挿入閑話・ある紅色の予感
リョクが群れにいた頃の話
天にも季節は存在する。ただ、時間でなく場所によって寒暖が分たれている場合が多い。とある場所では年中雪が降る極寒区、またとある場所では恵雨のひとつぶも落ちない砂漠という風に。
それは人界を模しているようで、人界とはまったく違う。天の気候は始祖霊獣の行動によって微変化するので、人界の惑星のように一往でない。大地や天気変動の仕様が人界の理とは違うため、おおよそ違うものがまかり通っているのだ。
もちろん、天は深く広大で果てない空間であるので、人界のように四季がある地域も存在する。ただ、天界の季節の周期は人界のそれと違う。春夏秋冬が一年であるのに対し、天のそれは数年以上かけ、じっくりとめぐっていく。暖から暑へ、涼から寒へ。寿命の永い精霊族の世界ならではの、ゆったりとした季節変化である。
人界の周期に例えるなら、初夏の頃合い。晩春よりも宵闇が短くなり、夜明けがますます近まっていく季節。……夕暮れに赤々としたものが滲んでいく、夏のはじまり。
彼女はそんな「季節」が一番好きだった。
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冷風が体毛を撫でていく。それに起こされるよう、ぴくりと獣の耳が動いた。ややあってからまたぱたぱたと大儀そうに動き、ゆっくりと瞼が開かれる。
静かな早朝である。朝靄は晴れていないが、陽はどこかに昇っているらしい。ぼんやりと明るむ視界、されど周囲の生物が起きる気配はまだ、薄い。
彼女は瞬きしながら周囲を見渡した。時間帯もあり、視界は開けているが昼間というにはまだ暗く、拾う音も少ない。至近距離でのすやすやとした寝息、ふごーふごーという鼾、さりさりと草と角が擦れる音、くしゃくしゃと何かを噛む音。見ると、近くで寝ている一頭が眠ったまま草を食んでいる。寝顔――獣に表情筋は無いが雰囲気として――も実に幸せそうだ。きっと好物をたらふく食べている夢でも見ているのだろう。
「ふぇんふぁんふぁひ……へんふ……おれのもの……」
予想に違わない、むにゃむにゃとした寝言。普段勇ましく尖っている角も、心なしかカドが取れぐにゃりと柔らかくなっている。睡眠中にこうなるのは、大いに気が緩んでいる証拠だ。寝癖めいてあっちこっち絡まっている鬣も仔どもっぽくてかわいい。こんなことを言うと、齢の割りに見栄張りな彼は憤慨するだろうけど。
平和な心地に瞳を細め、彼女はするりと身を起こした。
界における太陽――天光――が空に出でるとき、天の一日は始まる。人界のそれとの一番の違いは、天体のように決まった動きをしないという点だ。万物を照らし、いつしか位置を低くし、消え失せ、そしてまたどこかの方角より復活する。その周期が一日というだけのことであり、天界の誰もが天光の正体を見極めたことが無い。ただひとつわかっていることは、天光の出入りが霊獣の生態を左右するということ。それすなわち、天におけるすべての獣が崇める対象であるともいえる。つまり、其が光は偉大な始祖らが最上層にて健やかに生きている証しだった。
山の頂上にて靄の晴れ間より覗く御来光。そして山の端に下がり色を変える陽の終わり。彼女はどちらも好きだ。どちらも、自分の根幹を為す色であるから。
彼女は一族にしてはそれほど脚が強くない。駆ける速度も、群れの平均からすると遅い方だ。しかし、移動するのが嫌いというわけでもない。むしろ、好きな場所に向かってとことこと走っていくのは好きだった。ただ、他者との競争が苦手なだけで。
「より速く」「より遠くへ」という一族の競争本能は、仲間内にて最も刺激される。それは雌同士とて例外ではない。誰かと並走すると気疲れしてしまう彼女であったが、自分一頭だけで駆けるのは好きだった。瞬発的な競り合いは不得手な分、自分の力配分で駆けるという自覚が何より大切なのだ。人間でいうならマラソンタイプというべきか。
