第5話 星を喰らう巨獣と世界最大の闇鍋
レンさんが地面を叩き割った衝撃と熱気が、まだ私の肌に残っている。
目の前には、巨大なクレーター。
その底からは、地脈のマグマの熱がゆらゆらと立ち昇っていた。
これならいける。
どんな巨大なガスコンロよりも強力な火力だ。
「シルヴィオ様、お水をお願いします! 全力で!」
私はエプロンの紐をきつく締め直した。
この紐を締めると、私はただの令嬢ではなく、厨房の指揮官になる。
「はい! 地下水脈、直結させます!」
シルヴィオ様が杖を振るうと、クレーターの淵から大量の地下水が噴き出した。
滝のような水が、熱せられた岩盤に注がれる。
ジュウウウウウッ!!
凄まじい水蒸気が上がり、視界が一瞬真っ白になった。
数秒後、クレーターの中では、ふつふつと巨大な湯釜が沸き立っていた。
「よし、食材投入!」
私の号令が響く。
まずはベースとなる出汁だ。
「任せな! アタイの船の倉庫、空っぽにしてやるよ!」
マリーナさんが指笛を吹く。
空中の海賊船から、木箱や樽が雨のように降り注いだ。
中身は、高級な干し肉、塩漬けの魚、そして熟成された海賊酒。
ドボン、ドボン、ドボン!
次々と鍋に投げ込まれる食材たち。
酒の芳醇な香りが、湯気に混ざる。
「ワシも負けてはおれん! 帝国の兵糧、全てくれてやる!」
皇帝陛下が巨大な麻袋を担ぎ、豪快に放り投げた。
中から出てきたのは、乾燥豆や燻製チーズ、硬焼きパンの山だ。
「冥界のキノコも食らえ!」
ハーデス様が影を使って、光るキノコや地底の根菜を投入する。
多種多様すぎる。
肉、魚、豆、チーズ、キノコ。
普通に混ぜたら、ただの「闇鍋」になってしまうラインナップだ。
実際、鍋からは少しカオスな匂いが漂い始めている。
「……これ、本当に食えるのか?」
レンさんが不安そうに鍋を覗き込む。
彼の手には、私が渡した巨大な木べら(元は世界樹の枝)が握られている。
「美味しくするんです! 私が!」
私は包丁を構えた。
マリアベルさんが運んできた、エデンの採れたて野菜の山に向かう。
ザクッ、ザクッ!
包丁を入れるたびに、瑞々しい音が響く。
トマトの赤、キャベツの緑、カボチャの黄色。
それらが次々と鍋に吸い込まれていく。
この包丁の重み。
かつて実家の厨房で、誰にも期待されずに一人で野菜を切っていた頃を思い出す。
あの時は、ただ寂しさを紛らわせるために切っていた。
でも今は違う。
私の後ろには、頼もしい仲間たちがいて、空にはお腹を空かせた巨大な「お客様」がいる。
「レンさん、かき混ぜて! マリアベルさんは灰汁取りを! ゼファーさんは火加減の調整を!」
「了解だ!」
「任せなさい!」
「……騎士団長が火の番とはな」
全員が動く。
鍋の中が渦を巻き、食材たちが混ざり合っていく。
干し肉から染み出した動物性の脂と、魚介の旨味、そして野菜の甘みが、熱によって融合していく。
エデン特製のトマトソースを大量投入すると、スープの色が鮮やかな赤に染まった。
グツグツグツ……。
漂ってくるのは、もう混沌とした匂いではない。
世界中の美味を凝縮した、極上のミネストローネの香りだ。
「……いい匂いだ」
レンさんが喉を鳴らす。
その表情を見て、私は確信した。
これならいける。
バリッ、バリバリッ!!
