第3話 天空の食糧事情
「……おい、いつまでこの泥をつけたまま歩かせる気だ」
天空都市「アイギス」のメインストリート。
私たちの先頭を歩く騎士団長ゼファーが、背中を丸めながら恨めしげに唸った。
彼の自慢だった純白のマントは茶色く汚れ、歩くたびにポロポロと乾いた泥が落ちている。
すれ違う市民たちが、ギョッとした顔で道を空けていくのが見えた。
「仕方ありませんよ。洗い流す水がないんですから」
私はキョロキョロと街並みを観察しながら答えた。
この都市には、本当に「水」の気配が乏しい。
道路は乾いた金属と樹脂で舗装され、街路樹の代わりにあるのはホログラムの並木だけ。
噴水らしきオブジェもあるが、流れているのは水ではなく、青白く発光する液体エネルギーだった。
「水なら供給ステーションにある。……だが、貴様らのような汚染源に使わせる水など一滴もないがな」
ゼファーはハンカチで鼻を押さえながら、憎々しげに吐き捨てた。
まだ懲りていないらしい。
「口が減らないな。もう一度、泥パックを追加してやろうか?」
私の隣で、レンさんが低く威嚇する。
背負ったバスケットからはみ出したタケシが、レンさんの殺気に合わせて威嚇のポーズ(葉っぱを逆立てる)をとった。
「ヒッ……! や、やめろ! 案内すると言っているだろう!」
ゼファーは怯えて歩調を速めた。
どうやら、泥の屈辱は相当なトラウマになったようだ。
「それにしても、不思議な街ですね」
私は改めて周囲を見渡した。
高層ビルの窓はどれも密閉され、外気を取り入れる構造になっていない。
空調の音だけが低く響いている。
「パパ、ここ、いきぐるしい」
レンさんの背中におんぶされたユユが、小さな声で訴えた。
「空気が死んでるの。……みどりの匂いがしない」
「そうだな。長居は無用だ」
レンさんがユユの足をポンポンと叩いてあやす。
植物の特性を持つユユにとって、この無機質な環境はストレスなのだろう。
その時だった。
ピピピ、ピピピ。
都市全体に、電子的なチャイム音が鳴り響いた。
正午を知らせる合図だろうか。
通りを歩いていた人々が、一斉に足を止めた。
そして、ベルトポーチや鞄から、銀色のパウチを取り出し始めた。
「……お食事の時間みたいですね」
私は興味津々で見守った。
未来都市の食事だ。
きっと、魔法のような調理器具で、見たこともない料理が出てくるに違いない。
しかし。
彼らがパウチの封を切り、口にしたのは、灰色のドロリとした半固形物だった。
匂いもしない。
湯気も立たない。
彼らはそれを無表情で啜り、数秒で飲み込むと、また無表情で歩き出した。
「……え?」
私は目を疑った。
あれが、食事?
ただの栄養補給作業にしか見えない。
「ゼファーさん。あれは何ですか?」
「『完全栄養食』だ」
ゼファーもまた、懐から同じ銀色のパウチを取り出した。
「人間に必要なカロリー、ビタミン、ミネラルが全て計算され、最適化されている。これ一つで半日分の活動エネルギーが補給できる。……合理的だろう?」
彼は誇らしげに言い、パウチを口に運ぼうとした。
「ちょっと待ってください!」
私は思わず彼の腕を掴んだ。
「その……中身、見せてもらってもいいですか?」
「なんだ。欲しいのか? 地上の蛮族には贅沢品だが、特別に分けてやろう」
ゼファーは鼻で笑い、パウチを一つ放り投げてきた。
私はそれを受け取り、指先に少し出して舐めてみた。
「…………」
絶句した。
味がない。
いや、厳密には微かな薬品のような苦味と、人工的な甘味料の後味があるだけ。
食感は冷たい糊のようだ。
「美味しい」とか「不味い」以前の問題だ。
これは、生きる喜びを削ぎ落とした、ただの燃料だ。
「……こんなの、ご飯じゃありません」
「は? 何を言っている。効率的で衛生的だぞ。調理の手間もないし、生ゴミも出ない」
「そういう問題じゃありません!」
私は声を荒らげた。
怒りが込み上げてくる。
日照権を奪われたことよりも、ここの人たちがこんな悲しいものを「食事」だと思って生きていることの方が、私には許せなかった。
「食事は、体だけじゃなくて心も満たすものです! こんな冷たいものを食べていたら、心まで凍っちゃいますよ!」
「なっ……我々の高度な食文化を侮辱するか!」
「高度な食文化? 笑わせないでください!」
私はパウチを地面に叩きつけた(ゴミは後で拾います)。
そして、レンさんの方を向いた。
「レンさん。ここで店開きします」
「……本気か?」
レンさんは呆れたように、でも少し嬉しそうに口角を上げた。
「はい。ここを通るなら、通行料代わりに私の料理を食べてもらいます。……味覚の教育的指導です!」
私はリュックを下ろし、四次元収納魔法(マリアベルさんが持たせてくれた袋)から、簡易キッチンセットを取り出した。
「場所を確保しろ! マリアベル特製のカマド、展開!」
ドンッ!