ともあれ、彼女はいつものように一頭でとことこ走っていた。目的地は草地の隣にある山間。さほど強くない彼女の脚でも短時間で到達出来る、低めの霊山だ。今日はなんだか身が軽い気がして、いつもより遠出となった。よいしょ、よいしょと険しい――実際はそんなに険しくないが彼女にとっては一苦労な――崖を駆け上がり、足場に飛び乗っては急斜面を上る。ふうふう息を切らせながら頂上付近に辿り着いて、濃霧の中でちょっと一休み。給水も含め、はむはむと朝露の付いた草を食んでいると、横合いから光が差した。山頂の霧と朝靄が本格的に晴れ始めたのだ。
彼女は首を起こし、ぴんと耳を立て、頭部をそちらにめぐらせる。光は徐々に大きくなり、その範囲を広くしていく。
天の夜明けが始まる。
このときの感慨、情景のうつくしさは言葉で説明しきれない。彼女はただ、無言でその光に見入った。
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霊山の御来光が一日の始まりを告げた頃、霊獣の多くはやっと起き出す。
小さな霊鳥が夜明けの空を羽ばたき、彼女に近寄ってきた。さながら枝葉にも見える足場――彼女の角の先端――に小さな脚で留まり、耳元でちゅんちゅんと愛らしくさえずる。翻訳するなら「おはようごじゃいます、きりんしゃん」というところだろうか。
それに挨拶を返していると、山頂近くの風の四元精霊も近寄ってきた。彼女の角の隙間をすり抜け、鬣を翻させながら囁いてくる。
《きりんだ》《きれいないろのきりん》《あそぼうよ》
いたずらげな風らに応対していると、今度は足元に近寄ってくる虹蛇のつがい。彼らと共に挨拶してくる水の四元精。一気に賑やかとなった場にて、彼女はくすぐったげに笑った。静かな早朝もいいけれど、やっぱりこの空気がいい。
ふと。
土砂が軽く崩れるような音が近くで響いた。彼女の耳がまたぴんと立つ。せわしない気配もする。小鳥が慌てて彼女の角から飛び立った。逃げるように虹蛇らも茂みに去り、近くに寄ってきていた他の小動物らも走り去っていく。風らは、口々に囁きながら彼女の角をすり抜けていった。
《きりんだ》《みどりのきりんだ》《けがしてる》《けがしてるよ》
それを聴いた瞬間、彼女は音のした方へと駆け出した。
「……ッふ」
彼女が上ってきた崖とは反対方向、北側の丘陵から続く山の端。視界からすると点にしか見えなかったが、崖下で苦しげに呻いているのは確かに同族だった。
彼女は慌てて崖上より飛び降りる。ずささ、と蹄を土砂に滑らし勢いを殺しつつ、砂埃を上げて着地。予期した通り、そこにいたのは彼女が見知った姿だった。数日前、群れに新たに加入した歳若い雄である。
光の当たらない北側の岩場に生えた苔、そういった周囲の風景に溶け込むような濃い色の鬣。雄らしく立派な角。
ただ体格は雌である彼女より小さく、見かけ同様まだ仔どもだ。その小さな身体は先ほど崖から転落したらしく、あちこちが裂傷となっていた。近寄って呼びかけると、澄んだ瞳が力無く見上げてくる。彼も、彼女の接近に気付いていたらしい。
ぷんと漂う血の匂いに、くらりと眩暈が起きる。足場の苔のお陰で深刻な怪我はしていないようだが、それでもこのままにしてはおけない。一刻も早く手当てをしなければ。
「……要らない」
角に癒しの霊力を込め患部に触れようとすると、身体ごとぷいっとそっぽを向かれる。群れにやってきて時僅かということもあり、まだ仲間という感覚に慣れていないらしい。彼が群れにやってきた理由をうっすら識る彼女は苦笑し、構わず角を伸ばした。怪我をしたまま帰ると皆が心配するよ、との言を添えて。
「……」
ぶすっとした表情でされるがままになっているところをみると、彼は中々に素直な気質らしかった。
どうして一頭だけでここに居たのか、という問いに対し、彼はぶすっとした声で答えた。
「……こちらの方が、訊きたい。どうして群れの連中は、ああも暢気に夜明けまで眠っていられるのか」
どうやら今までの彼の生活様式は、そうでなかったらしい。
「……母御と共に暮らしていた頃は、長く眠っていられなかった。下層には肉食種が多くて、早くに起きていないと危険だったから」
中層にも危険な肉食種はいる。けれど草食種とて霊獣である、自衛手段がまったく無いというわけではない。一族の場合、徒党を組んで寄り添っていれば危険性はより薄まる。夜中においても夜行性の肉食種を警戒するため、周囲を交代で見張っているのだ。
