十二章・序/ある花のはじまり
それを見つけたのは、単なる偶然だった。
昏い層を裂く、光。
一瞬手を目の前に翳し、そして離す。眼前に広がるは蒼く澄んだ空、そして深く豊かな緑の海。そこを、か細くも眩い白い魚が泳いでいる。
(いや、違う)
近づいてみて、それは魚ではなく花だと知った。
幅広の葉に沿うように伸ばされた茎、そこに連なりながら垂れ下がる小粒の球体。一粒ひとつぶが小さいので見逃してしまいそうになるが、覗き込むとそれは下に向かって花開いている。さながら手元だけを淡く照らす照明のように、人の居ない田舎町の片隅で電源を入れられる愛らしい角灯のように。淡く可憐な花。
白いスズランだ。小粒の鈴蘭の花が、深緑の葉と共に風にそよいでいる。小さな花の塊が列を作り連なり、まるで大海を泳ぐ小魚のように群れを成している。
足を踏み出し、ふと、気が付いた。この音はなんだろう。
細かな白が緑の背景に踊るたび、しゃらしゃらと小粒の音が鳴っている。ひとつひとつは小さなそれが多く集まることで次第に大きくなり、ひとたび偶然にも同じ方向でそよげば鼓膜を打つ巨大な音色となる。
やがて、徐々に、風が定まったのか。
淡くもはっきりと、それは聴こえてきた。
――……ぃん。りぃ――ん。……
(鈴の音)
風の向かう方に。
――りぃん、りぃ――ん、……
花が、鳴いている。
鈴のように、音を響かせている。
(鈴)
――りぃ――ん、りぃ――ん……
(すず、)
――りぃ――ん、りぃん、……
それはまるで、
(誰かが鳴らしているような)
何かをしらせる呼び音のような。
〇 〇 〇
「東鈴蘭?」
リラは手に持った雑巾をそのままに、玄関先を振り返った。
「そ。これはね、実際そのまんまの形が自然区域にある植物なのよ。お花をそのまま加工して呼び鈴にしてるってわけ」
数日振りの来客であるヴィオラの後ろ姿は、玄関をせわしなく箒掛けしながらこちらにも届く大きな声で喋ってくる。明るい茶色の頭髪は動きやすく纏め上げられており、その横から特徴である長い尖耳。
「東鈴蘭は加工しやすくてね、ちょっと霊気込めればしばらく光って灯りになったり大きな音の鈴になったりするから、平民でも頑張れば作れる簡単な霊具のひとつなの。って言ってもきちんと作らないとすぐ枯れちゃうんだけど……まあ、平均以上に霊力が使えるエルフが作れば、街灯にもなったりこういう長く保つ呼び鈴にもなるのよ。里でも似たようなの見たでしょう?」
「はい。あれも、あずますずらん、だったんですね」
「そうそう」
振り返って頷く紫眼の美女、その顔の横でぴこっと可愛らしく動く耳。さっきからリラは勝手に確信しているのだが、この先輩主婦はどうやら掃除が好きらしい。そして掃除中のおしゃべりはもっと好きらしい。
(こういうひと、前にも居たなあ)
「しっかしこれ、界隈にしてもそこそこ年季ものよ。たぶん先代の頃からのやつねえ……見たとこ大体九百年くらい前のかなー」
「あ、そうなんです、ね……」
長命種の時間感覚は人間とは違う。さながら「九年前」と同じ感覚で話される年月の長さに、短命種であるリラはたまに圧倒される。
ただ、最近はその困惑すら楽しくなってきた。
二人で楽しく喋りながらてきぱきと終えた掃除の後、ヴィオラが持ってきた茶菓子とリラが用意した茶葉とで早速一服した。
「じゃーん! 今日のは白苹果と紅肉桂のアップルパイ!」
「わあ、素敵です! 美味しそう」
「うふふ、でしょう? 何せあたしが作ったからね、間違いなく美味しいわよ。リラちゃんもありがとうねえ、蜜柑薔薇入りのお茶。あたしこれだいすき~」
いつもはきりりと凛々しい紫眼を和ませ、白磁の頬にほんのりと赤みを載せているヴィオラはどんな表情をしていても綺麗だな、とリラは思う。ただ、リラが一番好きなのはその造作的な麗しさというより、喜色を目いっぱい表現してくれる彼女自身の朗らかさと優しさだ。そしてそれが裏表無い好意である証の、尖耳の素直な動き。
「ん~んまいッ! 最高ねえさすがあたし。そして一仕事終えた後のお茶さいこう」
