10.勘違いのクズ野郎
『さてはお前、欲求不満だな?』
自分の都合の良いように事実を歪曲させる目の前の男に、シャルロッテはこれまでにないほど吐き気が込み上げてきた。
(お前なんかと一緒にしないでよ……………っ)
手にしていた茶器を投げ付けたい衝動に駆られたが、左手で右手首を強く掴み、込み上げる激情を必死に堪えた。頭の血管が浮き出て今にもブチ切れそうだ。
そんな荒立つ彼女の心情などつゆ知らず、レナードはわざとらしく憐憫の表情を向けてくる。
「可哀想だが…お前の純潔にはもう買い手が付いているからな。今私が手を出すわけにはいかないのだよ。」
「…………っ!!?」
やれやれといった顔で、とんでもないことを言ってきたレナード。
(………あ゛ぁ?純潔…買い手…私のですって……?このクズ、一体どこで誰とどんな話をしてんのよっ…頭沸いてるわ!)
仮にも婚約者である彼が口にした言葉に、シャルロッテは僅かに眉を上げただけで顔には出さずに怒り狂った。到底人とは思えない悍ましい悪行に、魂レベルの拒絶反応で全身が痒くなっくる。
「だが」
徐にレナードが立ち上がり、ティーワゴンの前に立っていたシャルロッテの側に寄ってきた。いやらしく彼女の腰を抱き、身体を密着させて来る。
「紳士として女性に恥をかかせるのもな…お前がそんなに求めるなら少しくらい付き合ってやってもいいぞ。」
耳元でぞっとする声を出すレナード。
彼は興奮した様子でシャルロッテの耳に息を吹きかけてきた。
(ぎやあああああああああっ!耳がっ…耳が腐れ堕ちるわっ!!!このクズ爆ぜろっ!!!)
何を勘違いしたのか、堪え切れず怒りに震えるレイチェルを目にしたレナードは悦びの表情で笑みを深めた。
「そんなに欲しがる目を向けるな。はしたないぞ。そうだな…まず手始めに、その紅茶を口移しで私に飲ませる許可をやろう。なぁ、一滴もこぼすなよ?」
レナードはニタニタと顔をだらしなく緩ませ、親指の腹でシャルロッテの下唇をなぞってきた。「どうだ?欲しくなって来ただろう?」と言わんばかりに色欲の視線を向けてくる。
ーー ブチッ
その時、限界突破したシャルロッテの中で、堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。無表情のまま、光を失った瞳をレナードに向ける。
「私に口付けの経験はありませんので、レナード様のご期待に添えられるかどうか…」
心を捨て、か細い声を出したシャルロッテは、意識して潤ませた瞳で上目遣いをした。
「出来れば、私に教えて頂けないでしょうか?レナード様の手で貴方様の色に染めて欲しいのです。……駄目、でしょうか?」
この状況で、縋るような目をしたシャルロッテがこてんと顔を傾ける。その従属的な可愛らしさに、彼は簡単に陥落した。小馬鹿にしていた瞳に欲情の影がチラつく。
「……いいだろう。」
目を爛々と輝かせ、彼女が両手で差し出してきたティーカップを受け取ったレナード。
そのカップの中身は黄金色ではなく、限りなく黒に近いドブ色であったが、目先の欲に溺れる彼がその異変に気付くことはない。
息を荒くしながら急くようにティーカップに口を付け、勢いよくその中身を口に含む。
「………ゔぇぇっ…ゲホッゲホッゲホッ」
その瞬間、中身を吐き出して思い切り咳き込み出した。
身体をくの字に曲げて涙を流して鼻水を垂らし、死にそうな顔でえずいている。苦痛で前屈みになっている彼の顔は、真っ青を通り越して白に近い。
「………なんてものを飲ませるんだっ!!」
ーー ガシャンッ!!
怒り心頭のレナードが鬼の形相でティーカップを床に投げ付け、大声で怒鳴りつけてきた。
「た、大変申し訳ございません……茶葉を買う余裕が無く、シュートもいなかったため、これは私が庭で採取した葉を煎って煮出したのです。まさか人体に害のある葉が存在するとは思ってもみませんでした。」
「お前ええええっ!!雑草を食させるなど、この私を馬鹿にしてるのか!」
「……っ」
怒りに身を任せたレナードが、まとめていたシャルロッテの髪を手加減せずに掴み上げた。頭皮が引っ張られ、頭に激痛が走る。
「くそっ…なんだこの口に残るえぐみは!舌がピリピリするっ……この女よくもっ……お前は二度と私に茶を淹れるな!おい、分かったな!」
「ですから、その使用人を雇う費用が手元になく……いっ…た」
「この舐め腐った貧乏人がっ!その金を無駄にしたらただじゃおかないからな!興がそがれたから帰る。次は仕置きしてやるから覚悟しておけ!」
シャルロッテの髪を掴んでいた手を乱暴に離すと、レナードは彼女の顔を目掛けて金貨数枚を投げ付け、荒々しく部屋から出て行った。
「……ざまぁみろ。」
反動で床に手をついたシャルロッテは、去り行く背中にありたっけの憎悪を込めて吐き捨てた。
「お嬢様!物凄い音が聞こえましたが大丈夫でしたか!!?」
レナードが邸を出てすぐ、心配したミミがすっ飛んできた。その顔は今にも泣きそうであった。
「あのクズ……殺りましょう。そろそろ頃合いだと思うのです。私は今より手配をして参りますので、お嬢様はゆっくり湯浴みをしながら吉報をお持ちくださいませ。」
床に散らばったティーカップの破片を目にしたミミが笑顔を浮かべ、今にも人を殺しそうな目をしている。
「今はまだ駄目よ。あのクズが死んだら取るものも取れないし、今まで我慢した分とことん奪い取ってやらないと気が済まないわよ。」
「………畏まりました。しかし、これ以上お嬢様が危険なことをなさるのなら、ロウムナード公爵令息様に告げ口するのでそのおつもりで。」
「あのねぇ…関係のない彼に告げ口してもどうするのよ。文句を言われて終わりだわ。」
「始まりの鐘が鳴り響くのですよ!」
シャルロッテは呆れた顔をしているが、二人のラブロマンスを信じて疑わないミミは、自信満々の顔をしている。
「とりあえず疲れたから湯浴みをお願い。それと夜は少し出掛けるわ。」
「止めはしませんが…お願いですから危険なことはなさらないで下さいね。彼の人に言い付けますからね。すぐに代筆で熱烈なラブレター出しちゃいますからね。」
「だからなんでそうなるのよ……」
隙あらばアレクスティードを巻き込もうとするミミに、シャルロッテは意味不明だとボヤいていたのだった。




