挿入話・ある父親の幕引き
※残酷描写、登場人物の死亡など、辛い表現があります
※そういうのが苦手な方、苦しむ描写等が苦手な方は無かったことにしておいてください
二度と戻るなと。戻ることなど赦さないと、かつては思っていた。
まだ薄い外明かり。静かな水の音と同調するよう、澄んだ空気が肌に沁みる。外の静寂とは反対に、家の中の空気は賑やかだ。朝餉の香り、せわしなく屋内を行き来する気配に時折混じる悪態。それを扉一枚隔てた背後に感じながら、オレアードは玄関の前に立っていた。
時折吹く風に、暗紫色の肩掛けと白い総髪が揺れる。かつてのアッシュブロンドはすっかり色褪せ、陽光を受けても複雑細緻に輝くことは無い。尖った耳は色を宿すことは滅多になくなり、常に垂れ気味になった。杖を握る手は、顔と同様に皺にまみれている。宿す握力も杖に縋って歩く脚も相応に弱い。ここ数ヶ月、背筋すら伸ばせなくなった。
ただ、その双眸は。
夜目が完全に利かなくなり、近くの細かなものを追い辛くなった現状でさえ、視線の強さを失うことは無かった。年輪に囲まれてなお、彼の両眼は往年の端麗な印象そのままに在った。さながら至高の鉱物をよく切れる刃で極上の形に切り取ったかのような、凛々しく涼やかな目元。
青紫の宝石は、静かな早朝の自然区域を静かに見つめる。かつてとだいぶ様変わりをした森林、続く一本道。その先は人間の数多く住まう集落であり、この孤家とは違った体を為している。更に込み入った往来が広がり、無数に行き先が転換する人型種の人工道。
オレアードは、しばし無言でか細い道に視線を送る。青紫色の瞳は瞬きをしつつ、時折別の場所にも視線をやった。道無き獣道、別の自然区域へと繋がる空き地の方角。朝靄が漂い光が届かないほどに奥まっている森林。白灰色の空さえも。まるで気紛れに気分を変える風のように。
見渡せる限りの方向に目をやりつつ、深い感慨に包まれる。
――あのひともかつて、こうやって玄関の前に立ち、色々な方角を眺めていた。まるで誰かがどこからともなく帰ってくるのを、期待していたかのように。
『……寂しいわ。やっぱり逢いたいの』
あの頃の自分は、同意の言葉を返すことは出来なかった。年を経た今も、決してそういう気分にはなれない。
「おいじいさん! 具合悪ィのに外で突っ立ってんなよ! んなことより俺のタイしらねえ!?」
理由のひとつとして、今こうして背後からやかましい声で呼びかけてくる人間の若者の存在があるからだ。「親」としての寂しさなど、一度も感じたことはない。
――そう、「父親」としては、決して。
「式典ちょうメンド……! なんでこうイチイチ首苦しいカッコしなきゃならんのか」
「人間の礼装は簡素であろう。それでも着たくないなら、いっそ武人の正装で行くがいい。その方が我が家の血筋に沿う」
「いや、あのクソややこしい胸当てとヒラヒラ布付けるのマジかんべん」
ばたばたと支度をしつつ、改まった服装に身を包み、黒髪の青年は唇を曲げる。いつもの童顔に撫でつけ整えた髪、首元足下まできっちりしたそれ。今日は少々遠出をするのだ。
人間界隈ではそれなりの地位に在り、そこそこ場数を踏んでいるというのにアルセイドは改まった席が大の苦手である。老化が極端に遅い見かけと同様、若者そのものの口調で苛々と愚痴を零す。
「新設資料館への寄付なんざこれで最後にしとく! 呼ばれた先でオレアードさまオレアードさまうっせえし」
「それしきのこと、いなせないで当主とは言えぬな」
曲がっている部分を指摘してやりながら、オレアードはやんわりと笑む。見かけも種も違うというのに、こういう時は血が繋がっているのだと感じる。自分も、若い頃は礼式が得意ではなかった。
「じいさんが調子悪くなかったらぜってえ俺いかねえよ、あんなとこ。もうエルフ関連で騒がれるの沢山」
「仕方なかろう。それも家名のさだめだ」
「へーへーわかってますよ」
若い見た目にそぐわない慣れた手つきで襟元を整えたあと、装飾剣帯を腰に巻く。しゅるり、と音を立てそこに収まるのは家宝の長剣。
