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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第十章
111/127



 秋の空は高く、遠く、どこまでも澄み渡っている。


 水場の上空を連なって飛び交う、四枚羽。その小さな彼らが、人界での最後の季節を報せるように目の前を通り過ぎていく。雄と雌、重なった一対がまた、ちりちりと。

 西北の涼風はいよいよ強く、涼風というより冷風という温度を感じることが多くなった。今までは真夏の暑気を和らげるかの如く優しげだったものが、正体を徐々に現していくかのような。

 冷たすぎる外気は虫らの活動を完全に停止させ、体毛の少ない動物や小さな植物に躊躇い無く牙を剥くだろう。丈夫な外殻持つ動植物に対しても、その耐性を試すかの如く心身を打ち据えるだろう。寒冷の豪風という厳しい自然のすがたになって。これからお前たちに容赦はしない、ゆえに備えよと。思えば、この季節はこの地方にとって最後の猶予期間なのかもしれなかった。


 そして我輩らは今月を最後に、天へと還る。




「まさか『お嫁に行くのを見送る』のがあたしの方だとは思わなかったわ」


 そんなことを言いながら、切り揃えた茶髪の娘は手元をせわしなく動かす。小さな手で仕舞われていくのは、細々とした人界の道具。二本足五本指の「ひと」の身体で使われていた日用品の数々である。

「ワカバ、歯ブラシいる?」

「……ううん」

「櫛とか、タオルとかコップは――ってこれも要らないか」

「……うん」

 宙に持ち上げられ、一瞬動作を止まらせてのち、すぐ手元に戻される物品。丁寧に包まれ、紙箱に折り重ねて積まれ、蓋をされていくそれらは、恐らくは暫く使われない部屋へと仕舞われていくのだろう。

 この家屋の主の視線が向かない場所へと。

「そっか。そういえば霊力の高い精霊族って、行使状態が万全だったら身体の汚れも粒子レベルで落とせるのよね。本拠地の天界なら、本来お風呂要らず。ふふ、ワカバが天の霊獣だってこと忘れてた」

「……」

 家屋の主である彼女は、てきぱきとした動作と同様、声も表情も曇りが無い。一見。

「大丈夫、ワカバの歯ブラシもお裁縫道具もお料理道具もちゃんと取っとくから。里帰りの時、困るでしょう?」

「……うん」

「なに辛気臭い顔してんの。今生の別れってわけじゃないんだから、しゃんとしなさいよ」

「……うん」

 人間の娘の手際の良い荷造りと対照的に、ワカバの手つきは至極のろのろとしたものだ。言葉少なで、新緑の視線はいつもより心持ち下方にあった。

 そのすべてに気付いているはずの彼女は、気付いていないかのように振舞う。

「天界に行っても、人型種の道具は必要よね。最近の移住事情からして、霊獣が人型種と縄張り交渉することも日常だってリョクさんから聞いたわ。お洋服、ちゃんと持って行きなさいよね」

「……うん」

「困ったことがあったら、すぐ誰かに相談するのよ。リョクさんとかアオさんとか、頼れる先輩たくさんいるんだから、ちゃんと有効活用しなさいよ」

「……有効活用って」

「あら、言い方悪かった? でもこれから新天地で新生活スタートさせるんならそういうもんでしょ。要はみんなと仲良くやれってこと。あたしと違ってあんたそういうの得意でしょ」

「……テス、」

「大丈夫。あんた友達作るの上手だから、きっとすぐなんとかなるわ」

 紡がれる言葉の滑らかさも、声音の高さも。第三者から見るならば至極軽快で、明るいものと言って差し支えないだろう。そこには家族との物理的な別離など気にしない、むしろ旅立ちを喜んで見送るような大人びた爽やかさが在る。

