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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第十一章
117/127

少し長めです


 人の界を出る日取りを決めた際、蒼のから云われたことがあった。


『俺は、まだ天に戻る気は無い。緑のとワカバだけで先に戻っていてくれ』


 幼馴染とつがい両方を伴ってこきょうに戻るつもりであった我輩は、完全に虚を突かれた。何故、と訊くと、彼は迷いの見当たらない蒼き双眸で。

『俺は人界で、少々無茶をし過ぎた。中には意図せず一族の道に逸れた行いをしてしまったこともある。償いは未だ済んでいないから、一通りそれを終わらせたい』

 さては蒼のは未だに亡き騎者が怨念に囚われているのかと、我輩は口早に言った。

『償い? 蒼のが何を償うというのだ。あの妖精が暴虐は、蒼のの非にあらず。蒼のが関わる前よりも続いていたであろう非道に、蒼のが責任を感じる必要は終ぞ無いと我輩は断じる。思うことはあるだろうが、騎者と決別が済んだのなら長くこの界に留まっていても仕方があるまい。むしろ――』

 蒼のは、一刻も早く天に還った方がいい。理不尽に傷めつけられた心身が癒える何よりの場所に。しがらみが無くなった今こそ、天の獣として、在るべきすがたに戻るべきだ。

 かのようなことを主張したが、幼馴染の決意は変わらなかった。

『……そう云われると思ったよ。ワカバに言ったとしても、同じことを返されるだろうな』

 ふ、と人型の口端を和ませ、蒼のはかつてなく優しい表情で言う。

『ふたりとも、俺のことを心配してくれているのはわかる。逆を言うなら、ワカバのような幼い仔にも悟られてしまうほど、今の俺は弱っているのだろうな』

『悟られていないとでも? あれは優しいゆえ、蒼のを傷つけまいと黙っているだけだ。我がつがいをこれ以上心労させることは赦さぬ』

『そんな言い方をする緑のも、優しいな』

『茶化した物言いは好きではない』

『本気で言っている』

 ふふ、とまた気味が悪いほどに優しく微笑み、幼馴染は腰の後ろに佩いた得物を振り向くように見やった。そしてまた、こちらに向き直る。

『――改めて訊くが、緑の、正直に答えてくれ。今の俺は、天に居た頃と比べてどの程度弱っているように見える?』

『……それを我輩に云わせるか』

『はっきり言って欲しい』

 我輩は暫し沈黙し、蒼い髪と瞳を持った青年の全身を眺めた。

『人型での「武」の練達具合は、別として考える。それで良いか』

『ああ』

『……。蒼のは「弱っている」というより、「落ちている」。騎者と出逢った騎獣は総じて内在霊気が高まり器の強度が上がる。しかし、蒼のからはその変化を然程感じない』

 それなりの時を経て成獣となったはずであるのに、仔どもの頃よりさほど霊力の強さが変わっていない。そればかりか、最大の好転機を得たというのに、他者から見て生命力に殆ど変化が無いのだ。これは、我ら一族として「異常」である。

『人型への変化、我輩が判別できる大きな変革はそれのみ。結界等の霊力行使が上達はすべて、蒼のが独自に努力した結果であろう。そしてその程度・・・・で終わっている。同じ「騎獣」として至極あり得ぬ状況』

『……』

『蒼のが霊力行使域は本来、もっと広く巨きいものだ。幼き頃は我輩より霊気の感応力が高かったゆえ、今頃は内在霊気量に伴いその感覚が更に澄まされ、関連する「探査」や「捜索」「察知」の霊力を特に強く発することが出来ているはず』