現に、寝床を確保してのち全員が眠っていたわけではない。何頭かが、少し離れた場所で警戒にあたっていたはずだ。彼が夜中に抜け出せたのも、彼女が夜明け前に起きて草地を離れられたのも、周囲――強き脚の一族にとって物理的な縄張りは実に広い――に危険が無いと知れていたからだ。自分達がここにいることだって、成獣達はとっくに周知だ。
そのことを告げると、幼さの残る双眸はぱちくりと瞬いた。
「……しらなかった」
その様子があまりに仔どもらしくて、悪いとは思ったが彼女は笑ってしまった。彼は恥ずかしげにしつつも、反発はしなかった。そればかりか。
「……さっきは、悪かった。……その、感謝、する」
すぐに謝られるとは思っていなかった。しかもすんなりお礼とは。やっぱりこの仔は素直な仔だ。歳は近いけど、彼女の弟分とはだいぶ性格が違うらしい。
彼の怪我が癒えてから、とことこと小走りで崖を迂回する。彼はこの辺りの地理地形に詳しくなく高所も苦手で、崖から転落したのもそのせいらしかった。追随してくる蹄の音は彼女よりも小さいながら、彼女より力強い。視界の隅に躍る鬣は、周囲に溶け込むようでいて決して埋没しない存在感を訴えかけてくる。
不思議な仔だ。彼女はそれを感じつつ、更に不思議な感慨となる。
自分と同じ年頃の若者に逢ったことはある、他の群れより何頭かが過去、草地に遊びに来たことがあった。小さい頃生まれた弟分も、実のきょうだいではないが彼女に近い存在だ。歳の近い者は、歳の離れた者より気安い意識を与えてくれる。
しかし、その気安さに加え今までの誰にも抱いたことのない思いを、彼には感じる。まだ出逢って数日だというのに、この気持ちはなんだろう。考えてみれば、家族以外の他者と並走していて気疲れしないのは初めてだ。
彼女は走りながらこっそりと、彼を観察する。顔を出したばかりの天光を反射し、きらきらときらめく湖のような双眸。崖下の苔のように強かで、陽が当たらなくとも鮮やかに存在感を示す深い色の鬣。今は彼女よりも頼りないけれど、内側にしっかりとしたばねと未知に立ち向かう勇気を秘めた四肢。繰る言葉は弱々しくも、底に豊かさを湛えた声。大事なものを大事だと云える、素直で優しい心。
「……眠れなかったんだ」
斜め後ろより聴こえるその声に、とくん、と鼓動が高鳴る。
「……まだここに居るのが、夢のような気がして」
彼女の胸に、言葉に出来ない、うっすらとしたものが過ぎった。それは雌としてのときめきの他、霊獣としての本能的な予感だった。
彼は、きっと。
「……自分だけこんなにしあわせで、いいのだろうかと」
きっと何年後かには、立派な成獣になるのだろう。それも、彼女が到底及びもつかない、強い脚の強い雄に。
「……ここは、あまりにきれいで、うつくしくて、皆やさしくて。死んだ母御にも知らせたいと思ったら、たまらなくなった。そんなことを考えている自分が、いつまでたっても弱いような気がして。眠れなかった」
今はまだ、迷子のような表情をした仔どもだけど。未来にきっと、この位置は変わる。彼は、追随する立場から先導する立場になる。
「でも駆けているうち、それでいいんだと思った。寂しいけど、かなしいけど、でも、夜明けを眺めていたら、」
きっと。
「自分はここに生きているんだって……そう感じたんだ」
深き緑は、佳き脚の象徴となるのだろう。
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「遅かったじゃない、どこに行ってたの!」
草地に戻った彼女を待っていたのは、母親の雷だった。すぐ横合いで父親が苦笑いをしている。高所が苦手な新参者を気遣い、急な崖を迂回しつつ喋りながらゆっくりと移動したせいで、群れに帰るのが遅れたのだ。ちなみにすこし離れた場所では、同じく雷を落とされている後ろ姿がある。
事情を話しても、母親の怒りは収まらなかった。
「まったく、夜明けを見に行くのはいつものことだとしても……見たらすぐ戻りなさいって言っているでしょう。群れから離れるのも山の端まで。頂上には出来る限り一頭だけで登らないで。肉食種がいなくたって北側は危険なのよ。落ちたら骨を折ることだってあるし下の森には毒茨だってあるの。仔どもだけで迷い込んだら戻ってこれなくなるかもしれないって前にも言ったでしょう、それがわかっているの!?」
