二百九十六回
数え間違っているかもしれませんが。
ドマーノ山の麓の宿を出てから四日、リーたちは橙三番の宿場町にいた。
辺りをキョロキョロ見回しながら、小柄な身体を更に縮こまらせて歩くリー。
三番街道の中継所を出てから、リーの挙動は不審だった。
常に周りを気にし、近付く人影に身を隠し、少しの物音に怯え。
あまりのビクつき振りに最初は面白がっていたエリアも、さすがに飽きたのかからかうのをやめた。
「ねぇ、今日はここに泊まるんじゃないの?」
「泊まらない」
町中に入っても歩みを止めようとしないリーにエリアが尋ねるが、即答で返される。
「すぐ出るから!」
「え〜っ! 疲れた〜!!」
「じゃあお前らだけで泊まってこい! 俺は町を出たとこで―――」
リーの言葉が途切れる。
場所はちょうど町の中央、二本の街道が交差する広場。
暫く固まっていたリーが、ぎこちない動きで踵を返した。
顔面蒼白のリーを怪訝そうに見、エリアとティナはその背後へと視線を移す。
にっこりと微笑んだ女がそこにいた。
二十代半ばくらいだろうか、茶色の髪を纏め上げ、少し金がかった茶色の瞳を細める。
「挨拶もなしにどこに行くつもり?」
だらだらと冷や汗をかきながら、リーがゆっくり足を踏み出した。その頭を鷲掴みにし、女はそのままの笑顔でもう一度問う。
「どこに、行くのかしら?」
ぎりりと締めつけられる頭に、リーはおとなしく抵抗をやめ、溜息をついた。
「……帰りに寄るつもりだったんだよ」
「見え透いた言い訳をしない!」
手を放し、後頭部をべしっと叩いて。
「帰るわよ。あなた達も今日はうちに泊まって」
きょとんと見上げるふたりに、女は笑う。
「私はシエラ。リーシュの姉よ」
「姉貴っ!!!」
慌てふためくリーがシエラを振り返り声をあげる。
そのうしろで、エリアとティナが珍しく驚いた様子でリーを見ていた。
「…リーシュって、リーのこと?」
「そうよ。この子ったら自分の名前を嫌がって、外ではリーって名乗るんだってきかないの」
「こんな女みたいな名前つける方が間違ってんだよっ」
「何言ってるの! あんたはほんとに!」
ぎゃあぎゃあと言い合うふたりの前、呆然とエリアが立ち尽くす。
「…略して呼んでたなんて……」
ぽつりと呟いてから、くるりとティナを見る。
「ティナ! あたし何回リーって言ってた?」
「千二百五十六回」
本当か嘘か、即答するティナ。
「わかった! 同じだけシュって言えば帳消しよね!」
指折り数えながらシュシュシュシュ言い始めるエリアに、お互い言い合う気持ちを削がれたリーとシエラが彼女を見る。
「……それは略して呼んでることにならないのか?」
半眼でツッコむリーに、エリアが悲鳴をあげた。
「話しかけないで! 何回言ったかわかんなくなっちゃったじゃない!」
「六十二回」
「ありがとティナ!」
再びシュシュシュシュ言い出すエリアに、リーは呆れ顔のまま首元から所属証を引っ張り出す。
「おい赤いの! 言っとくけどな、俺は請負人としてはリーって名前で登録されてるんだ」
エリアの眼前に所属証を突きつける。
「だからリーでいいんだよ!」
じっと所属証を見て。それからリーを見て。
暫く神妙な顔で考えて。
「…わかった。じゃあ面倒くさいけど村以外ではリーって呼ぶね」
「面倒ならリーで統一しろよ」
「馬鹿なこと言わないでよ」
そう答えたエリアは、リーの首から下がるもう一本の鎖に気付いた。
「そっちは?」
「これか?」
引っ張り出した鎖の先には、所属証と同じ大きさの銅色と銀色の板。どちらも精密な透かし彫りが施されている。
銅の方には龍、銀の方には剣が彫られていた。
「就職祝いと昇級祝い」
リーは笑ってそう答え、大事そうにしまいこんだ。
リーの故郷のバドック村は、橙三番の宿場町から一時間の距離にあった。
名前を聞いたシエラにもリーにしたのと同じ返事を返したエリアとティナ。驚いて見返していた割にはすぐに呑み込み本当に略さず呼び始める姉の姿に、できた大人だとリーは内心思う。できればその大人な対応を弟にもと願いたい。
