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森の奥

 モーニング営業を始めた喫茶ファウンテンで、今朝も店員さんに挨拶を試みる。


「お、お……」


 昨日は挨拶ハイとでも言うべき状態に至り、通りすがりのエルフの冒険者にまで挨拶してしまった。


 思い返せばあのエルフ女、世界の運命をひとりで背負っているかのごとき重苦しい雰囲気を発していた。


 しかもいつ刺客に襲われるかわからないとでも言いたそうな、ピリピリと張り詰めた緊張感をまとっていた。


 そんな空気の中にズケズケと踏み込んでしまったせいか、危うく斬り殺されるところだった。


 異世界だけあって帯刀したヤバいやつがそこらを歩いているのだ。


 気をつけなければ。


 だが、なんにせよ……とにかく昨日、ユウキは挨拶の気持ちよさを知った。


 挨拶、それは気持ちいいものだった。


 しかし今は朝なのでユウキのテンションは低い。


 声もなかなか出てこない。


 やっとのことで発声に成功した。


「お……おはようございます」


 するとテラス席を拭いていた店員が振り返り、挨拶と笑顔が返ってきた。


「おはようございまーす」


 この一瞬のやり取りでユウキは自分のテンションがぐぐっと上がっていくのを感じた。


 今日一日も前向きに生きていけそうな気がした。


 と、ここでユウキは気づいた。自分が次に開発すべきスキルを。


 オレが次に開発すべきスキル……それは『笑顔』だ。


 さきほどの店員さんの挨拶、それに笑顔の相乗効果によってオレのテンションは上向きになったのだ。


 つまり『笑顔』には『挨拶』の効果を強化する作用があると考えられる。


 それだけではない。


 オレがすでに獲得している『感謝』『スキンシップ』『世間話』『ねぎらい』など、各種のコミュニケーション系スキルの効果をも倍増させるはずだ。


 そのような強力なスキルはぜひ早めに獲得しておきたい。


 いずれオレが見知らぬ人間に声をかけるときも、『笑顔』があれば打ち解けやすくなるだろう。


 だが……。


「…………」


 ユウキは魔コーヒーを一口飲むと、スマホのインカメラで自分を映した。


 スマホに映しだされたのは能面のように硬直した自分の素顔だった。


 各種のスキルを複合的に用いることで、この噴水広場においても顔を上げて活動できるようになってはいる。


 だが状態異常『広場恐怖』が根本的に解除されたわけではないのだ。


 しかも広場恐怖だけではない、その他もろもろ、各種の状態異常が、いまだユウキの潜在意識に巣食い、外界への不安と恐怖を生み出しているのだ。


 だからテラス席のような公共の場はどうしても落ち着かない。自室以外は落ち着かない。


 その内面の不安と緊張が表情に現れている。


 いつの日か、自己の内面に巣食っている状態異常を根本レベルで解除し、それによって真の自由を得られる日が来るのだろうか?


