第五話: 岩屋で一息吐く二人
精霊術により徹底的に水洗いされ、果てはスチーム洗浄まで施された一間の岩屋内。
僕は、美須磨が持っていた携帯栄養食を分けてもらい、精霊術により雪を解かし、湯を沸かし、ティーバッグの紅茶も淹れてもらって、随分久しぶりと感じられるティータイムを満喫していた。
ちなみに、当の美須磨自身は緑茶をお供に羊羹を食べている。優雅だな。
精霊術により平たく均された腰の下にチェック柄の付いたオレンジ色のレジャーシートを敷き、傍らの石壁には灯り台が作られ、固定したLED懐中電灯が真っ暗な岩屋内を照らしている。
現在の恰好は、二人とも分厚いコートや手袋を脱いだ、比較的ラフなものである。
ずっとフードとマスクに隠されていた美須磨の美貌や長く美しい黒髪はもちろん、優美な指先、年齢の割りにメリハリのあるボディラインなどがすべて露わとなった。
……つい、じろじろと見てしまわないよう、必死に自分を抑えつけなければならない。
そう言えば、いろいろと検証した結果、精霊術に関してはかなりのことが判明した。
最も驚かされたのは、やはり物理法則に縛られない――ように見える――効果の強力さだろう。
温度を維持したまま水が状態を変える。可燃物を要すことなく火が燃える。気圧や重力も一切お構いなしに空気や地面が動いていく。
『ただ、効果は精霊たちの裁量次第みたいなんだよな。通常の理を外れたことであればあるほど結果は予想が付かないものとなる。大抵は何も起きないんだが……』
しかも、精霊という存在は総じて気分屋であまり賢くはなさそうだ。
頻繁に頼みごとをしたり、同じことを何度も頼んだり、複雑なことを頼んだりしてもなかなか上手くはいかず、最悪、しばらくヘソを曲げて何も言うことを聞いてくれなくなってしまう。
たとえば、この岩屋内の大気圧や空気濃度の維持――空調を任せられるのは三時間ほどが限界、その間、他のことを頼んだりして機嫌を損ねてしまえば続けて請け負ってもらうのも難しくなる。実質的に、風の精霊はほぼ空調専門と割りきっておくしかないだろう。
対して、火の精霊にとって温度の維持は楽しい仕事らしく、最初に頼んでからかれこれ十時間、日は暮れ、外の気温が大幅に下がっているにも拘わらず、岩屋内の暖房は未だ切れる気配もない。
性格の違いもあるのだろうか、合間に他のことを頼んでも快く応じてくれる。
以上のことから分かる通り、効果時間も現象ごとにまちまちであるらしい。
この洞穴に入るとき築いた石段は、二時間ほどで気付いたときには影も形もなくなっていた。
ああ、ちなみに、時間については体内時計が目安である。何故かスマホの電源が入らないのだ。
『こんなことになるなら、愛用の腕時計を職場にも着けてきていればよかったよ』
「む、お湯がなくなっているな。少し沸かそうか。火の精霊に我は請う……」
「白埜先生は本当に火の扱いがお上手ですね」
「うん、不思議とね」
そう、どうやら僕ら二人には各種精霊との間に相性の好し悪しがあるようなのだ。
僕の場合、比較的、火と風が好相性であり、複雑な頼みであっても聞き入れてもらいやすく、発揮される効果も高くなりがちである。逆に、水と地に関しては苦労させられている。
美須磨はその逆、火と風にはなかなか頼みを聞いてもらえない一方で、水と地はツーカーかと言いたくなるレベルで自在に操ってみせたりする。
「そう言えば、結局、精霊は水、火、風、地の四種類しかいないのだろうか?」
「神さまはあらゆるものに対して命じられると仰っていましたけれど、今のところ、それ以外の精霊は呼びかけに応じてくださいませんね。もっと仲良くなる必要があるのかも知れません」
「仲良くか……確かに、言い得て妙かな」
まだ精霊たちとは付き合い始めたばかりだとは言え、最初と比べれば、早くも精霊術の効果は安定してきており、少しずつ効果も高まっているような気がする。
こちらの頼み方が要点を得てきたことも影響しているだろう。
更に回数をこなし、いろいろな頼みを聞いてもらうことで、やがて他の精霊たちも力を貸してくれるようになるのかも知れない。
「他にはどんな精霊がいるのだろうな。雪や雲が言うことを聞いてくれたら助かるんだが」