 それこそ、その分野においては我輩とは比べ物にならないほどに。

『だというのに今の蒼のは、並みの成獣程度にしか行使が届かぬようだ。ゆえに、』

『「本来の実力より、落ちている」と?』

『……うむ』

 蒼き幼馴染は、また柔らかく笑った。

『緑のはやはり、優しいな』

『蒼の』

『厳しいことを言っているように見えて、俺をおだてて励ましてくれている』

『世辞は言えぬ性分だ。正直に云っている』

『そういうことにしておこう。――それにしたって、あくまで霊力の強さにしか触れないあたり、やはり優しいおとこだよ、お前は』

 涼やかに蒼い双眸。

『だがこの場では正直に言って欲しい。わかっているだろう、今の俺は、』


――弱き、脚なんだ。



■ ■ ■



「…ク、リョクっ」


 少しの間、ぼんやりとしていたらしい。

「リョクー、眠いの? ちょっと横になる??」

「はッ、いや、眠くはないっ、眠くはないぞッ」

「!」

 愛らしい声が耳元で響き、ふと気づいた際には凄まじく愛らしい顔が間近に在り、思わず全身を震わせて後退気味に反応してしまった。卓上に乗り出しこちらを覗き込むようにしていたワカバは新緑の瞳を大きくさせ、心持ち寂しげに身を引く。

「ごめんね、急に迫っちゃって」

「い、いや、違う、嫌なわけでなく、驚いただけであり、……」

 芳しきものが刹那の合間に遠ざかっていってしまった。またも何かの機を逃してしまったような。脳内の騎者どのは「お前、その見かけで童貞みたいな反応、いや童貞だったな、やべえまじ笑える」と嘲笑しているが、全力で無視を決め込む。

 一気に上昇した体温を誤魔化すがごとく、咳払い。

「済まぬ、少し考え事をしていた」

「大丈夫? 何か心配ごと?」

「心配というべきか……」

 あれからワカバとあれこれ他愛無い人界の思い出話をしていたのだが、ふと蒼のの話題になった。表向き「用事を人界に残してきた」蒼のは、此処にはいない。ワカバがふと寂しげにしたので、なんと言って励まそうかと思案した際、以前の会話が蘇ったのだ。

『俺は、弱き脚なんだ』

(ワカバには話すべきではないな……蒼のとの約束のためにも)

「――うむ、特段気に病むほどのものでもなかった」

「ほんと?」

「うむ」

 ほんとにほんと?と言い募ってくる我がつがい。彼女を安心させるため、我輩は笑って応える。先ほどの詫びの証に、卓上でこちらから顔を近づかせながら。


「今の我輩にとって、ワカバの声以上に心に響く音は無く、寂しげな顔以上に心が乱れる事象はない。そのことを、今改めて確認した」


 間近で囁き、戯れにするり、と指で白い頬を撫でる。途端に顎から耳朶まで広がるように少女の生膚が赤く染まった。

「なっ……、」

「済まぬな、会話の中途だったというに。次に我輩がぼんやりとしたら、その手で横面をはたいて構わぬゆえ」

「そ、そんなこと、出来るわけないじゃないっ、リョクが痛いでしょ」

「我がつがいより与えられるのなら、如何な痛みであっても甘受しよう」

「はッ!? も、もう、リョクってば!」

 意趣返しと誤魔化しは、成功したようだ。脳内の騎者どのも「ケッ」と吐き捨て苦い顔で退場したので、至極満足である。

 ふと、ワカバの髪と衣に投げかけられる陽光がわずかとなっていることに気づく。天光あまつひかりが半ほどを過ぎ、何処へと沈みゆく前触れだ。窓より見える空は、人界でいう午後の空気を纏って幾らか寒々しく見えた。

「ワカバ、陰ってきたが寒くはないか」

「ううん? あ、いつの間にか結構時間経ってたね」

「天光は何処に沈むかわからぬゆえ、照明が隠れぬうちにまた移動しようと思う。準備をしておいて欲しい」

「わかった」

 印象的な寒色。連想するは蒼のいろ。

 今此処にいない蒼き幼馴染は、今頃どうしているであろうか。界を隔てて尚、思うものがある。

 あの会話の記憶と共に。


■ ■ ■



 弱き脚。

 それは一族にとって、自尊心を傷つけられる最低の貶し文句。


『俺自身、認めたくは無かったが。しかし、今の俺は間違いなくそれなんだ。あまりに弱く、脆く、……今の状態では天に戻れない。戻ったところで、理想と現実の差異に圧し潰されるのが見えている。だから、』

