屋敷内の悪意 3
最初に感じたのは猛烈な寒さだ。
病気になった時に寒気がするのは身体の抵抗力が熱を発するから。しかし今、俺が感じているのはそれとは違う。身体から熱、つまりはエネルギー自体が奪われているような虚脱感。
強いてそれを無視し、ベッドに手を突いて上体を起こす。アンナがそれを慌てて支えてくれる。
「無理をしないでください、リディアーヌ様」
「そういうわけにはいかないわ。……お帰りなさい、アンナ」
上手く微笑みを作れただろうか。
久しぶりに会った専属メイドは、瞳に涙を浮かべて「はい」と答えた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ただいま戻りました、リディアーヌ様」
「こちらこそ、何もできなくてごめんなさい。公爵の娘なんて言ったって、結局ただの子供なのね」
「そんなことはありません。……奥様に何度もお願いしてくださったと先輩方から聞きました。待っていてくださったから、私はこうして戻って来られたんです」
「そう。……少しでも助けになったのなら、良かった」
心のつかえが取れたのを感じながら片手を伸ばす。ぎゅっ、と、それが両手で包まれると、アンナの体温を熱いほどに感じる。伝わってきた熱によってほんの少し身体が楽になる。
「わたしはどのくらい眠っていたの?」
「もうお昼過ぎです。私が様子を見に来た時にはもう、リディアーヌ様の身体は冷たくなり始めていました」
警備の兵が「お嬢様が倒れた」とアンナに伝えてくれたらしい。
謹慎用の部屋で監視役のメイドと眠っていたアンナは一足早いのを承知でここへ来て、色々と対処をしてくれたらしい。気づけば掛け布団が一枚増えているし、布団の中には湯たんぽ的な道具が収められている。身体を温めるための工夫だ。
ひょっとすると寝ていないのだろうか。アンナの目は少し赤くなり始めている。それともこれは涙のせいだろうか。
「リディアーヌ様。この症状はやっぱり……?」
「ええ。あの時と同じものでしょうね」
前回、誇張ではなく死にかけたあの病気。
熱によって体力が奪われるのではなく、体力そのものが奪われていくようなこの症状は、なるほど、致命的としか言いようがない。
エネルギーが足りていないのならひとまず補給しなければ。
俺はアンナに食事を用意してくれるように頼んだ。正直、食欲があるとは言えないが、食べやすい物を多めに持ってきてくれるように指示を出す。そうして用意されたリゾットやスープ、果物などを半ば無理矢理胃へ落とし込む。
椅子に座って食事をしているだけで疲れるような状態だったが、満腹になると少しは元気が湧いてきた。
アンナがほっと息を吐いて、
「栄養を摂れるのであれば大丈夫そうですね」
「そうね。あと一週間は生きながらえてみせるわ」
「冗談でもそんなことを言わないでください!」
悲鳴のような声に「残念だけど、本音なの」と静かに答える。
食べて治すのは基本だが、これはどう考えても普通の病気じゃない。本当に体力そのものが病気に食われていて、かつ、これからも食われ続けるのだとすれば、気力で持ちこたえられる時間はそう長くない。
「お医者様の手配は済ませてあります。ですから、負けないでください」
「もちろん。このまま黙って死んでたまるもんですか」
そうだ、こんな簡単に死ねるわけがない。
記憶が戻る前の俺だって一週間くらいは耐えたのだ。今の俺がもっと持ちこたえられなくてどうする。それに前回は治ったのだから今回だって望みはあるはず。
アンナが俺の傍にしゃがみこみ、またぎゅっと手を握ってくれる。俺は「ありがとう」と微笑んでから彼女に尋ねた。
「ねえ、ジゼルはまだ屋敷にいるのかしら?」
「いいえ。……ジゼル先輩は今朝から行方がわからなくなっています」
「でしょうね」
異変に気付いたのは早朝になって俺の容態を報告した後。警備兵の報告もあり、メイド長が昨夜の俺の様子を聞こうとジゼルを呼び出して──そこでようやく彼女がいないことに気づいた。
二人部屋なので本来は同室の者が気付くはずだが、ジゼルの同室であるアンナは軟禁中で別の部屋を使っていた。
念のため屋敷内、および庭の捜索が行われたものの、ジゼルの姿は発見されず。
「代わりに、ゴミ捨て場からティーカップの破片が見つかりました。リディアーヌ様のお気に入りだったものです」
あの時俺が割ったものだろう。
また、俺の装飾品の中から小ぶりかつ高価なものがいくつか無くなっているらしい。状況から見てジゼルが持ち逃げした可能性が高く、騎士団にも通報済みだという。
俺は深いため息を吐いた。
「なにをやっているのかしら。……これ以上、罪を重ねても仕方ないのに」
