第1話 妊娠? いえ、結晶です
第3章開始です!!
良ければ読んでいってくださいー!
「おい、どうなんだ。フローリアは助かるのか」
エデンの主寝室に、地獄の底から響くような低い声が充満した。
私のベッドの脇で、レンさんが医師の胸倉を掴み上げている。
いや、正確には「掴みかかろうとするのを必死で自制して、結果として殺気を撒き散らしている」状態だ。
「か、閣下……! どうか落ち着いてください! 今、診断を……ヒィッ!」
連れてこられたのは、帝国の筆頭侍医である初老の男性だった。
彼は聴診器を持つ手をガタガタと震わせている。
無理もない。
目の前には、金色の瞳を猛獣のように血走らせた竜公爵がいるのだから。
「レンさん、お医者様を脅さないでください。診察の邪魔です」
私はベッドに半身を起こし、呆れながら声をかけた。
手には、マリアベルさんが持ってきてくれた『ハチミツ漬けレモン』の瓶を持っている。
これをかじっていないと、なんだか口の中が落ち着かないのだ。
「だがフローリア! 君の顔色が悪いんだぞ! 帰りの馬車でもずっと寝ていたし、あんなに好きなトマト料理を残したじゃないか!」
「それは……ちょっと胸焼けがして」
「胸焼け!? 毒か!? あのエルフが最後に呪いでも残していったのか!?」
「違いますってば」
私は溜息をつき、酸っぱいレモンを一切れ口に放り込んだ。
ジュワッとした酸味が舌に広がり、少しだけ気分が晴れる。
帝都での博覧会を終え、私たちはエデンに帰還した。
しかし、帰りの道中から私の体調がおかしくなったのだ。
常に船酔いしているような感覚。
そして、無性に酸っぱいものや、土の匂いを嗅ぎたくなる衝動。
レンさんはこれを「帝都の空気が合わなかったせいだ」と激怒し、カボチャの馬車を限界まで暴走させて帰ってきたのだった。
「……し、診断が出ました」
医師が、決死の覚悟で口を開いた。
彼は額の汗を拭い、信じられないものを見るような目で私のお腹を見つめている。
「フローリア様の胎内に……確かに、新たな『魔力の反応』があります。……懐妊、されています」
「――ッ!!」
レンさんが息を呑んだ。
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
私も、レモンを持つ手が止まった。
「本当……ですか?」
「はい。脈動しています。間違いなく、新たな命です」
ドサッ。
レンさんがその場に膝をついた。
最強の公爵様が、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる。
「……俺の子だ」
彼は震える手で顔を覆った。
指の隙間から、堪えきれない歓喜と、安堵の涙が見える。
「俺と、フローリアの子だ……。正直、諦めかけていた。竜の血が濃い俺には、子供ができにくいと言われていたからな」
「レンさん……」
私も胸が熱くなった。
まさか、本当に。
レンさんと私の赤ちゃん。
想像するだけで、お腹の底がポカポカと温かくなる気がする。
「ありがとうございます、先生。……で、男の子ですか? 女の子ですか?」
私が尋ねると、医師は顔を引きつらせ、レンさんの方を恐る恐る見た。
「そ、それが……閣下。信じていただけるかわかりませんが」
医師は言葉を選び、意を決したように言った。
「人間の赤子では、ありません」
「……なに?」
レンさんの空気が一変した。
歓喜から、鋭い警戒へ。
彼は立ち上がり、医師を射抜くように睨みつけた。
「どういうことだ。人間ではないとは。……まさか、魔物に寄生されたとでも言うつもりか?」
「め、滅相もございません! ですが、これをご覧ください!」
医師は水晶玉のような魔道具を取り出し、私のお腹にかざした。
すると、空中にぼんやりとした映像が投影される。
私のお腹の中。
そこに映っていたのは、手足のある赤ちゃんではなかった。
楕円形の、宝石のように輝く『結晶体』だった。
「これは……?」
私は自分の腹部をさすった。
中にあるのは、赤ちゃんじゃなくて……石?
「……馬鹿な」
レンさんが、呻くように声を漏らした。
彼はその映像を食い入るように見つめ、驚愕に目を見開いている。
「これは『竜核』……いや、伝説の『竜結晶』か?」
「レンさん、何か知っているんですか?」
「……ああ。だが、信じられん」
レンさんは私のベッドに座り、震える手で映像の中の結晶に触れようとした。
「我らドラグニル家は、代々竜の血を引いているが、長い年月でその血は薄まっている。俺も、親父(皇帝)も、歴代の皇帝たちは皆、人の姿で母の腹から生まれた。……少なくとも、ここ数百年はそうだったはずだ」
「じゃあ、この結晶は異常なんですか?」
「異常ではない。『奇跡』だ」
レンさんは熱っぽい瞳で私を見た。
「『先祖返り』だ。血が薄まる前の、始祖に近い純血の竜だけが、この『結晶』の状態で発生すると言われている。……まさか、俺の子がこれほど濃い竜の因子を持って生まれてくるとは」
「先祖返り……」
なるほど。
レンさんは人間として生まれたけれど、この子はもっと「竜」に近い存在として命を宿したということか。
きっと、世界樹の加護や、エデンの魔力環境が影響したのかもしれない。
「すごいですね、レンさん! 伝説級の赤ちゃんですよ!」
「ああ……。俺を超えた、最強の竜になるかもしれん」
レンさんは誇らしげに、そして愛おしそうにお腹を撫でた。
その手つきは優しく、すでに「パパ」の顔をしている。
でも。
私はもう一度、映像の中の「結晶」を凝視した。
表面には、幾何学模様のような筋が入っている。
そして、微かに緑色の光を放っている。
(……これ、結晶っていうか)
私の植物学者の勘が告げていた。
これは、どう見ても『種』だ。
あるいは、硬い殻に覆われた木の実。
普通の竜結晶がどんなものかは知らないけれど、この緑色の輝きは、明らかに私の「植物魔法」の影響を受けている。
レンさんの「竜の因子」と、私の「植物の因子」が混ざり合ってできた、ハイブリッドな『植物竜の種』なのではないだろうか?