「あとは公の場で騎獣を呼べば完璧だな。私の血縁者という前置きに加え、更なる『名声』を得られる」
「呼ばねえよ」
長身の青年は即答し、剣の位置を確認する。きっちりとした井出達、腰に装飾剣を帯びたその格好はさながら若き軍人高官のようだ。その胸と肩に勲章と階級章が無いだけで。
代わりに光るのは、古代文字の形で守護が刻印された剣帯の輝石。
「俺はもう、余計なことで目立ちたくねーんだよ。特に、リョクをそういうのに巻き込みたくない。あいつはあいつで、大事な使命背負ってるかんな」
「……わかっているならば、良い」
その凛々しい横顔にもう一度笑み、オレアードは確認完了の意で広い背を叩いた。身内間での態度の軽さと言葉遣いのこどもっぽさはともかく、孫は今や堂々と胸を張れる肩書きと自立した意思を持つ大人になっている。
朝靄が晴れ、陽光が差し込んだ。窓や扉の隙間から、目覚め始めた植物の匂いが漂ってくる。季節は春の半ば、日の出とそれはいっそう光り輝き生命を謳う。
起床した時は薄かった芳香が、ゆったりと濃くなってきた。今年の春は、あの花が咲く周期なのだ。オレアードと同じ色の肌をした顔が、こどもっぽい表情ですんすんと鼻を鳴らす。
「庭のあれ、匂いすげえな。今日の午後当たり満開になるっぽい?」
「摘んでいくか」
「え」
「聖丁香花は期を逃したら、あと数年は蕾をつけぬ。今のうちに咲き初めのものを持って行くがいい。昼間にはちょうど八分になる」
剪定用の鋏を取り出し、数分ほど待つよう言う。孫は少し戸惑った風だった。今まで、オレアードがこういったことをもちかけたことは無かったからだ。
「俺の名前入ってるんすけど。もしかしなくても『名送り』しろってか。えぇ……」
「ああ。相手の名なら情愛、自分の名なら博愛を示す。人間といえど史学者なら大陸古代の風習は承知しているはずだ」
「……まあ、洒落た心遣いにも見えるかもな」
「そういうことだ。館長に就任するお前の旧友も喜ぶであろう。主となるものを邪魔しないだけの品もあるし、贈呈物としては堅実だ」
いつになく饒舌な祖父を見つめ、アルセイドは何か言いたげにした。物心つく頃から馴染みのあれを、オレアードがどれだけ丹精して世話をしてきたのかということを知っているから。
――そして、その名にどんな意味がこめられているのかも。
「……、俺は嬉しいけど。でもいいのか、じいさん」
「ああ」
瞬く緑の瞳に、促してやる。
「あの花は、祝福のための花だ」
・
・
・
「じゃあ行ってくるわー。コレ、さんきゅ。……ちゃんと寝とけよ、じいさん」
「ああ」
腕に荷物と薄紫の小奇麗な花束を抱えた孫が上質の上着を羽織り、人工道を通ってバス亭に向かう。その後ろ姿を見送ってのち、オレアードは玄関の扉を閉めた。
閉めた途端に顔色は蒼白となり、崩れ落ちるようにその場に膝をつく。
手にしていた杖が重心を支えきれず手から離れ、からん、と玄関の床に落ちた。
「…………ッ」
呼吸が定まらない。動悸が激しく、そのくせどんどん体温は冷えていく。肩掛けを纏った両肩が息継ぎと共に上下し、白髪がはらりとひとすじ頬に落ちた。
(ついに来たか)
オレアードは苦しい息の下、苦笑する。膝と床の上についた手が、我ながら情けないほどに萎びていたから。手首は細く、厚着をしている胴回りもその布が浮いていて動く毎にがさがさと音を立てる。走るどころかあまり出歩くことがなくなった脚も同様にやせ細り、杖がなくては満足に歩けない。骸骨のように肉が削げたみすぼらしい老人が映るので、最近は鏡もあまり見ない。筋力も視力も並みの人間以下に落ち、家屋内の往復すらここ数日は困難になっていた。
しかし、今日でその苦労も終わりらしい。
孫には、深刻な不調を悟らせないでいられた。始終、穏やかな表情でいられた。そのことだけを満足としつつ、オレアードは力を振り絞るようにして立ち上がった。
玄関脇の階段、その踊り場に置いてある花瓶の花が、あの芳香と共に柔らかく揺れる。まるで彼を励ますように。
『この家はとって広いわよね。……広すぎて、歩くのも大変よ』
