三
思えば、既に違和感は在った。
我が一族にとって角は生命力の源であり弱点、最堅にして最柔、内面の感情が如実に顕れる肉体器官だ。ゆえに様々な場面での挨拶に使われる。だが、決して本物の攻撃手段に用いられるものではない。角じたいを護身の要とする「カイチ」とは違い、「イヴァ」の最大の武器は角ではなく脚なのだ。もし我が一族が力比べや挨拶とは別の意で他者に角を向けた場合、ことは非常事態なのである。逃げられないほどに事態が切迫しているか、精神が大いに錯乱しているか、もしくは相手に最大の嫌忌感情を向けているか。従って、軽口においても「角」を用いる場合は慎重になる。
だというのに、蒼のは極自然にその言葉を発した。
『後ろで一部始終を眺めているお前のつがいに、角で突き殺されたくはない』
本来なら『脚で蹴り飛ばされたくはない』『蹄で踏み潰されたくはない』などと濁すべきなのに、蒼のは直接的な言い方を選んだ。ワカバは人界育ちなので気付いてはいなかったが、天で生まれ育った我輩の意識には引っかかるものがあった。
『角で突き殺されたくはない』。それは単なる言い間違いに収まらない不謹慎な物言いであり、「イヴァ」の通常感覚では滅多に出ない、明確な殺意を表現する言葉。
些細なことではあるが、違和感はその時から始まっていたのだ。
▽ ▽ ▽
斬撃が、襲いくる。
細身の身体は一瞬にして間合いを詰め、刃を浴びせてきた。喉元を狙って繰り出された白銀を寸でのところでかわす。風圧が顎を浚い、互いの髪を靡かせる。
第二撃は反対方向から。右袈裟から左斬り上げに無駄なく移行した切っ先が、我輩の衣服を切り裂いた。寸でのところでかわしつつ、後退を余儀なくされる。こちらとは体高の差があるはずだが、如何せん得物の有無がある。今は相手の間合いなうえ、剣閃も追うのがやっとなほどだ。
(速い)
狭い足下で逃げ場は少ない。あっという間に追い詰められ、背に巨木の幹が当たった。愉悦の一かけらも見せず、蒼髪の男は刃を縦に構える。力を一点に集中した突き、仕留めるための一撃が我輩に迫った。
がきんッ
硬いもの同士がぶつかり合うような音が響き、白銀は我輩の喉もとで止められる。霊気を集中させた両手にて、白刃取ったのである。
ぐぐ、と腕力で押し返す。速さでは遅れを取るやもしれぬが、彼の斬突撃はあまり重さを感じない。捉え切れぬのなら刹那に集中し、こうして動きを止めてしまえばいい。我輩の人型体格は体高・筋肉量において並以上なので、力比べでは負ける気がしないのだ。
白刃取ったものを握る。霊気を集中させているので皮膚が破れることも骨を砕かれることもない。あとはこのまま武器破壊か、力任せに剣を取り上げてしまえば我輩の勝利だろう。
(とった)
その確信とともに力を込めた、そのとき。
「それで終わりと思うな」
蒼髪の隙間から見上げられた蒼い双眸は、まったく揺れもせず。冷徹な一言とともに、寒色は眼前から消えた。がくん、と両手から力が抜ける。相手は、剣からなんの躊躇い無く手を離したのだ。
「!」
脛に衝撃。相手は屈むと同時に、こちらの脚を払った。霊気で強化していたものの、意識を両手に集中させていた分、反応が遅れる。重心がわずかに傾いだと見るや、蒼色の男は身体をそのまま捻って拳に力をこめる。
(拳!?)
