけれど、それはそれで楽しい一時でもあった。
今日は土曜日で、学校から帰宅して、汗をかいたから軽くシャワーを浴びて、それから真帆櫓さんの住むマンションを訪れた。今日、俺が遊びに行くことは、勿論、事前に連絡してあって、お昼御飯を用意してくれていた真帆櫓さんと一緒に昼食を取り終えた所だった。
因みに今日のお昼は、パスタ。トマトソースベースのあっさりしたやつで、トマトの酸味が汗ばむぐらいの暑い陽気には、ちょうどよかった。
部屋の中は、至る所、窓が全開になっていて、吹き抜ける風が気持ち良かった。リビングは、ちょうど東側と南側が全面窓になっていて、全開にすると、吃驚するくらい涼しい風が通った。
以前、電車内で学校の空調の話になった時に、偶々、其々の家の話題になって、『朝は直射日光が当たるから暑いけれど、少し経てば風が入るお陰で涼しいの。だからエアコンは余り使わないかな。クーラーの風って苦手だし』そう言って笑った真帆櫓さんの言葉を俺は思い出していた。
確かに、これならばクーラーなんていらないだろう。日陰であれば、自然の風はまだ時期的に心地よく感じられた。
「そう言えばさ」
俺は目の前にある華奢な肩に手を置きながら、この前、偶々テレビで見た肩凝りの解消法の一つとして紹介されていたヤツを思い出していた。
それは対女性特有の対処法ってやつだった。
試してみてもいいだろうか。
「肩凝りが楽になるってヤツ、この間、テレビでやっててさ」
「うん」
そう言って、俺はソファーから降りると真帆櫓さんにもう少し前へ出てもらって、その背後に回った。
鼓動が未知の期待感に早鐘を打ち始める。だけど、それを面に出さないように表面上は何食わぬ表情を取り繕った。
「すげぇ効果があるって言ってたんだけど」
「ホント?」
真帆櫓さんは、あからさまに興味を引かれたようだった。食い付いたって感じだ。
このまま、行けば、やらせてくれるだろうか。
その思いに俺は内心、ほくそ笑んで言葉を継いだ。
「………試してみる?」
あともう一押しか。
実際にどんなことをやるかは言っていない。でも、真帆櫓さんは、なんの疑いも持っていないようだった。
「いいの?」
未知のものへの興味とその効果への期待感に、俺とは全く違った意味で、目を輝かせた。
「もちろん」
自信満々に言い切った俺に、
「じゃぁ、お願いするわね」
小さく面映ゆそうに微笑んだ。
よし、成功。
確約の言質に俺はにんまりと笑みを刷いた。正面を向いたままの真帆櫓さんには、見えていないだろう。逆に見えていたら、怪しいと思われるかもしれない。
俺はいそいそと背後から真帆櫓さんの腕の間に手を通すと、女性特有の柔らかい膨らみを両手でそっと掴んだ。
自分で言うのもなんだけど俺は手が大きい方だと思う。その場所は、手の内にすっぽりと収まった。
「ここをこういう風にすると」
そして、外側から内側に向かって斜め上に持ち上げるように小刻みに揺らし始めた。
俺はあくまでも神妙な態度を崩さない。科学者の実験みたいに。敢えて何でもないという表情を取り繕う。
紹介のVTRでやっていたように見よう見真似で手を動かす。確か、こんな感じだった。速度もこのくらい。
「………信…くん?」
真帆櫓さんが虚を突かれた顔をしてるだろうってことはその声から想像が付いたけど、後ろに回ってるからってことで、それに気が付かない振りをした。
「ここの筋肉が解れて、肩凝りに効くんだって。もちろん、バストアップ効果もあるってさ」
女の人にとっては、一石二鳥ってやつだろう。
そう言えば、嘘か本当かは知らないけど、胸が【ふわふわ】になるなんて言葉を使ってた。【ふわふわ】ってどんなだよって思うけど。
俺は手を動かしながら、適度な弾力を表わす言葉を他に探してみる。【ぷるん】、いや、違うな。【もっちり】、これもちょっと違う。中々、この感触にしっくりくる言葉が見つからない。
ああ、あれか。【たぷん】なんかはどうだ。水風船みたいって言ってたし。
そして、そのまま第二弾とされた段階に進んだ。
今度は下から上に向かって持ち上げる形で揺らす。一秒間に三回程度の速度が望ましいんだとか。
その間、真帆櫓さんは、なすがままだった。多分、あれだ。余りにも突然のことで吃驚して反射が鈍っているのだろう。若しくは、俺だから許してもらえているのか。そうだと、嬉しいけど。
「あ、ちょっと、信くん?」
漸く、真帆櫓さんの思考回路が通常回路に繋がった。
