六
これにて十二章終わりです
「え~~~もうかえっちゃうの!?」
大きな声で我らの前に立ちふさがるは、小さな身体と細い四肢持つ小さきもの。
「そうだよ。また来るからね、それまで元気でね」
「やだやだっ、かえっちゃだめ! もっとここにいるの!!」
ワカバの言の葉に駄々をこねるよう、小さな頭を振る。産毛よりやや伸びた程度の鬣、折れそうなほど細く短い角、小石の如くな蹄。きらきらと、無垢そのものの瞳がこちらを見上げてくる。
横合いに居た別の小さきものが、とことこと歩み寄ってきた。
「わかば、おなかすいたの? もうすぐ、おとうさまたちがたべものをもってくるよ」
「ありがとう。でもね、さっき皆と一緒に食べたから、お腹は空いてないよ。もう此処で過ごして三日だし、皆とも挨拶できたし、そろそろ自分の群れに帰ろうかなって」
「むれ? わかばはむれがあるの?」
「そうだよ」
二対に増えた無垢なる瞳が、未知なる疑問に瞬く。
「むれはここだよ」「むれはここ!」
「うん、お外に群れがあるの」
まだ二頭だけではあるが、群れは群れである。
「おそとはきけんなんだよ。みんなといっしょにいくの」
「うん。だから、わたし達は二頭でいくの。大丈夫だよ」
根気よく小さきものらと話しているつがいを見ると、彼女が幼き伴侶どのと共に過ごした歳月の功を感じる。そして未来のことも勝手ながら予感させ、むずむずとなる。
(幼生とつがい―――なんとも、佳き光景だ)
「ごめんね。でもわたし達の棲み処はここではないから」
「「ええ~~~~~っ」」
甲高い声で憤慨する幼生二頭を、背後より諫める母親二頭。
「我が息子、いい加減になさい」「長の娘が群れは、此処ではないのよ」
短い尾を噛んで引っ張り簡単に矮躯を操る様、これも覚えがあり懐かしくなる。
「おさのこどもなのに!?」
「そうよ。長の娘だけれど、此処ではない棲み処があるの」
「どうして~?」
「あのねえ、昨晩も云ったでしょう、…」
疑問が尽きない様子の我が仔に呆れたように対応する雌と、しゅんとした我が仔の鬣を顎でするりと撫ぜてからこちらに向き直る雌。
「ああ、大丈夫よ、煩わせたわね。ただこの仔たちもそうだけど、私たちも貴方たちに逢えて本当嬉しかったしもう数日でお別れというのが正直寂しいの。今生の別れではないことは解っているけれど、これから忙しくなるでしょう? 落ち着いたら是非また、遊びに来てね」
「はい、ありがとうございます! 必ず、また来ます。今度は皇柘榴の実を沢山持って来ますね」
「あらあら、いいのよ無理しなくて。あれで充分」
背後で何頭かが興味深そうに覗き、鼻づらでふんふんと匂いを嗅いでいるのは我々が背に括りつけて持ってきた「土産」の数々である。
「あ、あの! ……ちょっといいだろうか、じゃなかった、いいでしょうか」
同性と談笑しているワカバに、控えめに歩み寄ってきたのは歳若い雄だ。ただ視線は合わず、年ごろにしては少々足取りが重い。近くに我輩の居る雌に対して、至極遠慮があるのだろう。
(当然であるが)
「? なんでしょう」
「は、はい。その……」
「いいですよ。なんでも聞いてください」
若者(といっても自身より上の世代だが)と応対しながらさり気なく、我輩に目配せするワカバ。察するに「ちょっとリョク、下がってて」といったところか。若者が我輩に怯えていることが解っているのだろう。こちらとて、無害な雄相手には警戒するわけもないのだが。
(無意識に威嚇するのは、避けねば)
その危険性がわかるからこそ、つがいの蹄示に従って若者の視界からそっと後退する。
「あ、ありがとうございます!」
幾分気を安くし近寄ってきた若者をよく見ると、前足に引き攣れたような傷痕があった。足取りが重いのはそのせいもあるのだろう。
「華花梨は、かの草原に沢山あるのでしょうか! 自分はしばらく、そこまで征ってなくて……」
「はい。わたし達が居ついてからまだ数か月だからなんとも言えないけど、来年の春には群生すると思いますよ。結構香りきつかったかな?」
「いいえ!」
中層では一部にしか自生しない植物の実は、歳若い年代の者にとって外の世界への憧れが象徴でもある。
「……自分は、見ての通りその、あまり遠くに行けない身なので。自業の理なのですが」