「あ、あのすみませんでした、せっかく里からいらしたのに、その、お客様にお掃除をさせてしまって……、」
「え? あ、違うわよリラちゃん、あたしが勝手にやりたくて勝手に始めちゃったことだから。むしろお掃除中に来ちゃってごめんね。なんか予定より早く荷馬車が到着しちゃったのよね」
機嫌よく動いていた長めの耳が、一瞬だけ困ったように色を失くす。それもわずかな時間のことで、すぐにぴんっと張って元気よくこちらを向いた。
「それにねリラちゃん。言うんならここは謝罪じゃないわ。だって、せっかくの午後のお茶でしょう?」
ね、と片目を瞑られ、リラは続く言葉が素直に出せた。
「はい。―――お掃除を手伝ってくださって、ありがとう、ございます」
東屋に設えた卓も盆に載せて持ってきた幸せのかたまり達も、爽やかな風と共にリラに教えてくれる。……ここは、与えられた暖かなものに感謝する場所なのだと。
「せっかくだから、見てみる?」
盆を持って屋内に戻るさなか、ちらりと玄関を見上げていたリラの視線の動きに気づいたヴィオラは、台所に戻って食器を片付けたその足でどこから引っ張り出してきたのか、小さな脚立を抱えてきた。
「え、でも、」
「いいのいいの。こういうのはあいつが留守の時にしかできないでしょ」
ヴィオラは手際良く玄関扉の前に脚立を置き、固定してからするすると上に登った。リラも慌ててその足場を押さえる。
「あいつリラちゃんのことになると頭すっからかんになるから何するのかわかんないのよね、と。はい取れた」
「あ、……はい」
なんとなくだが、リラにも彼女の言いたいことがわかった。家主であるリラの夫は、口下手な上に(リラに関して)思い込みが激しい。リラが下手に何か言おうものなら、些細なことでも曲解しかねない。
(もう都のお土産はそんなに要らないって言わなきゃ)
家主と親戚であり留守中の家の管理を今まで任されてきたヴィオラは、家主の妻であるリラよりこの家に詳しい。そして当の家主に関しても、リラより付き合いが長い。その事実が当たり前ながら、少し歯がゆくもある。
「きれいでしょ。本物のお花よ」
「はい……」
玄関扉から外された紐付きの呼び鈴。ここ数か月で聴き慣れていた頭上のものが、今はリラの手元に在る。いつもと違った風情で。
脚立の上から手渡されたそれは、ヴィオラが言うように可憐な鈴蘭そのままのかたちをしていた。それでいて、生花のような匂いはしない。
手のひらに載せたまま軽く揺すると、りぃん、と澄んだ音。それでいて割れ物の硬質さが無い。さながら生き物のしなやかさを不思議と共に薄い膜の中に閉じ込めたような、異質な柔らかさ。
(霊具、って何度見てもふしぎ)
「これが、九百年前に自然区域で咲いていた東鈴蘭、なんですね」
「そう」
よっこらせとなぜか古臭い掛け声で脚立から降りてきたヴィオラは、リラの両手に載せられた可憐な花を満足気に見やった。
「ふふ、最近はしょっちゅう鳴らされているから、ホコリは被ってないみたい。それにしても、」
綺麗な紫眼の視線が、瞬いてこちらに向く。壊す恐れがないと分かった直後、可憐な花を何度も揺すって音を確かめているリラに対して。
「最高の組み合わせよねえ……」
「え? 何かおっしゃいましたか」
「うふふ。かわいいなと思って」
「はい、かわいいですよね。東鈴蘭って本当にかわいい、お花です」
何が楽しいのか、ヴィオラはくすくすと笑った。尖った耳は、上向いて紅潮していた。
「あの、ヴィオラさん」
「ん? なあに」
「この呼び鈴も……これからもすごく保つ、ものなんですよね」
「ええそうね。作ったひとの腕がいいのか、九百年は保ったみたいだから。あと最低でももう九百年は越えられると思うわ」
「……すごい、ですね」
「霊力が少しでも込められたものは大抵そうよ。風化も経年劣化もしないものは、見ればわかるわ。作りがしっかりしてるものはこれから先、同じ歳月を同じ形で越えられる。形を保てなかったとするなら、それは作りが甘いか、何かが起きた時ね」
「何かが?」
