第6話 船上のキッチン
「フローリアから離れろ、下郎」
海賊船の甲板に、絶対零度の声が響き渡った。
海を割り、水しぶきを上げながら着地したレンさんは、まさに鬼神の如き形相だった。
全身から立ち昇る黄金色のオーラが、夕闇迫る海を真昼のように照らし出している。
彼が歩を進めるたび、頑丈なはずの甲板がミシミシと悲鳴を上げ、木材に亀裂が走っていく。
「ひぃっ……! なんだあの男は!?」
「化け物だ! 腰が抜けて動けねぇ!」
さっきまで野菜を貪り食っていた海賊たちが、恐怖に顔を引きつらせて後ずさりする。
無理もない。
今のレンさんは、世界を滅ぼす魔王そのものだ。
琥珀色の瞳は縦に割れ、完全に「竜の目」になっている。
「あら、いい男じゃないか」
しかし、ただ一人。
海賊船長マリーナさんだけは、不敵な笑みを崩さなかった。
彼女は私の肩を抱いたまま、二丁の魔導拳銃をレンさんに向けた。
「アタイの船に土足で上がり込むとはいい度胸だね。通行料代わりに、その綺麗な首を置いていきな!」
「通行料だと? ……俺の大事な妻を誘拐しておいて、まだ戯言をほざくか」
レンさんが腰の剣を抜き放つ。
刀身がカッと輝き、周囲の大気がビリビリと振動した。
「妻? はんっ、今はアタイの嫁候補だよ! アンタみたいな堅苦しい男より、アタイと海で暮らす方がこの子は幸せになれるんだよ!」
「……死にたいらしいな」
ブチッ。
レンさんの理性の糸が切れる音が聞こえた気がした。
「待って! ストップ! 二人ともやめてぇぇぇ!」
私は慌てて二人の間に割って入った。
このままだと、海賊船はおろか、この海域一帯が更地になってしまう。
「どいてろフローリア! そのふざけた女を海の藻屑にしてやる!」
「ダメですレンさん! この人たちはもう敵じゃありません! 私のお客さんです!」
「客だと? 誘拐犯だろうが!」
「最初はそうでしたけど、今は私の野菜を食べてくれる大事な消費者です! それに、食事中に暴れるなんてマナー違反ですよ!」
私が両手を広げて立ちはだかると、レンさんは剣を止めた。
切っ先が私の鼻先数センチでピタリと静止する。
「……フローリア。君は、人質に取られていたんじゃないのか?」
「違います。野菜パーティーをしてたんです」
私は周囲を指差した。
そこには、トマトやキュウリを片手に呆然としている海賊たちの姿がある。
武器を持っている者は一人もいない。
みんな両手に野菜を持っている。
「……なんだ、この状況は」
レンさんは困惑し、剣を下ろした。
殺気が少しだけ霧散する。
「アハハ! 面白いねぇ、この状況で飯の話かい!」
マリーナさんが快活に笑い、銃をホルスターに収めた。
「気に入ったよ、旦那。アンタ、強いね。アタイの覇気を受けても眉一つ動かさない男は初めてだ」
「……お前もな。ただの海賊ではないようだが」
レンさんもまた、マリーナさんの実力を認めたようで、警戒を解かずに睨み返した。
一触即発の空気は変わらないが、とりあえず戦闘は回避されたようだ。
「ふぅ……よかった。さあレンさん、せっかくですから一緒にご飯を食べましょう。お腹が空いてイライラしてるんでしょう?」
「イライラしているのは空腹のせいではない。心配で気が狂いそうだったからだ」
レンさんは私を抱き寄せ、頭のてっぺんから足の先まで怪我がないか確認し始めた。
過保護モード全開だ。
「フローリア先生! 無事ですか!」
そこへ、船の陰からシルヴィオ様とタケシが飛び出してきた。
シルヴィオ様の手には、なぜか海藻が握られている。
「この船の底に、珍しいフジツボが付着していまして……って、公爵殿下!? 到着が早すぎませんか!?」
「遅いくらいだ。……おい泥王子、貴様フローリアの護衛はどうした。海藻と遊んでいたのか?」
「ひぇっ! ち、違います! 環境調査です!」
シルヴィオ様がレンさんに詰め寄られ、涙目で弁解している。
いつもの光景だ。
これでようやく、日常が戻ってきた気がする。
「さて、と」
