第171話 お嬢様、悪魔と契約なさる。
――――話はさやか達がブリッツと三度目の対決をした時から、数ヶ月前へと遡る。
京都市内にある、さやか達が通うのとは異なる高校……明らかに庶民離れした、金持ちのお嬢様が通うような立派な建築物の高校、その校門前に一台のリムジンが止まる。車のドアが開いて、一人の少女が降りる。カバンを手にして学校の制服を着ていた。
砂金のようにキラキラ光る金髪は胸の高さまで伸びていて、ウェーブが掛かっている。瞳の色はサファイアのように鮮やかな青で、肌は雪のように白い。
目鼻立ちはスッキリと整っていて、女神の彫像のような美しさすら漂わせる。
身長はさやかより数センチ高く、スラッと長い脚をしていて、見る者の目を引く。胸と尻は大きく、ウエストは引き締まっていて、抜群にスタイルが良い。何らかのスポーツをしているのか、日焼けはしていないものの、健康的な肉付きをしている。
ミサキ同様に大人びた女性の雰囲気を漂わせていて、同学年だとしても、さやかより年上に見える。『少女』と形容したものの、『女性』と呼んでも差し支えは無い。
「ではマリナお嬢様……行ってらっしゃいませ」
車の運転席に座る、執事と思しきスーツを着た若い男性が、見送りの言葉を掛ける。
「行って参りますわ……ジョナサン」
少女は丁寧にお辞儀して言葉を返すと、校門に向かってゆっくりと歩き出す。
その少女、名を蛟神リンスレット・オリヴィエ・マリナという。日本に住んでいるが、両親共に純粋なアメリカ人だ。長く暮らしているためか日本語は堪能だが、ですます口調が多少ぎこちない。
彼女の父はIT企業の重要な役職に就いており、父の仕事の都合で日本に移住する事になった。家族構成は彼女と両親、そして小学五年になる妹のレナがいた。
経済的に裕福な家庭で、今の暮らしに不満は無い。だがそんな彼女にも、ある深刻な悩みがあった。
◇ ◇ ◇
チャイムが鳴る放課後の教室、隅っこにある机を囲んで三人の女子生徒が楽しそうに談笑する。
「ねえ、みんなでカラオケとか行かない?」
「うん、行く行くーー!」
「あたし、恋のミノル伝説とか歌っちゃうよっ!」
「アハハ、何それーー」
これから何をして遊ぶかについて話し合う。立派なお嬢様学校といっても、彼女たちの言動や振る舞いは今時の女子高生そのものだ。
「皆様、その遊びに私も混ぜて頂けません事?」
そこにやってきたマリナが、自分も仲間に入れるよう提案する。
「……」
彼女の言葉を聞いて、三人は急に黙り込む。何とも気まずそうな表情を浮かべたまま顔をうつむかせて、目線を合わせようとしない。何か言いたい事があるものの、それを言い出せないように口をモゴモゴさせる。
少女たちが露骨に自分を避けようとしている事は、マリナにも察しが付く。だがその理由を聞く勇気が持てず、かといって怒る訳にも行かず、何も出来ないままその場に立ち尽くす。
四人が四人とも黙り込んだまま、ただ時間だけが過ぎる。
「あのね……マリナさん」
やがて三人のうち一人が、勇気を振り絞って口を開く。少し言いにくそうに困った顔をしながら遠慮がちに上目遣いで彼女の方を見る。
「私たち、別に貴方の事嫌ってるんじゃないの。いじめるつもりも無い。貴方が本当はノリの良い子だって事、よく知ってる。一緒にゲームして遊んだ時、とっても楽しかったから」
避けようとする理由が決して悪意ではないのだと弁明する。深刻そうな表情で一語一句丁寧かつ慎重に紡ぎ出される言葉からは、相手への配慮が窺い知れる。
「でもね……四人で街中を歩いた時、貴方があまりに綺麗すぎて、街の人がみんなジロジロとこっちを見てた。貴方と一緒にいて、自分たちがとても惨めに感じた。ああ、私たちってブサイクな日本人なんだなって……そう思えちゃったの」
容姿の違いによる劣等感を抱いた事を告白する。自分を卑下する言葉からは、一抹の寂しさが漂う。
「貴方といるのは辛い……貴方にその気が無くても、格の違いを見せ付けられる。私たち、貴方と一緒にいられないよ……だってレベルが違うんだもの。貴方は、貴方と同じレベルの子を見つけてね。それじゃ」
そう言い終えると、少女はカバンを持って足早に教室から出る。他の二人も後に続く。居心地の悪さを感じたためか、三人は全く振り返ろうとしない。まるで何かから逃げるように廊下をドカドカ走っていた。
