第1話 育ちざかりの娘
第4章スタートです!!
毎日投稿予定なのでお楽しみに!
「ママ、ごはん! おなかすいた!」
朝日が差し込むエデンのダイニングルームに、鈴を転がしたような愛らしい声が響き渡った。
私はフライパンを握ったまま、思わず頬を緩めて振り返る。
そこには、テーブルにちょこんと座り、期待に目を輝かせている小さな女の子がいた。
若草色のふわふわした髪に、宝石のような琥珀色の瞳。
背中には、透き通るような小さなドラゴンの翼がパタパタと動いている。
そして頭のてっぺんには、感情に合わせて揺れる可愛い双葉。
私たちの娘、ユユだ。
「ちょっと待ってね、ユユ。今、美味しいオムレツが焼けるからね」
「オムレツ! わぁい!」
ユユは嬉しそうにフォークとスプーンを両手に持ち、カチカチと鳴らした。
その姿はどう見ても、三歳から四歳くらいの幼児である。
……おかしい。
冷静に考えて、すごくおかしい。
彼女が生まれたのは、つい十日前のことだ。
無人島での劇的な誕生から、私たちはカボチャの馬車でエデンに戻ってきたばかり。
本来なら、まだ首も座っていない新生児のはずなのだ。
けれど、ユユは生まれた翌日には立ち上がり、三日目には言葉を話し、今ではこうして一人で食事を待っている。
まさに、雨後の筍のような成長速度だ。
「植物の特性を受け継いでいるからでしょうね。光合成もしていますし」
私は自分にそう言い聞かせ、皿に焼きたてのオムレツを盛り付けた。
エデンの野菜と、コカトリスの新鮮な卵を使った特製オムレツだ。
中には、細かく刻んだ野菜がたっぷりと入っている。
「はい、お待たせ。熱いからフーフーしてね」
「うん! いただきましゅ!」
ユユは大きな口を開けて、オムレツを頬張った。
モグモグと動くほっぺたが、小リスのようでたまらなく可愛い。
「おいしー! ママのごはん、だいすき!」
「っ……!」
破壊力がすごい。
天使だ。いや、植物竜だから精霊か何かだろうか。
とにかく、この笑顔のためなら、私は世界中の畑を耕せる自信があった。
「ユユ、ちゃんと噛んで食べるんだぞ」
そこへ、新聞を片手にレンさんが入ってきた。
彼はユユを見るなり、氷のような表情を一瞬で溶かし、デレデレの笑顔になった。
「パパ! おはよ!」
「ああ、おはようユユ。今日も世界一可愛いな」
レンさんはユユの隣に座り、慣れた手つきで彼女の口についたケチャップを拭ってやった。
その動作の自然なこと。
かつて「血塗れの竜公爵」と恐れられた男の面影は、ここにはない。
「レンさん、おはようございます。コーヒー入ってますよ」
「ありがとう。……しかし、ユユはまた大きくなったな。昨日より背が伸びている気がする」
「服がもう小さくなってますね。マリアベルさんに頼んで、新しいのを作ってもらわないと」
「俺が帝都から最高級の絹を取り寄せる。いや、いっそ職人をここに住まわせるか」
「過保護すぎます。子供服なんてすぐに着られなくなるんですから、植物繊維で十分ですよ」
私たちはそんな会話をしながら、穏やかな朝食の時間を過ごした。
窓の外には世界樹がそびえ、畑ではマリアベルさんが元気に鍬を振るっている。
タケシ(マンドラゴラ)も、ユユのお兄ちゃんとして張り切って窓辺で光合成をしている。
平和だ。
本当に、夢のようなスローライフだ。
「ごちそうさまでした! わたし、タケシおにいちゃんとあそぶ!」
ユユは皿を綺麗に空にすると、元気に椅子から飛び降りた。
そして、窓辺のタケシに向かって駆け寄る。
「おにいちゃん、いこ!」
「ウキャッ!」
タケシも植木鉢から根っこを引き抜き、器用に歩き出した。
一人と一株は、手を繋いで庭へと駆けていく。
「こら、ユユ! 転ばないようにね!」
「はーい!」
私は微笑ましく見送った。
レンさんはコーヒーを飲みながら、目を細めてその背中を追っている。
「……信じられんな」
彼がポツリと呟いた。
「俺にこんな日が来るとは。愛する妻と、可愛い娘。……少し前までは、戦場だけが俺の居場所だと思っていたのに」
「ふふ、今のレンさんの居場所はここですよ。エデンのパパさんです」