『何故、征く前からそんなことを云う。一族として情けないにも程があるぞ、蒼の』

『……』


 まして、自分で、そう称するなど。


『赦さぬ。己自身に逃げ道を作り、前に進むのを諦めるなぞ。蒼のらしくない』

『俺らしい……? 緑の、買い被り過ぎては困るな。俺は、そんな大層な輩じゃない、』

『蒼のが脚の強さは我輩が一番よく識っているッ!!』


 そんなことを、彼が言うなど。


『幼き頃、共に駆け、競い、そして鍛えてきただろう!? それらを無かったことにするのか!!』

『緑の、そういうわけでは、』

『己の脚を貶すな。それは蒼ののみならず、我が半生への否定にも等しい。我輩にとって、蒼のと競い合ったことは大事な経験であり、今の己になくてはならない礎のひとつだ。ここまで来る道中に何が起きたとしても、何かが消えてしまったとしても、その事実だけは変わらぬ。例え蒼のにとって自己卑下が真実であろうと、その言の葉だけは我輩は断固否定する!!』


 認めてしまったら、あまりに、かなしすぎる。


『――緑の。すまない、言い方が悪かった。弱き脚と云ったのは、俺の内面を示してのことだ。決して、脚だけのことを云っているわけじゃない』

『……』

『そうだな、最初からこう言えば良かった、下手に理由などつけずに。俺は、』


――今のままだと、あまりに惨めなんだ。


『先日は強がりを言った。亡き騎者の分まで幸せを掴みにいくと、そうありたいと。その本懐は変わってはいないが、持つべきものが少なすぎることには目を瞑っていた。緑のは今の俺にとって誰より近い存在で居てくれているがため、否が応でもその事実が時間経過と共に刻み込まれる』

『蒼の……』

『緑のと人型で仕合をしたとてやはり、根底の劣等感は消せない。騎者が健在で相応に実力をつけ、つがいと睦まじくしている緑のが羨ましくて、妬ましくて、未だに心が醜く軋む。例え脚の強さが及第であっても騎者と真っ当に決別したのだとしても、不健全な精神では真なる成長は見込めない。我ら一族はそういう生き物だ。だろう?』

『……』

『この状態の俺が天に還ったとて、何が出来ようか。緑のが指摘したように齢不相応に弱い霊力で、つがいと騎者を喪ったまま心に穴が開いた状態で、あまつさえ仇に付き従い何も成し得ず騎獣とも呼べない中途半端な獣が一体、野に放り出されるだけだ。大言壮語だな』


 中途半端、大言壮語。いずれも、我輩が過去に他者より云われた言葉だ。

 しかし。


『蒼のは、弱くない……!!』

『そう言ってくれるのは――本気でそう思って云ってくれるのは緑の、お前くらいだよ。ああ、ワカバもだろうな。しかし、他の同族からしたら違うだろう』


――一族の危機を救い新たな仲間を見つけたお前に比べ、俺ときたら何も持たず何も成し得ていない。そればかりか騎者とはいえ元凶に加担するような真似をしていた。人界での事実の一部が同族なかまに知られた際、何も言い訳が出来ない。反感を躱せない。


『蒼のへの非難あれば、我輩とワカバで堰き止める。蒼のを悪く言うような輩には、例え年長者であっても我輩は断固抗議する。我が一族はさほど悪感情が続かぬゆえ、事態を懇切丁寧に説明すれば突破口は開ける。孤立する心配は無用だ!』