「まあまあ」
怒涛の勢いで娘を叱る母親に対し、父親は穏やかだ。
「今回はそのお陰であの仔を助けられたんです、それで良かったじゃないですか」
「よくない!」
「こら、そんなことを言わない。あの仔は群れに来てから日が浅いだけで、我々の立派な仲間でしょう」
娘と同じ色の瞳が、穏やかな瞳に正面から咎められしゅんとなる。娘と同じ色の鬣が、こちらに向き直った。家族に対しても丁寧な口調が、丁寧に要点を述べる。
「解っているだろうけど、お前の母さんはお前が一番心配なのですよ。今回は運が良かったけれど、この次は無事とは言い切れません。父さんもそれが凄く心配です。身体が出来上がるまで、どうか無理はしないで欲しい」
彼女が頷くと、優しい瞳は満足気に細められる。その横合い、するりと優美な角が伸び、彼女のそれに絡んだ。
「……怒鳴ってごめんね……お願い、私の前から急にいなくならないで……」
涙声が、温もりと共に思いを伝えてくる。彼女は返応の代わりに、角を絡め直して優美な鬣に鼻づらを寄せた。大好きないろ。先ほど見たそれを凝縮しきらめきを閉じ込めたような、夜明けの紫。その傍には同じくらい大好きで馴染みの深い、赤々とした日暮れの色。
やはり、この二つは自分の原点だった。
母親は怒ってなお、瞳はきらきらと輝き鬣は艶を増し非常に美しい。それが父親にもわかっているのか、感情を爆発させたあとの母親に寄り添う父親はいつにも増して甲斐甲斐しくなる。両親を見ていると、恋仲とはこういうものなのかと思う。彼女にとってはまだ及びの付かない世界だが、見ているとこそばゆくも微笑ましい。
そこまで考えて、彼女はちらっと後方をみやった。群長の妻に、まだ長々と叱られている若者がいる。しおらしげながら、どこか嬉しそうだと感じるのは気のせいだろうか。
草地に来た当初は幾分ぎこちなかった彼も、こうやって少しずつ周囲に溶け込んでいく。少しずつ、仲間になっていくのだ。
「なあ、」
微笑ましい心地でいたら、別の方角から声をかけらた。そちらを見ると、これまた見慣れた姿。さらさらの鬣、その隙間から覗く切れ長の目はきゅっと狭まり、彼女をにらみつけている。何やら不機嫌そうだ。
「朝っぱらから、あの緑の奴と、どこまで行ってたんだよ」
ん?と角を傾げた彼女は、ああ、と苦笑する。さては仲間はずれにされて寂しかったのか、と。最近の弟分は、彼女に対しやけに甘えただ。群れの最年少の座をそろそろ奪われる頃合い、同時期に同年代の者がやってきたことで仔どもらしい危機意識を持っているのかもしれない。
そう考えると、少し意地悪な気持ちが湧いた。敢えてその問いに答えず、朝の挨拶が先でしょう、と言い返す。
「――え? ま、まあ、うん、そうだな」
彼は虚を衝かれた様子ながら、それでも応えてくれた。ほんのりと照れ臭そうな風情で差し出される、雄らしい角。
「……おはよう、紅の」
朝の陽光が降り注いでくる。目の前の鬣と同じくどこまでも涼やかな空が、涼やかな風と共に初夏をしらせた。日差しは強くも、風のお陰でさほど暑いとは思わない。
もし、と彼女は思う。もし、この風に色があるとするなら。
それはきっと――
紅の・・・亡くなった年代はワカバより少し上程度、つまり十代後半くらいの少女イヴァ。夏の夕暮れのような紅色の鬣と優美な肢体、黒色の瞳を持つ。実はリョクに心惹かれていたので、蒼のの嫉妬はあながち見当違いでもない。ただ、当のリョクは彼女をそういう対象に見ておらず気付いてもいなかった(おい)ので、どっちみちこの初恋は成就しなかったと思われる。鈍感なのは彼女だけでなかったという裏オチです。
彼女の母親(夜明けの紫色の雌イヴァ)は幼い頃両親を亡くしているので、気が強いけど家族を喪うことに関して臆病。父親(紅のと同じ色の雄イヴァ)はそんなつがいを見守りつつ諌めつつ可愛がってる感じ。両親の素直さと優しさを受け継いだのが、紅の。家族三頭仲良し一家でした。
ただし、未来はああなってしまったわけですが…(哀




