最終話 女神様のスカウトと世界樹の頂上
「……ここは?」
光が収まると、私たちは雲の上に立っていた。
足元には、どこまでも広がる真っ白な雲海。
頭上には、手が届きそうなほど近くに、満天の星空が広がっている。
空気は冷たく澄んでいるが、不思議と息苦しさはない。
そして目の前には、白亜の神殿がそびえ立っていた。
その入り口に、一人の女性が立っている。
光の粒子で織られたようなドレスを纏い、背中には六枚の翼。
顔立ちは慈愛に満ちているが、どこか人間離れした美しさがあった。
『ようこそ。……あるいは、お帰りなさいと言うべきでしょうか』
女性の声が、頭の中に直接響いてくる。
「……神様?」
レンさんの腕の中で、ユユがポツリと呟いた。
その言葉に、レンさんが警戒心を強め、私を背に庇うように立つ。
「貴様、何者だ。俺たちを冥界から拉致してどうするつもりだ」
『拉致などと人聞きが悪い。……私は、この世界を見守るシステム。あなたたちが「始祖の女神」と呼ぶ存在の、残像のようなものです』
女神様は困ったように微笑んだ。
「始祖の女神……!」
シルヴィオ様が膝をついて震え出した。
学者としては、腰を抜かすほどの大事件らしい。
でも、私は不思議と恐怖を感じなかった。
むしろ、懐かしいような、温かいような感覚が胸に広がる。
『フローリア・グリーン。……いいえ、異界の魂よ』
女神様が私を真っ直ぐに見つめた。
『あなたがこの世界に来てから、運命の歯車は大きく変わりました。荒野は緑に覆われ、枯れかけた天空樹は蘇り、冥界の扉さえも開かれた。……見事です』
「あ、ありがとうございます。……ただ、好きなことをしていただけなんですけど」
『それが重要なのです。……単刀直入に言いましょう』
女神様は一歩近づき、私の手を取った。
その手はひんやりとしていて、でも柔らかかった。
『私の後を継いで、この世界の「神」になりませんか?』
「……はい?」
私は耳を疑った。
今、なんて言った?
『私はもう疲れました。数千年もこの世界を管理してきましたが、そろそろ有給休暇……いえ、引退したいのです。あなたなら、植物の力で世界を豊かに導けるはず』
女神様の目が、縋るように潤んでいる。
威厳のあるオーラが消え、急に「疲れたOLさん」みたいな雰囲気になった。
「えっと……お断りします」
私は即答した。
『えっ? 神ですよ? 全知全能ですよ?』
「興味ありません。神様になったら、土いじりできないじゃないですか」
私は手を離し、キッパリと言った。
「私は庭師です。毎日畑を見て、トマトに水をやって、家族と一緒にご飯を食べる。……それが私の幸せなんです。世界管理なんて大変な仕事、私には務まりません」
『そ、そこをなんとか! 週休二日制にしますから!』
「お断りです。私の休みは、野菜の機嫌次第で決まるんです」
交渉決裂だ。
女神様はガックリと肩を落とした。
『はぁ……やっぱりダメですか。あなたのその「欲のなさ」を見込んでスカウトしたのですが、裏目に出ましたね』
彼女は大きなため息をつき、近くにあった雲の椅子(?)にドサリと座り込んだ。
「……あの、女神様。もしかして、お腹空いてます?」
私は彼女の顔色が、少し悪いことに気づいた。
透き通るような肌だが、目の下に薄っすらとクマがあるような気がする。
神様にクマができるのかは知らないけれど。
『……空いています。ここ数百年、信仰心という魔力だけで生きてきましたから。固形物は食べていません』
「やっぱり! 働きすぎですよ!」
私はリュックを下ろし、まだ温かいバスケットを取り出した。
中には、冥界で作った「根菜ハンバーグ」の残りと、エデンで焼いてきたクッキーが入っている。
「どうぞ。残り物で恐縮ですが、甘いものもありますよ」
『……いいのですか?』
女神様はおずおずとクッキーを手に取り、口に運んだ。
サクッ。
『…………』
彼女の動きが止まる。
そして、光の粒子となって消えそうだった体が、ふわりと輝きを取り戻した。
『美味しい……。甘くて、香ばしくて……。ああ、脳の処理速度が回復していく……』
彼女は夢中でクッキーを食べ始めた。
神様も、甘いものには勝てないらしい。
「ばぁば! おいしい?」