「くすっ、そうですね。山の精霊にお願いしたら麓まで下ろしていただけたりしないでしょうか」
「筋肉通の精霊と肩こりの精霊には大人しくしていてほしい」
「まあ、人の身体の中にまで精霊がいらっしゃるのですか。それでしたら疲労……病気……いえ、生命の精霊といったところでしょうか。お力を貸してくださったら頼もしそうですね」
こうして気楽に美須磨と話すのも久しぶりである。
昼間、疲労と安堵で眠ったことも相まって、夜が更けても一向に眠気が襲いくる気配はない。
「なんだか、すっかり目が冴えてしまったな。どうしたものか」
「お手すきでしたら、少しお付き合いいただけませんか? 実は、気になることがあるのです」
「ああ、いいとも。どんなことだい?」
「地の精霊に……その、ずっと呼ばれているような気がしていて」
そう言いながら美須磨は立ち上がり、やや離れた奥の壁へ向かって歩いていく。
ぺたぺたと岩壁に触れながら「此処ですか? 何かあるのでしょうか」と呟いている。
一緒になって同じ辺りを調べてみるも、これといって変わった様子はないように思われた。
「ふむ、直接、精霊に訊ねることはできないのか?」
「そうですね、やってみます。地の精霊に我は請う――」
美須磨が請願を発した瞬間、続く言葉を待たず、目の前の岩壁にぽっかり穴が空く。
これだ。僕の場合はどんな精霊に対してもこうはいかないのだが、どうやら、水と地の精霊は彼女のことを助けたくて仕方ないらしく、何かにつけ忖度が見受けられる。まぁ、その気持ちはよく分かる。あえて不満を述べることはすまい。
「こちらは別の洞窟のようです。たまたま近くを通っていたのでしょうね」
「くり抜かれた岩盤は一メートルくらいか。壁はしっかりしている。先の方も崩れそうにないな」
「長い一本道に見えます。どうしましょう。入ってみますか?」
「地の精霊はまだ呼んでいるのかい?」
「はい、より強く」
「……一応、調べてみよう。荷物をまとめてくれ。僕は中の空気を入れ換えておく」
「分かりました」
風の精霊に頼んでみれば、そこまで深くはないのか、大気と気温はどうにかなりそうである。
危険なガスが溜まっていた場合に備え、洞窟内の空気は優先的に外へと排出させてゆく。
「先生、準備できました」
「ああ、それじゃ後ろから灯りで照らしていてくれるか。あと、精霊の声は聞き逃さないように」
「はい」
「よし、出発!」
と、僕が足を踏み出そうとすると。
「あ、その前に。暫しお待ちを」
どうしてか、美須磨が勢いを削いできた。
「ん? どうした。何か忘れ物か?」
「いえ、この先、危険がないとも限りません。よろしければ、こちらをお持ちください」
そう言いながら彼女が差し出してきたのは、どこに隠されていたのか立派な作りのスコップと銀色に縁取りされた黒い革製の鞘に収められているサバイバルナイフだった。
いや、本当にどこにあったんだ? ナイフは学園で手に入るようなものと思えない銃刀法違反レベルの見るからに危ない凶器だし、スコップに至っては彼女のショルダーバッグに入るような長さですらない。
「ナイフは、あの商店街で先生が倒された、反社会的な方が所持していた物を拾っておきました」
「ああ、あのヤンキー……Aかな? 太股打撃喰らわした……こんなの持ってたのか」
「えいさん? 桃缶? 通りの中央で転がっていた方です。すぐ近くに落ちていたものですから」
「この立派なスコップは? さっきまで持っていなかったよね?」
「それは組み立て式になっているんです。折りたためばバッグに入る大きさになります」
カシャン、カシャンと手際よくスコップを折りたたんでいく美須磨。
まるで斧か槍のような形状をした長さ八十センチ近いスコップが、瞬く間に大きめの文庫本か弁当箱かといったサイズに収納されてしまう。
「先端のスプーン部分だけをたたむと杖にもなります。足場が悪い場所でどうぞ」
何それ凄い。近頃のアウトドアグッズは進んでるんだな。
「なるほど、これは心強いな。有り難く借りておくよ」
「はい、何があるとしても、ひとまずスコップさえあれば大抵のことはどうにかできます」
「よし、それじゃ改めて、洞窟探検に出発だ!」
そうして、僕らは洞窟の奥へと足を踏み入れていく。





