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第4話 空を覆う巨体と究極の防虫ネット

「……うそ」


私は呆然と空を見上げた。

手からティーポットが滑り落ちそうになり、慌てて抱え直す。


頭上に広がっていたはずの青空が、ない。

入道雲も、太陽も、すべてが消えていた。


代わりにそこにあったのは、圧倒的な質量を持つ「腹」だった。


ゴゴゴゴゴゴ……。


重低音が大気を震わせる。

それは雷鳴ではなく、その巨大な生物が空気を押しのけて進む音だ。

雲を突き破り、ゆっくりと降下してくる影。


全長は、優に数キロメートルはあるだろうか。

私たちのいる島――エデンそのものよりも巨大な、空飛ぶクジラ。

その皮膚は岩盤のようにゴツゴツとしていて、所々に苔や小さな木が生えているのが見える。

まるで、動く大地そのものだ。


「バ、バカな……」


背後で、皇帝陛下がガシャンと音を立てて椅子を倒した。

振り返ると、あの豪快な陛下が顔面蒼白で震えている。


「あれは……伝説の『星喰い(スター・イーター)』か!? 神話の時代に封印されたはずの、空の災厄がなぜ今ここに!」


「星喰い?」


「そうだ! あれは魔力を帯びた星の核を食らう化け物だ! 通り過ぎた後の土地は草一本残らない死の大地になると言われているんだぞ!」


皇帝陛下の絶叫に、周囲の兵士たちがパニックを起こし始めた。

空の騎士ゼファーさんも、翼を広げて飛び立とうとしたが、風圧に煽られて体勢を崩している。


「総員、戦闘態勢!」

「撃て! 近づけるな!」


誰かの号令で、各国の軍勢が一斉に攻撃を開始した。

魔法の光弾、大砲の弾幕、弓矢の雨。

無数の攻撃が空へ向かって放たれる。


ドォォォン! ババババッ!


爆炎がクジラの腹で炸裂する。

しかし。


「……効いてない?」


煙が晴れた後、クジラの皮膚には傷一つついていなかった。

それどころか、攻撃されたことすら気づいていない様子で、悠然と降下を続けている。

あまりにもサイズが違いすぎるのだ。

蟻が象に噛みついたところで、象は気づきもしないのと同じように。


「くそっ、硬すぎる! アタイらの大砲も豆鉄砲扱いかい!」


マリーナさんが悔しそうに拳銃を乱射するが、弾丸は虚しく弾かれるだけだ。


「……逃げるぞ、フローリア」


レンさんが私を抱き寄せた。

その顔は険しい。


「あれはただの魔獣じゃない。自然災害そのものだ。俺の全力のブレスなら通じるかもしれんが……エデンごと吹き飛ばしかねん」


「逃げるって、どこへ?」


「どこでもいい。世界の果てまで」


レンさんは本気だ。

でも、私は首を横に振った。


「ダメです。逃げられません」


私は視線を上に戻した。

クジラの目的は明白だ。

その巨大な目が、世界樹の頂上――虹色に輝く『千年果実』に釘付けになっている。


「あの子は、私の果実を狙っています」


甘い匂いにつられてやってきたのだ。

せっかく実った、私の可愛い果実を。

みんなで分け合って食べるはずの、平和の象徴を。


「勝手に食べさせるもんですか」


私の中で、スイッチが入った。

恐怖心よりも先に、庭師としての使命感が燃え上がる。


丹精込めて育てた野菜や果物を、害虫や鳥に横取りされる悔しさ。

農家なら誰もが知っている、あの怒りだ。

相手がカラスだろうが、伝説の魔獣だろうが関係ない。

私の庭で、私の許可なくつまみ食いなんて許さない。


「マリアベルさん! アレを持ってきてください!」


「アレって……まさか、あの『特大サイズ』の?」


「はい! 今すぐ展開します!」


私はエプロンのポケットから、軍手を取り出して装着した。

そして、四次元収納リュックの口を大きく開ける。


「シルヴィオ様は風の計算をお願いします! 落下予想地点の予測を!」


「は、はい! ただちに!」


シルヴィオ様が測定器を持って走り出す。

私はレンさんに向き直った。


「レンさん、四隅の支柱をお願いします。私が合図したら、全力で地面に突き刺してください!」


「……何をする気だ?」


「決まってるじゃないですか」


私はリュックから、銀色に輝く繊維の束を引きずり出した。

それは、以前手に入れた【鋼鉄蜘蛛の糸】と、私の植物魔法で強化した蔦を編み込んだ、特製の網だ。


「防虫ネットを張るんです!」


「……は?」


レンさんが珍しく間の抜けた声を出した。

周囲の王たちも、ぽかんと口を開けている。


「防虫……ネットだと?」

「あの山みたいな化け物を、虫扱いする気か!?」


「サイズが大きくてもやることは一緒です! 大事な作物を守るには、物理的に遮断するのが一番なんです!」


私は網の端をレンさんに押し付けた。


「いいですか、あの子が口を開ける前に覆いますよ! 急いで!」


「……わかった。君がそう言うなら」


レンさんは苦笑し、しかし迷いなく網の端を掴んだ。

そして、黄金の翼を広げて空へ飛び立つ。


「マリアベル、ゼファー、ハーデス! 手を貸せ!」


レンさんの号令で、各国の代表者たちが動き出した。

彼らもまた、今の状況を打破できるのは私の「非常識」だけだと悟ったのかもしれない。


「面白ぇ! アタイも乗った!」

「仕方あるまい……ワシの力を見せてやる!」

「眩しいのは嫌だが……協力しよう」


マリーナさんが空飛ぶ船で網を運び、皇帝陛下が怪力で網を広げ、ハーデス様が影を使って網を固定する。

かつて敵対していた者たちが、一つの目的のために動いている。

その光景は、なんだか胸が熱くなるものがあった。


「準備完了! 展開!」


私の合図と共に、巨大な銀色の網がエデンの上空に広がった。

世界樹の頂上、虹色の蕾をすっぽりと覆うように、ドーム状の結界が形成される。


バアアァァン!!