突然、ユユがレンさんの腕から飛び出し、女神様の膝に乗っかった。
「ユユ!?」
私が止める間もなく、ユユは女神様の頬をペチペチと触っている。
「ばぁば、おつかれなの? ユユがなでなでしてあげる!」
ユユが小さな手で女神様の頭を撫でる。
すると、女神様の表情が、見たこともないほどとろけた。
『か、可愛い……! なんですかこの生き物は! 私の孫ですか!?』
「娘ですけど」
『実質、孫みたいなものです! ああ、この生命力、この無垢な魔力……癒やされる……』
女神様はユユを抱きしめ、頬擦りをした。
威厳も何もあったものじゃない。
ただの「孫にデレデレなおばあちゃん」だ。
「パパ、ママ! ばぁば、いいにおいする!」
ユユが嬉しそうに笑う。
女神様も満足げに微笑んだ。
『……わかりました。神へのスカウトは諦めましょう。こんなに可愛い子と、美味しいご飯がある地上から、あなたを引き剥がすなんて野暮なことはできません』
女神様は立ち上がり、私に向き直った。
『その代わり、条件があります』
「条件?」
『たまにでいいので、ここに遊びに来てください。……その、お弁当を持って。そして、この子の顔を見せに』
「……ふふっ、そんなことでいいんですか?」
「ええ。それだけで、私はあと千年くらい頑張れそうです」
女神様はウィンクをした。
どうやら、最強のコネクションができてしまったらしい。
神様公認の庭師。
悪くない響きだ。
『さあ、お帰りなさい。あなたの愛する場所へ』
女神様が手を振ると、足元の雲が晴れ、眼下に懐かしい景色が広がった。
緑豊かな大地。
きらめく川。
そして、中心にそびえる世界樹と、私たちの家。
「エデンだ……」
レンさんが呟く。
「帰ろう、フローリア。俺たちの家に」
「はい!」
私たちは女神様に別れを告げ、光の道を通って地上へと降りていった。
◇
エデンに戻ると、そこは夕暮れ時だった。
マリアベルさんとエルランドさん、そしてゴブリンたちが、心配そうに空を見上げていた。
「帰ってきたわ! 無事よ!」
マリアベルさんが叫び、駆け寄ってくる。
タケシも植木鉢から飛び出して「ウキャー!」と出迎えてくれた。
「ただいま戻りました、皆さん!」
私は大きく手を振った。
地面の土の感触。
草の匂い。
やっぱり、ここが一番落ち着く。
「おかえりなさい、フローリア様。……その様子だと、また何かとんでもないことを成し遂げてきたようですね」
エルランドさんが苦笑する。
シルヴィオ様が興奮気味に「神界の植物データを!」と叫んでいるが、それはまた後で聞こう。
「今日は宴会ですね! 天空のお土産話を聞かせてください!」
マリアベルさんが提案する。
賛成だ。
お腹もペコペコだし、何より、みんなで囲む食卓が恋しい。
その夜。
エデンの広場には、長いテーブルが並べられ、盛大なパーティーが開かれた。
メニューは、天空で採れた雲カボチャのスープ、冥界の根菜ハンバーグ、そしてエデンの採れたて野菜サラダ。
天と地と底、すべての恵みが詰まったフルコースだ。
「カンパーイ!」
グラスが触れ合う音が響く。
レンさんはユユを膝に乗せ、幸せそうにワインを傾けている。
私はその横顔を見ながら、心の中で女神様に感謝した。
こんな素敵な世界に呼んでくれて、ありがとう。
神様にはなれなかったけど、私はここで、世界一幸せな庭師になります。
「ママ、あーん!」
ユユがフォークを差し出してくる。
私は大きな口を開けて、娘からの愛を受け取った。
「ん~っ、美味しい!」
私のスローライフは、まだまだ終わらない。
明日は何の種を蒔こうか。
どんな花を咲かせようか。
考えるだけで、ワクワクが止まらない。
さて、そろそろ第5部――最終章の幕開けだ。
世界中が私たちの野菜を求めて、また大騒ぎになる予感がするけれど。
まあ、レンさんとユユがいれば、なんとかなるよね。
「レンさん、明日は早起きして、新しい畑を耕しますよ!」
「ああ。……一生、付き合うと言っただろう」
レンさんが優しく微笑み、私の肩を抱いた。
星空の下、エデンの夜は温かく更けていく。
第4章 完
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