「………って、あれ?」
ここまでしておいて今更ながらだけど、俺は自分の手の下にある違和感に気が付いた。掌に収まる感触が余りにも柔らか過ぎるのだ。
今日の真帆櫓さんは、ゆったりとした大きめのシャツ(チュニックっての?、ワンピースって程丈が長い訳じゃないから)を着ていて、身体のラインが程良く隠れていた。それにストレートのジーンズを穿いていた。だから、普通に気が付かなかった。
「真帆櫓さん、ブラしてないの?」
態と耳元で質問を囁いた。と同時に確認をするように手を動かしてみる。
「ん? うん。これなら目立たないからいいかと思って」
のんびりとした声が返って来た。
意外に大胆だ。いや、それくらい自分のテリトリーでリラックスしてるってことなのか。
一瞬、目を瞬かせたけど、直ぐ我に返った真帆櫓さんは、呆れたようにこちらを流し見た。
「もう、何、やってるの」
「何って。そりゃぁ、効果抜群のマッサージ?」
こちらを振り向いた真帆櫓さんに、俺は満面の笑みを浮かべていた。
これなら真帆櫓さんの肩凝りも解消するし、俺も楽しい。これってまさに一石二鳥じゃね? これでおしまいなんて勿体なさ過ぎるだろう。
俺は、食い下がるべく言葉を継いだ。
「てか、ホントに凄いってやってたし。ここは騙されたと思って」
「そんなこと言って、単に信くんが触りたいだけじゃないの?」
あ、やっぱりバレたか。
「………まぁ、そうだけど」
呆れたようにこちらを見た真帆櫓さんに、俺は誤魔化すようにへらりと緩く笑ってみた。
「肩がいい」
「ええ~、俺はもう少し、こっちがいいと思うけど?」
まだ強制的に手を外されないのを良いことに、不満を込めて揺らしてみた。
「こら」
漸く、俺の悪戯な手の動きを止めようと、一回りは小さい手が手首に掛かる。
「もう少し。ね。美容と健康の為にさ」
尤もらしいことを言いながら、少し甘えるように耳元で囁いてみる。
真帆櫓さんは、いつものように真っ直ぐな髪を後ろで束ねていて、その顕わになっている首筋に鼻先を擦り寄せてみた。
「くすぐったい」
案の定、肩を震わせた相手にもう一押し。
「なぁ、後でちゃんと肩もやるから」
細い肩に顎を乗せて甘えてみる。自分で言うのもなんだけど犬みたいだな、俺。ちょっと頭の悪そうな甘えたのご主人様至上主義の大型犬か。
「………もう」
真帆櫓さんは、ちらりと横目で俺を流し見た。
細い指がついと伸びて、俺の鼻をくいと摘んだ。そして、ちょっと困惑気味に、それでもどこか可笑しそうに眉根を寄せて笑った。
「肩だけじゃなくて、足もやってもらうからね?」
その位お安い御用だ。
交換条件として出された追加要請に、
「ラジャー!」
左手を斜めに額に当てて、敬礼のように返してみる。
「もう、返事だけはいいんだから」
そう言って呆れた顔をしながらも、最後には悪戯っぽく微笑んだ。
結局、最終的に折れるのは、やはり真帆櫓さんの方なのだ。
真帆櫓さんは元々優しい。でも、そうやって許してもらえるってことは、俺が受け入れてもらえているってことなんだろう。だから、偶に、俺の方も試してみたくなるんだ。どこまでならオーケーなんだろうって。そうやって小さな我儘を小出しにして、時にはかなり伸縮、弛緩して見えるボーダーラインの境界を確かめてみるのだ。まぁ、余り、やり過ぎちゃ駄目だけどさ。
「覚悟なさい。扱き使ってあげるから」
それが、多分、真帆櫓さんなりの俺の我儘に対する応戦方法で。
そうやって、少し上から目線で告げられた強気な言葉を、なんだか可愛いなぁと思ってしまう辺り、自分でも重症だと思っている。
「はいはい。では、始めますよ?」
そう言って、俺はやたらと真面目な顔をして、真帆櫓さんに正面を向いてもらうように促した。
そして、マッサージという崇高なる大義名分の下、束の間の感触を楽しんだのった。
勿論、その後、肩やら脚やら、言われるままに奉仕をしたのは言うまでもない。そこで使ったマッサージオイルの感触にはちょっと吃驚したけれど、やってみれば案外面白いかもと思ったのは内緒だ。といっても、その辺りのことも真帆櫓さんには筒抜けだったんだろうけど。
そうやって、その日、俺は意外に楽しい時間を過ごしたのだった。
性懲りもないものを失礼しました。マッサージで一つお話を作ろうとは思っていましたが、偶々テレビで面白いものをやっていたので、それに触発された形となりました。信思君、意外に策士かもしれません。