 ただ。


「テス。……こっち、向いて」


 今日の彼女は一切、彼女の家族と視線を合わせていない。





 それからしばらくの会話のち、激昂した彼女はやりかけていた作業をそのままに家を飛び出した。残された若葉色の娘は無言でその場に佇む。散乱した紙切れ、取り落とされた幾つかの道具。それらを丁寧に畳み、仕舞い直してのち、やっと家を出て彼女を追った。

 初秋の風が、新緑が過ぎ去ったあとを素早く通り抜けていく。



◇ ◇ ◇


 人界でのことがひと段落を経た時。

 我輩は単身で一旦天へと戻り、上層へ駆け上がり、天使の我が友はじめ上層部の幹部らに再び謁見した。彼らは無論、人界での事態始終をかなりの早い段階で承知してはいるのだが、より細かな把握と状態収拾のため、当事者である我輩が呼ばれたのだ。

 一通り説明後、天界治安維持の総元であり翼持つ統率者は、数十年前より変わらぬ鮮やかな碧眼を眇めた。

『こちらもだいぶ、状況を整えておいたよ。そろそろ戻ってきてもいいんじゃないかな』

 口の端を釣り上げてそう勧めてきた主天使どのの言に従ったわけではない。しかし、我輩としても頃合いだと感じていたので、素直に同意を示した。



 場が開き終わったのち、主天使どのの傍らに控えていた我が友と挨拶を交わす。彼は現在、母たる大天使どのの元を離れ、主天使どのに仕えているようだ。

 数ヶ月だけの別離だったというに、やけに懐かしく思える晴天の瞳が、人型と化した我輩を柔らかく映す。

『――お疲れ様。まだ君の本懐からは遠い位置なのかもしれないけれど、事態が前進したことを祝わせてくれ。俺もこの先忙しくなるから、言える時に言っておきたい。ひとまずおめでとう』

『うむ』

 位が上がり背負う責が重くなった彼は、明日からまた別件で上層部を辞するのだそうだ。再会も束の間、また暫しの別れとなる。

『君が朗報と共に天に戻る日を、そしてこの言葉が言える時をずっと待ち望んでいたよ。正式な帰還が今日ではないのが少し惜しいけれど、ね』

 陽光の髪は、数ヶ月の合間に短くなっていた。白い顔色、夕立のように漂う憂い。微笑みこそ口元にあるが、晴天の瞳は未だ、輝きを取り戻していない。

『――我が友よ、』

『ん?』

 優しげな晴天を前に、我輩は不器用に口唇を開く。

『感謝、する。我輩もずっと、この言葉を言いたかった』

『……うん。約束だったよね』

 使命の一部を果たした今、気持ちに多少の余裕が生まれ、己を取り巻く環境を見渡せることが出来ている。人界でつがいを見出し、二本足の表情変化を事細かに感じ取れるようになった今、この天使がどれだけのものを抱えているのかがより深く伝わってくる。

 それは、異種である我輩が決して立ち入れるものではない。

(我が友は、汚れた角を清めてくれたあの時、かのような心地であったのか)

 改めて、己が大変に恵まれていたことを識る。思えば使役を通して我輩に情報を齎してくれたあの時も、彼はどれだけの労力を費やしていたのだろう。軽口交じりに応対してくれたあの時も、どれほどの痛みを押し隠していたのか。

 携えられた水色の弓は、数十年前よりも幾分しっくりとその腰に馴染んでいる。が、我輩はそのせいで彼に近寄ることが出来ない。武器霊具は、それ相応の扱いをして威力を保つのだ。彼と共にあるそれが威容を放っているということは、彼は「それなりに」場数を踏み、この武器を武器らしく使用しているということだ。……麒麟の本能が恐れを抱くほどに。

(あの恐るべき霊具と相対し死線を潜り抜けた今では、解ってしまう。彼はもう、我輩が識る彼ではない)

 彼の首元に掛けられたひとひらの黒羽は、今ここに居ない彼女への想いを尚も痛切に伝えてくる。

心象的に同じ位置にやっと立てた、しかれど大したことが出来ない。我輩は、彼とは別の道を歩まなければならない。

(けれど)

