成長とこれからのこと
「閨の教育を始めましょう」
ある夜、セレスティーヌから部屋に呼び出された。
何かあったのかと思ったら宣言されたのは予想外の一言。同時に「ああ、ついに来たか」とも思う。思わず口からため息が漏れた。
そんな俺の様子を見た養母は「気が進みませんか?」と尋ねてくる。
「必要だとわかってはいます。……ただ、軽い気持ちで学べることではないでしょう?」
「そうですね。ですが、公爵令嬢ともなれば疎かにはできません」
まだまだ若く美しい養母も二人の子を産んでいる。当然ながら子供は自然には産まれない。何も知らない乙女どころか男を誘う術を知っているわけだ。
『チャイナ風ランジェリーをこっそり用意してみたりね』
セレスティーヌは何食わぬ顔でカップを手にし、紅茶で唇を軽く湿らせる。
「殿方とは非常に気分屋かつ気難しい生き物です。主人となる方を上手くその気にさせ、閨を共にしなければ子を授かる可能性すら生まれません。確実に子を成したければ繰り返し『求められる』ことが必要となります」
この世界の女性にとって結婚をし子供を産むのはほぼ義務だ。高位の貴族女性ともなれば猶更。
王子と婚約している俺に至っては世継ぎを求められる可能性すらある。一人と言わず二人、三人と子を成さなければならない。
「……気が重いお話ですが、殿方を上手く誘導するためにも知識と技術が必要なのでしょうね」
「わかっているのであれば話を先に進めます」
頷き、当然のように宣言するセレスティーヌ。
「口では文句を言っていようと義務なら果たすでしょう?」と見透かされている感じだ。
俺の気が重い理由はおそらく養母が思っているのとは少し違う。
純情な乙女的なアレではなく、貴族のご令嬢ですら(というか令嬢だからこそ)男を手玉に取るための術を積極的に学ばされるという事実や「男を手玉に取って当然」みたいに自然と考えてしまっている自分に「うわぁ」となっているからなのだが……まあ、必要なら学ばないといけないのも事実。
「新しい教師が付くのでしょうか?」
「そうですね。一般的には既婚の女性が教師となります。私が教えても構いませんが──」
「勘弁してください」
「でしょうね。では、ルフォール侯爵夫人に依頼しましょう。既に仮の了解は取り付けてあります」
自分の親に手ほどきされるのはもはや罰ゲームだが、友達の親もなかなかに気まずい。
「あら? そうなるとひょっとして、お養母さまが代わりにヴァイオレットを教えるのでしょうか?」
「ルフォール侯爵家は内々で済ませるでしょう。秘伝の技術を伝えていると聞いています」
じゃあヴァイオレットもそういうのを修得するのか。
あの妖精に手ほどきされるリオネル……うん、意外と想像はつくが、なんとなく悔しい。どうせならあの王子様は俺が操縦したいところである。
「秘伝は教えてくださらないでしょうが、是非教師をお願いしたいと思います」
「少しはやる気が出てきたようですね。では、先方の都合次第で月に一度か二度、時間を設けることにします」
「かしこまりました」
ちなみに、男子もそういう教育を受けるのか? と尋ねたところ、年頃の男子には複数回にわたって「練習相手」が宛がわれるらしい。
『ふーん、そう。羨ましいじゃない。良かったわね王子様』
女性的感性の俺の機嫌が氷点下だった。男としても純粋に羨ましい&妬ましいので「せいぜい頑張れば?」と思うことにしてその件については思考から抹消した。
◆ ◆ ◆
「なあ、セルジュ。リディアーヌは前からあんなに可愛かったか?」
「……は?」
第三王子リオネルの世話係セルジュは手にしていたティーポットを危うく落としそうになった。
ぎりぎりで支えてほっと一息。振り返ると、主は己の発言に恥ずかしくなったのかほんのりと頬を染めていた。
「急に何を仰るのですか、殿下? シルヴェストル公爵令嬢様は以前からとても美しい方でしたよ。殿下もよく褒めていらっしゃったでしょう」