誰かの声が過ぎる。その瞬間だけ、老エルフの顔から苦しみは薄くなり柔らかな色が灯った。
(そうだな、本当に広い家だ、)
「――、」
かすれた声でその名を呟き、オレアードは前を向いた。そう、おのれは大丈夫だ。意識は有る、呼吸も出来ている、声も出せる。そして、歩くことも。
老人の筋張った手が、杖を拾う。視線を上げ、青紫色の瞳は霞んだ視界でそれを見つめた。家の最奥、その扉。今の自分の寝室であり、この家唯一の防護部屋。
――かつてあのひとと初めて心を通わせ、最期まで手を握って過ごした場所。
(たのむ、)
壁を這うようにつたいつつ、前進しながらオレアードは願った。願うなど、本当に久しぶりのことだった。
(頼む、あそこまで動いてくれ)
久しぶりに、願う。最期の願いを。永く永い旅、その終わりの場所を。
(寝台までもってくれ、私の身体よ)
せめて、あのひとと過ごした場所で、眠るように死にたい。花の香りと何より大切な名前を、胸に抱きしめながら。
◆ ◆ ◆
寿命をまっとうしたエルフの最期は、見苦しく、醜いものであるという。
エルフやドワーフ、リリパットやグラニアといった呼称を持つ人型種のことを、精霊族の区分にて「妖精」と総称する。妖精は、最も人間に近い精霊族である。見た目や性質は勿論、他精霊族と違って霊気の薄い場所でも健全に生きられるのが大きな特徴だ。人間と同様、器を構成する要素が雑多であり、感覚が鈍重な割に適応力に優れているからである。……精霊族の中では、という注釈付きでの話だが。
エルフは、妖精種の中で最も寿命が永い。何せ、健康であれば千年を越してなお生きるのだ。人界に生息する全人型種において、エルフを超える寿命の生き物はいないと言っていい。器は他妖精と同じく雑多、しかし霊気を蓄える細胞の活動期間が群を抜いて長く、老化が極端に遅いのだ。自然、「長命種」といえばエルフを指すことは人界の通識だった。
ただ、当のエルフ史上、その長寿を全うし老衰で死んだ例は少ない。
大きな理由のひとつが、この世界のエルフは戦場に生きた者が多かったこと。生まれて百年余り――エルフの年代では二十歳程度の青年期――で戦死する者が、古代から大多数を占めていたせいだ。純朴ながら好戦的な種族性質、私闘にかけて強者絶対主義という作法もそこに組し、戦地とは関わり無い一般庶民であってもくだらない喧嘩や諍いなどで簡単に命を投げ出し、またそういうことを問題視しない者が多かった。
ふたつめの理由は、長命種特有の生殖率とそれに纏わる意識。純粋種の厳格な血統保持、その締め付けに反発するかのようにある時代から流行ったのが異種婚姻だった。エルフの血は優性であることが多く、生まれた子供はエルフの形態が大多数を占める。しかし、子供の寿命は異種の片親に倣うよう短くなった。いくら純粋種同士で婚姻しようと、生殖能力の低さと効率の悪さが異種婚姻の比ではない。自然、他種族の血が混じる「寿命の短い」エルフが増えていったのだ。
公にそれと認められているのはこの二つ。あとは、ただ単に老齢となったエルフがあまり世に知られていないだけか。大戦後、エルフは最も総数を減らし、最も棲息場所を変化させた精霊族である。今の時代において遭遇じたいが稀なのだ。大戦前は最も多く交流してきた最も近しい異種、しかし今や霊法師でもない只人では一生を終えるまでにエルフ一体を見かけることが出来れば幸い、そんな案配である。
ただ。
みっつめの――だいぶ信憑性が薄い――理由。それが、一部の歴史研究家の中では極最近になって、まことしやかにささやかれている。
すなわち、「寿命をまっとうしたエルフの死に様は醜いので、大抵の者はそれを嫌い、若いうちに自死を選ぶのだ」ということが。
……エルフは、最も寿命の長い人型種であると同時に最も美しい人型種だとも言われている。すらりと長い手足と独特の存在感、見目麗しい顔によく通る声。それが、エルフという種の「普通の」容貌なのである。