 あの時と同じく、どこまでも無力で独りよがりな己であるが。


『我輩の今の状態は、駆けようとする志を育てて来れたのは、ここまで駆けて来られたのは、幼き日に包んでくれた白き翼のお陰である。ゆえに、その翼の主が健やかに羽ばたけることを心より願う。いつ如何なる時も、我が脚が及ぶ限り力を貸そう。辛苦なる時も、我が心は常に白き翼に寄り添っている。どうか忘れないで欲しい』


 夏の晴天が、深い緑森を映し瞬く。

『うん。……ありがとう、翼無き我が親友よ』

 幼き頃より変わらない優しさで、彼は笑んでくれた。その視線を受け、ようやっと我輩は安堵する。他者の案じる言葉を受け取る態度に、嘘偽りは見当たらない。

(だからこそ、この別離は新たな始まりであり、苦難ではない)

 独りではないことを、ちゃんと我が友は識っている。あの時の我輩のように。

『では、いずれまた』

『またね。―――元気で』

 魂の相棒がまた共に在るその日まで、互いの道のりは終わらないのだ。



◇ ◇ ◇


 平地の隅々まで広がる薄色。黄と緑の境目、淡さと深さ中間の色付きを為した穂先が、山から吹き降ろす風にそよいだ。黄金色と称するにはまだ早い、若く未熟な波間。

 その中で一人、か細い二本足で立つ人間の娘がいた。風にかき消されてしまいそうなほど小さな声が、彼女の名を呼ぶ。

「テス」

 彼女は振り向かない。さわさわと、切り揃えた褐色の髪が揺れる。

「テス、」

 彼女は応えない。

「テス。……お願いだから。こっちを、向いて」

 彼女は。


「――――ワカバが『やっぱり行くのやめる』って言うんなら、向くわ」


 彼女らしく、たった一人の家族だけに、弱々しく、我儘を吐く。



 秋の気温は春と似てはいるが、その内実は違うものだ。空は色濃く遠く、日暮れは早い。移動を始めた鳥らの見つめる先は南方の空、彼らの過ぎ去ったあとの風は色を持たない。暑さの前と寒さの前、断じるならば暖かさと涼やかさの違いだろうか。

 なびく若草は本来春の始まりのもので、秋の始まりにそぐわない。

「ねえ、テス」

 それはゆっくりと、彼女に近寄った。ぽつんと佇む娘の隣に立ち、そっとその腕を取る。力なく振り払われても、顔を背けられても、めげることなく。

「テス、」

「何よ。行かない気になった?」

「……ううん」

「放しなさいよ」

「いやだ」

「……行かない?」

「ううん」

「ッじゃあ知らないわよ! あんたなんて!」

 吊りあがった濃い色の瞳が、ぎっと音を立てそうな眼光を宿らせる。常人ならたじろいでしまいそうな表情、しかし睨まれた若草の瞳は揺らがない。

「あたしがあのひとをあんたに逢わせたのはねえ、同族がいないって心細そうだったあんたに友達が出来るかなって思ったからよ! なんで、どうして、こ、恋人同士になったからってどうして急に『天に還る』なんてことになるの!?」

「……」

「言ったじゃない! あんた、あたしがお嫁に行くまでは一緒にいるって!」

「……」

「なのに、なんで、」

 見送るのが自分なのか。いつだって。


「いつだって、あたしは置いていかれる側なのよ……!!」


 ぎゅっと彼女は抱きしめられる。消え入るような涙声は、柔らかく暖かな若草に包まれた。






――ねえ、テス。このまま聴いてくれる? 上手く説明出来るかわからないけれど、順序だって滅茶苦茶だけど、わたしの精一杯の気持ちを。

「わたしね。テスが赤ちゃんだった頃のこと、昨日みたいに覚えてる」

「……」

「覚えているよ。テスが初めて一人で立てた日も、歩いた時のことも、喋った言葉も、わたしが作った離乳食を初めて食べてくれた時のことも。ぜんぶ」

「……」

「だって、産まれた時からずっと一緒に居たんだもの。……ううん、テスが、お母様のお腹の中に居た時からずっと、わたしはテスを見てたよ。人間の赤ちゃんに触れるのは初めてだし、とうさまの大事な家族だし、この子はきっと、わたしにとっても大切な存在になるんだって。何をおいても護らなきゃいけない子なんだって」

