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◇◇
長い冬を超え、ようやく春が訪れた。
でもグリフィン帝国の南端に位置するノーマ地方は、一年を通して温暖な気候だから、季節が変わった実感はあまりない。
のどかな田園と草原がどこまでも広がる大地の真ん中にポツンと立っているこの屋敷が、私、シャルロットの住居だ。
「ねえ、メアリー。クロードを見なかった?」
キッチンで出来立てのクッキーをつまみ食いしていたメアリー。慌てて口の中に全部放り込み、ゴホゴホと苦しそうに咳き込む彼女に、私は水を差し出した。
ぐびっとそれを飲み干したメアリーは「ありがとうございます!」と一礼してから、首を傾げた。
「クロードなら『ちょっと散歩に行ってくる』と言って出て行ったような……」
「散歩? 何を吞気なこと言ってるのよ! 今日は大事なお客様たちがたくさん来る日なのよ!」
「そ、そうでしたよね! 確か……ジョー陛下、ローズ様、マルネーヌ様、アレックス様、エイダン様、リゼットさん」
「それにハイドリヒお父さまもお見えになるの! みんなをちゃんとお迎えしなくちゃいけないのに! メアリー。もしお客様が見えたら紅茶でもてなしておいてね。そのための分のクッキーを残しておかなきゃダメよ」
「は、はい!」
私は大股で廊下を抜け、広いロビーに出た。
パーティーの支度を仕切っているサンドラが慌ただしくしている。
「サンドラ! 後は頼んだわね!」
「はい! おまかせください!」
玄関から外に出ると、中庭を掃除しているアンナに出くわした。
彼女は今や立派な騎士だ。
だから侍女と同じような仕事はしなくてもいいのに、「私はご主人様とクロードのために働きたい」と言って聞かないのだ。
「ねえ、アンナ。クロードがどこ行ったか分かる?」
アンナは小首をかしげていたが、何か思いついたように手をポンと叩いた。
彼女は袖から小さな虫が出して、ふっと息を吹きかけた。虫は羽を広げて青空の向こうへ消えていく。そしてすぐにアンナのもとへ戻ってきた。
「ふむふむ。草原……大きな木の下にいる……です」
「分かったわ。ありがとう!」
アンナと別れて、屋敷の門を出た。
草原の中に伸びた道は緩い上り坂になっている。
私は転ばないように注意しながら早足で進む。
白や黄色の小さな花が道の端に並んでいる。
途中小さな教会の横を通り過ぎる時、私は立ち止まって小さく礼をした。
ソフィア慈愛教会をここに移したのだ。もちろん中には女神イシス像も収められている。
「さてと」
私は道に目を戻す。
小さな丘の上に巨木がそびえ立っている。
きっとクロードはあそこね。
再び足を前へ運ぶ。
まるで背中に羽がはえたかのように軽い。
それはちょうど、私の弾んだ心をあらわしているみたいだった。
◇◇
アンナの言う通り、クロードは大きな木の下にいた。
芝生の上であおむけになってスヤスヤと寝息を立てている。
彼の周りにはモンシロチョウが楽しそうに舞い、呼吸のたびに上下する胸の上を蟻が通っている。
「まったく……ふふっ」
あまりにも気持ち良さそうに寝ているものだから、腹立たしさよりも愛おしさの方が勝る。
急に私も彼と同じ気持ちになりたくて、彼の横に寝そべった。
小鳥のさえずる声が聞こえる。
葉っぱと葉っぱの合間から春の陽射しがキラキラと差し込んでくる。
ひんやりした土の感触が背中から伝わる。
そっと左手を伸ばしてクロードの右手に触れる。彼の体温で胸がくすぐったくなる。
目を閉じてみる。
あらゆる感覚が鈍くなり、ふわふわと浮き上がっていく錯覚に陥る。
でもクロードの手を握る感触だけは失われない。
そうして世界は私とクロードだけになった――。
――これからもずっとこうしていたい。
この時期の雪解け水よりも透き通った願望を、胸の中で解き放つ。
夢の中のクロードは私をぎゅっと抱きしめてくれて、優しい口調でささやいた。
――大丈夫。ここがシャルロットと俺の居場所だから。
私は彼にすべてをゆだねながら、幸せに浸る――。
「シャルロットさまぁ!! どこですかぁ! もうお客様が到着されましたよぉ!!」
遠くから聞こえてきたメアリーの声が、私を現実に戻した。
はっとなって起き上がる。
でもクロードはまだ目を覚ましていない。
「まずいわ! どうしよう?」
私はクロードを起こそうと彼の肩に手をかけた。
そして……。
そっと彼の唇にキスをする。
目を覚まして。私の王子様――。
「ん……。ああ……。シャルロットか?」
クロードがゆっくり目を開ける。
私が微笑みかけると、体を起こした彼もまた笑みを浮かべた。
びゅっと春風が通り抜ける。
少しだけ乱れた私の髪をクロードが優しく直してくれた。
「さあ、行こうか」
私の頬に触れながら言ったクロードに、私は「うん!」と明るく返事をする。
クロードと手をつなぐ。
きゅっと強く握り返してくれたのが嬉しい。
弾む足取りで来た道を下っていく。
どこまでも続く青い空には一羽のオオハヤブサ。
純白の翼を広げ、気持ち良さそうに旋回していた――。
(了)