いつ如何なるときでも美しい、苦境ですらその美貌は磨きがかかるとも云われる種族、そんな彼らが容貌について自尊を抱いていないはずがない。ゆえに、醜い死に様が赦せない、容色の衰えも見せたくない。だからこそ美しいまま、美貌のままで死にたがるのだ。戦場に降り立ったエルフが悪鬼と称されたのも、すべてそういう理由で死に急いでいた証なのでは。……と、人間の一部の史学者はそんな根拠の無い仮説を立てた。
尤も。
自身がエルフの血を引く別の学者は、その説を聞くなり鼻で笑って否定したらしい。
『それこそ劣等感まみれな人間さまの勝手な妄想だろ。エルフを耽美主義のオカズにすんなよ、この(ピー)』
学界の権威であり歴史の生き字引たる高名な彼であったが、その時の発言はかなり下品な言葉が含まれていたため、周囲の者は慌てて形式文言に直したそうである。
ともかく。
多少の浪漫、時に個人妄想やご都合主義を織り交ぜながらエルフという超長命種の末路は様々に予想された。人間の一文明が興っては潰えるまでの膨大な時間、それと同等がエルフの一生の長さである。生命という人類永遠のテーマを探求する意味でも「エルフ」という種は研究し甲斐のある、果ての無い生き物でもあった。
戦禍の元凶たる責めと魔女狩りを警戒し、大概は歴史に埋もれることをよしとする。しかしそれが一族の総意というわけではない。そのうちの一つ、つまり自ら世間に名乗り出て、純粋種であることを理由に国の生活援助下に入るエルフは、わずかながら存在した。そして彼らが生きている間は、やはり世論の的となった。エルフ同士ですら、その生き方は賛否両論であった。
戦後、あちこちの国で生活恩給という名の懸賞金が掲げられ、絶滅寸前の純粋種が捜索された。尤も、そういった方法で「見つかった」エルフは、貧困より救われると同時にそれなりの代償を払わされることになる。人間の国への絶対忠誠が自動的に誓われ、古代文献読解への協力や貴重文化財を無償で提供することになるのはもとより、寿命を終える際「検体」となって国の医療研究機関に引き取られる証書にサインさせられるのである。いわば、エルフの生き残りはわずかな金と引き換えに、自分達の持ちうる「財産」すべてを売り渡すことになるのだ。
しかしそれは決して一方的な取引などではないと、ある者は言う。エルフは逆に、人間に全てを明け渡すことでみずからの優位性を見せ付けているのだ、と。
老衰による長命種の死――それは短命種には決して暴くことが出来ない、永遠の謎。
実際、ある時代に純エルフを任意「検体」として調べた国の研究者は、皆お手上げ状態になった。研究結果は守秘義務で守られてはいたが、ある者は知人に一言だけ洩らしたらしい。
「あれは、検体にはならなかったよ」と。
寿命をまっとうしたエルフの死に様は、見苦しく、醜い。そういった噂が徐々に広まっていったのは、それから後の話である。
◆ ◆ ◆
一歩、また一歩。
感覚が無くなりかけている脚でゆっくりと前に進む。視界は霞んでいるが、まだ距離感はつかめている。しかし、かつて数歩で到達した距離を縮めるのに、一体どれほどの体力を使うのか。
老エルフの横顔に、また柔らかな笑みが灯った。
『ありがとうございます、申し訳ありません。――』
懐かしいあの記憶が過ぎったから。か細く柔らかい、あのひとの声。結ばれたばかりの頃、幾度となくすれ違いもどかしいものを通わせた思い出の日々。
足の末端が、中々前に進まない。まるで流砂の上を吊られながら歩いているかのようだ。壁を這う手も痺れ始めている。そろそろこちらも感覚がなくなるだろう。杖をつけなくなったら、文字通り這って進むしかない。
饐えたような臭いが漂う。予想はしていたが、思った以上に早い展開に内心苦笑する。
(これか)
足下はもう見たくない。感覚が無いのはもとより、おぞましい状態になっているだろう。家を汚さないよう、履物を引きずるようにして前進する。
「……グッ、う、うぅ」
喉にこみ上げてきたものを堪え、吐いてしまいそうなものを飲み下しながら前を向いた。まだ、目指す扉は遠い。
廊下の途中、花壇を全景とする窓。朝陽を浴びて輝き出した草の緑、薄紫の花。危うくなった視界でもそれは存在感を示してくる。まるでこちらを導くように。