「例えばだけど、この家に何かが起きた時とか。何か強い熱とか衝撃を受けた時とか、まあ火事になったら? さすがにダメでしょうねえ。普通の植物と同じで、一緒に燃えちゃう」
「……」
「あ、ごめんねまた変なこと言って! でもホラ、不吉なことは言った方が起きないって言うし!! …………ごめんね、あたしいつも無神経で」
「あ、いえ! そんなことは、」
風が吹き、また澄んだ音色が響いた。
「わたし、人間だから、かもしれないですけれど。物は壊れて当たり前、無くなって当たり前だと思っていたんです。だから、」
澄んだ音色は、沁みわたるよう広がってゆく。
「変わらないものがあるって……すごいことだなって」
さながら悠久の時を越えて。
「ほんとうに、すごいなあって」
これからも、時を越えて。
「この先も変わらないで、ずっとあるのかなって」
「……そうね、きっとあるわ」
その鈴は。その音色は、この気持ちは。
〇 〇 〇
――……ぃ――ん、りぃ――ん……
鈴の音が、響いている。空気を震わせ、鼓膜を優しく叩き、それをしらせる。
(これは、)
分け入ったのは、境目だ。その境目はさながら玄関。ひとであるものを、ひとならざる世界へ招待する、その入り口。
――りぃ――ん、りぃん……
来訪者を迎え入れるように、歓迎するように、波打ちながら響く呼び鈴。
――りぃ――ん、……
(入っていいのか。……いいんだな)
ずっとこの入口を探していたものは、歓喜するだろう。狂喜とも言っていい。滅多に見つからず、並みの運では見つけられるものでもないからだ。まったくの偶然、あまりに得難き僥倖。
しかし彼は見つけられた。この運を、願ってもみない幸運の証を。
それは、限られた場所にしか咲かない花。
異界への入り口の目印、それがこの音の鳴る不思議な植物。
(またの名を、)
『秘境のベル』。それが、東鈴蘭の異称である。
・
・
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―――来訪者は内なる喜悦を押し殺し、その場に分け入った。緑の海の更に向こう、白い東鈴蘭の波が切れ切れとなった草原の更に奥、徐々に深く濃くなってゆく草木の谷間。
(――居た!)
開けた視界に、わずかな水音。乾いた空気の中、美しくたなびく獣の鬣。
(立派な角だ。……だがやや身体が小さい、こどもか、雌か? まあいい)
男は細心の注意を払い、手にしていたものを構えた。特注の銃。それを持つ手から足の先まですっぽりと全身を覆うのは、この季節にしては厚ぼったいこれまた特注の布である。しかし男は知っている。この衣があったからこそここまで来られたのだと。――そして今、自分は唯一無二の幸運をも掴もうとしている。
(あれを撃てば)
照準の前に居るは、この世のものならざる造形の美しい獣。そう、もう男がいるのはこの世ではない。言うなればあの世に近い。なればこそ、その獣は美しい。
異界の生き物。天に棲まう、聖なる獣。
天界霊獣。
(あれを、撃てば……!!)
がぁん。……
音が轟いた。鈴の音ではない、風の音でもない、草木のざわめく音でもない。
美しい獣が、血を噴き出しながらどうっと倒れた。それをなし得た、罪なる音であった。
(―――やった!)
狂喜と共に、男は銃を肩から降ろした。そして隠れていた茂みより遠慮なく這い出る。湧き上がるものを極力押し込めてはいるが隠しきれない喜悦が男の足を軽くさせた。念願の天界霊獣を仕留められた、それだけで気持ちの箍が緩んでいた。
呼気と、銃を持つ手が震える。
(俺は、やったのだ)
「これは幸運だな。まさか親子連れの麒麟だったとは」
庇うように飛び出した母親が目の前で撃たれ、動けなくなった獣の仔。
「一気に二頭も仕留められるとはついている。悪く思うなよ」
哀れに思う気持ちより、充足感と優越感が勝っていた。
(俺は勝った。賭けに勝ったのだ!!)
「あばよ」
哀れな獣に、銃を構えた。優越のままに。この美しい異界の獣の生殺与奪の権を握った愉悦、それすら無意識に浮かべ。
引き金を引くその瞬間。
――――りぃん。
遠く、哀しき鈴の音が聴こえたような気がした。