頭上から、不穏な音が響いた。
見上げれば、銀色の防虫ネットが限界まで引き伸ばされ、今にも弾け飛びそうになっている。
クジラの巨大な口が、網の隙間からこちらを覗き込んでいた。
その目は血走り、よだれが滝のように滴り落ちている。
「限界だ! もう持たねぇ!」
マリーナさんが網を支えるロープにしがみつきながら叫ぶ。
「急いで、フローリア! 網が破れるわ!」
マリアベルさんの悲鳴。
時間がない。
煮込み時間は足りないけれど、素材の力と私の魔力で押し切るしかない。
「仕上げです! ユユ、お願い!」
「うん!」
ユユが鍋の縁に立ち、小さな両手を広げた。
背中の翼が光り輝く。
「おいしくなーれ! おいしくなーれ!」
彼女の歌声に合わせて、鍋の中身が黄金色に発光した。
強制的な熟成。
数時間煮込んだようなコクと深みが、一瞬にしてスープに宿る。
完成だ。
世界最大、そして最高級の『特製ごった煮スープ』。
「レンさん! 食べさせますよ!」
「どうやってだ? スプーンですくうわけにはいかんだろう」
「ぶちまけます!」
私は無茶苦茶な指示を出した。
でも、レンさんはニヤリと笑った。
「承知した。……掴まれ!」
レンさんが私を抱き寄せ、もう片方の手で巨大な木べら(というより丸太)を鍋に突き刺した。
そして、全身の筋肉を隆起させ、黄金のオーラを爆発させる。
「ぬんっ!!」
ゴオオオオオオッ!!
レンさんが木べらを振り上げると同時に、風魔法でスープを巻き上げた。
鍋の中身が、巨大な水柱となって空へ逆流する。
真っ赤なスープの竜巻。
肉も野菜も魚も、全てを巻き込んで、空の彼方へ昇っていく。
「網を外せ!」
私の合図で、マリーナさんたちがロープを切った。
防虫ネットが弾け飛び、クジラの口が完全に開放される。
グオオオオオッ!
クジラは待ってましたとばかりに、目の前に迫るスープの柱に向かって大口を開けた。
その口は、湖を飲み干せそうなほど巨大だ。
ドッパァァァァァン!!!
スープの奔流が、クジラの口内へと吸い込まれていく。
熱々の具材が、空腹の胃袋へと直撃する。
クジラの動きが止まった。
その巨大な目が、驚きに見開かれる。
静寂。
数秒の間、世界が止まったかのように静かになった。
そして。
ブオオォォォォォ……ン。
クジラの喉から、満足げな、そしてどこか甘えたような鳴き声が漏れた。
それは、美味しいものを食べてホッとした時の、ため息にも似ていた。
「……食べた」
誰かが呟いた。
クジラはもう暴れていない。
スープを飲み干した後、その巨体はゆっくりと高度を上げ、威嚇するような気配を消していた。
その表情は、心なしか穏やかに見える。
「やった……!」
私はレンさんの腕の中でガッツポーズをした。
通じたのだ。
言葉は通じなくても、美味しいという感覚は伝わる。
クジラは私たちの頭上を旋回し、そして何かをポロポロと落とし始めた。
フンかと思って身構えたが、違う。
それはキラキラと輝く、美しい光の粒だった。
「……『星の雫』だ」
シルヴィオ様が手を伸ばして受け止める。
それは高純度の魔力結晶だった。
「食べたお礼でしょうか?」
「ああ。どうやら、ごちそうさまの代わりらしい」
レンさんが微笑む。
光の雨が降り注ぐ中、クジラは満足げに尾びれを振って、雲の彼方へと去っていった。
まるで、食後の散歩に出かけるかのように。
「いっちゃった……」
ユユが手を振る。
空には再び、青空が戻ってきた。
そして、その光を浴びて、世界樹の頂上の果実が、一層強く輝き出した。
危機は去った。
残ったのは、空っぽになった巨大なクレーターと、満腹感に包まれた私たちだけ。
「……ふぅ」
私はへなへなと座り込んだ。
緊張の糸が切れて、どっと疲れが出た。
でも、心地よい疲れだ。
「よくやったな、フローリア」
レンさんが隣に座り、私の肩を抱いた。
彼の体温が伝わってくる。
「君の料理は、世界どころか、伝説の魔獣まで救ってしまったな」
「……ただの、お節介ですよ」
私はレンさんの肩に頭を預けた。
この一杯で、本当にあの巨体を満たせたのかは分からない。
でも、少なくとも「心」は満たせたはずだ。
あの子の去り際の穏やかな目が、そう言っていた気がする。
さて、これで邪魔者はいなくなった。
いよいよ、本番だ。
私は視線を世界樹の頂上へと戻した。
あそこには、完熟した『千年果実』が待っている。
そして、私の隣には、一番大切な人がいる。
「レンさん。……果実、収穫しましょうか」
「ああ。……その前に、君に言わなければならないことがある」
レンさんが私の手を取り、真剣な瞳で見つめてきた。
その瞳に吸い込まれそうで、私は息を呑んだ。