いかなくては、と思う。ひたすら、前に進まなくては。
『どこに、いるの』
――あのひとが、呼びかけてくる。
・
・
・
筋力が殊更に落ち、全身の肉も相応に減ったのはここ十数年のことだ。老齢になると痩せていくのは一族の特徴として知識に有るが、まさかそれを自身の身体で証明することになるとは思ってもみなかった。オレアードは、エルフの武人であったから。
若き頃よりいくさ場を駆け、いのちをやり取りし、そうやって生きてきた者として、老年になるまで歳を得るなどかつては考えられなかった。生きるか死ぬかの瀬戸際が通常であったあの時代、おのれが息絶えるのはどこかの土の上か草の上、もしくは血色の屍の上に新たな一体となって横たわるものだと思っていた。他の武人と同じく、墓標など要らぬと。例え肉体が四散したまま野に棄てられたとて、それが殺戮者の応報でありいくさ場に生きる者のさだめなのだと。昔はごく自然に、そう考えていた。
しかしどうしたことか、オレアードはこうして生き残ってしまった。生き残ることを、自身に赦してしまった。戦地から五体無事で帰還しただけでなく、二度とその場に戻らないと自分で決め、死に場所もあっさり変更してしまったのである。
オレアード自身はこうすることを決めてから後悔はしていない。永年の相棒であった亡き騎獣への感謝と義理立て、そういった区切りもあって、武人を引退し「騎士」の称号を返上することになんら躊躇いは無かった。殺戮の道を歩んだ武人として不相応な末路を選んだことに様々な感慨は生まれたにせよ、結局はさもありなんと納得していた。
何よりも、武人を辞めてから一番大きくなった単純な利が、その道を選んだことに後悔を抱かせなかった。
――あのひとと過ごす時間が増えた、ただそれだけのことが。
人間の誰が言い始めたのか、エルフの老衰した最期は見るに堪えないものだという。オレアード個人としては、それは間違ってはいないと考える。実際、エルフは(武人でない文人や只の平民であっても)年を取った姿を他人に見せたがらない生き物だ。
遠い昔に先立った知人、齢にして二千を超えていたエルフ有数の年配者も同じようなことを言っていた。
『わしのような者は変わり者じゃよ。老齢を悟ったら大概はひと前に出ぬ』
さながら樹齢を経た巨木が、深森の奥地にて苔を全身に生い茂らせ、枝葉のかしこに動物を棲まわせ、ゆったりと息づくように。歳を得れば得るほど、降り積もるものが増えていき環境は相応となる。蓄えたものに押し潰されるのを防ぐため、また煩わされるのを避けるため、知能有る生き物はしめやかに生きるようになる。例外もいるが。
『歳を食えば隠遁も楽となる。そして最期を悟ったなら、納得と共に迎える』
そう言っていた彼自身、最期は深森の奥地で迎えた。身辺を整理し、住居さえも畳み、精霊族ならではの自然に還るやり方でひっそりと旅立った。それが、何よりの望みだったのだ。そして、寿命をまっとうしたエルフとして実に理想的な死に方でもあった。
老衰したエルフは、この世界で最も年を重ねた器の限界体である。息を引き取る際、襲いかかるのは今までの歳月だ。膨大な数と時間を経て重ねられた磨耗、消耗、すべてがその場に満ち溢れる。霊気という生命力を使い果たすことで、やっとエルフは長命種でなくなるのである。
オレアードは知っている。エルフの純粋種の最期は、人間が噂する「以上に」見苦しく、醜いものであるということを。
……寿命を終えたエルフの身体は急速に腐る。他の生き物とは段違いの早さで細胞が壊死、水分が失われ、僅かな風で吹き飛ばされ、塵さえ耐久を見せず散り散りとなって――結果、骨しか残らない。生きながら、肉が溶け臓腑が腐り落ちすべてが無くなっていく苦しみを味わうのだ。そんな最期がうつくしいはずがない。
腐臭と汚物を撒き散らしながら白骨化。それが、エルフの真の末路であった。
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不思議なものだ。終わりに向かって歩いているというのに、末端より肉体が朽ちていく激痛と苦しみを感じているのに。胸に去来するものはすべて、暖かく、優しい。
