176~ドロテア物語3・「血の管」
「どうしたのじゃ? ニーナ」
「ほらこれッ」
ニーナはきつく握り締めていた掌を、虫でも逃げ出さぬかのように、ゆっくりとそっと開いた。
朝の日が差しているというのに、その小さくふくよかな掌には、
運命線伝いを流れるように紫筋の光が走った。
「ねッ」
「むむむぅ。これは!宝石!? サファイアの指輪ではあるまいか?!」
「サヒーヤ?」
「発音が難しいかな? サ・ファ・イ・ア。大きくて見事な石だ。それにこの周りに付いているのはダイアモンドか?」
「何を言っているのかわからない」
「どれ、貸してごらん」
お爺様は、右の人差し指と親指でリングを抓むとその手首をクルクルと回した。
リングの裏側だった。
「ん?文字?【I-M】?」
すぐに気がづいた。
イブレート・マウリッツ。
(これは、イブレート侯爵の物。伝説の皇帝、、、)
「なにに使うの?」
「あ、お、あ、ああこれは指輪と言って、指にはめるのだ。お前の指ではブカブカだが」
そう言うとお爺様は、自分の一番太い指、人差し指にはめてみた。
「かなり太い指じゃな。わしでもスコスコじゃ」
お爺様は思った。
(女ではない。大柄な男の物。間違いなくイブレート)だと。
「お爺様。返してもらっていい?」
「ん、、、」
「私が拾ったんだから」
「あ~、いやいやダメだダメだ」
「なぜ?」
「ほらここに、持ち主の名前が彫ってあるだろ? 持ち主がわかっておるならその者に返さねばならん」
「やだ」
「ニーナ。わしの言うことを聞くんじゃ」
「じゃあ、父さんと母さんに聞いてみる。どこに行った?」
「今な、薪の塩抜きに丘に向かった。夕方まで帰って来ぬよ。ま、どっちにしろわしと同じことを言うに決まっておる。お前の父さんはわしの育てた子じゃ。聞いても同じ。同じじゃ」
「じゃあ、その人が居なかったら?私にくれる?」
「おお、そうじゃな。そうする。だからちょっと貸しなさい。届けに行って来る」
「お爺様、誰だかわかるの?」
「心当たりがある」
「、、、わかった」
今度はお爺様の皺だらけの掌。
蜘蛛が紫の糸を作り出すように、その上で艶やかに光った。
「ニーナ。一人でも留守を預かってくれるかい? そしたらわしが今から小魚を焼くでの。それを食べて待っておいで」
お爺様は明け方網に掛かった2尾の小魚を樽から取り出すと、火の着いた暖炉の中。その赤い薪の上にポイと乗せた。
握り締めたサファイアの指輪。
掌を開くと、暖炉の炎がその石を照らした。
照らされた石。今度は赤く光を放った。
それはまるで、掌の皺に血管が浮き出す様。
小さな赤い花が流れ出すようであった。
(イブレート様がまだ生きておられるようだ。わしもその下で暮らしてみたかった)
ラーシュ家の末裔の民。この小さなドロテア一家。
イブレートの良き時代の伝説は160年の時を過ぎても、その赤い血の管のように浸透していた。
ここを襲ったはずの民までもが。
お爺様はまた一本、暖炉に薪を放り込んだ。




