第十二話: 二人、壁を越えて
焦る気持ちを心の隅へと追いやりつつ、眼前の高い塀を見上げ、暫し観察していく。
「向こうはどうなっているんだい? 何らかの施設のようだが」
「他から見た感じでは廃校のようでした」
「んー、この際、目を瞑るか。……肩に乗せて、塀の上に登らせれば良いんだな?」
「はい、それではどうぞ乗ってください」
「……ん?」
塀に手を突いた少女が、僕の方に背を向けたまま、しゃがみ込む。
「いや、逆だろう? 僕が君を担ぎ上げる方がずっと楽だ」
「私が上に登っても先生を引っ張り上げられません。さぁ、早く」
「んぐっ」
この場から少女だけを逃がすという手もあるが、もはや僕とて奴らに捕まれば只では済むまい。それを分かっていて彼女が納得するかどうか。何より、今は言い合いをしている暇はない。
彼女の身体をごついブーツの靴底で傷付けてしまわないよう、僕は厚手のダウンジャケットを脱ぎ、二重に織りたたんでその背に羽織らせると、そこへ片足をかけ、残った足で地面を蹴る。
「――んっ」
「す、すまない。大丈夫か? 重いだろう? ……やはり役割を逆にしてなんとか――」
「平気です。立ち上がりますね」
肩の上に立ち上がった状態の僕を乗せた少女は、ふらつきながらもゆっくり膝を伸ばしていく。
『おお、意外と力持ちなんだな……じゃない!』
少女を靴で踏みつけ立つ男――端から見たら相当酷い絵面に違いない。
尋常ではない後ろめたさと罪悪感が心に襲いかかってくる。
幸い、高さは問題なく、塀の上面に両手を掛けて懸垂の要領でどうにか登りきることができた。
そして、少女から投げ渡される荷物を順番に受け取っていった後、最後につま先を正面の塀に引っかけるようにして驚くべき高さまで垂直跳躍をしてみせた彼女の手を掴んで引っ張り上げ、共に壁の反対側へと降り立つことに成功するのだった。
「つかぬ事を尋ねるが、ひょっとすると君はニンジャか何かなのかな?」
「何を馬鹿なことを仰っているのですか。急ぎますよ」
「あ、あぁ、うん」
この場所は、どうやら閉鎖された保育園のようだ。
周囲を高い建物に囲まれ、あたかも小さな公園のように残されている拓けた区画。
ほとんど明かりもない雪景色ということもあり、終末的な印象に僅かばかり心が震える。
目の前にはさほど大きくはない園舎が建っている。
こちらは裏手となっており、建物の脇を通って表側へと抜けてゆけば、背の高い雑草に覆われ荒れ果てている庭、その先にある塗装の剥げたフェンスと正門……などが見えてきた。
隙間だらけのフェンスは、外からでも庭の様子が丸見えだ。
誰かに見咎められたりせぬよう、二人、警戒しながら正門の方へ近付いていく。
そっと正門越しに外の様子を窺ってみると、ギリギリ二車線の荒れた車道に面している。
疾うに僕の脳内マップはわちゃわちゃなので、現在地がどの辺りなのか判然としていない。
これと言って特徴的な建物などなく、加えて雪降る夜である。目に映るのは見知らぬ町並だ。
『ともあれ、さっきまでいたシャッター街から脱出できたことだけは確定かな』
周辺の通りもヤンキーの仲間たちが見張っているという話だったが、ここはどうか?
少なくとも、見える範囲には寒さを堪えて路肩に立っている奇特な人影は確認できない。
もう時間が時間だ。交通量は途絶え、停車しているあやしい車なども見当たらない。
そうして周囲を見渡していると、左手の方の空が他と比べて微かに明るいことに気付く。
耳を澄ませば、そちらの方角から小さくゴトンゴトンと電車が路線を走る音も聞こえてきた。
「あっちが駅みたいだな」
「一生懸命、駅まで走れば逃げきれるでしょうか?」
「ああ、駅まで――いや、駅前の大通りにさえ辿り着ければ問題ない。だけど途中で待ち伏せに遭うのが恐いな。人目のない場所で囲まれて、そのまま車に押し込まれたらお仕舞いだ」
「そこまでのことをするような人たちなんですか? お金や持ち物を盗られるだけではなく?」
「彼らの言動を考えるとやりかねないねえ」
「……此処は法治国家日本だと思っていたのですけれど」
「日本だよ。でも下界だとまだまだああいった輩も出てくるんだ」
イヴの夜、わざわざこんなお行儀の良い街に繰り出して、寂れた商店街で雪塗れになりながら顔さえ見てない女の子を追い回すとか、まるっきりアホらしい不良モドキにも思えるんだけどね。
「そう言えば、さっきは助けてくれてありがとう」
「はい、どういたしまして」
「それで、まだ落ち着いて話せる状況じゃないが、先にこれだけは聞かせてもらえないかな?」
「なんでしょう? どうぞ」
目元にきょとんとした表情を浮かべ、あどけなく小首を傾げる少女。
「君は……美須磨で良いんだよな?」
「くすっ、今更ですね」
そう言うと、彼女は口元のマスクをずらし、整った顔を見せてくれる。
続く「ごきげんよう、白埜先生」との挨拶と微笑みに、未だ危険が去っていないことも忘れ、僕は深く大きく安堵の息を吐き出した。