「悪くない響きだ」
レンさんは私の手を握り、指先にキスをした。
「フローリア。君に出会えて本当によかった」
朝から甘い。
新婚生活と育児生活が同時に来ているせいで、我が家の糖度は常にマックスだ。
「さあ、私たちも行きましょう。今日は新しいトマトの収穫日ですよ」
私はエプロンを外し、農作業用の帽子を被った。
◇
エデンの庭に出ると、初夏の爽やかな風が吹き抜けた。
ユユとタケシは、広場の芝生の上で追いかけっこをしている。
ユユが走るたびに、その足跡から小さな花がポコポコと咲いていくのが見える。
彼女の魔力が溢れ出ている証拠だ。
「あら、おはようフローリア。今日もチビちゃんは元気ね」
畑からマリアベルさんが声をかけてきた。
彼女は手ぬぐいで汗を拭いながら、籠いっぱいのキュウリを見せてくれた。
「見てよこれ。ユユちゃんが昨日『おおきくなーれ』って歌った場所のキュウリ、一晩でこんなに巨大化したわよ」
見ると、彼女が持っているキュウリは、子供の腕くらいの太さがあった。
もはや鈍器だ。
「うわぁ……効果てきめんですね」
「ええ。あの子の歌には、植物の成長を促進させる波動が含まれてるわ。エルランドが『聖女の再来だ』って拝んでたわよ」
マリアベルさんは笑った。
彼女もまた、ユユの誕生を心から祝福してくれている。
「私にも抱っこさせなさいよ!」「将来は私が農業を仕込んであげるわ!」と、すっかり親戚の叔母さんポジションだ。
その時。
庭の隅にある研究小屋から、白衣を着た二人組が出てきた。
シルヴィオ様と、エルランドさんだ。
二人は難しい顔をして、何やらデータを記した紙を覗き込んでいる。
「おはようございます、お二人とも。朝から熱心ですね」
私が声をかけると、シルヴィオ様がハッとして顔を上げた。
「あ、おはようございますフローリア先生! ……いえね、ユユちゃんの成長記録をつけていたんですが、不可解な点がありまして」
「不可解?」
「はい。彼女の魔力波長です。植物と竜の特性を持っているのは分かるんですが……それとは別に、もっと高位の、『天』に近い属性を感じるんです」
「天?」
「ええ。重力に逆らうような、浮遊する魔力というか……」
エルランドさんが補足する。
「古代エルフの伝承にある『天空の民』に近い気配です。……フローリア様、あの子が空を飛ぶのは時間の問題かもしれませんよ」
「まあ、翼もありますしね」
私は楽観的に答えた。
竜の子なのだから、空くらい飛ぶだろう。
レンさんも飛べるし。
「パパ! ママ! みてみて!」
ユユの声がした。
見ると、彼女は広場の中央で、空に向かって両手を広げていた。
その小さな背中の翼が、キラキラと輝き始めている。
「とべるもん! わたし、とべるもん!」
ユユが小さくジャンプした。
すると。
フワッ。
彼女の体が、重力を無視して浮かび上がった。
数センチではない。
一気に数メートル、ふわりと上昇したのだ。
「えっ!?」
私は驚いて口を押さえた。
レンさんが素早く反応し、駆け出す。
「ユユ! そのままじっとしてろ! パパが受け止める!」
しかし、ユユは怖がるどころか、キャッキャと笑っていた。
「わぁー! たかい! すごーい!」
彼女が笑うと、周囲の空気が振動した。
青空だった頭上に、突然小さな雨雲が発生する。
そして、キラキラと光る優しい雨が降り始めた。
「天気雨?」
私が空を見上げると、雨粒が触れた場所から、さらに植物たちが急成長を始めた。
世界樹の枝が伸び、花が一斉に開花する。
エデン全体が、ユユの喜びに共鳴して歌っているようだ。
「……やはり。感情と天候がリンクしています」
シルヴィオ様がメモを取りながら震えている。
「これだけの規模の天候操作……。彼女は『歩くパワースポット』ですよ」
レンさんは空中に跳躍し、ユユを優しく抱きとめて降りてきた。
「危ないだろう、ユユ。まだ飛び方は教えていないぞ」
「でもね、パパ! お空がよんでたの!」
ユユはレンさんの腕の中で、無邪気に空を指差した。
「あそこ! あそこのくものうえに、なにかあるよ!」
「雲の上?」
レンさんが怪訝な顔をして空を見上げる。