私はパンパンと手を叩いて注目を集めた。
「喧嘩は終わりです! マリーナさんも、レンさんも、お腹が空いてるなら私の料理を食べてください! 今日は特別に、採れたての『ジュエル・ケルプ』を使った海鮮丼を作りますから!」
「海鮮丼? なんだいそりゃ」
マリーナさんが興味深そうに首を傾げた。
海賊たちは魚を焼いて食べるか、干物にするくらいしか調理法を知らないらしい。
「見せてあげますよ。エデンの食卓の真髄を!」
私は腕まくりをして、即席の調理場(甲板の上に木箱を並べたもの)に立った。
◇
今日のメイン食材は、先ほど採取した『ジュエル・ケルプ』と、海賊船に積んであった新鮮な魚介類だ。
まずはご飯の準備。
エデンから持参した【天使の米】を、魔法でふっくらと炊き上げる。
炊きあがったご飯からは、甘く芳醇な湯気が立ち昇り、それだけで海賊たちがゴクリと喉を鳴らした。
「すげぇ匂いだ……これが陸の『コメ』ってやつか……」
次に、ジュエル・ケルプの下処理だ。
七色に輝く昆布をさっと湯通しすると、鮮やかな翡翠色に変わる。
これを細切りにすると、ネバネバとした成分が糸を引き、海の香りが広がる。
「このネバネバが体にいいんです。疲労回復と、お肌の保湿効果がありますよ」
私は解説しながら、マグロやタイ、ホタテなどの刺身を一口大にカットしていく。
そして、特製のタレ作り。
醤油ベースに、すりおろしたワサビ(自生していたものを発見)と、ごま油、そして隠し味に『発酵トマトエキス』を加える。
「よし。これを熱々のご飯に乗せて……完成です!」
丼の中に、白いご飯、色とりどりの刺身、そして宝石のように輝く昆布が盛り付けられた。
仕上げにタレを回しかけると、ジュワッという音と共に、食欲を破壊するような暴力的な香りが甲板を制圧した。
「さあ、召し上がれ! 名付けて『エデン風・宝石海鮮丼』です!」
私はマリーナさんとレンさんに、それぞれ丼を渡した。
「……ふん。見た目は綺麗だね」
マリーナさんは疑わしげに箸(私が木の枝で作った即席箸)を取り、丼をかき込んだ。
ガツッ、ガツッ。
「――ッ!?」
彼女の動きが止まる。
「な……なんだこれぇぇぇ!」
マリーナさんが叫んだ。
「魚が……甘い! 今まで食ってた魚と同じものとは思えねぇ! それにこの緑色の草(昆布)! ヌルヌルして気持ち悪いかと思ったら、コリコリした食感と磯の風味が最高じゃねぇか!」
彼女は猛烈な勢いで丼をかき込み始めた。
タレの染みたご飯と、新鮮な魚、そして昆布の旨味が口の中で混ざり合い、噛むたびに幸福感が爆発する。
「うまい! うますぎる! 酒だ! これに合う酒を持ってこい!」
「おかわりありますよ!」
私が言うと、海賊たちも我先にと行列を作った。
みんな涙を流しながら食べている。
長年の野菜不足と、粗食に耐えてきた彼らにとって、このバランスの取れた食事はまさに「命の味」なのだ。
「……悪くない」
隣で食べていたレンさんも、静かに完食していた。
「この昆布、魔力回復効果が高いな。海を割って消費した魔力が、みるみる戻ってくる」
「でしょう? 妊婦さんにもいいんですよ」
私も自分の分を食べた。
美味しい。
お腹の結晶ちゃんも『おいしい! もっと!』と大はしゃぎしている。
やっぱり、この子は海の恵みを求めていたんだ。
宴は夜遅くまで続いた。
レンさんはまだマリーナさんを警戒していたけれど、マリーナさんが酒に酔って「アンタの嫁、最高だねぇ! アタイの負けだよ!」と絡んでくると、まんざらでもない顔で「だろう? 世界一だ」と自慢し始めていた。
なんだかんだで、強い者同士、気が合うのかもしれない。
◇
翌朝。
私たちは海賊船と別れ、カボチャの馬車で港町『ポルト・マーレ』へ戻ることになった。
「世話になったね、フローリア」
マリーナさんは桟橋で私を見送ってくれた。
その肌は昨日のカサカサが嘘のように潤い、美女っぷりに磨きがかかっている。
部下たちも全員、顔色が良くなり、見違えるように精悍になっていた。
