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第5話 海賊船長マリーナ

「いいかフローリア。絶対に、絶対に遠くへ行くなよ」


港の桟橋で、レンさんが私の両肩を掴み、真剣な眼差しで言い聞かせた。

その背後には、彼から放たれる黄金色のオーラが陽炎のように揺らめいている。

周囲の漁師たちが、怯えて遠巻きにしているほどだ。


「わかっていますってば。すぐそこの入り江に行くだけです。カボチャの馬車なら、何かあってもすぐに逃げられますし」


私は苦笑しながら答えた。

これから始まるオスカー商会との売り上げ勝負。

勝つためには、ただ野菜を並べるだけでは不十分だ。

魚食中心のこの街の人々に「野菜も美味しい」と思わせるには、彼らが好きな海産物と組み合わせたコラボ料理が必要だと判断したのだ。


そこで、シルヴィオ様が提案してくれたのが、この海域特有の『ジュエル・ケルプ(宝石昆布)』という海藻だった。

出汁がよく出る上に、サラダにすると絶品らしい。


「本当なら俺もついて行きたいが……あの商人の動きが怪しい。俺がここで睨みを利かせておかないと、出店場所すら確保できないかもしれん」


レンさんは悔しそうに眉を寄せた。

オスカーは「広場を使っていい」と言ったものの、実際には一番端の日当たりの悪い場所や、ゴミ捨て場の近くをあてがってくる可能性がある。

それを防ぐには、公爵としての権力と圧力を適切に行使できるレンさんが、役所や組合に掛け合う必要があった。


「大丈夫です。私にはタケシもいますし、シルヴィオ様もいますから」


「……その後者が一番不安なんだがな」


レンさんはチラリとカボチャの馬車を見た。

運転席では、シルヴィオ様が「早く昆布に会いたい!」とハンドルを握り締めて興奮している。


「何かあったらすぐにこの通信機を使え。俺が海を割って駆けつける」


レンさんは私の首に、魔力を込めたペンダントをかけてくれた。


「はい。行ってきます、レンさん!」


私は背伸びをして、彼の頬に軽くキスをした。

レンさんは一瞬驚いた顔をして、それから耳を赤くして咳払いをした。


「……早く戻れよ」


名残惜しそうな最強の騎士に見送られ、私たちは再び海へと漕ぎ出した。


        ◇


カボチャの馬車・マークⅢは、港を出てすぐの浅瀬を滑るように進んでいた。

波は穏やかで、太陽の光が水面にキラキラと反射している。


「いいお天気ですねぇ。お腹の結晶ちゃんも喜んでます」


私は助手席でお腹をさすった。

海に出てからというもの、つわりのような吐き気は消え、代わりに猛烈な食欲が湧いてきている。

結晶が海の魔力を吸収し、安定し始めた証拠だろう。


「フローリア先生! 見えてきましたよ! あそこがジュエル・ケルプの群生地です!」


シルヴィオ様が指差した先。

透き通るようなエメラルドグリーンの海中に、キラキラと七色に輝く森が見えた。


「うわぁ……綺麗!」


海藻とは思えない輝きだ。

ゆらゆらと揺れる葉は宝石のように透明度が高く、光を反射してプリズムのような色彩を放っている。


「潜水モードに切り替えますか?」


「いえ、この深さならマジックハンドで採取できます。……タケシ、出番よ!」


「ウキャッ!」


後部座席のタケシが、窓から自慢の根っこを伸ばした。

彼の根っこは水中でも器用に動き、狙った海藻を優しく絡め取って引き上げてくる。


バシャッ。


車内に運び込まれたジュエル・ケルプは、磯の香りと共に、微かな甘い香りを放っていた。


「素晴らしい……! 見てくださいこの粘り気! 最高級のフコイダン成分ですよ!」


シルヴィオ様がヌルヌルの昆布を頬ずりしようとするのを、私は必死で止めた。

衛生的に問題がある。


「これなら、エデンの野菜と合わせて最高の『海鮮サラダ』が作れそうです。オスカーさんのお店なんて目じゃありませんよ!」


私は採取した昆布をコンテナに詰めていった。

順調だ。

このまま必要な分だけ採ったら、すぐに港へ戻ろう。

レンさんと合流して、美味しい夕飯を作るのだ。


そう思っていた、その時だった。


ドォォォォン……!