『庇ってくれるのか。しかしな緑の、その事実こそが、とても惨めなんだよ』

『ッ!』

『俺はお前に庇われたくない。庇ってほしくないんだ。余計惨めになるからな。他の誰でもない、共に脚を鍛えた緑のだからこそ』

『……』

『償いだのと言い訳を連ねたが、最初からこう言うべきだったな。――緑の、俺は人界に残る。残って、』


 お前たちと対等になれるだけの、己に成る。

 仲間に、真なる土産を持ち帰るために。

 蹄の音高らかに、堂々と帰れる日まで。


『だから―――待っていてくれ。今ではないが、必ず天には戻る』

『…………』

『霊力の補給については、大丈夫だ。仮にも緑のよりは長く人界で暮らしてきたし、今更無茶はしない。逆に、この状態の「イヴァ」がどこまで人界で通用するのか、俺自身とても興味がある。むしろ他の騎獣とは違う・・ことが、人界では逆に強みになると思っている。一通りの経験が、今後の一族の助けになると信じてもいる。全てを強みに昇華したいんだ。わかるだろう?』

『…………』

『必ず戻る。戦果を携えて、な』


 蒼き双眸は、あの時以上に清々しく穏やかであった。ゆえに、我輩は諒解を返した。返すしかなかった。


『…………。我が最初の仔が生まれる時期には、間に合うように。あと、我輩への土産は人界の上物加工甘味にせよ。勿論、ワカバの分もだ。それで赦す。ことにする』

『――約束する』


 涼しく澄んだ寒色に、新たなる実りを期待して。



■ ■ ■



 思い出す。あの日あの時の凛と涼やかな蒼を、そして感じた寂寥と羨みを。


 そう、確かに我輩があの時感じたのはやっと再会出来た幼馴染とまたしても袂を分かつ寂しさと、そして蒼のへのなんとも言えぬ羨ましさだった。

(あれが、騎者を見つけながらもかの存在と決別した騎獣の在り方なのだろうか。かの存在に頼らない、己の脚のみで強くなろうとする真なる一族のすがたなのだろうか)

 正直なところ、わからない。我輩は騎者どのと出逢い、共に過ごし、近くで色々なことを学んだゆえに今の己が在ると自覚している。今までの道程は最良ではなかったやもしれぬが最善を尽くしてきた、出来得る限り己の心と脚が健全なるままに過ごしてきた。そう信じている。騎者個人にも親しみを感じることが騎獣として幸福であり、正道だとも。ゆえに、今の蒼のの在り方は正直なところ理想の範疇外であり、また関与も出来ないので見守るしかない。

 だが。あの、あまりに迷いの無い面持ちを思い出すに、我輩にとって未知と無謀の世界へ飛び込もうとする彼の後姿を見つめるに、複雑なる羨望が湧いてくるのだ。

 それは過去、群れの若衆が遠駆けをした冒険譚を幼き我輩らに語って聞かせた時、感じたものにどこか似ていた。識らぬ道を識っている者への羨み、未知への憧憬、未来への希望めいた展望。ただ、決定的に違うのは、その道は我輩には決して辿れぬ道だということである。今も、これからも。

 蒼のにしか辿れぬ道。彼であるからこそ、進める暗中。

(――蒼のは、真なる意味で道無き道を拓こうとしているのやもしれぬ)

 一族の誇りにかけて。今までの道程を無駄にしないために。

 そして、何より己自身のために。


 その事実が寂しくも、とても、羨ましかった。



 茶器等の汚れた道具を片したのち、我輩はワカバに先立って家屋の外に出ることとする。

「済まぬがワカバ、少し時間を置いて出て来てくれまいか。この家屋を中心に結界を張ったが、天の空気は久々ゆえ、万端かが不明である。人界と勝手が違う箇所を念のため補強しておきたい」

「わかった。どのくらい待てばいい?」

「そこなる茶葉を蒸らし終える程度には」

「ふふっ三分くらいだね」

 リョクも霊力行使で自信が無いなんてことがあるんだねーと言ってワカバは笑い、我輩も返すように薄く笑った。

 入口近くにて生成りの上衣を取り去り、藍色の下衣と下着を剥ぐようにして(どうも脚を包む衣服は好きではない)脱ぐ。最後に髪を纏めていた橙の紐を抜き去って、重ねた布の上に放った。「脱いだら散らかさないですぐ洗濯籠!!」という怒りの幻声が聴こえたが、まあそれも無視。ここは人の界でなく天ゆえ赦せ、騎者どの。