「……」

「でもね……それは間違いだった」

「……ッ」

「だって赤ちゃんのテスと初めて目が合った時、確信したんだもの」



 わたしがこの子を護るんじゃない。この子がわたしを護ってくれるんだ。



「……言ったこと無かったけど、わたしね、テスがまだ居なかった頃は不安で不安で堪らなかった。体も弱かったし、心も弱かった。霊気が薄いこの人界の片隅で、いつも息が詰まりそうだった。とうさまやとうさまの家族はあんなに良くしてくれたのに、わたしは独りぼっちだって……。他に同種が誰もいない世界で、本来ここに居ちゃいけない存在なんだっていつも意識してた。色々無知でもわかるくらい、わたしは人界にとって不自然な存在だったから」

「……」

「でもね。テスが産まれて、全部が変わったの。人のすがたになれるようになったのは勿論、霊力も体力も上がって、体が格段に強くなって。ふふ、これでも十八年前と比べるとすっごく強くなってるんだよ? ……心もね、テスが居なかった頃とは比べ物にならないほど、つよくなった」

 さわさわと、わたし達の周囲で揺れる麦穂。見慣れた人界の風景。色。匂い。広々と美しいのに、一頭ひとりだけでそこに立つと妙な心細さを感じていた。家族は傍に居てくれていたのに、ほんのりと鼻先を掠める微妙な隙間風。意識しないようにしてもどうしても纏わりつく異種の孤独感。

 でも、今は違う。

「あなたこそが、わたしが人界で生きる理由になった。騎者とか騎獣とか……本当の理由は後から解ったけど、その時は本当に、純粋な光が見えた。不安が一気に吹き飛ばされて、『ああわたしはこの子と生きるために人界に居るんだ』って。なんでも出来るんだ、なんでもしようって自然に思えた。そう思える自分が誇らしかった」

 これらはすべて、大切な存在と共に在るもの。この子を包み、取り巻き、育ててゆくもの。そう自覚出来てから、この世界がいとおしくなった。幸せをそこで初めて、感じ取れることが出来たんだ。

 それは依存に似たものだったのかもしれないけれど、確かにひとつの光明だった。

「一緒に過ごしていくうち、色々あったけどとても楽しくて、たくさんあったかい気持ちになれた」

 初めて喧嘩した日。仲直りの夜にはとうさまに内緒でお菓子パーティーをした。初めて自転車に乗れた日。見知らぬ人間に連れていかれそうになった時、その自転車で体当たりして、自分も転んで傷だらけになったのにそれに構わずわたしの手を引っ張って一緒に逃げた。初めて料理を一人で作った日。黒焦げになった鍋から、ちょっと香ばしいシチューを掬って一緒に食べた。初めてプレゼントをしてくれた日。胸元に歪な「ワカバ」ネーム入りのエプロンは、今でもわたしの宝物。

 たくさんたくさん、思い出がある。あの部屋に仕舞われる、様々な物品の数だけ。いや、それ以上に。

「そうやって、テスが、今までわたしを護ってくれた。ずっと。『独りじゃない』って教えてくれてた」

「―――」

 触り慣れた、栗色の髪を優しく撫でる。

「ずるいね、わたしって。そういう意味ではテスのこと、利用してた。テスは正直で優しいから、受けた気持ちをそのまま返してくれる。親みたいに姉妹みたいに接すれば同じだけの親身を返してくれる。お父様お母様のあの不幸もあって……わたしにとって一番安心出来る関係が家族だったから……まあ、そんな変な打算は、今まで意識してなかったわけだけど」