角が心なしか項垂れ、自嘲気味の視線が己の前足に落とされる。数十年前、向こう見ずな思い遣りにより負った傷。未だに彼の心身を痛めつける、毒茨の棘。
「しかし、貴方がたが持ち寄ってくれた華花梨の蕾を見るに、思い出したのです。四十五年前、自分はその花が好きでした。遠くよりそれが香ると、ひとけりでこんなにも征けたのだと勝手な誇りが生まれたものです。驕りともいいますが」
後悔と罪悪に苦しむ若き魂は、されど絶望の沼には沈んではいない。それはこの森の主と同じ姿であり、そして。
「なので、嬉しかったのです。今はまだ無理ですが、いつかまた、かの草原に征こうと思いました。まだこの脚は癒えておりませんが、きっとまた普通に駆けられるようになると希望は持っております。……あの、その際は、その、……」
「?」
言い辛そうに、若者の視線が右往左往する。角を傾げながら待つワカバ。
若者は視線を彼女にというより、我ら二頭の間の空間に移している。そして畏れはあるものの、恐れからではない霊気の揺れを彼からは感じた。
(そうか)
不敬や異性に対する照れではなく、彼個獣にとって重要な決断を伝えかけている気配を察し、我輩は蹄を前に進ませる。
「あ」
そこで初めて彼女も察し、新緑の瞳が軽く瞠られる。こちらを仰ぎ見るワカバに無言の是を返し、我輩は彼に歩み寄った。反射的にびくり、と後退する若者に、努めて柔らかに伝える。
「無論、我輩は歓迎する。貴殿が我が群れに加わりたいというのであれば。良いか、ワカバ」
「勿論だよ!」
被せるように歓迎の意を伝えられ、若者はそこで初めてぱっと視線を上げた。畏れは掻き消え、受け入れてもらえた慶びがその両眼に満たされる。
「……!! ありがとう、ございます!!」
今は未だ、その季節ではないが。夏の晴れ渡った空に至極似た、澄んだ瞳と声であった。
「長の居ない間でいいの? きっと寂しがるわよ」
「その逆です。自分が居ないうちに去ってほしいと云われました。居るうちだと、きっと引き留めてしまうからと」
「な~るほど。確かにねえ。あの泣き虫の長だものねえ。そうとわかれば、長が帰ってこない間にさっさといなくなっちゃったほうがいいわねえ」
「うふふ、はい!」
「わかば、またきてね!」「ぜったいだよ!」「気をつけて帰るのよ」「ありがとうございました」
「「また、いつか!」」
何頭かに見送られつつ、我らは南の森を後にする。別れ際にかけられた言の葉に返すは、感謝と願いの思念。
《こちらこそありがとう》《また逢いに来る日まで息災であれ》
ありきたりではあるが、何より切なる願い。
《皆さんの傷が、早く治りますように》
そしてそれは、この森を覆う更なる守護となる。
● 〇 ●
騎者持つ騎獣が思念は、やはり普通の「イヴァ」より段違いに強い。霊力持つ生き物にとって、思念は強ければ強いほど伝わる意気も確実なものとなり霊気も「そのように」作用する。まるであの日、人界のとある農村に向けた無意識の霊圧が如く。
……かの帰還より数年後、我が群れに加わったとある若者が伝えるに、自分の古傷は思ったよりも早く癒えたそうだ。それはかの四十余年より遥かに効率が良く、異常ともいえる早さの回復であり、自分は勿論周囲も驚いていたと。間違いなく、我らが訪れのお陰だと確信できたと。
『自分だけではなく、他の者も過去に負った傷が薄くなったのです。萌葱が伯父も、聴こえにくかった耳が良くなったと喜んでおりました。萌黄が伯母の眼は完全には元に戻らなかったのですが……これは齢のせいもあるので。しかし癒える余地ある傷が皆、この数年で癒えたのです』
かの空は曇ることなく、かの瞳に映り澄み渡っている。絶望の淵でも、道を違えなかったからこそ。
『やはり人界還りの者は違うと、話題になってはいましたが……自分は、最初から解っておりました』
こっそりと、得意げに彼は話した。
『長も長のつがいどのも、他とは違うと。だから自分は、ついてゆきたいと思ったのです』
この勘は当たった、この道で間違いではなかったと、彼は笑って傷跡の薄くなった前足を誇らしげに見下ろしていた。
● 〇 ●
草原が拠点に戻り、遠出の疲れを癒しつつまた数日も経った頃。
ぴちち、と天高く小鳥の声が響き渡る。それも、一羽二羽だけではない。
「リョク、リョク! 見て!」