(ま、まあ、細かいことはいいか。元気に育てば!)
私は深く考えるのをやめた。
種でも卵でも、我が子は可愛い。
「……ところで先生。この結晶は、どうやって生まれるんですか?」
私が素朴な疑問を口にすると、医師は困った顔をした。
「それが……前例がないもので。ただ、この魔力密度ですと、母体の中で育て続けるのは危険かもしれません。フローリア様の魔力を吸い尽くしてしまう可能性があります」
「えっ」
「おそらく、ある程度成長した段階で体外に排出し、適切な環境で孵化させる必要があるかと」
「体外に排出……産むってことですか?」
「物理的に産むには、少々サイズが……硬いですし」
医師の言葉に、私は冷や汗をかいた。
この硬そうな結晶を産む?
痛いどころの話ではない気がする。
「おそらく、魔力による『転移』に近い形で取り出すことになるでしょう。……ですが、それには条件があります」
「条件?」
「この結晶が、自ら『外に出たい』と思うほどに成長すること。そして、そのために必要な『栄養素』を十分に与えることです」
栄養素。
私はピンときた。
最近の、異常な酸っぱいものへの欲求。
そして、土の匂いへの執着。
「先生。私、最近すごく酸っぱいものが食べたいんです。あと、塩辛いものも」
「塩辛いもの……塩分、つまりミネラルですね」
医師はハッとした表情になった。
彼は再び水晶玉を操作し、結晶の輝きを分析し始めた。
「……なるほど。見てください、この結晶の青い輝きを」
言われてみれば、緑色の光の奥に、深い青色が揺らめいている。
「これは『水』……それも、大量の塩分とマナを含んだ『海』の波動を求めています。竜の始祖が海から生まれたという説を裏付ける反応です!」
「海?」
「はい。この子を育てるには、母体の魔力だけでは足りません。海という巨大な魔力タンクの近くで、海の気を浴びせる必要があるのです!」
海。
エデンは大陸の内陸部にある。
ここには豊かな土と水はあるけれど、潮風や海のミネラルはない。
「海か……」
レンさんが眉をひそめた。
「エデンから一番近い海となると、北の『セイレーンの海』か。……遠いな。それに、あそこは荒れていると聞く」
「でも、あの子が欲しがってるなら、行くしかありません!」
私は拳を握りしめた。
母性本能というやつだろうか。
まだ見ぬ我が子のためなら、地の果てでも海の底でも行ってやるという気力が湧いてくる。
「行きましょう、レンさん! 海へ!」
「……君の体調は大丈夫なのか?」
「平気です! むしろ、海に行けば美味しい魚介類も食べられますし、私の食欲も満たされて一石二鳥です!」
食い意地も混ざっているが、本心だ。
新鮮な魚、貝、エビ、カニ。
想像しただけで、口の中に唾液が溢れてくる。
あのお腹の子が求めているミネラルとは、つまり「美味しい海鮮料理」のことだと、私の本能が理解していた。
「……やれやれ」
レンさんは苦笑し、私の髪を撫でた。
「わかった。君と子供のためだ。海だろうが魔界だろうが連れて行く。俺の領地ではないが、金と力でねじ伏せてリゾートにしてやろう」
「頼もしいです、パパ!」
彼は立ち上がり、医師に向き直った。
「おい、準備しろ。お前も連れて行く」
「へっ!? わ、私ですか!? 私は帝都に帰らなければ……」
「拒否権はない。俺の子供の主治医になれるんだ、光栄に思え。それに、伝説の『竜結晶』の成長過程を見られる機会など、二度とないぞ」
「うっ……そ、それは確かに学者として魅力的ですが……」
「決まりだな。出発は明朝だ」
「ひぃぃぃ! か、畏まりましたぁぁ!」
哀れな名医が、強制的に旅の仲間(拉致被害者)に加わった瞬間だった。
「そうと決まれば、準備ですね!」
私はベッドから飛び降りた。
レモン効果か、さっきまでの怠さが嘘のように体が軽い。
「マリアベルさんにも伝えないと! あと、タケシにもお兄ちゃんになるって教えなきゃ!」
「待てフローリア、走るな! 絶対安静だ!」
「平気ですよ! 私、妊婦である前に庭師ですから!」
私はレンさんの制止を振り切り、リビングへと駆け出した。
海。
新しい冒険の予感。
そして、未知なる海産物との出会い。
私のスローライフ改め『マタニティ・アドベンチャー』が、今まさに始まろうとしていた。
でも、この時の私はまだ知らなかった。
海には、陸の常識が通用しない「海の民」や、厄介な「海賊」たちが待ち受けていることを。
そして、彼らが私の野菜(と料理)を巡って、レンさん以上に激しい争奪戦を繰り広げることになるなんて。
「マリアベルさーん! 水着の準備してくださーい!」
私の明るい声が、エデンの空に響き渡った。