 どんなに親しい存在であっても、異種である以上生活のすれ違い、相違観念は存在する。普段はそれを上回るものに違和感を誤魔化されてるだけだ。

 くだんの出来事で、わたしは初めて自分と同種の存在に出逢い、触れ合い、今まで意識してなかったものを痛切に思い知らされた。イヴァとしての同調や本能、魂の故郷である天界への憧憬意識も思った以上の強さで呼び起こされた。この世に生を受けてから「先に」魂の相棒と出逢ってしまったからこそ、今度は天界霊獣としての自身が回帰願望を訴える。

 それは異種間のちっぽけな家族意識を軽く凌駕するもので。リョクに「共に天に還って欲しい」と乞われた時、深く悩まず即決した自分に気付き、再三思い知らされた。

 ああ、わたしはわたしの在るべき場所に「かえりたい」と。

「でも、これがわたしなんだ。嘘偽り無い、正直な気持ち。――わたしは、これからは天の獣として生きたい」

 今言える限りの精一杯の言葉で。

「テスのこと、絶対に軽く考えてない。家族として心から大切に思ってる。例え異種でも、本当は生きる世界が違っても、この気持ちは誰にも否定してほしくない。人界で家族を見出せたことは、人界に生まれ育ったわたしの意義。人間のとうさまに育てられたことも、『ワカバ』っていう名前も……全部が大事な宝もの。だから、大切な家族に旅立ちを祝って欲しいの。心から笑顔で送り出して欲しいんだ」

 肩に手を置いて見つめれば、きっと吊りあがった瞳がこちらを睨む。涙目のままで。

「まえに、言ってたことと、ちがうっ。むじゅんしてるっ、じゃないっ」

「うん、そうだね。でも事情が変わっちゃったから。わたし、テスより一緒に居たいと思うひとを見つけてしまったから。……テスも、そうでしょう?」

「ッ」

 素直なあなたは顔を伏せる。

 この前と違って、今度こそ恋する女の子二人は同調してる。お互いに考えてることは一緒だ。恋ってのは、どうしてこうも自分勝手で利己に満ちたものなんだろう。十数年共に暮らした家族が、逢って数日の相手にこんな簡単に負けてしまう。そしてそれが唯一の幸せへと通じる道なんだと、勝手に判断してしまう。

 種族的な発情本能は抜きにして考えてみても、わかる。テスもわたしも頑固でオクテで器用じゃないから、なんとなく確信してる。これ以上の想いは他の人には抱けない。初めての恋、しかも最後だという絶対的な予感を伴ってしまったから、もう自分に嘘は吐けない。テスもそういう存在を見つけて、お互いに「一番」じゃなくなってしまったからこそ、わたしはすぐ結論が出たんだ。