つがいの呼びかけに従って空を仰ぐと、驚きの光景が広がっていた。
「……! なんと」
「あの子、約束通り戻ってきてくれたんだよ! 家族と一緒に! ……うん、家族だけじゃないね、友達もだ!」
それはわかるが。
(総数が多い)
ピチチ(ようかわいこちゃん)、チュンチュン(あれが新しい止まり木?)、チュピチュピ(麒麟が居る!)、ピピピ(いいねー、霊気芳醇)
凄まじい音量と質量と思念の群れが、こちらへと降って来る。その数の多さと遠慮の無い下降速度に、思わず身構えた。
(まずい)
その数と予測される重量は、我がつがいの細角では支えきれないだろう。しかし彼らは速度を緩める気配がない。
かの森を訪れて以来霊力制御に自信を深めるため、より効果的に周囲に溶け込めるよう鍛錬を積んだ。その分、獣にはより警戒されにくくなった。が、霊圧が落ち着いたことによる些細な問題は問題と捉えていなかったのだ。
要は、霊力の弱い相手に全くと言っていいほど警戒されない。縄張り内でも、害意の無い相手には無防備になる。
(仕方ない)
たまらず、思念を飛ばす。小さく軽い彼らを吹き飛ばさない程度の、嘆願を込めた霊力を。
《別の場所に留まってくれ》
ばさばさばさっ
「うわ」
「!」
羽音。風圧。灰褐色ひとつでない、色とりどりの年代さまざまな鳥の群れが。
(どういうことだ)
なぜか皆、我輩の角に留まった。
「――――っ、あはははははっ」
軽やかに響く、つがいの笑い声。我輩はそれどころではない。
「……………。ワカバ。これは、何故、」
重い。小鳥一羽なら空気のようなものだが、何分総数が多い。二十数羽ほどであろうか、それが皆、全員洩れなく我が角を止まり木としている。
そして、よりにもよって耳元で。
ぴちちぴ(よう、はんさむさん)ちゅぴちゅん(あなたかっこいいわねえ、ここに棲んでいい?)ぴちゅちゅぴ(いいところだねえー)ぴぴぴちゅちゅ(霊気芳醇!ここなら安全!最高!!)
一斉に、囀り始めた。
(―――退いて欲しい)
しかし、攻撃的な思念は発せない。彼らを吹き飛ばしてしまうからだ。沈黙する我輩をいいことに、彼らは喧しく煩く賑やかに囀っている。
そして、ずっと笑っているワカバ。
「あはははははっリョクがっリョクが、鳥さんまみれになってるーーーっ」
「………左様だな」
「ご、ごめん、でも、でも、か、っ、あはははっ」
涙を滲ませつつ、つがいは朗らかに云った。
「前からね、こういう光景ずっと見たかったの! リョクの角に、小鳥さんがいっぱい留まってるところ! なんか、平和そうだなあーって! ふっあはははっ」
『あのね、わたしずっと見たいと思ってるのがあって』
(これがか)
「………左様であるか」
重いし、煩いが。しかし、つがいが至極楽しそうなので、佳しとする。そう、思うことにする。煩いし重いが。
(何より、この賑やかさは、)
心の奥底で常にひっそりと、我輩が懐かしんでいたものだったゆえに。
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風が柔らかに吹き、光が優しく注ぎ、水が豊かに流れる場所。
穏やかに流れる時間は、すべてを包み過ぎ去ってゆく。
時に望まぬ変化であっても、すべてを内包して。
変化は、必ず訪れる。それが自然の摂理ゆえに。現状が変わることこそ、未来であるから。
良いことも、悪いことも。長く維持されることはあれど、永劫に変わらない事象などありはしない。自然の在り方はひとつでなく、生き物の数だけ生き方があり、彼らの正義があるのだから。
例えば、ただの鈴の音がある者にとっては悲劇の幕開けが象徴であるが、ある者にとっては待ちかねた救いの手であったりするように。……またある者にとっては、ありふれた玄関の呼び鈴にすぎなかったりするのだ。
……いつか「何か」が起きる時に備えて。今日も世界の片隅で、遠き鈴音の残響が、空気に融け消えていく。拾う者、拾わない者、それぞれの思いの狭間で。
だいぶ霊力制御が巧くなったので小鳥にも警戒されなくなり、あっさり止まり木にされるリョクさんでした(※一応最強格の霊獣)。ワカバは本当は「かわいい」と叫びたいけどさすがに彼のプライドを傷つけるのでギリギリ踏みとどまっているようです。爆笑してる時点でアウトですが←




