第119話 エロゴリラのキス
……それはさやか達一行が、まだバリアの外に出ていなかった頃の出来事。
ファミレスらしき建物の中で、制服姿の少女が、一人の男とテーブルを挟んで向かい合ったまま座っている。
男は紺色の背広を着てネクタイを締めており、身なりが整っている。年齢は四十代から五十代に見え、体型は痩せ型で、顔立ちは男前だった。外見は年の割に清潔感があり、ナイスミドルと呼ぶに相応しい。身分もそれなりに高そうに見える。もし政治家か官僚を扱ったテレビドラマを作ったら、主役を演じていそうな風貌だ。
「ゆりかっ! お前はまだヒーローの真似事をやっているのかっ!」
男はそう言うや否や、握った拳でテーブルをドンッと強く叩く。その振動でテーブルが激しく揺れて、コップに入っていたジュースが危うくこぼれそうになる。
男と向き合っていたのは青木ゆりかだった。
「父さんこそ、どうして分かってくれないのっ! 私たちがやっているのは真似事なんかじゃないっ! 本物の人助けなのよっ!」
ゆりかも負けじとテーブルを叩きながら反論する。目の前にいる男に、心から憤るように強い剣幕で睨み付けた。
話している相手は、他ならぬ彼女の父親だった。国会議員をしていると噂になった人物だ。もし事実なら国防長官の平八とは面識がある事になる。
「……遊びでやってるんじゃない事は分かっている。お前のおかげで助かった命がある事も承知している……平八にも礼を言われた。その事は事実として認めよう」
男はハンカチで額の汗を拭うと、コップのジュースをゴクゴクと飲み干して、ふうっと一息つく。彼なりに冷静になろうと必死だった。
「だがな、ゆりか……父さんは心配なんだ。いつ死ぬかもしれない戦いに娘が身を投じているのを、喜んで応援する親が何処にいるというのか。娘が危険な戦場に足を踏み入れようとするなら、それをやめさせるのが親の心というものだろう」
一旦気持ちを落ち着かせると、今度は丁寧な口調で言い聞かせようとする。困り果てた表情からは、娘の身を案じる親の苦悩を滲ませていた。
「何も、お前がやらなくちゃいけない仕事じゃない……他の誰かに替わってもらえばいい。西日本には何百万人もの人が住んでいるんだ。探せばきっと代わりが見つかるだろう」
男は言葉を尽くして娘を説得しようとする。彼は娘が危険な目に遭わないよう、装甲少女である事をやめさせようとしていた。
だが父が口にした言葉は、娘の態度を更に硬化させる原因となった。
「誰かに替わってもらえですって!? 自分の娘以外なら、危険な目に遭っても構わないっていうのっ!?」
ゆりかが声を荒らげて怒りだす。自分の身内以外はどうなっても良いとも受け取れる父の言動は、彼女にとって到底許せるものでは無かった。これが本当に自分の父親で、その血を引いているのだとしたら恥ずかしいとすら思えた。
「いや、そこまでは……」
「そういう事でしょっ! そういう意味じゃないなら、どういう意味か説明してよっ!」
「……」
娘に問い詰められて、男は反論出来ず口をつぐんでしまう。内心しまった、本音が漏れたと言いたげに、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「父さんはいつだってそう! いつも自分の身内しか大事にして来なかった! 私、そんな父さんが嫌で嫌で仕方が無かった! 私、装甲少女をやめる気なんて絶対ない! エア・ナイトになれるのは私だけだもの! 私、もう父さんの家には戻らないからっ! どうせ家に帰ってもいつも父さんいないし、学生寮か研究所で寝泊りできるものっ! さようならっ!」
少女は早口でまくし立てると、怒りをぶちまけるようにテーブルにジュースの代金を叩き付けて、ズカズカと早足でレストランから出ていこうとする。それは彼女にとって絶縁状を突き付けたに等しかった。
「待て、ゆりかっ! お前はまだ若いんだっ! 社会を……大人というものを知らない、小さな雛鳥だっ! 親の言う事を聞かなかった事を、いつか後悔するぞっ!」
去りゆく娘の背中に向かって、男が必死に訴えかける。それでも少女の足が止まる気配は無い。
「後悔なんて……するもんですかっ!」
少女は男の言葉を一蹴するように吐き捨てた。
男が娘を心から大事に思っている事は、彼女には十分に分かっていた。そうであったとしても、娘をいつまでも子供扱いし、親の威厳で言う事を聞かせようとする父の古めかしい考えには、とても付いていけなかった。
◇ ◇ ◇
「んっ……」
ガタガタ揺れる車の中で、ゆりかが目を覚ます。彼女は移動中のキャンピングカーの中で、座席シートに座ったまま眠りに就いていた。
時刻は夜間ではない。次の目的地に着くのを座って待っている間に、うとうと眠りこけてしまったのだ。
少女が瞼をこすって寝ぼけた意識を覚醒させると、目の前にさやかの顔がドドーーンと迫っていた。
「姫様、目覚めのチュウですよーーっ」
そう言いながら口をタコのように尖らせて、キスをしようとしている。
「さやかの馬鹿っ! いきなり何しようとしてんのよっ!」
ゆりかが顔を真っ赤にして怒りながら、全力のビンタを放つ。
「へぶるぅぁぁあああっ!!」
頬をバチーーンと引っぱたかれて、少女が奇声を発しながら吹き飛ぶ。豪快に錐揉み回転しながら天井に頭をぶつけた後、強い衝撃で床に叩き付けられた。下手にメタルノイドに殴られた時よりよっぽど痛そうに見える、凄まじい破壊力の一撃だ。
「ううっ……もうすぐ目的地に着くのにゆりちゃん全然起きそうにないから、童話の眠り姫よろしく王子様のキスで目覚めさせてあげようとしたのにぃ」
さやかがぶたれて真っ赤に腫れ上がった頬を、痛そうに手で摩りながらジト目になる。その瞳にはうっすらと涙が浮かび、好意でやろうとしただけなのにと恨み節を言いたげだ。
「いらないわよっ! だいたい、何が王子様よっ! エロゴリラのキスなんかで童話のお姫様は目覚めたりしないんだからっ! このキングコングっ! 美女と野獣っ! ハァ……ハァ……」
それでもゆりかの怒りが収まる気配は無い。危うくキスされそうになった事を呼吸を荒らげて憤慨すると、友のゴリラぶりを散々に喚き散らした。
「ゆりちゃん、ひどーーーーーーいっ!!」
ゴリラ呼ばわりされた事に、さやかがフグのようにほっぺたを膨らましながら、ブツブツと文句を垂れてふてくされる。もちろん本気で怒った訳ではない。いつも通りの二人のやり取りだった。
ミサキとアミカは紙の地図を広げて眺めながら、前に寄った村の村長からもらった煎餅を、バリバリと音を立てておいしそうに食べる。さやか達の痴話喧嘩に介入する素振りは全く見せない。どうせいつもの事だと言いたげに軽く受け流している。
ゼル博士も運転に意識を集中しているのか、一言も口を挟まない。
「はぁ……」
ゆりかが疲れた表情で軽く溜息を漏らす。父親と喧嘩別れする夢を見た記憶は、さやかのバカっぷりのせいで何処かへと吹き飛んでしまっていた。
車は次の目的地に向かって、ただ真っ直ぐに走る。
砂利道の石ころを強引に蹴り飛ばして進むタイヤの音が、ゆりかには「過去に浸る時間など無い」と言っているように聞こえた。