「にしても。なんで俺が来てるって…」
シエラの乗ってきた馬を引きながらぼやくと、何言ってるのと睨まれる。やはり弟には大人な対応はしてもらえないらしい。
「護り龍がリーシュが近くに来てるって教えてくれたのよ」
「護り龍が?」
この距離で気取られるものなのかと怪訝に思うリー。もしかするとアディーリアと絆を結んだことや、ウェルトナックの鱗を持っていることが関係するのかとも考える。
(…その割にはフェイには問答無用で攻撃されたけどな…)
エルフもそうだが、龍についてもわからないことが多すぎる。しかしその一方で、自分は普通よりも話してもらえていることもわかっていた。
もちろん、周知されないことを知るということは、秘密を持つということでもある。話されれば話されるほど、話せないことが増えていく。
やはりこちらからは聞かず、教えられることだけを知る方がいいかもしれない。
気にはなるけど、と思いながら。リーは暫く振りの故郷へと足を踏み入れた。
シエラは結婚して別に所帯を持っている。エリアとティナには自分の家に泊まるように言い、また夕食の時に、とシエラが告げた。
ひとりになったリーはまず実家に向かう。とはいっても、小さな村の中、目と鼻の先だ。
二階建ての小さな家の隣には、建て増した平屋がくっついていた。入口には金属の看板が下げてある。
「ただいまぁ」
家ではなく平屋の方に入ると、奥にいた茶髪の男が顔を上げた。
「おかえり、リーシュ」
リーの兄、ジークが笑顔で迎えた。
入って右には小さなテーブルと椅子が三つ、正面は奥を遮るようにカウンターになっている。突き当たりのもう一部屋の手前には作業台と工具と金属板。
この平屋は金細工師としてのジークの工房であった。
「久し振りだな」
手袋を外しながら柔和な笑みで近寄るジークに、リーも緩んだ笑顔で頷く。
「連れがいるから帰りに寄ろうと思ってたんだけど、姉貴に捕まった」
「シエラも心配してるんだよ」
わかってやれ、と言わんばかりの眼差しにただ笑みを返す。
物心つく頃には既に両親を亡くしていたリーにとって、ジークとシエラは兄姉でもあり父母でもある。素直に顔に出すのは、特にシエラに対しては照れくさいが、もちろん大切な存在だと思っている。
「皆変わりない?」
「ああ。お前は?」
「なんとかやってるよ」
笑顔のままそれだけ告げた。龍から依頼を受け、黄金龍の気持ちが伝わるようになったなど、もちろん話せるわけがない。
請負人の仕事に守秘義務があることを知るジークは、ただリーが話したことだけを受け入れた。
「そうか。それならよかった」
安堵の表情を見せる兄に、心配をかけていることと、ここにいられなかったことを申し訳なく思う。
ここが嫌いなわけではない。ただ、ここに自分がいられる理由がなかっただけだった。
「リーシュ」
そんな気持ちを知ってか知らずか、ジークはわしゃわしゃとリーの頭を撫でる。
「帰ってきた時くらいゆっくりしていけ」
何もかも受け入れるようなその眼差しに、リーもされるがままに撫でられながら。
「ああ」
ただ、再会を喜んだ。
エリアとティナの紹介はシエラに任せ、リーは村の裏山に分け入る。
気温が下がったように感じるのは、山の中だからというわけではない。張り詰めた独特な空気はやはり似たもので、司るものが違えど変わらないのだと改めて感じる。
村からはさほど距離はない。
小さい頃はことあるごとにここへ来た。他愛もないことを話し、時には匿ってもらい、喧嘩した姉との間に入ってもらったこともあった。
木々が途切れ、少しだけ盛られた土の山が見える。
変わらないなとほっとする。
「護り龍!」
声をかけたリーの前、盛り上がった土の山が龍の姿へと変わった。
エリアの一人称はよく間違えます。
リーは馬には乗れるけど乗りません。
理由は乗りにくいからです。