「では、先に出る。屋内にて済ませたき用事があったら、今のうちに。暫し戻れなくなるゆえ」

「……。あ、うん、わかった」

 後ろからぼうっとこちらを見つめていたワカバが返応したのを確認し、我輩は扉を開け、そして閉めた。


 閃光。


 剥き出しの生膚に刺さるような冷気が瞬時に消え、広がるは別のもの。重心が変わり、感覚が鋭敏となり、寒気の代わりに澄まされた霊気が我輩を取り囲んだ。

《かぜのけもの》《かぜのけものだ》《きりんだ》《きりんがいた》

 我が霊力に感応し、無数の風精が寄ってくる。否、強者に引き寄せられ集ってくる。吹き荒ぶ大気が、形無き自然が、威の下に従いひとつの道を作る。

 ひとけり――というには力はだいぶ抑えているが――で我輩は野原を越え、小山を跨ぎ、そこに降り立つ。

「――ふむ」

 角が燐光し、鬣が霊圧の広がりを顕すようにざわざわと蠢いた。中層に着いた瞬間から張り巡らせていた我が結界の端、引っかかったのは肉食種の気配。

「其処に居るのだろう。出てきたらどうだ?」

 かの霊樹の丁度反対側。近くの山裾の密に繁った木立より、我が一族の気を鈍らせるけがれの匂いがする。そして天の獣特有の、周囲の霊力に紛れ込ませた気配隠し。尤も、その全てが今の我輩にとって脅威となるものではないが。

「《出てこい》」

 とっくに見破られているというにその場から動かないそのものに業を煮やし、我輩は言霊を発する。

「《出てこねば我が角にて突き殺す》」

(我が縄張り内で好きに行動できると思うな)

「……ッ、」

 本気の脅しによって変わった霊圧に押し出されるよう。がさり、と木々の隙間より、一体の肉食獣が姿を現した。



 対象が我が視線に晒されると同時に風が勢いを増し、その獣に向かって嘲笑うかのように吹き荒れる。強者の威に抑えられながらも、低く唸ってこちらを睨めつける、黄金色の両対。

金獅子きんじしの仔か」

 四つ足の体高は低く、鬣はまばら。しかし、前足と口元から自身のものでないだろう血の匂いがする。少なくとも乳飲み仔の年代でなく、糧である他の動物を食し然程日にちを経ていない。

(一頭だけか)

 他に結界内に入ったものはいない。目の前で不相応に威嚇めいたものをするこの仔どものみだ。

 つがいにはああ言ったが、実際のところ結界に不備は無い。今もこうして精確無比に余所者を察知、縄張り保持者の威を霊圧と共に示し、害あるものを可能な限り締め出す。下層において並ぶ者は無い我が霊力は、中層においてもそれなりである。向こう見ずな若獣であっても、踏み入れれば体勢を崩すほどの霊圧は無視出来ないはず。

 だというのに。

「なぜ金獅子が一頭のみでここに居るのか、もしや我が結界内にて狩りを為し得るつもりだったのではあるまいな」

 風がまた、荒れ狂う。我が威と胸中を示すように。

「云うがよい。何故、お前は此処・・に居る」

――るぅがぅうう!

 わざわざ肉声で話してやったというに、獣の威嚇で返してくる四つ足の幼仔。生え揃っていない鬣がばちばちと放電するよう光を発し、前足が踏みしめられる。

「……?」

――がうッ!