腹に響くような重低音が、海面を伝わってきた。

波がざわめき、カボチャの馬車が大きく揺れる。


「……雷でしょうか?」


シルヴィオ様が空を見上げる。

しかし、空は快晴だ。


「いいえ……違います」


私はサイドミラーを見た。

背筋が凍りつく。


水平線の彼方からではなく、近くの岩陰から。

ぬっと姿を現した巨大な影があった。

黒い帆に、白いドクロのマーク。

以前、沖合で見かけたあの船だ。


「か、海賊船です!」


「なんですって!? こんな港のすぐそばに!?」


シルヴィオ様が叫ぶ。

普通、海賊船は警備の厳しい港の近くには寄らないはずだ。

しかし、この船は違った。

まるで最初から私たちを待ち伏せしていたかのように、退路を塞ぐ位置に現れたのだ。


「アハハハハ! やっぱり戻ってきたねぇ、オレンジ色の宝箱ちゃん!」


船のマストの上から、拡張魔法を使った大声が響いてきた。


「今回は逃がさないよ! 『アンカー・ショット』、発射ぁ!」


シュルルルルッ!


海賊船の先端から、太い鎖に繋がれた巨大ないかりが発射された。

それは正確にカボチャの馬車の頭上を飛び越え、私たちの進行方向の海底に突き刺さった。

そして、鎖がピンと張られる。


ガガガガッ!


馬車のスクリューが鎖に絡まり、嫌な音を立てて停止した。


「しまっ……足止めされました!」


シルヴィオ様が焦ってペダルを踏むが、馬車は動かない。

その間に、海賊船が横付けしてくる。

巨大な船体が太陽を遮り、私たちは影の中に飲み込まれた。


「ようこそ、グランブルー一家の船へ!」


甲板からロープを使って、数人の海賊たちがカボチャの屋根に飛び乗ってきた。

ドスドスという足音が頭上で響く。


「あわわ……ど、どうしましょう先生!」


「落ち着いてください。レンさんを呼びます!」


私は首のペンダントを握りしめた。

魔力を込める。

レンさん、助けて!


……しかし。

ペンダントは光らなかった。


「えっ……?」


『残念だったねぇ。この海域には「魔力妨害ジャミング」の結界を張らせてもらったよ』


屋根の上から、ニヒルな声が聞こえてきた。

窓の外を覗くと、船の周りに薄紫色の霧のようなものが漂っている。

通信魔法を遮断する結界だ。

用意周到すぎる。


「開けな! 中身を拝見させてもらうよ!」


バンッ!


屋根のハッチが乱暴に開けられた。

そこに立っていたのは、男装の麗人――海賊船長マリーナだった。

赤いバンダナから溢れるウェーブのかかった黒髪。

健康的な肌には無数の古傷があり、鋭い眼光は獲物を狙う鷹のようだ。

口元には葉巻をくわえ、腰には二丁の魔導拳銃を下げている。


「へぇ……中身は金銀財宝かと思ったら、随分と可愛らしいお嬢ちゃんと、貧相な男じゃないか」


マリーナさんは車内を見渡し、鼻を鳴らした。

そして、私の後ろにあるコンテナ――ジュエル・ケルプと、エデンの野菜が詰まった箱に目を留めた。


「……なんだい、その草は」


彼女の表情が、一瞬で曇った。

嫌悪感に近い表情だ。


「ただの海藻と野菜ですけど……」


「野菜だと? ケッ、一番嫌いなモンだ」


マリーナさんはペッ、と唾を吐き捨てた。


「アタイらは『肉』と『酒』しか愛さない。草なんざ、陸の軟弱者が食うもんだ」


彼女は私を睨みつけた。


「だが、この奇妙な馬車は高く売れそうだ。それに、そこの妙な生きタケシもな」


「タケシは家族です!」


「知ったこっちゃないね。……野郎ども! この馬車ごと吊り上げろ! アジトへ連れて行く!」


「アイアイサー!」


海賊たちが手際よく馬車にネットをかけ、クレーンで吊り上げ始めた。

宙に浮くカボチャ。

窓から見える景色が、海面から甲板へと変わっていく。


「先生、抵抗しますか!?」


シルヴィオ様がスコップを構えるが、私は首を振った。


「ダメです。ここは海の上、逃げ場がありません。それに……」


私はマリーナさんの横顔を見ていた。

強気で、美しい顔立ち。

でも、その肌はカサカサに乾いていて、唇の端が切れている。

そして何より、彼女の首筋に見える赤い斑点。


(あれは……)