 わからない。


 だが少なくとも今このときは『広場恐怖』や、その他の状態異常と共に生きていかねばならない。


 外界への不安と恐怖を抱えたまま、それでもなんとかして『笑顔』を作りたい。


 そうだ、作るのだ。笑顔を。


 意志の力で。


 ユウキは無理やり口角を上げて笑顔らしき表情を作ってみた。


 インカメラで見て絶望した。


 内面が硬直しているのに、外面だけが笑顔になっている。


 その内面と外面の齟齬が、得も言われぬ不協和を生み出している。


「これはやばいな……」


 だが何事も練習によって上達するはずである。


「ご、ごちそうさまでした」


 会計時、ユウキは頑張って笑顔を浮かべてみた。


 その後のバイトでも折に触れて笑顔を作った。


 そして夕暮れ時……ユウキは土産物を買いに噴水広場の商店に向かった。


 いい土産物が買えた。


 そのことにほほえみを浮かべながらスラムの路地を歩いていると、ナビ音声が脳裏に響いた。


「スキル『笑顔』を獲得しました」


 ユウキは小さく拳を握りしめた。


 *


 週末には予定通り、迷いの森の精霊のところへ遊びに出かけた。


 ラゾナ宅に訪問するのは来週末である。今週末の大きな予定といえばこれだけなので、精神的なゆとりがある。


『戦いが終わって命があったら、迷いの森まで丸腰でオレひとりで遊びに行くよ』というかつての約束を守るため、徒歩で沼へと向かう。


 塔の敷地を出るまでゾンゲイルが見送ってくれた。


 心配そうなゾンゲイルの視線を背後に感じながら、迷いの森へと足を踏み入れる。


「…………」


 精霊の意志によって、迷いの森が持つ、人を惑わせる魔力はユウキに作用しない。


 とはいえ、普通に道に迷って遭難して死、というルートも十分に考えられる。


 巨大カエルに何度も送迎されて自然に覚えてしまった道を、ユウキは絶対に間違わないよう気をつけて歩いていった。


 しばらく進むと木立から緑色の髪をした少女が現れた。ほぼほぼ裸の上に、ぬめぬめした素材の雨合羽のようなものを羽織っている。


「ん? 迷いの森の精霊か?」


「違うケロ」


「なんだお前、巨大カエルか」


「そうケロ」


「人型に変身できたのか」


「ケロケロ。ユウキ様が迷ってないか見てくるよう主に命令されたケロ」


「そうか。今のところ大丈夫だぞ」


「ケロケロ」


 緑色の髪の少女は木立の中に姿を消した。


 だが依然として、どこかから視線を感じる。


 ユウキが迷わず沼に辿り着くか見守ってくれているらしい。


 そういうことならオレも気を抜いていいだろう。


 迷子にならないよう細心の注意を払いながら進んできたところを、もう少し観光気分、散歩気分に切り替えて歩いていく。


「はあ……」


 自然の空気が胸に染み込む。


 植物の発する芳香成分には人の心を安らげ肉体を賦活する作用がある。


 今週一週間、ナンパの練習に、バイトに、戦闘に大忙しだった。


 その疲れが森林浴によって溶けていくようである。


「やっぱ人間、街と塔の往復だけだとダメだな。たまには自然の中に行かないとな……」


 そんなことを考えながら歩いていると、やがて木立が開け、目の前にいつもの沼が現れた。


 その沼のほとりに……妙齢の女性がいた。


 ほとりに転がる折れた大木の幹に、妙齢の女性が腰掛けて、手元の古びた本を読んでいる。


 彼女は足首までありそうな長い黒髪を持ち、日本の巫女装束を思わせる赤い袴と白い上着を着ている。


 ただしその色は煤けて退色しており、袴の裾も、上着の袖もボロボロに擦り切れて短くなっている。


 そのため太ももや二の腕が露出しており、その白い肌に刺青によって彫り込まれた何か禍々しさを感じさせる文様が露わになっている。


「…………」


 実物を見るのはこれが初めてであるが、雰囲気的に彼女が迷いの森の精霊だろう。


「遊びに来たぞ」


「…………!」


 驚かせてしまったようだ。


 彼女は手元の本から顔を上げてこちらを見たが、口をパクパクさせるだけで何も言わない。


 手元の本のタイトルは『共通語入門』とある。


 もしかしてその本で人間の言葉を学んでいるのか。


 そういえば初めて塔で初めて交流してからずっと、彼女とはテレパシーによって通信してきた気がする。


 ということは実際の物理的な音波による交流はこれが初めてということになるのか。


「こんにちは」


 ユウキはスキル『挨拶』と『笑顔』を同時発動した。


 彼女は手元の本を確認してから発声した。


「こ、こ、こ、こんにちは」


「うまいじゃないか。共通語」


「そ、そうじゃろうか? こ、この体を使うのは久しぶりじゃ。人間の言葉も、忘れてしまっているのじゃ」


 迷いの森の精霊は恥ずかしそうに本に視線を落とした。


「いや、ぜんぜんうまいだろ。それより……」


 ユウキはスキル『プレゼント』を発動し、持ってきた土産の箱を精霊に渡した。


「な、なんじゃこれは?」


「開けてみてくれ」


「た、食べ物か?」


「そうだ。今、ソーラルで流行ってる銘菓だ」


 土産を何にしようかとあれこれ悩んだ末、結局ユウキは無難に食べ物を選んだのであった。


 迷いの森の精霊が何を好むのか、そもそも飲食が可能な体なのかはわからない。


 だがとりあえず、ソーラルで一番、流行ってるものを買ってみた。


 銘菓の箱を膝に載せて精霊は言った。


「わらわと一緒に食べるか」


「ああ」


「ケロールよ、お茶の支度をしておくれ」


「ケロケロ」


 緑の髪の少女……どうやらケロールという名前らしい……が木立の隙間から現れた。


 ケロールは木のウロの中から錆びたヤカンと欠けたマグカップを取りだし、お茶の支度を始めた。


 水はどこかの川から汲んでくるらしい。


 どうやらお茶が飲めるまでにはかなりの時間がかかりそうである。


 ユウキはスキル『世間話』を駆使し、間をもたせようとした。


 天気の話題から、時勢についての話題へ。


 ユウキ的に知っていることをつらつらと喋っているとすぐに話題が尽きた。


「…………」


 沈黙の中でユウキはパニックに陥ったが、精霊はユウキの焦りに気づかぬようで、手にした『共通語入門』をパラパラとめくっていた。


 まるでそこに何か話すべきトピックを探すかのように。


 だが何も見出すことができなかったようで、彼女は口を閉じた。


 ユウキもどうしても世間話を広げることができず沈黙した。


 傍らでケロールが茶を沸かす音を聞きながら。


「…………」


 やがて精霊が言った。


「すまぬ。わらわは何も知らぬのじゃ。だから何を話していいのかわからぬのじゃ」


「そうか……」


 それなら尚の事、オレが頑張って話さなければ。


 だが深い森の空気がユウキを包み込んでいる。その空気が街のことを、人間社会のことを、時間の流れを、さまざまな話題を忘れさせていく。


 仕方なくユウキはただスキル『笑顔』を発動した。


 静けさの中で自然にほほえみが浮かぶ。


「何を笑っておるのじゃ。そうか、知識のないわらわを笑っておるのじゃな? これだから人間は嫌じゃ」


「…………」


 なんだか勘違いされてしまったようだが、訂正する知力が今は失われていた。


 仕方なくそのままほほえみを浮かべ続ける。


「…………」


 しばらくして茶が湧いた。


 欠けたマグカップで茶を飲み、菓子を食べた。


 森の静けさの中に茶をすする音が響く。


 銘菓をひとつ食べたところでユウキは言った。


「ケロールも食べろよ……」


「ケロケロ……」


 ベンチに並んで座ったユウキと精霊、そして少し離れた地べたのコケに腰をおろしたケロール。以後、三者は無言でお茶を飲みお菓子を食べた。


 何か喋らなければという焦りはやがて、くつろぎと安心に置き換わっていった。


 脳内にナビ音声が響いた。


「スキル『沈黙』を獲得しました」


 ユウキはかすかなほほえみを浮かべながらその沈黙を受け入れた。

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