十一章・序/ある天使の諦念
※残酷な描写あり
血飛沫が地面に叩きつけられた。
ごふり、と口の端からどす黒いものが溢れ、顎を伝い、新たに地へと落ちる。崩れ落ちたその身体は血海の上に伏し、白かった衣が見る間に汚れていく。見開かれた薄碧い目が、光を失っていった。
その表面が今わの際に映したのは、同族の姿。
「構うな、次が来る」
同族を屠ったばかりの刃を握り締め、呆然と佇む若者にかけられた声は、冷ややかな響きを纏っていた。若者は応えるように顔をあげるが、返り血にまみれた頬は青白く、動きも鈍い。それでもなんとか身体を動かし、刃を構え直す。ここは戦場だからだ。
「 」
声にならない声をあげ、襲い来るはおのれと同じ姿をした者ら。
「……ッ」
ぎっと歯を噛みしめ、剥きだした修羅の表情のままに彼らを斬る。二体、三体。
返り血が彼をまだらに染め、白が赤となり、ついに殆ど見えなくなる頃にはもう数えるのをやめていた。
「よくやった」
息を荒くさせ、得物を身体の横に下げた若者に、また冷静な声がかけられる。ばさり、という特有の音と共にその場に「降り立った」のは若者よりやや年嵩の青年である。
眩しい金の髪。片手には弦と矢筒の見当たらない美しい弓を携え、血飛沫ひとつ無い純白の長衣が光を受け輝いている。その背を覆うものも、同様に。
「エルヴィン様」
若者の声に目線で応え、彼はその場に膝をつく。地には何体ものそれが転がっていた。血まみれのそれらに手をやり、幾つか検分をしながら淡々と評価を下す。
「いずれも事切れている。初の武器霊具扱いにしては上出来だ」
「あ、ありがとうございますエルヴィン様!」
「だが、動きに無駄が多く時間もかかりすぎた。これでは実戦で使い物にならない。以後、もっと効率を重視するように」
「は、い」
ぱっと血まみれの顔を明るくさせた若者は、続く言葉にしゅんと項垂れる。エルヴィンは立ち上がり、その横を通り過ぎつつ、ぽんと肩を叩いた。
「備えの面から厳しいことを言った。お前はよくやっている」
若者の顔がまた輝く。しかし、その表情を見ることなく、エルヴィンは衣を翻しその場を後にした。
ばさり、とまた音が響く。その軌跡を、存在を眩し気に見上げ見送った若者は、次いで無感情な瞳で足元を見下ろした。
「――さ、とっとと処分するか。あともっと鍛錬しないとな。エルヴィン様のお役に立つために」
赤い海に、禍々しいほどに白い羽がひとひら、舞い降りる。純白はすぐに違う色へと染まっていった。
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「大天使が百四番目の『使役』エルヴィン、ただいま戻りました」
「おかえり」
霊圧に包まれた建物、その内部。敷き詰められた石の床に、大きく無駄なく切り出された石の柱。頭上より注がれる光は、規律と繁栄を模した硝子細工を通し、内部に居る者に荘厳なる空気を投げかける。
その中に一人立つ銀髪の男は、扉を開けて入ってきたエルヴィンを認め、鮮やかな碧眼を細めて微笑んだ。
「またその名乗り? きみはもう、名実共に『使役』の域を超えている天使じゃないか。『父』『母』とまではいかなくともそれに準ずる程度に威はある。異論を唱えるものは、既にこの天界にはいない。堂々と個を名乗っていいんだよ?」
「いえ。自分はまだ、使役の前で翼を仕舞えぬほど未熟でありますので」
そう応える金髪の天使の背に、翼は見えない。銀髪の高位天使は、軽く首を傾げた。
「下手な嘘だね。仕舞おうと思えば仕舞えるのに、そうしないのは使役と距離を近くするためかな?」
「ご想像にお任せ致します。かのような有様ですので自分は重責を負うに至らず、位を持つに相応しくありません」
「本気で言っているようだからなあ……勝手と見せかけ謙虚だね。さすが、僕のキュリスの配下」
くつくつと喉奥で笑う声音と表情に、隠しきれない優越の色。
「それはそうと。経過はどう?」