とは比べ物にならないほどの、圧力が。
(まずい、剣は囮か)
咄嗟に片腕を頭の横に構える。そして次の瞬間、体重と風の強化霊力をこめた殴打の一撃で、我輩は横合いの林の中へと吹き飛ばされていた。
浅い木立の隙間に突っ込む。圧力を受け身体の下で枝葉が折れ、草や幹を掠りつつばらばらと砕け散った。地に両足がついたことを確認し、柔らかい土壌を抉るように突っ張って勢いを押し留める。巨木に激突する寸前で速度は弱まり、我輩はその場でなんとか止まった。
「どうした、緑の」
片腕で頭部を庇った状態のまま、声のする方に視線を向ける。怪我はしていないが、ぶつかった霊気の波動が激しく衝撃を耐え切れなかった。文字通り盾にした手の甲がびりびりと震えている。
「先の後を取る動きでは、俺には勝てない」
ざ、と草を踏み越え蒼髪の男が近寄る。両の拳からはそうとわかるほどの霊圧が漂う。
「もう一度言う。手加減しようなどと考えるな」
我輩を素手で殴り飛ばした、凄まじいほどの圧力。他者の結界内でも力負けをしない、高密度の霊気。それは氷点下の気体のごとく、白煙を立ちのぼらせている。
「本気で来い。さもなくば、」
彼の纏う色は、もはや夏の涼風ではなかった。暑さどころか暖かみを塵とも感じさせない、冬の山に吹き荒れる無慈悲な雹氷の青さ。
極寒の蒼色は、無表情でこちらを見下ろした。
「『殺す』ぞ」
「――」
我輩は無言で腕を解き、構え直す。ひとまずは、彼の言う通りにするしか方法はあるまい。
周囲に張り巡らせてある結界、その半分以上の霊気を拳に集中させる。緑髪が霊気に呼応し、全身の体毛と一緒にざわざわと波打った。両の拳と両の脚、高められていく筋力。ぶち、と衣服の縫い目が膨らんだそれに弾けた。
「いくぞ」
地を蹴る。それだけの圧で土が広範囲にえぐれ、鈍音と共に背後へ吹き飛ぶ。さながら高密度に噴射された風圧のように我輩は相手に肉薄し、拳破を繰り出す。蒼髪の男は無駄の無い動きでそれを避けた。間髪いれず蹴撃を入れる。風圧で相手の衣服も裂けた。しかしやはり皮一枚で避けられ、身体をひねり片脚で宙返るよう脛の上に載られる。相手も風の強化霊気を使っているのだろう。かわしついでにこちらの身体を土台に、拳破を返してくる。顔の横に当たったが、霊力の盾は纏っていないらしく、まったくと言っていいほど応えない。重さの無いそれを片手で握り、手首をへし折るつもりで力を込める。が、
「ッ」
拳を潰す前にまたも離さざるを得なかった。いつの間にか拾われていた剣、その刃が腹を掠めたからである。
(今度は拳が囮か!)
振り払うように相手を身体の上から落とし、後ろに跳んで距離を得る。常ならば鉄の一撃など腹で受け止めるが、嫌な予感が過ぎったのだ。逆手に握られた刃は、拳と同等以上の霊圧に包まれていた。
すべては刹那の攻防。ぶぉんっと動きの余波が周囲に渡り、木立より木の葉が強風で吹き飛ばされた。結界を弱めたことで、影響が出始めている。
「――」
動揺を露わにしないよう気をつけつつ、我輩は内心臍を噛む。弱めているとはいえ、この場はまだ我輩の結界内なのだ。霊力の発動速度、霊気の補給速度、ともに絶対的有利であるはず。しかし押すことが出来ていない。今持ちうる限りの力を以って攻撃を仕掛けたのに、すべてかわされ受け流されてしまった。しかも、先ほどと逆の方法による反撃まで。
切っ先が掠めた腹から、うっすらと血が滲む。
(予想以上に、強い)
匂いが鼻腔に留まる前に瞬時に癒し、相手を見やる。変幻自在の攻守、まったく力負けをしない霊力の盾に互角以上の強化霊気、そして。
「それは、霊具なのか」
彼の手にしている剣を見やる。先ほどまでただの鉄鋼と感じていたものが、今は違う。内在霊気に満ちており、人型の身でもただならぬ霊圧をひしひしと感じるのだ。
(しかしまさか)
まさか、我が一族の者がそれを扱うなど。
「蒼の、」
「……そうだ」