「いいえ。こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました」
「アンタのおかげで、アタイらは生まれ変わった気分だよ。……で、これから商売の勝負をするんだって?」
マリーナさんはニヤリと笑った。
「はい。オスカー商会と、売り上げ勝負です」
「あの古狸か。気に入らねぇ野郎だ」
彼女は腰の銃を撫でた。
「いいことを教えてやるよ。オスカーの野郎、裏で妙な連中と繋がってやがる。最近、海に変な魔物を放流して実験してるって噂だ」
「魔物、ですか?」
「ああ。アタイらも手を焼いてる『深海の黒い影』さ。……気をつけるんだね」
「ありがとうございます。肝に銘じます」
私は感謝を伝えた。
やはり、オスカーはただの商人ではないようだ。
「それとな、フローリア」
マリーナさんは私の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。
「もし旦那と別れることがあったら、いつでもアタイのところに来な。船長室を空けて待ってるからさ」
「えっ」
「アハハ! 冗談だよ(半分はね)!」
彼女は豪快に笑い、私の背中をバンと叩いた。
「困ったことがあったら呼びな! この『法螺貝』を吹けば、アタイらはどこにいても駆けつける!」
手渡されたのは、虹色に輝く美しい貝殻だった。
海の民との絆の証だ。
「心強いです! 行ってきます!」
私たちはカボチャの馬車に乗り込み、港へと向かった。
レンさんは不機嫌そうに貝殻を睨んでいたが、捨てることはしなかった。
◇
港町に戻ると、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
「……なんだ、この騒ぎは」
広場の方から、怒号と歓声が入り混じったような音が聞こえてくる。
レンさんが警戒を強める中、私たちは人混みをかき分けて進んだ。
そこには、巨大なステージが設営されていた。
『ディープ・ブルー商会・大感謝祭』と書かれた横断幕が掲げられ、ステージ上ではオスカーが得意げに演説をしている。
「さあ、愚かな農民たちよ! この私が用意した『究極の食材』を見るがいい!」
彼が指差した水槽の中には、見たこともないほど巨大で、不気味な紫色をした魚が泳いでいた。
「こ、あれは……?」
シルヴィオ様が息を呑む。
「魔魚『カオス・ツナ』……!? 禁忌指定されている汚染海域の魚ですよ!?」
「なんだって?」
レンさんの目が光る。
「美味だが、食べた者を凶暴化させる毒を持つと言われています。……まさか、あれを売る気ですか!?」
オスカーは狂気的な笑みを浮かべていた。
「この魚を食べれば、力溢れる強靭な肉体が手に入る! さあ、安いぞ安いぞ! どんどん買って食らうがいい!」
群衆が、何かに取り憑かれたように魚を買い求めている。
彼らの目は充血し、理性を失っているように見えた。
「……洗脳か」
レンさんが呟く。
「魚に含まれる微量の毒で、中毒症状を引き起こしている。……許せん」
「皆さんを助けないと!」
私は拳を握りしめた。
美味しい食事は、人を笑顔にするためのものだ。
こんな風に、人を狂わせるために使うなんて許せない。
「やりましょう、レンさん。商売対決で、真っ向から叩き潰してやります!」
「ああ。俺も手伝う」
レンさんが袖をまくり上げた。
「俺の剣技で、最高の野菜スティックを作ってやる」
「それはちょっと違いますけど……まあいいです!」
私たちはカボチャの馬車を展開し、即席の店舗『エデン・マルシェ出張所』を開店させた。
武器は、マリーナさんたちを虜にした『エデン風・宝石海鮮丼』と、新鮮な野菜たち。
そして、私の愛情だ。
「いらっしゃいませー! 呪われた魚より、こっちのトマトの方が美味しいですよー!」
私の声が、混沌とする広場に響き渡った。
戦いの火蓋は切られた。
悪徳商人の洗脳魚vsエデンの魔法野菜。
勝つのはどっちだ!?




