三度の飯よりパンが好き
「──別れよう」
「え」
齢28。
そろそろ結婚を考えていた頃、5年付き合っていた男にフラれた。
理由はなんと『俺……ご飯派だから』である。
私はパンが好きだ。
『♪朝はパン』と歌いながら、トーストを食べ出社、『♪昼もパン』と宣いながら、昼は菓子パンを食し、『♪夜もパン』とほろ酔いで惣菜パンをツマミに酒を飲んで寝るぐらい好きだ。
昔の少女漫画的ネタの、トーストをくわえたまま『遅刻遅刻~』……などというのは甚だ許し難い。
もし曲がり角でぶつかるイケメンが私ならば、ヒロインよりトーストを救う。
そしてヒロインは公園に連れ込みお説教だ。
公園のベンチに正座し、トーストの香ばしさと中から滲み出る小麦の香りをとくと味わうがよい。
──話を戻すと。
元彼曰く、年齢や付き合った年数のきりの良さもあり、結婚を真面目に考えてみたらしかった。
しかしいざ生活を共にする想像をしたら、主食の違いは譲れないと思ったそう。
ウチには炊飯器がないのである。
それが決定打だったようだ。
「実家から出たことのないお坊ちゃまとしては、合理的な判断ですよね~」
「それな」
彼は自炊が出来ない坊っちゃまであり、家から出て暮らしたことがないので生活の苦労を知らない。
ただ『その想像や、相手の仕事を重んじることができる』くらいの良識は持ち合わせた人間であり、尚且つ『自分が合わせて努力するのは嫌だ』という傲慢さと怠惰さも同時に持ち合わせていた。
つまり『仕事は辞めなくてもいい。 だが共働きでも、家事などする気はない』……そういうことだ。
言わせてもらえば、そんなモラハラ男、こちらとてお断りである。
大体にして『部屋は汚くてもいいが、米は無理』とか。舐めてんのか。『米ぐらいテメーで炊け!』の一言に尽きる。
まあそもそもウチに、炊飯器はないんだけど。
なんで三年前の話を蒸し返すかと言うと。
元彼はこの度、めでたく結婚したらしい。
相手は私と別れてから早々に付き合いだしたバイトの大学生で、そのままウチに就職した子。
バイト当時はまだ10代だった。
勿論当人らは付き合っていることを秘密にしてたのだろうが、バレていた。彼女が一応成人年齢には達しており、仕事に影響がなかったので黙認されてただけである。
もう男は懲り懲りだなぁと思い、早三年。
昇進し、給与も上がった。
別に今更元彼に未練などはない。
だがこの結婚に、色々思うところはある。
アプローチを受けたのは彼の方だそうで時期的に被ってはいないけれど、なにかとモヤッとせずにはいられない。
結局のところ、彼が私と別れると決めたのは、彼女にアプローチされたからだと思う。
比べて若い方を選んだのか、都合の良い方を選んだのかはわからないが。
それも多少モヤッとはするけれど、当時の彼の心情などこの際どうでもいい。
彼女の方だ。
一番モヤるのは、彼女が入社一年目であり、地味で家庭的そうな子だったこと。
確かに地味目な子ではあったが、社会に出てから垢抜けるのは女性のあるある。
環境に慣れてくればそこでの身だしなみが気になるようになるし、自由にお金を使う余裕も出てくる。一年目の彼女は、これからがそうだったのではないかと思う。
大学を卒業して、せっかく就職したのに……と思わずにはいられない。
このタイミングでの結婚が、なんとなく嫌だった。相手が元彼というだけではなく、働く女として。
ふたりに対してどうとかではなく、自分のこの先の不安から──令和になってもまだ、こういう感覚が身近にあることに。
「どうせそんな男は、他の家事も全部妻に押し付けておいて、自分はゴミ捨てだけしてドヤるタイプに違いありません」
私の愚痴を聞いてくれている優しい後輩くんは、非常にリアルな仮の未来を提示しながらそう言う。
全く以て、仰る通りである。
「そう考えてみると、『自分が頑張ればいいや』とかを理由に結婚しなくて良かったわぁ……」
「そうですよ!」
確かにそう。
『人はパンのみにて生きるに非ず』と言うが『日本人は米のみにて生きるに非ず』の方がきっと正しい。
少なくとも私はそうなのだから。
あまり理解はされないが、もうそれでいい。
ずっとお一人様でもいい。
好きなパンを食べて生きよう。
「ウチには炊飯器はないけど、いいオーブンはあるの」
勿論、パンを作る為に購入したモノだ。
材料を入れてポンするだけで済むホームベーカリーも購入してみたものの、やはりパン屋のパンとは比べものにならなかったので。
パン屋のパンは美味しい。
けれどパン屋は閉まるのが早いので、休みにしか行けない。
そのせいもあって、コンビニパンやメーカーのパンには大分詳しくなった。
最近はパン自体が昔より遥かに美味しくなっており、企業努力に頭が下がる思いでいる。
とはいえパン屋が入っているスーパーが開いている時間は、多少疲れていてもそちらに行くことにしている。
メーカーさんの努力は素晴らしいが、パン屋さんには敵わないのだ。
元彼の話をしていた筈が、途中からパンの話になってしまった。