ひゅ、と蒼髪の男はそれを片手で回した。息を飲む。両刃の剣だったものが、見る間に形状を変えたのだ。それは。
「これは、我が騎者の得物だ」
あの猟奇的な妖精が持っていた、武器霊具。禍々しいきらめき宿す、二本の飛刀であった。
△
△
△
「こっち」
アルセイドに連れられティリオがやってきたのは家屋のすぐ外――中庭に位置する、倉庫の前である。
「増設したのですか」
「置くモン増えたからな」
かつてあったものの脇に、同じ大きさのもの。古い造りと新しい造りが一目瞭然なそれの前にて立ち止まり、アルセイドは扉を開錠する。暗い倉庫内に陽光が差し込み、もうもうと埃が白煙めいて立ちのぼる。独特の湿っぽさと黴除け香草藁の匂いが漂う中、古い倉庫から一つ、新しい倉庫から二つ。
どれも、かなり年季を経た木箱だった。
「何年振りかね、開くの」
若者は倉庫の上部から小さな工具入れを下ろす。中から釘抜きを取り出し、木箱に打ち付けてある釘に引っ掛けた。
「よっ……と」
ぎしぎし、と金属と木材が擦れる音。然程時間をかけず、釘は四隅から無事抜かれた。
「香草藁で覆っておいたし、これ霊木から切り出したやつだから、保存状態はそこそこいいと思う。虫食っちゃいねえだろ」
喋りつつ、アルセイドは木箱の蓋を開く。敷き詰めてあった藁と薄紙を剥ぎ、内部より取り出したものを目の前に掲げた。
「まずはこれか」
現れたものに、ティリオは瞠目する。
「……それは……!」
▽
▽
▽
あとから、騎者どのに聞いた事柄である。
『新世代エルフ生産の司令塔、あいつが持ってた武器霊具は超ヤバいやつだったわ』
騎者どのが保有する家宝の長剣もそれなりの逸物であるが、それを手入れする横顔に優越の色は無い。
『まさに伝説級、今現存してるヤツはおろか、歴代のヤツかき集めても一、二争うくれーの最強物理系霊具。あんなの生でお目にかかるなんてな』
口唇を曲げたまま、彼は続けた。
『形状は両刃剣と両手剣、それに飛刀の三通り。変化は手にした者の闘志により自由自在。一説によれば王都内乱の際、始祖王族を最初に斬ったのがそれっていう。――そっからついた真名そっちのけの通称が「エルフ殺し」。なんであんな暴君が科学者含めた大規模組織の頭なのかって思ってたけど、たぶん半分以上あの武器霊具の力だわな。血統にプラス、単純な力主義。ある意味エルフの王道ってやつ』
自身もその血統である青年は、眉を顰めたまま手元の得物に視線を落とした。同じく武器霊具の使い手として、人間である己と妖精であった敵方との純粋な力量差を客観的に推し量っていた表情。
『……悔しいけど、あの時ティーさんがいなかったら、俺ら瞬殺されてたかもな』
「それを、何故蒼のが持っている」
「『網』の者らに頼んで、譲り受けた」
その言に、再度息を飲む。彼は、このおぞましい武器霊具を自ら望んで手に入れたというのか。
「これは我が騎者であるカルヴァリオ=ノエ=ディチナーレの先祖伝来の私物だ。元来、家の者に家名と共に伝え渡される代物である」
我輩の内なる驚愕を識っているだろうに、蒼色の幼馴染は表情を揺らさずに続ける。自身にとって痛みを伴うだろうその「名」を、動揺のかけらも無く明確に口にしつつ。
「しかし我が騎者は子孫を残すことかなわなかった。ゆえに、騎獣でありその意思を継ぐ俺が譲り受けた」
「なんと、」
ぐっと喉が詰まりそうになるのを堪え、聞き返す。今、蒼のはなんと言った。
「あの者の志を継ぐと言うのか。あの、暴虐な妖精の行動を、」
「勘違いするな。俺は『意思』を継ぐと云った。『意志』ではない。妖精の復興は妖精がおこなうべき大儀。獣たる俺の及ぶものでなく、本来口を出すものでもない」
我輩は声が出なくなる。蒼眼に、いつしかはっきりとその感情が宿り始めていたからである。近しい境遇にあるため、わかってしまった。
――それは付き従うべきものに付き従えなかった、騎獣の苦しみ。