「リディアーヌ様、それでは」
「ええ。昨夜は紅茶を勧められて、飲んだら急に強い眠気を感じたの。まずいと思って音を立てたんだけど、上手く誤魔化された上に何かの薬を飲まされたみたい」
ジゼルは間違いなく、もうここには戻ってこないだろう。
彼女が殺しにくるとは思わなかった。
これまでの犯行から彼女を小物と判断し、人を殺す度胸はないと見誤った。女に苦しめられた前世でもなんだかんだ殺人に及んだ奴はいなかった。平和ボケした日本人の感覚と甘ったれたお嬢様の感覚から「更生してくれたら」なんて変な同情をしてしまった。
それにしたって「公爵令嬢の殺害」なんて罪を負うのは自ら破滅に向かうようなものだろうに。
「前回、そして今回と、リディアーヌ様が倒れられた原因は病ではなく、ある種の薬物と思われます」
お茶の時間になった頃、例の医師が診察にやってきた。
アンナを含むメイド数人、養母セレスティーヌ、さらに父である公爵までもが集まって見守る中、彼は苦々しい表情で見解を述べた。
これにまず声を上げたのは父だ。
「使用人が毒を盛ったというのか!? リディアーヌは我が家の大事な娘なのだぞ!?」
普段の穏やかな彼からは想像もできない激高ぶり。
掴みかからんばかりの剣幕に医師は怯える様子を見せながらも、しっかりとした答えを返す。
「リディアーヌ様の症状から見て、用いられたのはおそらく解熱剤です」
「解熱剤?」
「薬草や野菜など、自然物から取れる成分を用いて『身体を冷やす』薬です。魔法を用いて効果を高めたものもあります。通常は治療用ですが、過剰投与すれば熱を奪う毒になります」
熱が上がっているわけでもないのに冷やされた身体は急速にバランスを崩していく。
身体も平熱を保とうと熱量を上げるが、このために身体は大きく生命力──カロリーを消費してしまう。耐えられなければ待っているのは死だ。
身体の大きい大人なら過剰投与になりづらく、通常は心配ないらしいが、子供に投与する場合は慎重な扱いが必要だという。
「液体を飲まされたというお話から、粉末を溶かして煮詰めていた可能性もあります。あるいは、先に紅茶を飲ませたこと自体、血行を良くするためだったのかもしれません」
「リディは治るのか!?」
「対処としては、薬の効果が無くなるまで身体を温め続けるしかありません。もちろん、食事を摂ることも有効です。身体を冷やさない程度に水分を取るのもいいでしょう。ただ、治るかどうかは薬の強さとリディアーヌ様の頑張り、そして運次第です」
異常をきたした身体は抵抗力が落ちている。この状態で風邪など他の病気を併発するのは致命的としか言いようがない。
「……こういった言い方は良くないのでしょうが、リディアーヌ様を殺めるつもりで投与したのであれば、回復のしようがない量を用いたはずです。現在、こうして気力を保っていらっしゃるだけでも幸運かと」
「先生。それなら、どうしてわたしは前回、助かったのでしょうか?」
医師の言う通り、今回の症状は前回よりおそらく重い。
前は徐々に弱っていき、やがて起き上がることもできなくなった。対して今回は一日目から起きているのがやっとだ。
医師はこれに投与のされ方が違った可能性──前回は少しずつ何度も投与されたのではないかという見解を示した上で、俺が助かった方法についても推測を述べた。
「件の薬──毒の対処としては風邪と同じものが有効です。つまり、熱。風邪と違い、病を吹き飛ばすのではなく薬効が薄れるまで『身体を温め続ける』ことが目的ですが。リディアーヌ様も前回、回復される前夜に高熱を経験していたはずです」
「確かに、その通りです」
俺は一晩中熱にうなされ、目覚めた時には良くなっていた。あの時は普通の病気だと思っていたのであまり気に留めなかったが……。
「リディアーヌ様は当時、衰弱しきって食事もできない状態だったはず。その状況から一気に回復するというのは自然な働きではありません。であれば、通常とは異なる力が働いたのでしょう」
「そうか、魔法か……!」
理解の声を上げる父。
いや、そうか! と言われても。
「あの、わたし、まだ魔法なんて習ってもいないのですが……?」
何か勘違いをされているのではと危惧したところで、
「初めての魔法を無意識に用いるのは、貴族の子供によくあることです。素質が表に出た証として、訓練を始める目安にされることも珍しくありません」
「なるほど。……では、わたしの場合もそうだったと?」
「おそらくは。火の魔法で体温を強引に引き上げ、併発した病ごと毒を吹き飛ばしたのではないかと。八歳というのはいささか早い年齢ですが……」
「きっとそうだろう。アデライドも火の魔法が得意だったからな」