紅の髪を傷つけたくないだの瞳の形がいいだの、不意のタイミングでさらりと口にするものだから「狙っているのだとしたら末恐ろしい」と度々戦慄していた。何度か経験すると「ああ、単に思った事を口に出しているだけでしたか」と理解したが。
王子は翠色の瞳を気まずそうに逸らし「まあ、そうなのだがな……」とこぼした。
「私は一体どうやってあれを褒めていた? 考えれば考えるほどわからなくなってきた」
「今までは考えていなかったのでは? ……ははあ。わかりました。婚約者様の美しさが気になって普通に接する事ができなくなりそうなのですね?」
「む。……うむ、まあ、そういう事になるか」
紅茶を淹れ終え、菓子と一緒に供する。
昔は甘い菓子の類はあまり好んでいなかったが、リディアーヌと月に一度か二度、定期的に会うようになってからは以前より好むようになった。
あの令嬢が事あるごとに「野菜を食べろ」と言うお陰で肉好きもある程度抑えられている。まったくリディアーヌ様々というか、王子は知らず知らずのうちに習慣の面でも大きく影響を受けている。
琥珀色の液体が少年の唇へ流し込まれる。
少女のよう、と形容しても良いほど整っていた容姿は少しずつ男性的魅力を増して頼もしさが出てきている。令嬢達からの人気が絶大だったのは何も地位だけが理由ではないわけだが、その端正な顔立ちが今は悩ましげに歪んでいる。
「その、なんだ。この間あいつと胸の話をしただろう?」
「ええ。盛大に叱られましたね」
「それは言うな」
ちらりと室内を確認する。
特に何をするでもない休憩時間のためメイドは下がらせている。警護の騎士、兵士も全員男性で「こういう話」には理解がある。何も問題ない。
「あの時は本当に太ったのかと心配していただけだ。だが、文句を言われたせいか? 逆に気になってきたというか……リディアーヌも母上やメイド達のように胸が膨らんでくるのだな、と。触ったら柔らかいのだろうな、と思えて仕方なくなった」
「で、気づいたら他の部分も気になるようになってしまいましたか」
「ああ。なんだあれは。本当に俺と同じ種類の生き物なのか? 度々剣を持って大立ち回りを繰り広げているから騙されていたが、頬も唇も手足も柔らかそうだし、近づくと良い匂いがする。本当に前からあれはああだったのか?」
「ですから、あの方は以前からお綺麗でしたよ」
ついでに言うと方向性が違うだけでリオネルの容姿が劣っているとも思わない。
同じ生き物かと聞かれれば同じ人間だが、男と女は別の生き物だとも言える。なかなかに哲学的な問いかもしれない。
しかし、何はともあれ。
「……あの王子がついに女性の魅力を認識してくださいましたか」
左腕の怪我によって騎士を辞める事となり絶望してところを王家に拾われ、第三王子の世話係となった。
幼い頃からこの少年と共に過ごしてきたが今日ほど達成感を覚えた日はない。セルジュは涙ぐみ、服の袖で目元を拭った。
「お前、ひょっとして馬鹿にしているな?」
「そのような事は決して。ただ、殿下はとてもお子様だったな、と」
「馬鹿にしているではないか。俺だって美しさがわからなかったわけではない。ただ、感じ方の質が変わったというか、あれに触れてみたくてたまらなくなっただけだ」
「完全に目覚めてしまいましたね。……ああ、いえ。それが正常ですのでご安心を」
誰もが通る道だ。女性の魅力を理解した上で紳士的な振る舞いができるようになって一人前。相手の都合を無視して押し倒したり誰彼構わず口説くようでは粗野な平民と変わらない。
「ただ、一つ言うとすれば、リディアーヌ様は殿下の婚約者です。手放さなければ結婚後はお好きなようになさって構いません」
「好きなように、だと?」
「ええ。お好きなように。初夜は一晩中相手を寝かさない、という方も決して少なくないと聞きます」
ごくり。リオネルが息を呑むのがわかった。きっと想像したのだろう。今すぐに欲しくなってしまったかもしれない。
「残念ながらご結婚まではまだまだ先ですよ。どうかそれまで自重していただけますよう」