「同じレベルの子って……なんですのっ!」
一人教室に取り残されたマリナは、思わず机を強く叩いた。
◇ ◇ ◇
ある日の夕方……マリナの家族が住む、洋風の大きな屋敷。
「お父様、やりましたわっ! 数学のテストで百点を取りましたのっ!」
マリナが答案用紙を手にして、嬉しそうにはしゃいだまま父の部屋へと駆け込む。
その時彼女の父は椅子に座って机に向かいながら、何やらパソコンのキーボードを打ち込んで作業していた。
マリナは部屋の入り口に立つと、無邪気な子供のような笑みを浮かべてニコニコする。父に褒められたくて一生懸命頑張った事が、容易に感じ取れる。
「ん? おお、そうか……よく頑張ったな。次も頑張れよ」
だが父の反応は何ともそっけない。椅子に座ったまま娘の方を振り返ろうともせず、言葉だけ返す。一応褒めはしたものの、感情が篭っておらず、完全に形だけの挨拶を済ませたような雰囲気だ。
(お父様……どうして)
マリナは希望が叶えられなかった事に深く落胆する。
尊敬する父に喜んでもらいたくて必死に頑張ったのに、父の反応が薄い事に、これまでの努力は一体何だったんだという失望感に見舞われる。
父はそんな娘の心情に気付きもしない。
「パパーーっ! テストで七十点取ったよーー!」
その時妹のレナが、姉の後ろからひょっこりと姿を現す。答案用紙を手にしたまま、小学生の小さな足でトテトテと父の前まで歩き出す。
「おお、そうかっ! よくやった! 偉いぞレナっ! さすが私の娘だ! 偉い偉い! 次からはきっと、もっと良い点が取れるぞ! 期待しているぞっ!」
父はすぐに椅子から立ち上がり、満面の笑みを浮かべながら激励の言葉を掛けると、少女の妹を両手でしっかりと抱き締める。ヨシヨシと声に出しながら、妹の頭を手で優しく撫でる。
姉が百点を取った時と、まるで態度が違う。姉妹に注がれる父の愛情に歴然とした差がある事は明白だった。
マリナが抱き合う二人を茫然と立ち尽くしたまま眺めていると、レナが姉の方を向いて、あっかんべーした。それは成績優秀な姉に対する妹の勝利宣言だった。
「……」
マリナは自分の部屋へと戻ると、百点の答案用紙を、力任せにビリビリと破り捨てた。
◇ ◇ ◇
翌日の昼下がり……学校のグラウンドで体力測定が行われた時の事。
「おお、凄いぞマリナっ! 学校始まって以来の新記録達成だっ!」
ジャージを着た男性の体育教師が、ストップウォッチを手にしながら歓声を上げた。
彼の目の前で、百メートル走を終えたマリナが激しく息を切らす。長い髪を後ろにシュシュで束ねて、陸上競技のユニフォームに身を包む。
「はあ……はあ……はあ……」
少し疲れた表情をしながら、額から流れる汗をタオルで拭く。新記録を打ち立てた実感はまだ湧かない。
「マリナさん、凄いっ!」
「すごいすごい!」
彼女の走りを見ていたクラスメートが一斉に称賛する。記録を更新した少女に羨望の眼差しを向ける。
カラオケに行くのを断った三人も、嬉しそうに拍手する。交流は絶ったものの、級友の頑張りを素直に祝福した。
「……」
歓声に包まれた少女が、ボーッと空を見上げたまま感慨に耽る。
彼女の脳裏を、ある一つの考えがよぎる。
……昔一度だけ、お父様が真剣に私を褒めて、頭を撫でてくれた事があった。
それは徒競走で私が一位を取った時でしたわ。
お父様はかつて陸上の選手を目指し、その夢を諦めたと聞かされた。
だからきっと、頑張る私に昔の自分を重ねましたのね。
将来の夢なんて、本当は何でも良かったんですの。
でも私が試しに陸上の選手を目指すと言った時、その瞬間だけ明らかにお父様の反応が違った。心から私を応援してくれて、背中を押してくれた。私の手をしっかりと掴んでくれましたの。
私がお父様に愛されるためには、陸上競技で良い結果を出すより他に方法が無い……だから頑張りますの。
少女は誰に言うでもなく、自分自身に対して、そう強く誓った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、執事はたまたま用事があって迎えに来られなかったため、マリナは徒歩で帰路に就く。迎えのタクシーを呼ぶ事も出来たが、その日彼女はとても気分が良く、自らの足で帰りたい心境だった。