風に煽られ、網が大きく膨らんだ。

タイミングは完璧だ。


直後。

クジラが動いた。


グオオオオオォォォ……!


クジラが大きく口を開けた。

その口は、城が丸ごと入りそうなほど巨大で、中は底なしの暗闇が広がっている。

吸い込まれるような吸引力が発生し、周囲の雲や空気が飲み込まれていく。


「来るぞ! 衝撃に備えろ!」


レンさんが叫ぶ。

クジラが果実を目掛けて、頭から突っ込んできた。


ズドォォォォォン!!!


激突。

世界が揺れた。

エデン全体がきしみ、地面に亀裂が走る。


「きゃああああ!」


私は衝撃で吹き飛ばされそうになり、近くの木にしがみついた。

見上げる空では、銀色の網が限界まで引き伸ばされ、クジラの巨体を受け止めていた。


ギギギギギギ……!


網が悲鳴を上げる。

支柱代わりの杭が、地面から抜けそうになる。


「耐えろぉぉぉ!」


皇帝陛下とマリーナさんが、必死に網の端を引っ張っている。

レンさんが結界を重ね掛けして補強する。


クジラは網に阻まれて果実に届かず、苛立ったように身をよじった。

そのたびに、暴風が巻き起こり、私たちの島を襲う。


「ダメです……! 力が強すぎる!」


マリアベルさんが叫ぶ。

防虫ネットは確かに丈夫だ。

でも、相手は「星喰い」と呼ばれる伝説の魔獣。

ただの物理的な障壁だけでは、長くは持たない。


バリッ、バリバリッ!


網の一部が破れる音がした。

そこから、クジラの巨大な鼻先がねじ込まれてくる。

その目は、飢餓感に血走っていた。

ただひたすらに、あの甘い果実を求めている。


「……お腹が空いてるだけなのに」


私は唇を噛んだ。

あの子に悪気はないのだ。

ただ、美味しい匂いにつられて、お腹いっぱいになりたいだけ。

それを「害虫」として追い払うのは、庭師としては正解でも、料理人としては心が痛む。


でも、あの果実を食べられたら、世界樹が傷つくかもしれない。

それに、みんなが楽しみにしているジャムも作れなくなる。


「どうすれば……」


私が迷っていると、足元で小さな影が動いた。


「ママ、どいて!」


「ユユ!?」


娘のユユが、私の前に飛び出していた。

彼女は小さな翼をいっぱいに広げ、空に向かって叫んだ。


「ダメだよ! それはみんなのごはんだよ!」


彼女の声は、轟音の中でも不思議とよく通った。

クジラの動きが、ピタリと止まる。


「あの子……ないてる」


ユユが悲しそうに空を見上げた。


「おなかがすいて、目がまわって、どうしようもないって。……ママ、あの子、かわいそうだよ」


ユユの言葉に、私はハッとした。

そうだ。

私も、最初はそう思ったはずだ。

クラーケンも、マザー・ツリーも。

みんな「お腹が空いて」暴れていただけだった。


なら、やるべきことは「防除」じゃない。

施肥せひ」――つまり、ご飯をあげることだ。


「……そうね、ユユ」


私は立ち上がった。

軍手を外し、エプロンの紐を締め直す。


「害虫駆除は中止です! 作戦変更!」


私は大声で叫んだ。

レンさんが、驚いてこちらを見る。


「フローリア!?」


「追い払うんじゃなくて、満腹にさせましょう! あんなに大きな体なんだもの、果実一つじゃ足りないはずです!」


私は周囲の王たちを見渡した。


「皆さん! 戦争してる場合じゃありません! 料理しますよ!」


「はぁ!?」


全員の声が重なった。


「あの化け物を満腹にさせるだと!? どれだけの食料が必要だと思っている!」


「エデンにある食材、全部使います! それに、皆さんが持ってきた保存食も、各国の特産品も、全部鍋に放り込んでください!」


私は無茶苦茶な提案をした。

でも、それしか方法はない。

世界中の食材を集めて、世界一大きな料理を作って、あのクジラを満足させる。

それができれば、果実も守れるし、エデンも平和になる。


「……フッ、狂ってるな」


最初に笑ったのは、マリーナさんだった。


「いいぜ! アタイの船に積んである干し肉と酒、全部提供してやらぁ!」


「ワシも乗ろう! 帝国の兵糧、全て使い切れ!」


「冥界のキノコも在庫処分だ!」


次々と賛同の声が上がる。

みんな、戦うよりも食べる方が好きなのだ。


「レンさん、巨大な鍋が必要です。……地面に穴を掘って、マグマで加熱できますか?」


「……無茶を言う」


レンさんは呆れたように笑い、そして剣を構えた。


「だが、君の頼みなら断れん。……やるぞ!」


レンさんが地面を切り裂き、即席の巨大鍋クレーターを作り出す。

シルヴィオ様が水を呼び、マリアベルさんが野菜を運ぶ。


史上最大の、クジラ用ランチ作りが始まった。

空には飢えた巨獣。

地上には、エプロンをつけた王たち。


私のスローライフ最終章、最大のクライマックスは、やっぱり「料理」で決めることになりそうだ。


「待っててね、クジラさん! 今、世界一のごちそうを作ってあげるから!」


私は包丁を空に掲げた。

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