『ねえ、』
寝室の前にたどり着く。杖はとうに、手から離れていた。両脚と両手が痺れ、末端より壊死し、もう立っていられない。しかし床に膝をついたまま進んだ。這って、その先に。
『っ』
あのひとが、息を吸い込んでいる。自分と同じく寝室の前で、重い扉に身をもたせかけ、渾身の力を振り絞って開けようとしている。
大丈夫、ゆっくりでいい。どんなに困難でも、その扉は必ず開くのだから。
(一緒に開けよう)
肉が溶けた頬。黒ずんだ手。痛みはもう無い。
微笑みが、また舞い降りる。花の香りと共に。
『――愛しているの、』
私もだ、と。
・
・
・
寝台に、横たわる。
涼やかな風が顔を撫でた。窓を全開にしておいて良かった、と思った。濁った空気が篭らないし、何よりあの花の香りが満ちている。
睫毛が抜けた瞼を、ゆっくりと閉じる。光は腐り落ちた肉を通して差し込んできてはいたが、気分というやつだ。
「――――……」
ゆっくりと、息を吸って吐く。幸いなことに、おのれは肉体的な苦痛に耐え性がある。意識が無くなるのはいつになるかわからないが、それまで精々穏やかに過ごすことにしよう。
最期の願いは、叶えられたのだから。
『ずっと一緒にいたいわ』
(ああ、これからはずっと一緒だ)
そのことを確信し、オレアードは心から笑んだ。
少し、考える。孫が帰ってきたら、少々この惨状に混乱するだろうと。
(しかし、アルセイドは大丈夫だ。あれは知識があるうえに、毅い。きっとすぐに立ち直り、場を手早く収めることが出来る)
近いうちに来るだろうこの日を予測し、出来る限りのことはしておいた。託すものも無事託し終えたし、孫に遺すべきものもちゃんと示してある。
孫については心配はしていない。ただ、気になるのは別のことだった。
記憶に紛れる残影。自分と同じ顔をしてあのひとを見つめていた、ひとりの少年。決して赦すべきでない罪を犯し、自分からこの家を出て行ったあの存在。
(――あの男は、戻ってくるのだろうか)
自分は今日で命数を終える。それは確実なことだが、その報が世界を巡り、どこかの空の下にいるあの存在の耳に届くのはいつになるのかと。そう、考えた。
孫に話したときは言葉を濁したが、生きていることは知れている。幼き頃よりあれほどの容量を持ち、賢人になることを確実視されていたのだ。それに、風の精霊王の加護も得ていた。どこかで器が果てれば、それなりの巨きな霊力変動が見られるはず。だというのにそういう混乱が無いということは、今もどこかで生きているのだ。
(戻ってくるのか)来ないのか。自分はそれを見届けることは出来ないし、待つことも不能となった。心残りといえば、それが心残りだ。
(……なぜ、)
なぜ、自分はこんなことを今わの際になって考えているのか。つい一年ほど前までなら、こうではなかった。気を煩わすことなど微塵も考えず、ひたすら孫への信頼とあのひとへの想いを胸に幸せな最期を迎えたであろうに。そう、昨年までの自分であったなら。
理由は、すぐに知れた。
霞みかけた脳内に過ぎる、湖面のような双眸。深森を思い起こさせる鬣。
(あの獣と話せたからか)
孫が安直にも緑と名付けた、あの騎獣。若々しく立派な角と強き脚、思慮深さを湛えた瞳。かの存在と会話が出来たからだ。
かつて戦地を駆けていた頃、共に在った絆。それとよく似たあの清廉な魂に、抱えてきたものを打ち明けられたから。嫉妬などという青臭い感情、呑み込んだ苦しみ、身の内に刻まれた恋の爪あと。あのうつくしく偉大な獣は愚かしい人型種の業を否定せず、ただ静かに聞いてくれた。在りし日の相棒のように。
――だから、かつて恋情に狂っていた男の感慨は少々変わった。落ち着いた、と言ってもいい。
(赦したわけではない)
赦すつもりもない。
(しかし)
あの男がこの家に戻ってきたいと願う心地があるのなら、それを確かめてやろうと。
くすくすと、誰かが笑った。懐かしく優しい、甘い声で。
(……どうして笑う?)