 依存めいた関係は、終わった。もうテスは、わたしを必要としていない。そしてわたしも。

 わかってはいるけれど、悔しいね。悔しいと感じるくらい、わたし達はお互いが大切だ。だからこそ最後の悪あがきくらいは、赦して欲しい。

「……ッぜんぶ、あんたの、わ、っがまま、で、しょ……っ!」

「うん。ただの我儘」

 だからこそ、あなたに聞き届けてもらいたい。今のところたった一人の家族の、最初で最後の我儘だから。

「ねえ、テス、」

 掠れて上手く出ない涙声。ふにゃふにゃの視界。でも。


「大好きだよ。離れていても、ずっと。ずぅっと……!」


 暖かで懐かしい大地のいろは、物柔らかないつもの香りは、ちゃんと傍に在る。抱きしめ返してくれるこの腕は、いつだって自分を護ってくれるんだ。

「あたしもよ、ワカバ」という小さな声と共に。







「――なーリョク」

「――うむ」

「なんで感動の場面で、当事者俺ら二人が揃って蚊帳の外なん? このお話って女の子二人の家族愛物語だっけ?? それにしても焼いた秋ナスうめえな」

「その辺りは仕方なかろう。ほど良く加工調理された南瓜も美味である」


 もぐもぐもぐもぐ、と秋の恵みをほおばりつつ、我輩と騎者どのは少し離れた場所で彼女らを見守っていた。口を挟めないのは仕方あるまい。

 騎者と騎獣は揃って、つがいの涙に弱いのだ。



◇ ◇ ◇


『「皆」も、君の還りを待ちわびている。何せ英雄の帰還だ、一族総出……とまではいかなくとも、そこそこに歓迎されるんじゃないかな』

『―――ふむ。主天使どのがかほどまでに言い募るとは、当方には選択権は在らず。是非も無し、といったところか』

『おや、誇り高いイヴァとは思えない切り返し。人型になれるようになってから俗物化でもしたんじゃない?』

『これは失敬。ついここ四十余年で身についた癖が出てしまった。貴殿が我が処世の術を俗物と断じるならそれもよかろう。所詮、天界に棲む者は人界の理を識らぬゆえ』

『この主天使ぼくを世間知らず呼ばわりか。生まれて二百年余りの霊獣が、身の程しらずに』

『さて、かのように聴こえたか?』

『言ってくれる』

『我輩とて、いつまでも「弱き脚」ではいられぬ』

 二本足相手の交渉では脚以外の武器も備えねばな、と人型の口端を釣り上げる。高き台座、権力者の位置にす銀髪の男は、愉快気に笑った。

『いいよ、やっぱり君はいい。面白いよ。とことん面白い事態を引き連れてくれる』

 風が深緑の髪をさらう。ばさり、とかの者が纏う長い衣の裾が翻った。いつの間にか台座より下り、足音も無しに傍に降り立つ天使。

『試すような物言いをして、悪かった』

 目線を同じくした碧色は壁より投げかけられる極彩色を受け、鮮やかに光る。相変わらず読み難い表情をしているが、瞳の表面に先ほどの無感情な揶揄は見当たらないと言っていいだろう。

いや

『気に入らなければ、僕にまた挑んでいいんだよ?』

『遠慮する。主天使どのが実力は我輩、痛いほどに識っているゆえ。闘いは正直避けたい』

『ふふ』

 差し出される五本指の掌。何を求められているのか察し、我輩も同じ形の掌を差し出す。

『冗談はともかく。きみは本当に強くなったね』

 角も翼も無いその姿と同様、まるでごく普通の「ひと」のように握手を交わした我ら。


『天に棲まう天使の一人として心から歓迎するよ。―――強き脚のイヴァ』


 かつて「弱き脚のイヴァ」と冷淡に言い放ったその声は、比べようも無いほど暖かな音色で賛辞を述べてくれた。





 天使らの元を辞し、本性へと立ち戻りながら空を見上げる。

 頭上に広がる晴天。天に戻る前、人の界で見上げたこれも、ちょうど同じ色をしていた。まだ淡く暖かさを残すも、厳寒をその奥に隠し生き物を見下ろす秋の空。これからの容赦無い季節を予感させるかの如く、どこまでも高く、遠く、澄み渡って。

 ここに居ない黒き翼持つ天使が、この空と同じ瞳をしていた。口厳しく、持つ温度は低く、けれども不思議な労わりを感じた彼女。まるでこの秋の晴天のような雰囲気で我が友を見つめ、心身を支えていた。その低めの温度で伝わるうっすらとした優しさは、群れを失ったばかりの我輩をも自然に労わってくれた。

 色無き風の向こうに在る色濃い空、またあの星色と逢えることを、心から願ってやまない。そして幾多の別れが、新たな始まりとなるよう。


 秋は移り変わりの期であり、そして恵みの期でもあるのだから。




次回か次々回くらいで人界編完結です

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