道の真ん中に、石組みのカマドと大鍋が設置された。
通行人たちがギョッとして立ち止まる。
「な、なんだあの原始的な装置は?」
「火を使う気か? 危険だ!」
「シルヴィオ様、薪をお願いします! ユユ、お水を出して!」
「はい! 乾燥させた世界樹の枝、持参しております!」
「はーい! おみず、でろー!」
シルヴィオ様が薪をくべ、ユユが指先から綺麗な湧き水を鍋に注ぐ。
レンさんが指パッチンで種火を点ける。
ボッ。
赤い炎が揺らめいた瞬間、周囲の空気が変わった。
彼らにとって「火」は、管理されたエネルギーではなく、野蛮で危険なものに見えるらしい。
騎士たちが慌てて駆け寄ってくる。
「き、貴様ら! 路上での火気使用は重罪だぞ!」
ゼファーが剣を抜こうとするが、レンさんが一睨みで制した。
「座って待っていろ。……これから出てくるものは、お前の人生を変えるぞ」
私は鍋にオリーブオイルを垂らした。
ジュウッ。
ニンニクと玉ねぎを炒める香ばしい匂いが、無機質な通りに拡散する。
「な、なんだこの刺激臭は!」
「目が痛い……でも、なんかいい匂い……?」
足を止める人が増えていく。
私は次々と具材を投入した。
エデンで採れた完熟トマト、甘いキャベツ、ホクホクのジャガイモ。
そして、旨味の塊であるベーコン。
「美味しくなーれ、温かくなーれ!」
魔力を込めて煮込むこと十分。
完成したのは、鮮やかな赤色が美しい『エデン特製・具だくさんミネストローネ』だ。
フワァァァ……。
蓋を開けた瞬間、湯気と共に濃厚な香りが爆発的に広がった。
トマトの酸味と野菜の甘み、そして肉の脂が溶け合った、暴力的なまでに食欲をそそる香り。
「ゴクリ……」
誰かの喉が鳴る音が聞こえた。
一人ではない。
遠巻きに見ていた市民たちの喉が、一斉に鳴ったのだ。
彼らはパウチを握りしめたまま、鍋に釘付けになっている。
「さあ、毒見役のゼファーさん。どうぞ」
私はお椀になみなみとスープを注ぎ、スプーンを添えて差し出した。
「わ、私が毒見だと? そんな得体の知れない赤い液体……」
「食べないなら、もう一度泥沼に沈めますよ?」
「……くっ!」
ゼファーは屈辱に震えながら、スプーンを口に運んだ。
周囲の市民たちが、固唾を呑んで見守る。
ゼファーの唇に、熱いスープが触れた。
ズズッ。
その瞬間。
彼の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。
「――ッ!?」
スプーンが止まる。
口の中に広がる、熱。
ただ温度が高いだけではない。
野菜たちが太陽の光を浴びて蓄えた、生命の熱量。
トマトの爽やかな酸味が唾液腺を刺激し、煮崩れたジャガイモが舌の上で優しく解ける。
そして、噛み締めたベーコンから溢れる肉汁の旨味。
彼の脳内で、何かが弾けた。
今まで「完全栄養食」で麻痺していた味蕾が、一気に覚醒したのだ。
「あ……あぁ……」
ゼファーの手から、スプーンが落ちた。
彼の目から、大粒の涙が溢れ出す。
「熱い……。なんて、熱くて……優しい味なんだ……」
「美味しいですか?」
私が尋ねると、彼は無我夢中で頷いた。
「うまい……! なんだこれは! これが『食事』なのか!?」
彼はプライドも忘れて、お椀に直接口をつけて飲み干した。
その姿を見て、周囲の市民たちが我慢の限界を迎えた。
「俺にもくれ!」
「私にも!」
「このパウチと交換してくれ!」
わっと人が押し寄せる。
レンさんが「並べ!」と一喝して列を作らせる。
「はいはい、たくさんありますからね!」
私は次々とスープを配った。
受け取った人々は、一口食べるごとに泣き出し、笑い出し、そして隣の人と顔を見合わせて「美味しいね」と言い合った。
無機質だった街に、初めて人間らしい体温が宿った瞬間だった。
「……信じられない」
シルヴィオ様が、スープを飲む人々のデータを取っている。
「摂取直後の幸福度数値が異常なほど上昇しています。フローリア先生、これは革命ですよ」
「ただのスープですけどね」
私は鍋をかき混ぜながら微笑んだ。
ユユも「おいしいねー!」と、自分の分のスープを飲んでご機嫌だ。
その時。
群衆の後ろにある、都市の中枢へ続く巨大な扉が、重々しい音を立てて開き始めた。
ゴゴゴゴゴ……。
中から現れたのは、全身が金色の金属でできた、美しい人型の自動人形だった。
彼女(?)は、感情のないレンズの瞳でこちらを見つめ、静かに近づいてきた。
「……解析不能。解析不能」
機械的な音声が響く。
「当該液体の成分構成は、ただの有機物混合液。しかし、市民の生体反応に劇的なプラス効果を確認。……理解不能」
彼女は私の目の前で立ち止まり、スープの鍋を指差した。
「当機は管理ユニット『No.9(ナイン)』。……その液体、当機にも試食を要求する」
どうやら、この都市の一番偉い人(機械)も、私の料理に興味を持ってくれたようだ。
「どうぞ。機械でも味が分かるんですか?」
「味覚センサーは搭載されている。ただし、機能確認以外で使用した記録はない」
No.9は無表情のまま、私が差し出したスープを受け取った。
そして、機械的な動作で口へと運ぶ。
これで、トップ会談のきっかけは掴めた。
私の「天空食育ツアー」は、順調な滑り出しを見せていた。