目を細めた父が前妻──俺の母の名を口にする。
俺やアランを悲しませないように、そしてセレスティーヌへの配慮からか父からアデライドの名が出ることはほとんどない。しかし、彼の声には亡き妻への想いがしっかりと滲んでいた。
親が持つ属性が子供に受け継がれる可能性は高い。母親似である俺が火の属性を持っていても不思議はない。
俺はぎゅっと手を握りしめて医師を見上げた。
「では、同じことをすればわたしは助かるのですね?」
返ってきたのは深いため息。
「理論上はそうなります。……ですが、無理の利かない身体で魔法を使うのは非常に危険です。医者としては正直、お勧めできません」
「私も反対です。まだ訓練も受けていないのですよ? 調整を誤って全身に火傷を負う事だってあるのです」
ひっ、と、アンナが小さく悲鳴を上げる。
優しい専属メイドに俺は「大丈夫」と微笑んでから、養母を見た。
「お養母さまは、このことを前回の時点で先生から聞いていたのではありませんか?」
「セレスティーヌ?」
「……ええ、確かに私は知っていました」
僅かに表情を硬くしながら、それでも毅然と答える金髪の美女。
「ですが、確証はありませんでした。無意識の魔法行使は通常一度で収まるものですから、落ち着いてから教師を探しても間に合います」
毒の可能性を潰す方が先決。
メイドたちの荷物検査も実施し、怪しい薬物がないことを確認。使用人の外出先についても密かにチェックして薬屋や不審人物との接触がないかも確認していたという。
「確かに、理には適っていますね」
「リディ」
「お父さまだって、わたしに『お前は無意識に魔法を使ったのだ』とか『あれは病気ではなく毒だ』なんて言いづらいでしょう? 聞いたわたしが勝手に試して怪我をするかもしれませんし、メイドを全員クビにしろと騒ぐかもしれません」
「そ、それはそうだが」
父の視線がおろおろと宙を彷徨う。俺が心配で仕方ないらしい。仕事を放りだしてここに来ている時点で親馬鹿である。
むしろ、セレスティーヌの方がよほど落ち着いている。
腹の底の見えない養母が本当は何を企んでいたのか、それはわからない。自分が手を汚さずに俺が死んでくれるならそれはそれで構わない、と思っていた可能性もある。
俺が死ねば愛娘が長女になるわけだし、悲しみに浸る父を慰めた結果新しい子が産まれるかもしれない。……自分で言ってて「ふざけるなよこのクソ女」という気分になってきたが、まあ、もちろん証拠は全くない。
とりあえず、今言えることは「猶更死ねるか」だ。
「お養母さま。わたしの主観では食事や衣服、道具での対処ではおそらく足りません。ならばいっそ、危険な方法でも試してみたいと思います」
ちなみに、他人が温めるのは自分でやるよりもっと危険らしい。体温変化に合わせた微調整は本人でないと正確性を欠くし、他者へ内的変化を与える魔法自体がかなり困難な部類に位置するから、
「だが、リディ。火の魔法は本当に危ないのだ。女の子の身体に傷が残れば結婚にも響くのだぞ」
「ご心配なく、お父さま。お母さまは火の魔法がお得意だったのでしょう? なら、その娘であるわたしが、自分の身体くらい温められなくてどうしますか」
この言葉に全員が黙った。
父としては俺に死んで欲しくない。養母にしても別に悪くない話だろう。俺に死んで欲しいのだとすれば、死因は病気でも毒でも魔法の失敗でも構わない。
やがて、セレスティーヌはゆっくりと首肯して。
「わかりました。では、初歩的な魔法の扱い方をアンナに習いなさい。魔力の低い者から習う方が結果は小さくまとまるでしょう」
「ありがとうございます」
「……仕方あるまい。だが、セレスティーヌ。其方は情報を秘匿しすぎだ。後で詳しく話を聞かせてもらう」
「かしこまりました。申し訳ありません、旦那様」
これで、ひとまず方針は決まった。
二度目の不調に陥った時点で医師に治療法を問うつもりだった。こういう形になったのは予想外だが、ついでに魔法を覚えられれば幸運ともいえる。
「お願いね、アンナ」
見上げた専属メイドは緊張と不安からか蒼白な表情をしていたが、それでもきゅっと唇を結んで、決然と頷いた。
「リディアーヌ様に治っていただくため、精一杯務めます」
『わたしだって頑張るわ。生き残って、あのメイドにあっと言わせてやるんだから!』
【今回の登場人物】
◇リディアーヌ・シルヴェストル:主人公。八歳の公爵令嬢。前世の記憶あり
◇セレスティーヌ:シルヴェストル公爵の後妻
◇父 :王国宰相。娘に甘い
◇医師 :少なくとも知識は確か
◇アラン:公爵家長男
◇アンナ:リディアーヌの専属メイド
◇ジゼル:元公爵家メイド。逃げきれなければ死刑がほぼ確定