「待て。結婚なんて早くとも学園卒業後だろう!? それまで我慢しろと言うのか!?」
「その通りです。……ああ、もちろん、他のご令嬢に手を出すのもいけません。特にベアトリス・デュナン様やヴァイオレット・ルフォール様にはご注意を」
前者は積極的に過ちを誘いに来るだろうから危険度が高い。後者はリディアーヌとの協調を宣言し第二夫人を希望しているが、だからこそ順序を逆さまにする事は許されない。第一に愛されるのは婚約者にして第一夫人に内定しているリディアーヌであるべきだ。
「……うむ。ベアトリスにヴァイオレット、だな」
二人でも想像してしまったらしい。
罪ではない。想像するだけなら自由だ。男とは手を出す気がなくともつい考えてしまうもの。セルジュにも覚えはいくらでもあるし、リオネルが「そういう風」になってくれた事はむしろ健全だとさえ思う。
主とこんな話ができるようになるとは、きっと今日の夜飲む酒は美味いだろう。
「これは、早急に殿下への教育が必要ですね」
「教育だと? ひょっとして何か叱られるのか?」
「ご安心を。殿下にとっても悪い話ではありません。ひいては将来のお相手にとっても良い結果を齎すはずです」
男性王族向けの性教育。
情報を外部に漏らさない、万が一惚れられても突き放せるなど複数の条件に合致した成人女性から「手ほどき」をさせるというものだ。
初夜で結婚相手を喜ばせられるように、相手の身体をむやみに傷つけるようなことのないように、といった意図のほか、年頃を迎えて欲求不満になった王族に欲の抑え方を覚えてもらうという役割もある。
この王子の事だ。
リディアーヌ以外を相手にしろと言われたら抵抗するかもしれないが、
(私も、お二人の幸せを願っているのですよ)
主の話し相手をそつなくこなしながら、セルジュは内心で呟いた。
◆ ◆ ◆
閨の教育はともかくとして。
隣国についてもっと詳しくなるために向こうの歴史書や博物辞典などを購入した。また、ついでなので教国の資料も併せて買った。
輸入品なので量・質共に限られる。詳しく書かれた本があれば喜んで買うと伝えたら出入りの商人が色々探してきてくれてそこそこの本が揃った。
知らない内容も多く読むのは大変だが、同じ事について自国の書物とは異なる記述もあったりしてなかなかに興味深い。一般向けの本としてのアレンジなのか、それとも自国に都合がいいように事実が改ざんされているのか調べてみるのも楽しそうだ。
きっと学者というのはそうやって沼に嵌まっていくのだろう。
「それで? リディアーヌ、貴女は隣国へ行くつもりなのかしら?」
「まだ決めたわけではありません。状況と向こうの事情次第です」
買った本はオーレリアも興味を持った。アンナも読もうと頑張っているがなかなか進まない模様。モニカも俺の読み終わった本を借りて行って読んでくれている。
俺の行動に師である《魔女》様は思うところがあったのだろう。ある日の夜、直球で尋ねてきた。
「事情ね。貴女の妹を狙った件にどんな事情があれば許すつもりなのかしら」
「許しませんよ。ですが、誰がやったのかを特定するためにも情報が必要でしょう?」
他国の実情なんて詳しくわかるわけがない。おそらくこの国と同程度にはややこしいはずの勢力図を知るには理解している者に教えてもらうのが早い。
「純血派の支援者と対立する派閥からの要請なら心証も良いですし、対価と条件によっては受けてもいいかもしれませんね」
「条件ね。そんなに美味い条件が出されるかしら」
「それが蓋を開けてみないとわからないっていう話じゃありませんか」
「そう。まあ、私はどちらでも構わないわ」
黒い前髪をさらりとかきあげた師は艶やかに笑って、
「貴女が行くというのならついていくだけよ。向こうの魔法事情も調べてみたかったしちょうどいいかもしれないわね。王女の身の上じゃなかなかできなかっただろうし」
「師匠は自由ですね」
「貴女に言われたくないわ」




