第2話 卵、光る
「えええええ!? 妊娠!? あんたが!?」
エデンのリビングルームに、マリアベルさんの素っ頓狂な叫び声が響き渡った。
彼女は手に持っていたカゴ(採れたての枝豆入り)を取り落とし、口をあんぐりと開けて私を見つめている。
「はい。……正確には、人間の赤ちゃんじゃなくて『結晶』みたいなんですけど」
私は照れくさく笑いながら、自分のお腹をさすった。
まだ膨らみはないけれど、そこに確かに温かい命があるのを感じる。
「結晶って……相変わらず規格外ねぇ」
マリアベルさんは呆れたように溜息をつき、それから私の隣に座るレンさんをジロリと睨んだ。
「で、レン様。まさかとは思いますが、フローリアを置いて一人で海へ行くなんて言いませんよね?」
「当然だ。俺が片時も離れず守る」
レンさんは即答した。
彼は私の肩を抱き寄せ、完全に「警戒モード」に入っている。
さっきから、窓の外で鳥が鳴いただけで剣に手をかけるほどの過保護ぶりだ。
「フローリアと子供には、最高の環境が必要だ。北の海にある小島を一つ買い取って、要塞化する計画を立てている」
「要塞化って……リゾートに行くんですよ?」
私がツッコミを入れると、レンさんは真顔で返した。
「海風は体に悪いし、直射日光も敵だ。紫外線カットの結界を島全体に張り、砂浜は全て最高級の絨毯に変える」
「台無しです! 砂浜の感触を楽しみたいのに!」
「なら、砂の一粒一粒を洗浄し、角を削って丸くさせる」
「どれだけ手間をかける気ですか!」
この調子だ。
パパになった喜びと責任感で、レンさんの思考回路は暴走していた。
「……はぁ。こりゃダメだわ」
マリアベルさんはやれやれと首を振り、そして力強く宣言した。
「決めたわ。私も行く」
「えっ、マリアベルさんもですか? でも、エデンの畑は……」
「あんたたちだけに任せておけないもの。それに、海に行けば『海藻』があるんでしょ? 新しい肥料の研究材料として興味があるわ」
彼女はニヤリと笑った。
すっかり農業ガールの顔だ。
頼もしいけれど、エデンの管理はどうしよう。
その時、玄関のドアがノックされた。
入ってきたのは、深緑の作業着に身を包んだエルランドさんだった。
かつてハイエルフの長として威張り散らしていた彼は、今やエデンの下っ端として、真面目に土作り励んでいる。
「……失礼します。騒がしいようですが、何か?」
彼は丁寧な口調で尋ねてきた。
プライドをへし折られて以来、彼は私に対して妙に敬語を使うようになったのだ。
「あ、エルランドさん! ちょうどよかった。実は私、妊娠したんです!」
「は?」
エルランドさんは持っていたスコップを落とした。
今日だけで農具が二つも床に落ちたことになる。
「妊娠……? 人間と竜の間に? それは生物学的に……」
「結晶なんですって。緑色に光る、硬い種みたいな」
私が説明すると、エルランドさんの尖った耳がピクリと動いた。
彼の顔色が変わり、ツカツカと私に歩み寄ってくる。
「失礼」
彼は断りを入れてから、私のお腹に手をかざした。
レンさんが「おい、気安く触るな」と唸るが、エルランドさんの表情があまりに真剣なので止めるに止められなかった。
「……これは」
エルランドさんは目を見開いた。
「信じられん。……古代樹の核と、竜の心臓が融合している。数千年前の神話時代にしか存在しなかった、『聖竜樹』の種子に近い波動だ」
「聖竜樹? なんですかそれ」
「世界樹の守護者とされる伝説の生物です。……まさか、現代に蘇るとは」
