長い旅路:5
「どうか、堪えて下さい」
恵麗が私の衣を掴み、切々と訴えた。
皆が皆、捨て置けと言ってくる。
ならばその判断が間違っているはずがない。唇を噛む。
私はとうとう住民達の縋る目から、視線を逸らしたのだった。
見ずとも彼らの失望の感情が呻きとなって伝わってきた。
「行こう」
志文様の言葉に従い一行は足早に歩き出したが、もはや追ってくる気配はなかった。
崩れかけた道を進み、荒れた畑や人影のない民家を通り過ぎていく。
急勾配の山道は一足ごとに足を痛ませたが、そんなことは気にならない。
強くなっていく胸の痛みだけが自分を苛んだ。
雲の流れる様を横目に、ひたすら登り続けた。
もう、後ろを振り返っても人影は見えない。
「姐様?」
立ち止まった私に、恵麗が小首を傾げて不思議そうに尋ねてきた。
「乩手がいれば、彼らは救われるのですね?」
「病には薬師。疫鬼には乩手だ。
……対処法を知っているだろうね」
志文様が感情の読めない平坦な声でそう答えた。
乩手はなり手が少なく、医者よりも数は少ない。
単に町に呼びに行っても、運が悪ければ乩手には巡り合えないのだ。
しかし赤城都には役人としての乩手が常駐していることを私は知っていた。
「この中から一人、赤城都に戻って下さい」
護衛達に対し、真っすぐに目を見てそう伝えた。
正面にいるのは五人の中でも一際体格のいい、何義夫という彼らの纏め役だ。
彼は道中いかにも護衛らしく家具の如き寡黙さだったが、声を掛けたことで徐に口を開いた。
「できません」
その声は野太い重苦しいもので、感情の揺らぎは全くない。
けれどそれに立ち向かわねばと思った。
「五人もいるのです。一人抜けても、差はありません」
「五人で動くことを前提として役目を割り振っております。
欠けては支障がでます」
「ならば道中、人を雇いましょう」
「信頼のおけぬ者を護衛にはさせられません」
「近隣の乩手に声をかけるだけでもいいのです」
「乩手を探す間、やはり人員が欠けます。受け入れることはできません」
何義夫はできの悪い生徒に教えるように、目を瞑ってゆっくりと首を横に振った。
どうやってもこの人が頷くことはないのだと悟った。
志文様と天佑様に視線を向ける。
彼らは私の我儘を、線を引いたような態度でただ見守っていた。
どちらに肩入れするつもりもないのだろう。
それとも、護衛達が受け入れるはずもないのを知っているからか。
祖州から単身やってきた、国士達である。
彼らのその気持ちを疑ったことはない。
けれどその手には限りがあり、取捨選択が必要なことも知っているのだろう。
私に同意する者はいない。それでもまだ、できることがある。
「影!」
叫んだ私に、恵麗が青ざめて引きつった声を上げた。
「姐様、いけません!」
私達についてきているだろう影の者達。
彼らは決して姿を現さない。気配を消しきることが最も重要な役割である。
祖州の者達の前でその存在を明らかにするのは、やってはならない禁じ手だった。
同行者に知られずそのような存在がいるとすれば、著しく信頼を損ねるのは明白だ。
気配を消しきる技術を持つ者を擁すると知れ渡れば、暗殺でも企むのかと良からぬ憶測も生むだろう。
だからこそ他州でも同じような存在がいるのを気づきながら、互いに知らぬふりをするのが暗黙の了解となっていた。
私はそれを、明確に破ったのだった。
志文様と天佑様が驚きに目を見開くのが視界の端に映る。
恵麗が私の肩を掴んで止めようとするのを、首を振って拒否を示した。
「仕方がないのだと言って、通り過ぎてしまえばあの村人達は死んでしまうのでしょう?」
疫鬼と知ってからの皆の怖がりようは、どれだけ恐ろしいかを私に伝えた。
全滅という言葉は、間違っていないのだ。
この貧しい土地に苦難の生を受け、十分に国の支援も受けることができない彼らの最後が、こんな悲劇であってはならない。
「ならば黙って通り過ぎることなどできません」
「姐様……」
恵麗は言い切った私にそれ以上何も言わず、ただ拱手して意を汲んでくれた。
山の急斜面には道と畑とわずかな木々。霧が立ち込める中に人が潜んでいるとは到底思えない。