 かの一族特有の能力、首回りより発せられた殺意の霊波は、形としてこちらに届く前に名も無き風に吹き消された。

「……実力の違いを識って尚、我を糧に望むか? 笑止」

 金獅子の攻撃を無効化したのは我輩の霊力ではない。周囲に集う風精達の、ほぼ能動的反応である。この一帯を支配する者に従う、自然な現象。場の支配権は完全にこちらに有るというに、何故この獣は未だ反抗を示すのか。

 内心で溜息をついた。肉食種ながら年代的にワカバとそう変わらないとみて、無意識に甘く接してしまっていたらしい。肉声だけ・・など、生ぬるかった。

「ならばもう一度言う。《お前は何故、此処に居る》」

 今度は声に霊力を載せ、命じる・・・。強きものが弱きものに対し強制する、圧倒的な言霊を鼓膜に叩き込む。

「《答えよ》」

 るぅおうう、ぎゅうぅん…と喉奥で苦しみつつ、金獅子の仔は前足を折って頭を垂れた。威嚇を強制的に解除され、声なき思念を絞り出される。

《はら、へった。いいにおい、した。こっち、きた》

「《それだけではあるまい。見るに、お前は食事を済ませたばかり。わずかなりとも腹を満たしたものが、おのれより高位と知れている獣が縄張りに何故立ち入った》」

 殺気はとうに無い。実力の差もしれている。しかし我輩が追及の脚を急ぐのには理由がある。つがいが家屋から出てくる前に片をつけたいということと、何やら諸々の不自然さが鬣をざわつかせるからである。

 この獣は幼仔といえど、何も判らない幼生の見掛けと中身ではないはず。それなのに――

「《何故、金獅子のお前が一頭のみで加護の地より離れた場所にいる。答えよ》」

 今の状況は、肉食種の襲来にしては不自然に過ぎるのだ。



《なわばり、わからない。はらへった。ちから、ほしい。はらへった》

「《無垢な幼生の振りをするな。嘘を重ねるようなら、我が角でその目を潰す》」

《ちがう、ちがう、ほんとうに、わからない》

 常ならば黄金に輝く体表の毛が、背の一部を残し艶を失くしている。細い尾は下に向かって伸ばされ先の房がぶるぶると震え、後足がよろつきながら丸まり、頭部は伏せられ前足がまるで受け皿のように上を向いて差し出された。この一族の雄にしては珍しい完全なる敗北の姿勢、草食種相手には屈辱であろう格好だ。

 ここまで精神をやられることを識っていて、何故。

《いくら、たべてもはらがへる。はらがへって、はらがへって、いいにおいがしたからはしった、でも、だめだった」

 銀狼とは違うかたちの肉球が、無防備な有様で震えている。思念も、いつしか素直な肉声へと転じていった。

「強い縄張り、しっていた。でも腹が減って、くるしくて、いつかわからなくなった」

「わからなくなった? 結界が判別できなくなったということか」

 若獣が素直になったことを諒解し、我輩も肉声で返してやる。

「わからない……腹が減って、しんでもいいから、何か食いたいと思った。食いたい、くいたい、食わせ、くわせろぉおぉオオっ!」

「それは出来ぬ相談だ」

 中途よりまた殺気が戻ってきてしまったので、我輩は霊力を強めに飛ばし、意識を失わせた。口から泡を吹きながらどうっと横倒しになった金獅子の仔ども。

「――」

 吹き荒れていた風が徐々に弱まってくる。しかし、このなんとも言えぬ心情は消せない。

「一体、」

 何故、かのような事態に。

(中層に着いた時点でもかの癖は継続していた。万全に周囲を警戒し、危険が在ればそれを手前よりも更に大事をとって迂回し、害ある者へは威圧を弱めず接近を赦さず、それが成功し得たと確信したからこそこの家屋につがいを誘った)

 実際、中途までは万全であったはずだ。結界を無理にこじ開けるようにして侵入してきたかの存在が、精霊族の通識からすると完全に想定外であったのだ。

(まして、ここは人界でなく天だというのに)

 先ほどまで至極穏やかな心地であったというのに。……これからはこのような日々が続くと、そう信じていたのに。


――我輩は、慢心していたのであろうか。



 至らなさから湧いてくる口惜しさをひとまず鎮め、離れた場所に転がる肉食獣を見やる。先ほどの問答だけでは状況の把握がつかず、力の上下関係を識っていながら心身の霊力を削ってここまで接近したであろうこの獣の内情も不明である。

