96~大火・逃げたアデリーヌ
茶毛の雑種。黒い馬革の首輪。近寄ったアデリーヌの左手にそこをギュウと掴まれた。
後ろへ下がろうとした番犬。グッと引き寄せられた。
アデリーヌは引き寄せたまま地面に膝をつくと、犬の耳にキスをした。
「あっ!俺の可愛いワンちゃんがぁ!悪魔に犯されるぅ!」
乾物屋の親父が叫んだ。
「アデリーヌ!そのくらいでいいっ!もうその辺で!」
ヨーセスはこっちに来いと手招きをした。
ヨーセスの方を振り向いたアデリーヌであったが、片方の眉毛を上げてニコと笑っただけだった。
その瞬間、首輪を解かれた犬は、似つかわしくない声をキャンッと上げると棚を後ろ足で蹴り上げた。
棚の上に置かれていたイワシの干物と皿が吹っ飛んだ。
飛んだそれらがアデリーヌの右手に当たると、持っていたロウソクが後を追って手から放れた。
「あッ!」
立ちすくんで見ていたヨーセスと乾物屋の親父。
同時に声を上げた。
アデリーヌは2人を左右に見ると、またへへッと笑った。
「私に近寄るな! お前らの身体にも魔の気を溶かし込んでやるぅ!」
「もういいってばぁ! そのくらいでいいよ!アデリーヌッ!」
ヨーセスは数歩足を前に出した。
「うるさい!近寄るな!」
「バカッ! 燃えるって!燃えるっ!」
「ハハハッ!燃えろぉ!燃えろぅ!燃えろ~!」
倒れたロウソクの火は、乾き切ったイワシの干物と、まだ半乾きの油の乗ったニシンに燃え移った。
火の手が見る間に上がると、それは古い棚の乾燥木の上を走り出した。
その棚の前で、アデリーヌはこっちに来るなとばかりに両手を広げた。
後ろはすでにアデリーヌの背丈ほどの炎となった。
「おい!女ぁ!消せっ!火を消すんだぁ!すぐに燃え広がっちまうぅ!」
「水だ!水!親父!水~ぅ!」
「バカ!乾物屋に水なんか置いてはおら~ん! ヨーセス!お前のせいだぁ!なんとかしろ~!」
「どけどけ!アデリーヌ!そこをどけ~!」
「魔女の化け物!そこをどかんかぁ~!」
燃えやすい物ばかりの品物や木造の棚。黒煙は瞬く間に店の中を覆うとアデリーヌの体を包み込んだ。
「前が見えんぞ!」
「あれ?!どこに消えた?!アデリーヌ!そこにいるのか?!」
黒煙は炎を連れだって、地下の部屋まで滑り込むように這い出した。
「ハハハハハッ~!見たかぁ!蛮人ども~ぉ!」
煙の中、店から出て行ったかのように、アデリーヌの笑い声が遠ざかっていった。
「やッべ~! 逃げられちまう!」
ヨーセスは燃え上がる乾物屋の火の手を後ろに、表通りに飛び出した。
「あれ?どっちに行った?いない?いない!いない~!」
大火となった炎は店の天井を突き抜け、真昼の青を真っ赤に染めだした。
店の中では地下に降りた煙が、回転扉にも火をつけていた。
茶毛の犬は通りの反対側。その敷石に腹を着き、煙の行方を目で追いながら、すくみこんでいた。
「アデリーヌ、、、狂気の沙汰だ、、、これは芝居じゃない。なにかが乗り移ったようだ、、、地下牢、、」
ヨーセスは途方に暮れた。
※今日は前話と二話更新致しました。
※第92話~「ヘルゲ家の食卓」に今日2つ目の挿絵を掲載致しました。