けれどそれらに向かって、声を張り上げて呼びかけた。
「彼らの窮状を、哀れと思う者はいませんか!?」
風が吹き抜けた。応える声は上がらない。
「助けたいと思う者は!? いるならばどうかお力添えを!」
自分が動ける立場だったら、どれだけいいだろう。
この場をすぐに駆け出して、乩手の元へと急ぐのに。
生まれがそれを許さない。だからこのもどかしい気持ちが誰かに伝わることを、願って声を嗄らして言った。
「責任は私が、全て負います!」
視界にはやはり人の気配など感じられない。
それでも信じて待ち続けたが、時間が過ぎるにつれて、現実の厳しさを思い知った。
駄目だったか。
酷い失望が胸に過る。こうして誰かに頼るばかりで、自分で切り抜ける力など何もないのだと自覚させられた。
なんて役立たずな人間だろう。
影の役目の者達は、壮絶な鍛錬をしてその身を隠す術を身につけるという。
そして、王命以外は耳を貸さない。徹底して表に出るなと教育され、刷り込まれた人間に無理な願いを聞いてもらうなどできはしなかったのだ。
俯いて頬を伝う涙を拭うこともせず、拳を握りしめて村人達の暗い未来を嘆く。
彼らはきっと助からない。
「私が戻りましょう」
はっとして、その声に顔を上げた。
私のすぐ隣の木の影から、旅人の恰好をした男性が一人姿を現した。
木の幹は太く、足元は背の高い草が覆っていて確かに細身のこの男性なら隠れることができる。
しかし、私達に気付かれずいつからこの近さに潜んでいたのか、さっぱり分からなかった。
二十代だろうか、薄く髭が生えている。
細身であるが華奢ではない体は、鹿のようなしなやかさがあった。
「戻って、この村に乩手をお連れいたします」
そう言って彼は親愛の笑みを浮かべた。
それに脱力するほどの安堵と、痛いほどの罪悪感を覚えた。
私の呼びかけに応えてしまったために、情に流されず命令を厳守しなければならない影としての信頼を失うだろう。
それはどれだけ彼を困難な道に貶めるだろうか。
「ありがとうございます」
それでも名乗り出てくれた決意に心からの拱手を捧げた。
私は何をしても何をしなくても、責任が伴う立場である。
一挙手一投足、犠牲を産まない時はない。
ならばせめて正しいと思える道を行きたい。
懐から護身用の短刀を取り出し、自らの髪を一房切り取る。
それを目の前の彼に向かって差し出した。
「もし貴方が咎められることがあれば、これを誠偉に見せてください」
彼はそれを両手で恭しく頭を下げて受け取った。
「……貴方の名前は?」
「名乗れるような名は持っておりません」
「ならば喜鵲と呼びましょう。喜鵲のように、良き知らせを齎す者になるように」
「ありがたく、お受けいたします」
そう言って顔を上げて一度拱手をした。
その顔には後悔がなく、困難を背負った者の表情ではない。
住民達を助けようとする決断が強固であることを示していた。そのことに救われる。
「それでは、行きます。どうかご達者で」
「喜鵲も。……彼らをよろしくお願いします」
喜鵲はくるりと踵を返すと、もう振り向くこともなく一目散に駆け出した。
険しい山道を軽々と駆け下りていく。岩を飛び越え、草むらをするりと抜け。
その見事な動きに見とれている内に、あっという間に姿は見えなくなった。
「後は彼に任せましょう。きっと、大丈夫ですよ」
恵麗の言葉に頷いた。これ以上は祈るしかできない。
私は後ろ髪を引かれる気持ちを押し殺し、足を進めたのだった。
「お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした」
「いや、大した遅れではないさ。気にしないでくれ」
志文様は私の後に歩きながらそう言ってくれた。
だが、不思議なものを見るような目で見られているような気がする。
強情な娘と思っただろうか。ばつの悪い顔をして、志文様と天佑様にお願いした。
「どうか今見たことは忘れて下さい」
「……ええ」
天佑様がそう答えてくれたので少し安心する。
型破りな事をしている自覚はある。それでも見捨てることはできない自分の心を、信じるしかなかった。