(不可抗力であるが、結局力技になってしまった)

 泡を吹いて気絶しているその姿からは、当然ながら危険性は香ってこない。

 だが。何故、この獣が此処・・に居るのか。

(よりにもよって金獅子が)

 今のままでは不明な点が多すぎる。不本意ではあるが、この仔どもは確保しておいて状態を調べる必要があるだろう。このまま野に放すに以後の責任は持てぬし、つがいと憩う場所の近辺としても、わずかな危険の可能性を放置するわけにはいかない。

 肉食種の近くに寄るのは気が進まないが仕方あるまい、と蹄を踏み出した。

 その時。


――ばさり、と中空より翻った真白い翼。


「……!!」


「緑のイヴァ、ご迷惑をおかけいたしました」

「ここは我らにお任せくださいませ」


 我輩の視界に突如現れたのは、二体の天使であった。背の丈は同じほど、面立ちは鏡合わせのようにそっくりで我輩の目には見わけがつかない。中性的であるが声の高さと骨格、器の匂いからして共に少女めす。見覚えのある簡易的な白い衣、首辺りで揃えられた髪は、陽光が如く眩しき金。

 そして瞳は、共に晴天が如く薄碧うすあおい。


「貴女らは」

「我らは順大天使エルヴィンが四番目の使役、リエルでございます」「同じく五番目の使役、サエル」

「! 我が友の使役か」

「「はい」」

 人間でいうとまるで双子のように似通った二体の天使は、足下に転がる肉食獣に小さな手の平をかざす。獣の身体が霊力に包まれ、ゆるゆると浮上し始めた。


「これは、こちらで預かります」「なので緑のイヴァ、お気になさらず」

「待って欲しい、どういうことか説明を、」

「申し訳ありません、急務でありますうえ、我が主の命です」「説明は後ほど」


 背の翼が輪のように宙に広がり、まるで二体が一体のような天使達。


いや、説明は今欲する! その獣は上層部が関わっているのか、もしや大事なのか、我が友は―――、」

「我が主よりの伝言です、『これはイヴァであるきみが本来関わってはいけない案件』」「『どうか気にせず、無かったことに。きみは本懐に専念するべきだ』」

「……!」


 あの日見た陽光と、晴天。それと同じ色は無感情に、我輩に平坦な言の葉のみを突きつける。


「「『きみの幸せを心から願っている』と」」

「………」

「それでは、緑のイヴァ」「失礼いたします」


 ばさり、と純白の二対が翻る。

 呆気に取られる我輩を後目に、二体の年少としわかき女天使らは飛び立つ。我が結界内から脱し、真っ直ぐに上空へ舞い上がる二人の前方に、覚えのある霊圧。まるで雲の切れ目より発するが如く、燦燦と降りる光の柱。

(――層越えを、)

 天使の翼は、くうを飛ぶことによって移動の意味を持つ。我が一族の層越えが地を蹴ることに始終するとしたら、天使の層越えは天空への飛翔。そしてあの霊圧は、二人の発する霊力は――


「―――ッ待ってくれ!!」


 いつかと同じように。我輩は叫んだ。結界外だが、届くと信じて。


「ならば一言だけ! 我が友に伝言を!!」


 光に包まれながら、ちらり、と天使らがこちらを向く気配。


「我輩も、翼持つ我が親友の幸せを心より願う! どうか、どうか……!!」


 返応は聴こえず、光柱は三体の精霊族を包み、すぐに見えなくなった。



 突如の不可解と混乱の種。

 なんとも言えぬ心地になりつつ、我輩は元来た道を辿る。時間はとうに過ぎ去っており、家屋外にて本性に戻った我がつがいがきょろきょろと周囲を見渡していた。我輩が背後より声をかけると、新緑の鬣を翻してこちらを向き、一直線に近寄ってくる。