「はっ。我が使役十二体、そのうち八体が前線担当の鍛錬を積んでおりますが、うち三体が武器霊具を扱えるまでとなりました。ただ、一体は未だ経験不足ゆえ技に荒さが目立ち、即実戦配置となると不安が残ります」
「つまり、もう少し時間が要ると」
「はっ」
「どのくらい?」
「二週間は」
「う~~ん、……本当はその半分にして欲しいところだけど、念には念を入れたいしきみがそこまで言うなら最低でその程度必要なんだろうね」
うねった銀髪が、鮮やかなまでの碧眼が。投げかけられた色を反射して優雅に光った。
「わかった。補給路の強化と同時進行ならその時間を赦そう。ますます忙しくなるけどきみときみの使役ならば大丈夫だろう。任せたよ」
「はっ」
石床においても殆ど足音をさせない身のこなしで、銀髪の男はエルヴィンに近寄った。一刻ほど前の彼と同じく、通り過ぎざまに肩を軽く叩く。
「僕のキュリスも、きみの活躍をきっと願っているよ。あの黒い使役もね」
ただ、先ほどと違うのは、恭しく頭を下げたエルヴィンの拳が、固く握り締められたことである。
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づ、と遠くで何かが貫かれる音。
水色の弓を構えた残心のまま、エルヴィンはその様を眺める。人間でも目視できる距離にて、霊気の矢で撃ち抜かれた「的」。陽光にも似た矢はそれを貫通した直後、まるで何も無かったかのように宙に溶け消える。
「 」
額に穴を空けた天使は、仰向けに倒れた。その下からやや遅れ、血と脳漿らしき液体が広がる。
「ッさすが! さすがエルヴィン様です!!」
顔を輝かせた使役の若者が、尊敬の念と共に近寄ってくる。
「ユエル、今見るべきは俺ではない」
「あっ、すみません」
無表情のまま顎でしゃくると、即座に諒解した若者は純白の翼をはためかせて「回収」に向かった。初動を誤った焦りはあれど、その動作に微塵も迷いは見当たらない。
「エルヴィン様、これも処分しておきますね!」
「ああ」
屈託の無い表情で、己と同じ顔の、同じ姿をしたものの死体を検分する彼。そういうことをさせている自分。まだ少年といっていい外見の使役は、視線が合うと見るからに嬉し気にし、せっせと行動を早める。まるで親に褒めてもらいたがっている小さな子供のように。
(……俺はお前がそういう視線を向けるような『親』ではない)
まるで昔の自分を見ているような、それでいて決定的に違う何かに、エルヴィンは常に突き刺されている。
自業自得とはいえ。
――かつて一体の『使役』に過ぎなかったエルヴィンが、おのれの手で『使役』を生み出せるようになって、十数年。
――わずかな歳月の間に、何もかもが変わってしまった。
(かつて、俺が憧れていたのは。今の俺がしているのは、していることは、)
こうやって考えが袋小路になるのは、昔からの悪い癖だとわかっている。しかし、今のエルヴィンはそれを正す気力も抑止力も持っていない。ゆえに、進むしかない。進んだ先が血塗られていようとも。
あの頃の、傷ついた麒麟の仔どもに寄り添っていた時からすると、鍛えた技や身の内に増えた力は段違いだというのに。どうしてだか、よろつきながら飛び回っていたあのひとときが例えようもなく尊いものに思える。時間は巻き戻せないと知ってはいても。
深い緑色をつたった清らかな雫、大樹の下で真っ直ぐに立ったあの仔は、今はいずこに。
(……翼無き我が親友よ。きみにはもう、近寄ることすらできないかもしれない)
そして。
使役が去ったあと、ひらり、とひとひらの羽がまた舞い降りた。視界の真ん中を通り過ぎたそれを掴むことなく見送り、エルヴィンは苦く嗤う。
あの頃とは違う、長く分厚い衣。その下に隠された色違いのひとひらは、それを残してくれた片割れは。
「――――サリアは、どう思うかなぁ」
もうあの頃のまっちろ天使はどこにもいないんだと知ったら、彼女はなんと言うだろうか。