「……しかし、俺は形ばかりであるがそれに関わってしまった。中途半端に脚を突っ込み、なおざりにことを赦し、結果として裏切り、そしていずれの結末にも辿り着かぬまま騎者の下より去り、手を離させてしまったのだ」
蒼髪が伏せられる。さわ、と涼風がそれを揺らし、波打つように大気に広がらせる。風の色、風の音、そして風の声がその場に静かに響いていく。
「騎獣としての挫折はともかく、騎者の行動が中途で失敗するのは当然だった。人工生命を生み出す過程こそが正道ではなかったし、何より彼の志が、復興には無かったのだから。彼の本当の志――真なる望みは、別に在った。それは大儀とは別の、ちっぽけで、ささやかで、それでいて何より難しかった切なる願望」
ひゅる、と筋張った手の先で飛刀が回る。おぞましくもどこかかなしげな、つむじ風の音。
「ただ、それは彼があの道を歩んでいた間のこと。全てが決着した今は違う。俺は妖精一族の大儀には力及ばなかったが、我が騎者一人の望みならば叶えられる。そう確信した」
「……騎者ひとりの、望み……」
「ああ」
蒼眼は、泣きそうに微笑んだ。
「幸せに、なることだ」
強まったものが、吹き荒れる。新しくも懐かしく、冷たくも暖かく。
「――緑の。俺は正直に言って、緑のを羨むと同時に、劣等感と、激しい嫉妬の念を抱いている。天の獣として魔に堕ちることなく正道に歩み、強き脚の一族として胸を張れるやり方でここまで駆けてきたことに。そんな緑のだからこそ、腕の良い清廉な騎者に巡り逢い、つがいとも結ばれることが出来たのだろう。俺とは、どこまでも真反対だな」
「蒼の、それは……!」
「わかっている。これはただの嫉妬であり、愚痴だ。俺は矮小で未熟な雄だから、こういう気持ちが消せないだけだ。あの夕暮れの日より分たれた我らの道は、こうも違ってしまったのかと。納得と同時に悔しくてたまらない、しかしどうしようもないものが、未だ己の中から消せないのだ。至極情けないことに」
「……」
何も、返せない。やはり、我輩はどこまでも傲慢で身勝手であった。これほど苦しんでいた幼馴染を前に、今更何を言えるというのだろう。
沈黙した我輩を見つめ、蒼のは続けた。あの頃と変わらない、強くも優しい笑みで。
「――しかしな、緑の。先ほども言ったように、俺はこうなって初めて、わかったのだ。『俺は幸せになれる』、と」
どういうことだろうか。
「今は幸せではない。なら、これからなることが出来る。俺は今よりもっと、もっともっと大きな幸を手に入れたい」
ぱし、とまた軽い音が響く。回していた飛刀を、その手の平に受けた音だった。二本足の細く頼りない末端、しかし限りの無い器用さと適応力を秘めた五本指で確かめるように剣の柄を握り、蒼眼は前を向く。
「我が騎者が俺に与えた痛みをただ苦しい、かなしいことだったと終わらせるだけでなく、別のものに昇華したい。緑のに抱く嫉妬よりワカバが与えてくれる温もりより、それ以上のものをこの手で掴み取りたい。一族風に言うなら、自分の脚で辿りつきたい」
そうしてこそ、と蒼のは続ける。
「そうしてこそ、俺の中で生き続ける『騎者』も幸せになれる。そして……俺の中で見守ってくれている紅のも。きっと喜んでくれる。そう、確信したのだ」
ああ、と思う。蒼のは、我輩が思っていたよりもずっと。
「……蒼の、」
「なんだ」
すう、と深呼吸する。消えかけていた霊力結界に新たに霊気を漲らせ、両腕を構えた。
「改めて、尋常に勝負しよう」
蒼髪の男はにやり、と笑う。好戦的で冷徹、苦しみとかなしみを内包しつつ、しかし確かな決意に満ちた表情。
「――それでこそ、緑のだ」
ひゅる、と二本の飛刀が回される。それを見ても、もうあのおぞましい寒気は湧かなかった。この武器は、かつて暴虐の道に在ったかもしれない。しかし今は、別の持ち主の手に渡ったのだ。そしてこれから、別の魂を吹き込まれることになる。