「ああ良かった! リョクったら、わたしを置いて何処かに行っちゃったんじゃないかって思ってた」

「かのようなことはあり得ぬ」

「でも、ちょっと不安になったよ」

 そっと距離を詰め、頭部を押し当てる。無防備に頤を上げているつがいの麗しき鬣に鼻づらを埋め、可憐な角の根元をぺろりと舐めた。

「っ!?!?」

 びく、とそこから広がるように身を震わせる我がつがい。角を摺り寄せることが親愛の挨拶だと本能的に識ってはいても、角自体を舌で舐めるこの挨拶は識らなかったと見える。

「……遅くなって済まなかった。機嫌を直してくれ」

 重さをかけず頤を当てたまま耳元で囁くと、新緑色の尾が半分ほど逆立ち、至近で白樺の角がくにゃりとなった。

「っ、あ、う、うん」

 裏返った声と相まって戸惑わせたか、と思ったが、発する雰囲気から見るに悪くは思っていないようで、内心で大いに安堵する。

(つがいに不安を抱かせるようでは、我輩はまだまだ本懐より遠き地にいる)

 そのことをむざむざと確認させられつつも、新たに生まれたものが霞のように胸中を漂った。先ほどの事象、突如現れた獣、事実を覆うように白き翼を広げる二体の天使。

――天に戻れば、道は遠くとも真っ直ぐだと思っていた。

(しかし、思ったよりも、)

 真実への道筋は、入り組んでいるのやもしれない。

 ただ。

(如何な道程であろうと、如何な者が関与してようと――我がつがいを害す可能性は、すべて蹴散らす)

「りょ、リョク、ね、もう、いいんじゃ……」

「もう少し、このままで居たい」

「~~っ」

 芳しき柔らかな鬣、清らかな新緑、居るだけで我が心身を毅くする存在。何をおいても彼女だけは護り抜く。彼女だけは、健やかであれ。それが、我が生きる導。

 決意を、改めて固める。



 ふと、視界の隅にて新緑と共に躍る深緑が、ここには居ない魂の相棒が瞳を思い起こさせた。疼き始めた背表を、ぽんぽんと叩いて宥めるような声が脳内に響く。

『おいリョク、俺がいないからって腐るなよ。てめえはてめえなんだかんな。しっかりやれよ』

(……ああ

 深い緑も、空の蒼も、そして瞼裏に蘇る陽光が柱も。

 すべて、我らを祝福してくれていると信じて。


■ ■ ■


 あの日固めた決意、風が如く気配を届けてすぐに通り過ぎていった形無きもの。

 当時、善きも悪しきも不可視の中だったが。我輩はただ唯、護るべきものが在って良かったと感じる。それが、視えなくなった未来を照らす唯一の光であった。

 護るべきものを護らせてくれたのは我輩の場合、三人の友との関わりだった。彼らとの出逢い、それから別れが、今の幸福は永遠でなく道も定まっていないことを教えてくれた。他者の生きざまを信じる気持ちを育ませ、負けぬとばかりに己を励ます気力となり、心を大いに豊かにしてくれた。


 魂の相棒、違う道を征く幼馴染、そして幼き日の恩人。

 人間と、同族と、天使。


 その誰もが我輩にとって大事な友であり、三者三様に大切な「親友」である。ゆえに、心より彼らの幸福を願っている。

 今も、これからも。



「アオは今頃人界でがんばってるのかな……早くみんなで一緒で過ごせる日が来るといいね」

「うむ」

「人型のほうが人間の町では楽だから、きっとそれで過ごすんだろうね。うふふ、アオはとぉってもかっこいいから、きっとモテモテで大変だ!」

「…………うむ」

「もしかしたら、そこで好きなひととか出来ちゃうかな!うわあ、ねえねえそうだったらどうしよ!!……あ、ごめん、ついテス相手にしてるように恋バナっぽく喋っちゃった、つまんなかったよね……」

「(こいばな?)い、否、そうではなく、」


※リョクは勿論妬いてます


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