彼は震える声で呟き、私を見上げた。
その目には、畏敬の念が宿っていた。
「フローリア様。貴女は一体、何者なのですか……」
「ただの庭師ですけど」
「……いいえ、もはや女神の領域です。この種子は、極めて強大な力を秘めている。もし孵化すれば、世界樹に匹敵する影響力を持つでしょう」
世界樹に匹敵。
話のスケールが大きすぎて実感が湧かない。
でも、エルランドさんがそこまで言うなら、ただ事ではないのだろう。
「それで、エルランドさん。この子が海に行きたがってるみたいなんですけど」
「海……なるほど。竜の因子が強いのでしょう。生命の源である海のマナを吸収しなければ、殻を破れないのかもしれません」
エルランドさんは顎に手を当てて考え込んだ。
「急ぐべきです。この種子は今、急速に魔力を求めています。陸地のマナだけでは枯渇し、母体である貴女の命に関わるかもしれない」
「えっ」
私の命に関わる。
その言葉に、レンさんの顔色が蒼白になった。
「……すぐに出発だ。1秒も無駄にはできん」
レンさんは私を横抱きにし、立ち上がった。
「待ってください! 準備が! それにエデンの留守番は!?」
「私が残ります」
エルランドさんが静かに手を挙げた。
「この聖なる地を守るのは、植物に仕える者の務め。……それに、私がついて行っても、海の環境では役に立てません。私は森の民ですから」
「エルランドさん……」
「安心して行ってきてください。貴女が戻るまで、雑草一本生やさせませんよ(意図しない雑草は抜くという意味で)」
かつての敵が、今は一番の守護者になってくれている。
私は胸が熱くなった。
「ありがとうございます! お土産に、珍しい海藻を持って帰りますね!」
「……期待しております」
エルランドさんは苦笑し、深々と頭を下げた。
◇
出発は明朝。
今は深夜だ。
私はベッドの中で、奇妙な感覚に襲われて目を覚ました。
「……ん、ぅ……」
お腹が熱い。
痛いわけではないけれど、お臍の下あたりがカッカと火照っている。
そして、喉が猛烈に渇く。
水を飲みたいというより、もっと濃い、生命力そのものを欲しているような渇き。
「……ふぅ、ふぅ……」
私は寝返りを打った。
隣では、レンさんが私の手を握ったまま眠っている。
彼を起こしたくない。
準備で疲れているはずだ。
私はそっとベッドを抜け出し、バルコニーへ出た。
夜風が火照った体に心地よい。
ふと、お腹を見ると。
「……光ってる?」
私のワンピース越しに、お腹が淡い緑色の光を放っていた。
まるで蛍の光のような、優しい明滅。
その光に合わせて、ドクン、ドクンと心臓の鼓動とは違うリズムが体に響く。
『ママ……ママ……』
頭の中に、声が響いた気がした。
言葉ではない。
感情の波のようなもの。
『お水……しょっぱいお水……欲しいよぉ……』
「……聞こえるの?」
私はお腹に手を当てた。
この子は、意識を持っているんだ。
まだ生まれてもいないのに、必死に私に訴えかけている。
「ごめんね。今、パパとママが海に連れて行ってあげるからね」
私は優しく撫でた。
すると、光が少し強くなり、嬉しいという感情が伝わってきた。
『パパ……ママ……大好き……』
「っ……」
涙が出そうになった。
可愛い。
まだ顔も見ていないのに、愛おしくてたまらない。
その時。
バルコニーの下、庭の茂みからガサゴソと音がした。
「……誰?」
こんな夜更けに。
泥棒? それとも魔物?