私もつられて見上げた。
そこには、いつもの青空と、ぽっかり浮かんだ白い入道雲があるだけだ。
「鳥さんかな? それとも飛行船?」
私が尋ねると、ユユは首を横に振った。
「ううん。もっとおおきい! キラキラしてて、カチカチしてて……でも、なんかさみしいの」
「寂しい?」
「うん。……『みどりがない』ってないてるの」
ユユの言葉に、私はドキリとした。
緑がない。
それは、植物の声を聞く私にとっても、一番悲しい言葉だ。
「……レンさん。何か感じますか?」
「いや。俺の探知範囲には何も……」
レンさんが言葉を切った。
彼の目が鋭く細められる。
琥珀色の瞳が、遥か上空の一点を凝視した。
「……待て。雲の影に、何かある」
レンさんの言葉が終わるか終わらないかの内に。
エデンの空が、急に暗くなった。
ズズズズズ……。
太陽が遮られたわけではない。
太陽の手前に、巨大な「影」が現れたのだ。
それは雲よりも高く、しかし山のように巨大な質量を持っていた。
「な、なんですかアレは……!」
マリアベルさんが空を指差して叫ぶ。
雲の切れ間から、巨大な人工物の一部が顔を覗かせていた。
銀色に輝く金属の壁。
無数に並ぶ歯車とパイプ。
そして、底面に見える幾つもの噴射口。
それは、空に浮かぶ巨大な「島」――いや、「城」だった。
「天空の……城?」
私は呆然と呟いた。
お伽話に出てくるラピュタのようなものが、現実に存在するなんて。
「……『アイギス』」
エルランドさんが、呻くようにその名を口にした。
「古代文明の遺産、天空都市アイギス……。伝説だと思われていたものが、なぜ今ここに……」
天空都市。
その威容は、エデンの平和な空気を一変させるのに十分だった。
巨大な影が畑を覆い、日光を遮断する。
植物たちが「暗いよ」「寒いよ」とざわめき始める。
「……邪魔だ」
レンさんの殺気が膨れ上がった。
「俺の庭の日照権を侵害するとは、いい度胸だ。……撃ち落とすか」
「待ってください、パパ!」
ユユがレンさんの腕を引っ張った。
「あそこ、いきたい! いってみたい!」
「えっ? 行くの?」
「うん! あそこのひとたち、おなかすかせてるの! ママのごはん、たべさせてあげたい!」
ユユの目は真剣だった。
彼女には聞こえているのだろうか。
あの無機質な鉄の塊の中にいる人々の声が。
「……お腹を空かせているなら、放っておけませんね」
私はエプロンの紐を締め直した。
それに、あんな大きなものが空に居座っていたら、私の大事なトマトたちが日照不足で枯れてしまう。
排除するにしても、仲良くするにしても、まずは行って話をつけなければ。
「レンさん。ピクニックに行きましょう」
「……ピクニック?」
「はい。お弁当を持って、あの空のお城へ!」
私の提案に、レンさんは呆れたように、でも楽しそうに笑った。
「君はいつもそうだ。……いいだろう。娘の願いと妻の頼みだ。空の果てだろうと連れて行く」
「でも、どうやって行くんですか? カボチャの馬車じゃ、あんな高さまで飛べませんよ?」
シルヴィオ様が冷静に指摘する。
確かに。
あそこは成層圏に近い。
普通の飛行魔法では酸素が持たないだろう。
「ふふっ、心配無用です」
私はポケットから、一粒の豆を取り出した。
第3部で手に入れた、マリーナさんからの結婚祝い(?)の珍しい種子。
【巨人の豆】だ。
「飛べないなら、登ればいいんです」
私は豆を地面に植えた。
そして、ユユにウィンクする。
「ユユ、パパとママと一緒に、『おおきくなーれ』って歌ってくれる?」
「うん! やるー!」
私たちは三人で、植えたばかりの豆に魔力を注いだ。
最強の庭師と、竜公爵と、植物竜の娘の魔力が合わさる。
ズゴゴゴゴゴ……ッ!!
地面が爆発したかのように隆起した。
太い、あまりにも太い緑の蔦が、天を衝く勢いで伸びていく。
雲を突き破り、空の彼方へ。
「さあ、出発ですよ! 天空への家族旅行です!」
私のマタニティ・ライフは終わったけれど、今度は子連れ冒険ライフの始まりだ。
天空の人たちがどんなご飯を食べているのか、今から楽しみで仕方がない。