「フッフフフーーーン、フッフーーーン」
スキップして鼻歌を唄いながら、街中にある交差点まで来た時……。
「危ないッ! 避けろぉぉおおおおーーーーーーっ!」
警告する言葉が彼女の耳に届く。
「えっ?」
声が聞こえた方角に慌てて少女が振り返ると、巨大な鉄の塊が視界に飛び込む。直後けたたましいブレーキ音が鳴り、一瞬にして目の前が暗くなる。途切れゆく意識の彼方で、救急車のサイレンが鳴っていた。
◇ ◇ ◇
「ううっ……」
マリナが目を覚ますと、病院と思しき建物のベッドの上だった。体中に包帯が巻かれていて、腕には点滴の針が刺さっていて、あちこちがズキズキと痛む。手足が思うように動かない。
ぼやけた意識が次第に覚醒して、視界がハッキリしてくる。やがてしっかり物が見えるようになった彼女は、自分の腕と脚に目線をやって顔面蒼白になる。
「いっ……いやぁぁぁぁああああああーーーーーーーーっっ!!」
肘から先の腕、膝から先の脚……本来そこにあるはずの物が、無くなっていた。
マリナは、免許を返納しなかった高齢者が運転する車に轢かれていた。彼女以外にも数人が巻き込まれる大惨事となった。多数死者も出た。
幸いにして彼女は一命を取り留めたものの、両手と両足を切断する大怪我を負う。それは彼女にとって夢を絶たれたに等しかった。
「うっうっ……うぁぁぁぁああああああっ……」
夢が潰えたと悟った時、マリナは心が折れたように深く泣き崩れた。
◇ ◇ ◇
事故から二ヶ月が経過……既にさやか達がバリアの外へと旅立った頃。
「……」
マリナはベッドに横たわったまま、窓から病院の外をただボーッと眺める。表情から生気が抜けて、頬は痩せこけて、目は光を失っている。完全に枯れたミミズのようになる。
家族は最初に医者の話を聞いたきり、一度も見舞いに来なかった。彼女の境遇を憐れんだクラスメートや執事が何度か見舞いに訪れたものの、彼女の心は癒されなかった。もっとも来て欲しい家族が来なかった事は、家族に見捨てられた事実を明確に突き付けて、少女の心を深く抉った。
生きる気力を失った抜け殻と化した少女が、何をするでもなくベッドで横になっていた時……。
「君が蛟神……マリナ君だね?」
そう言いながら、誰かがドアを開けて病室に入ってくる。
その人物は黒のトレンチコートを羽織ってサングラスを掛けた、二十代半ばの若い男性だった。完全に映画に出てくるマフィアの風貌だ。
「……」
見るからに怪しい男を前にしても、マリナは悲鳴一つ上げない。自暴自棄になったあまり、煮るなり焼くなり好きにしろと言いたげだ。
決して肝が座ったからではない。今の彼女なら、目の前に不気味なエイリアンや、屈強なデーモンが現れたとしても、騒ぎはしないだろう。
そんな彼女を気にかける様子も無く、男が自分から喋りだす。
「私はバロウズという組織の協力者だ。もし我々の味方になれば、君の失った手と足を、元通りに治してあげよう」
男の言葉を聞いて、マリナの眉が微かに動く。やがてゆっくりと男の方に向き直る。わずかながら、表情に生気が戻ったように見える。
少女が興味を抱いたと感じて、男が話を続ける。
「まずはその場凌ぎの処置として、機械の義手と義足を付けてもらう。機能は生身の手足と比較しても遜色ない出来だ。それで組織の戦士として戦ってもらう。もし赤城さやかを始末できたら、その時は生身の手足を付けよう。我々は約束を破るようなマネは絶対にしない……使命をやり遂げた者には、必ず約束した報酬が与えられる」
条件を提示すると、ククッと邪悪な笑みを浮かべる。必ず少女が誘いに乗るだろうという確信に胸を躍らせた。
男はいたいけな少女を、ヒーローを抹殺する刺客に仕立て上げようというのだ。正に悪魔の企みだった。
「……」
憔悴しきって、心身共に疲れ果てたマリナには、男の提案がとても魅力的に聞こえた。冷静な思考の判断が出来なくなっていた今の彼女に、誘いを断る選択肢は無かった。
……ベッドに寝たきりだったはずの少女が、病院から姿を消したのは、それからすぐの事だった。少女の家族は捜索願いを出さなかったと、後に警察は証言する。