声無く問う。差し出された答えに、オレアードは虚を衝かれた。そして、釣られるように笑う。しめやかに、面白げに。
(ああ、そうだったな)
――あのひとに、嘘はつけないのだった。
・
・
・
――アルセイド。
私はお前に出生の秘密を明かすとき、形ばかり謝った。しかし、お前が察していたように、それは形ばかり、見かけのみの謝罪であり、本当に悪いとは思っていなかった。ゆえに、お前は未だに私を赦していない。だが、同時にお前は私を赦した振りをしてくれている。私の弱さをひたすらに慮って。母親に似てどこまでも寛容で優しい、心豊かな人間よ。
――アルセイド。
済まない。今、ここで心から詫びる。お前のいない場所で最期を迎えることに。私は結局、どこまでもおのれが可愛い。苦しみを繰り返したくないばかりに沈黙していたことに加え、今もこうして一人で逝く。この醜い死に様をお前に見せなかったことに、安堵すらしている。そしてこれでいいのだ、大丈夫だと完結している。どこまでも孫の毅さに寄りかかっている、本当に情けない異種の祖父だ。しかしこの矮小で傲慢なエルフは、かのように毅然と逞しい人間を血縁に持てたことを、心より誇りに思う。
――アルセイド。
騎獣を、大事にするがいい。あの獣は今のお前が考えているよりもずっとつよく、何より尊い生き物だ。魂の片割れであり、もう一人の己でもある。かのものは、お前の傍にいてくれるお前の良心そのものだ。慈悲深く清廉ないのちの獣がお前に付き従う限り、お前は決して道を誤らない。騎獣が差し出してくる手綱を、決して離すな。かの存在が誇れる道を歩め。お前なら、きっと出来る。
忘れるな。私達は『騎獣の友』であり、騎獣は騎者の友であるのだ。
……アルセイド。
お前は中々唯一を得られないことに苦心しているが、焦ることは無い。愛は、愛し求むるものに降りそそぐ。お前を愛し、自然と寄り添ってくれる者はきっと現れる。愚かな私でさえ、その僥倖を得られたのだから。
私はただの祖父として、お前を鍛え育てた「父親」として。お前の名が、お前の生き様と重なることを祈っている。
それと。
この広い世界、深き縁、妙なる絆をたぐり寄せ、まかり間違ってあの男とお前が出逢うことになったなら。
その時は――
・
・
・
「ただいまっと。うひー疲れたーもう当分礼装かんべん」
夕刻近く、若者は帰宅した。ネクタイを片手で外し、家宝の長剣を置き、手土産を片手に家に入る。手を洗って土産を冷蔵し、上着を脱ぎつつ歩を進めた。中庭に咲く薄紫の花々は予想通り満開で、吹き込んだ風により屋敷の外も中もあの香りが漂っていた。
「じーさん、じいさん! 花あんがとな、ちょいナル入ってる言われたけど喜ばれたよ!でも今度からやっぱあれじゃなくもっと……、じいさん?」
大声で話しつつ、途中から訝しげになる。何かに気付き、走るようにそこに向かった。途中、廊下に落ちていた杖。扉が開け放たれたままの寝室。
「じいさ、」
花の香りが充満していたその中で、彼が見たものは。
ざわ、と風が吹き込み、黒髪を撫でる。外から運ばれた薄紫の花弁が、ひらひらと舞ってそこに折り重なっていた。窓の外から、中へと。まるで、降りそそぐように。
「…………」
長身が崩れ落ちるように膝をつく。端麗な正装のまま、広い肩は震えた。唇がわななき、噛み締められる。くしゃりと黒髪に象牙色の指を埋め、彼は声を絞り出した。力の限り、愛する家族を罵った。
「…………ッか、ばか、やろ…………この、くそじじい………ッ」
ひとつの終焉を包みこむよう、労わるよう。花びらは、優しく降り積もっていった。
――じいさん、この箱ん中の捨てねえの?文人系の服、誰も着ないのに
――それはヴァレンから譲り受けたものだ。千年保つ代物ゆえ、界隈に出すと大ごとになる
――ふ~ん。じゃあこの本は?もう時代遅れだしボロくなってるし、処分すりゃいいじゃん。それか人間のどっかの施設に貸すとかさ。国立図書館とか博物館が言い値で欲しがってんだろ
――これも稀少繊維を使用してある。破棄する際は、相応の場所にて破棄する。貸与するにしても、相手方の管理体制に未だ問題がある
――ふ~~ん。じゃあこの洗面具……
――アルセイド。他人の持ち物を詮索する前に、自分の持ち物を整頓するがいい
――へいへい(じいさんにしちゃヘタな誤魔化しだな)