私は警戒し、近くにあったプランター(撃退用トウガラシ植え)を構えた。
「怪しい奴! 出てきなさい!」
「ひぃっ! 撃たないでください! 僕です!」
茂みから這い出してきたのは、泥だらけのシルヴィオ様だった。
頭には海藻のようなものを巻き付け、背中には大きなリュックを背負っている。
「シルヴィオ様? 何をしてるんですか、こんな夜中に」
「あ、いや、その……散歩です。エデンの夜行性植物の観察を……」
彼は視線を泳がせた。
明らかに嘘だ。
そのリュック、パンパンに膨らんでいるし、隙間から旅のしおりみたいなものが見えている。
「……もしかして、ついてくる気ですか?」
私がジト目で尋ねると、シルヴィオ様は観念したように肩を落とした。
「……はい。バレましたか」
「バレバレです。レンさんに見つかったら、今度こそ埋められますよ?」
「それでも! 僕は行きたいんです!」
シルヴィオ様はバルコニーの下まで駆け寄り、熱弁を振るい始めた。
「聞いたんです、フローリア先生が海へ行くと! 海ですよ海! 未知の植物の宝庫! 海藻、サンゴ、マングローブ! 僕の研究人生において、これを見逃すわけにはいきません!」
「相変わらずの植物愛ですね……」
「それに! 先生のお腹の結晶……エルランド殿から聞きました。『植物と竜の融合』だなんて、学者として興味が尽きない! ぜひ成長記録をつけさせてください!」
彼はリュックから分厚いノートを取り出した。
タイトルには『フローリア先生の観察日記』と書かれている。
ちょっと怖い。
「ダメですよ。レンさんが許すわけないじゃないですか」
「そこをなんとか! 僕、役に立ちますよ! 海藻図鑑も持ってますし、船酔いもしません!」
「うーん……」
確かに、知識豊富なシルヴィオ様がいれば心強い。
それに、レンさんは戦闘や護衛のプロだけど、学術的なことには疎い。
エルランドさんが残る今、知恵袋役は必要かもしれない。
「わかりました。……でも、レンさんには内緒で荷物に紛れ込んでくださいね。見つかったら、私は知りませんよ?」
「ありがとうございます! 一生ついていきます!」
シルヴィオ様は拝むように感謝し、再び茂みの中へ消えていった。
カボチャの馬車の荷台に忍び込むつもりらしい。
たくましい王子様だ。
◇
翌朝。
エデンの広場には、改造された『カボチャの馬車・マークⅢ(水陸両用カスタム)』が鎮座していた。
「よし、準備完了だ」
レンさんが満足げに頷く。
今回の改造ポイントは足回りだ。
タイヤ代わりの蔦が、必要に応じてスクリューに変形するようになっている。
さらに、車体下部には浮力を生むための『浮き袋草』を装着。
これで荒れた海でも沈まない(はずだ)。
「すごいですねレンさん! いつの間にこんな改造を?」
「昨夜、ドワーフの技師を叩き起こしてやらせた」
「……技師さん、ご愁傷様です」
私たちは荷物を積み込んだ。
食料、水、着替え、そしてマリアベルさんが持ってきた大量の農具(海でも畑を作る気満々だ)。
タケシは専用のチャイルドシートに座り、すでにワクワクして葉っぱを揺らしている。
拉致された医師も、諦め顔で同乗している。
そして、荷台の奥には、「研究資料」と書かれた怪しい木箱が一つ。
中から「苦しい……」という微かな声が聞こえる気がするが、聞かなかったことにする。
「では、出発するぞ!」
レンさんの号令で、カボチャの馬車が動き出した。
牽引するのは、今回特別に連れて行く二体の『トレント』だ。彼らも海水パンツ(樹皮)を履いてやる気満々である。
「行ってきまーす!」
見送りのエルランドさんやゴブリンたちに手を振り、私たちはエデンを後にした。
目指すは北。
伝説の魔物が住むという『セイレーンの海』へ。
馬車の中で、私のお腹の結晶が、またドクンと跳ねた。
『うみ! うみ!』
子供の喜びが伝わってくる。
「待っててね。美味しいご飯、たくさん食べさせてあげるから」
私はお腹をさすりながら、窓の外の景色を見つめた。
砂漠を抜け、山を越えれば、そこは青い世界だ。
しかし、道中は決して平坦ではなかった。
出発から数時間後。
私たちは最初の難関に直面することになる。
「……おい、あれを見ろ」
レンさんが険しい顔で前方を指差した。
そこには、道を塞ぐように立ち並ぶ、武装した一団の姿があった。
「通行料を払えだと? ……死にたいらしいな」
レンさんの殺気が膨れ上がる。
相手は、悪名高い『荒野の盗賊団』か、それとも……?
「待ってくださいレンさん! 胎教に悪いです! 暴力はいけません!」
「だが、道を塞いでいる」
「話し合いましょう! ……あ、そうだ。ちょうど試作品の『痺れナス』があるんですけど」
私のマタニティ・ライフは、相変わらずトラブル続きの予感がした。