私の植物学、そして栄養学の知識が警鐘を鳴らしていた。

彼女だけじゃない。

周りの部下たちも、皆どこか顔色が悪い。歯茎が腫れていたり、目が充血していたりする。


「……抵抗しないで従いましょう。今は」


私は静かに言った。

レンさんには申し訳ないけれど、少し寄り道することになりそうだ。

この人たちには、私の「野菜」が必要かもしれないから。


        ◇


私たちはカボチャの馬車ごと、海賊船の船倉に収容された。

薄暗い船内は、湿気とカビ、そして強い酒の臭いが充満している。


「ここがお前らの牢屋だ。大人しくしてな」


マリーナさんはそう言い捨て、私たちを船倉の一室に押し込めた。

シルヴィオ様とタケシも一緒だ。

牢屋といっても、ただの空き部屋で、鍵はかけられたものの監視は緩そうだ。


「とんだ災難ですね……。公爵殿下がいたら、あんな船長、一瞬で消し炭にしていたでしょうに」


シルヴィオ様が床に座り込んで嘆く。


「でも、レンさんがいないお陰で、船は無事ですよ」


私はポジティブに捉えることにした。

お腹の結晶ちゃんも、揺れが収まったので落ち着いているようだ。


「それよりシルヴィオ様。さっきの船員さんたち、見ましたか?」


「ええ。野蛮な連中でしたね」


「そうじゃなくて、健康状態です。……全員、重度のビタミン不足ですよ」


「ビタミン?」


「はい。マリーナさんの首の斑点、あれは『壊血病』の初期症状です。さらに、呪いのような魔力も感じました」


私は記憶を辿った。

この海域には、野菜を忌避する古い伝承や呪いがあるのかもしれない。

彼らが野菜を「軟弱者の食べ物」と言って毛嫌いしているのも、そのせいだろう。


「もし、その呪いのせいで野菜が食べられなくて、病気になっているとしたら……」


「……放っておけない、と?」


シルヴィオ様が苦笑する。


「はい。それに、私の野菜なら、どんな呪いも吹き飛ばせる自信があります!」


私はポケットに入れておいた【万能トマト】を握りしめた。

まずは、あの強情そうな女船長に、これを一口食べさせる方法を考えなければ。


その時。

ドタドタと足音が近づいてきた。

扉が開かれ、強面の海賊が入ってきた。


「おい、女! 船長が呼んでるぞ!」


「私ですか?」


「ああ。お前が持ってた『草』について、話があるそうだ」


チャンスだ。

私は立ち上がった。


「わかりました。行きます」


「フローリア先生、気をつけて!」


「ウキャッ!」


シルヴィオ様とタケシに見送られ、私は海賊の後についていった。

連れて行かれたのは、船長室ではなく、船の甲板にある宴会スペースだった。


そこでは、マリーナさんが部下たちと車座になり、大量の肉と酒を囲んでいた。

しかし、その宴はどこか暗い。

誰もがだるそうで、楽しげな笑い声がないのだ。


「来たかい、カボチャ娘」


マリーナさんは骨付き肉をかじりながら、私を見上げた。

その顔には、隠しきれない疲労感が漂っている。


「アンタの荷物の中にあった、あの光る昆布……あれは何だい?」


「ジュエル・ケルプです。とても栄養があって美味しいんですよ」


「……ふん。やっぱり食い物か」


彼女は不快そうに顔をしかめた。


「アタイらはね、海の民だ。陸の草や、海の草なんてものは食わねぇ。食うと体に『毒』が回るんだよ」


「毒、ですか?」


「ああ。昔、海を汚した人間たちへの罰として、海の神がアタイら一族に呪いをかけたんだ。『清らかなる緑を食せば、身を焦がす苦しみを与えん』とな」


なるほど。

食物アレルギーを強制的に引き起こす呪いのようなものか。

だから彼らは野菜や海藻を食べられず、結果として深刻な栄養失調に陥っているのだ。


「でも、そのままだと死んじゃいますよ?」


私が指摘すると、マリーナさんは寂しげに笑った。


「わかってるさ。だからアタイらは短命なんだ。……まあ、太く短く生きるのが海賊の美学ってね」


彼女は強がって酒を煽ったが、その手は震えていた。

美学なんかじゃない。

生きたいはずだ。

もっと美味しくご飯を食べて、元気に海を駆け回りたいはずだ。


「マリーナさん」


私は一歩前に出た。


「その呪い、私が解いてみせます」


「はぁ? 何言ってんだ、アンタ」


「私、ただの農家じゃありません。世界樹の加護を受けた庭師です」


私はバスケットから、真っ赤なトマトを取り出した。

太陽の光を浴びて輝く、私の自信作。


「このトマトは、呪いなんて吹き飛ばすくらい『元気』が詰まってます。一口でいいです。食べてみてください」


「やめな! 死にたいのか!」


部下の海賊たちが止めようとする。

マリーナさんも警戒して身を引いた。

トマトの赤色が、彼らには毒々しい危険物に見えるのだろう。


「怖がらなくて大丈夫です。……ほら」


私はトマトを半分に割り、片方を自分で食べた。

ジュワッと溢れる甘い果汁。

んーっ、美味しい!