(蒼のは、我輩が思っていたよりもずっとつよかった)
――遠い過去、黒き翼の天使が白き天使に言っていたことが身に沁みる。
『このイヴァはあんたが思ってるよりずっとつよい。それはあんたが一番良くわかってることじゃないの?』
強さとは。
毅いと、心から感じるものは。
他者がその在り様を決めるものではない。自分が決めるものだ。自身が形を定め、ありありと体現し得るからこそ、そこで初めて他者は「つよさ」に感じ入るのだ。――
そのことを噛み締めつつ、地を踏む。
この手合わせは、そういった過程の一つであった。対照的な道を歩んだ我輩に対する複雑な気持ちのけじめであり、蒼のが前を向くために必要な「仕合」だ。決別した騎者の魂を受け取り、彼の望みを受け継ぎ、そして二本足の『武』と共に生きることを決めた者の内なる叫びと宣誓の儀式。
これは蒼のの決意表明であり、誓いの闘いなのだ。
「「いざ」」
二体の声が呼応する。緑の風と蒼の風が、正面からぶつかり合った。
△
△
△
「それは……、」
ティリオは目を瞠った。相手の手にしているものに、見覚えがあったからである。
「やっぱそうか。これ、ティーさんのだろ。俺も同じの持ってる」
アルセイドは、納得の面持ちでそれをティリオに手渡す。やや劣化してはいるが、元は真っ白であっただろう毛糸のかたまり。耳当てと紐、天辺に毛糸飾りも付いた、可愛らしいそれを。
「じいさんが言うにゃ、二つとも母さんが編んだやつなんだって」
……手編みの、毛糸帽子。
思考が完全に止まってしまったのは、永く生きてきて実に久しぶりの事象である。
沈黙したまま毛糸帽子を凝視しているティリオに構わず、アルセイドは身を屈める。返答は得られずとも、反応から肯定を得たようだ。
「あとこれも、」
木箱から何かを取り出す。布で包んであったそれを解くと、中から現れる小さめの手桶。内部には木や植物の繊維で作った洗面用具が入っていた。だいぶ埃を被ってはいるが、千年保つとされる自然区域の産物は、未だ劣化の体を為していない。
「これも、」
その下から出てきたのは、衣服。上着に下着、袖裾の長い文人仕様のシャツと下衣、手袋と靴下、ゲートルに靴。そして霊木の皮を編みこんだエルフ専用のベルト。腰に巻いてある同じものを、旅装の上から押さえた。
「それにこれも、」
次なる箱に入っていたのは、本。表紙の一部が擦り切れた教本、鈍色の枠で補強してある事典、赤茶けた装丁の図鑑。そして、何枚も重ねて纏めてある紙の束。その一番上、薄く小さく折り畳んであるそれを開くと、現れる植物の表紙は。
――あのひとが、一番最初に読ませてくれた園芸小冊子。
埃を片手で払いつつ、懐かしいものに囲まれながら。
「全部、ティーさんのだろ」
黒髪と緑眼を持つ人間は、そう言って笑った。
「……」
やはり、言葉は出てこない。無言で手編み帽子を受け取り、沈黙したまま洗面用具を眺め、小さめの衣服を手にし、古ぼけた書物の山から小冊子を取り出して見つめて。ティリオは、呆然とするしかなかった。言葉はおろか、何も考えられなかった。考えたくはない、と思った。
これがどういうことなのかうっすらと解ってはいたが、口に出してしまったら全てが夢のように消えてしまうのでは、とすら思った。そんな情けないことを、不確かな希望を、今の自分は抱いてしまっている。
風がまた、励ますように頬を擽り髪をさらった。視線を上げる。目が合った人間は、情けないエルフの代わりに実に明解にそれを口にしてくれた。
「わかったか? ――じいさんはずっと、あんたが帰ってくるのを待ってたんだよ」
その像が、急激に歪む。
柔らかい毛糸のかたまりに顔を埋め、声を上げて、ティリオは泣いた。
風が吹く。新しくも懐かしく、冷たくも暖かい風が。
頬を撫でるそのいろは、何色をしていただろう。……誰の声を、届けてくれたのだろう。