「毒なんて入ってません。ただの、とっても美味しい命の塊です」


私が幸せそうに食べる姿を見て、マリーナさんの喉がゴクリと鳴った。

本能が求めているのだ。

体が、枯渇した栄養素を叫んでいるのだ。


「……一口だけだ」


マリーナさんは意を決したように、震える手でトマトを受け取った。


「もし苦しんだら、アンタを即刻海に沈めるからね」


「はい。約束します」


彼女は目を閉じ、トマトを口に放り込んだ。


カプッ。


咀嚼した瞬間。

彼女の表情が凍りついた。


「…………ッ!?」


苦悶の表情か?

違う。

彼女の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出したのだ。


「な……なんだ、これ……」


口の中に広がるのは、痛みでも苦しみでもない。

優しくて、懐かしくて、体を内側から洗い流してくれるような清涼感。

呪いの霧が、トマトの持つ圧倒的な「生命力ポジティブエネルギー」によって中和され、消し飛んでいく感覚。


「痛くない……痒くない……!」


マリーナさんは自分の腕を見た。

カサカサだった肌が、みるみるうちに潤いを取り戻し、ツヤツヤと輝き始めている。

首の赤い斑点も消えていく。


「うまい……! なんだこれ、すげぇうまいぞぉぉぉ!」


彼女は残りのトマトを一気に貪り食った。

そして、空に向かって絶叫した。


「野郎ども! 呪いが解けたぞ! このトマトは本物だぁぁぁ!」


「うおおおおお!」


船内が歓喜に包まれる。

海賊たちが私に群がってきた。


「俺にもくれ!」

「野菜だ! 野菜を食わせろ!」


まるでゾンビ映画のようだが、彼らの目は希望に満ちていた。

私は嬉しくなって、コンテナを開放した。


「たくさんありますよ! キャベツも、キュウリも、ジュエル・ケルプもあります! さあ、宴会のやり直しです!」


「ヒャッハー! サラダパーティーだぜぇぇ!」


こうして、海賊船の甲板は、史上初の「海賊サラダバー」と化した。

野菜をかじるたびに、海賊たちの顔色が良くなり、筋肉に張りが戻っていく。

彼らの呪いは、私の野菜愛の前には無力だったのだ。


宴が盛り上がる中、マリーナさんが私の隣にやってきた。

すっかり肌ツヤが良くなり、絶世の美女に戻った彼女は、私の肩をガシッと抱いた。


「気に入った! アンタ、最高だよ!」


「えへへ、よかったです」


「決めた! アンタ、アタイの『嫁』になりな!」


「……はい?」


私は聞き返した。

今、なんて?


「アタイは惚れた相手には一直線なんだ。性別なんて関係ねぇ! アンタを一生、この船で食わせてやる!」


マリーナさんは本気だった。

熱烈な求婚の眼差し。

まずい、新たなトラブルの予感だ。


その時。

ザザザザァァァッ!!


海面が真っ二つに割れた。

まるで神話のモーゼのように、海水が左右に壁となってそそり立つ。

その裂け目から、黄金のオーラを纏った鬼神――レンさんが、海面を走って近づいてくるのが見えた。


「フローリアァァァァァ!!」


怒りの咆哮。

手に持った剣が、太陽よりも眩しく輝いている。


「あ、レンさんだ」


私はホッとしたのと同時に、マリーナさんの身の安全を心配した。


「あの……マリーナさん。私の旦那様が来ちゃったみたいです」


「ああん? 旦那だと?」


マリーナさんは割れた海を見て、ニヤリと笑った。


「面白ぇ! 奪い取ってやるよ!」


彼女は二丁拳銃を構えた。

カオスだ。

野菜パーティー会場に、竜公爵が乱入し、海賊船長と嫁取り合戦を開始する。


私のマタニティ・ライフ、刺激が強すぎませんか?

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