「ごめんね、つまらないでしょ?」
「いえ、楽しいですよ!」
そう言ってニコニコと話を聞いてくれる後輩くんに、私はスッカリいい気分でいた。
そんな、金曜の夜。
ちょっと飲みすぎて、後半の話の内容を覚えていない。
「──はぁッ!?」
目が覚めたらベッドの隣に後輩くんがいた。
「ん……おはようございます」
そのまま盛り上がり、ウッカリ朝チュンするという誤ちを犯してしまったらしい。
「あっ」という声と共に、彼は赤くなって顔を逸らした。
「……すみません、飲ませ過ぎちゃったみたいで」
着衣が乱れていた。
だが、そんなには乱れていなかった。
そしてなにより──下着を付けている。
慌てて服を直しながらも、それを確認し安堵した。
「君は平気そうね……」
「ええ、割と強いんで助かってます。 昨日は楽しくて、先輩の身体を考えず飲ませちゃって……」
そういえば「僕はお酒が好きです!」と言っていたような。
寝室を出ると、リビングダイニングのテーブルいっぱいに、パンと酒。
(あ、なんか思い出してきた)
盛り上がった末『酒はパンと合いますよ!』と言い出した彼と共に、『遅くまでやっているスーパーで数種類の酒とパンを購入し、良い組み合わせを探す』という、よくわからない企画の為に店を出て、スーパーを経由しウチに移動したのだ。
しかしスーパーは酒屋ではないし、無論パン屋でもない。しかも酔っ払いの徒歩。
当然ではあるが素面になった今見ると、テーブルの品揃えは微妙そのもの。
(にしても……)
パンより酒の方が酷いとはどういうことか。
種類こそ多いが全部小さい瓶というだけであり、スーパーの親企業の自社レーベルとかもある。
私も飲んだことはあるが、あんまり美味しくない。
徒歩だから極力荷物にならないように、と思ったにせよ、あまりにも拘りが感じられないラインナップだ。
(まあ……酔ってたしなぁ)
そう思いながら少し片して、珈琲を淹れる。
『手伝う』と言ってくれたが、自分の部屋なのでこれくらいどうということはない。
座ってていいのに、彼は昨日のグラスなどを自ら洗い出した。
昨日の愚痴で気を使わせてしまったのだろうか。
後輩くんは私の身体を気遣いながらも『体調に問題ないなら』と、パン屋でブランチの提案をしてきた。
動揺を悟られないように笑顔で了承する。
どちらも酒臭いのにブランチもないので、後でシャワーを浴びるように彼に勧めると、コンビニに下着を買いに行くと言うので鍵を渡した。
彼が外に出ていった隙に、先にシャワーを浴びつつ掃除をしておこうと、着替えを持って浴室に行く。
割と無防備だ、と自分でも思う。
だが……歳上であるせいか、意識をしていることを悟られる方が嫌だったのだ。
シャワーを浴びながら、二日酔いで動きの鈍い頭をフル回転させた。
(──好かれている?)
いやまさか。
何も無かったし。
でもあのお酒のラインナップの不自然さは?
そういえば、飲みに誘ったのも彼の方だ。
一旦思考を放棄し、風呂を綺麗にして髪を乾かしてから、既に戻っていた後輩くんにも入るよう勧めた。
待つ間に彼の服に消臭スプレーを撒き、化粧をする。
……スッピンを見られてしまった。
しかも、二日酔いのアラサーの。
ふたり、開店したばかりのイートインスペースのあるパン屋へと向かうが、周囲からどう見えるのかが妙に気になる。
複雑な気持ちでサーモンとオニオンのベーグルサンドを食べた。
こんな時でもパンは美味しい。
彼は私にオススメを聞いてきた。
そのうちのひとつから購入したのがパストラミビーフのベーグルサンド。
その他にデニッシュ地の惣菜パンと、ソフトフランスのあんバターサンド。
……よく食べるな。細身なのに。
食べっぷりを見ているうちに、周囲の目は気にならなくなったが、確かめたいことはある。
でもできれば、この空気を壊すような流れにはしたくない。
ブランチ誘ってくれた彼の発言にヒントを得た私は、「パン屋の帰りに酒屋に行こう」と誘ってみることにした。
「オススメのお酒を教えて」と言い添えて。
後輩くんは困ったように笑う。
おそらく、意図は伝わっていると思う。
「僕、酒には強いし好きだけど、なんでもいいタイプで詳しくないんです」
「……だろうと思った」
「でも」
そこで一旦区切り、小さく深呼吸をして彼はこう続けた。
「パンと酒って合いますよ!」
凄く他愛のない言葉を、滅茶苦茶真面目な顔で、頬を赤らめながら。
極めつけは──
「パンとマリアージュするお酒を、一緒に探してくれませんか?!」
「……ぶふっ!?」
──これである。
なんたるロマンチックさだ。
そして回りくどい。
おもわず珈琲を吹いてしまった私は悪くないと思う。
珈琲は吹いたものの、話し合いの末にお付き合いすることになった。
彼曰く酒の云々も「マリアージュと言いたかっただけ」らしい。マリアージュなだけに、結婚前提だ。
仕事が乗っているし、後輩(しかも5つも若い)なのに難色を示した私だったが、『自分も一人暮らしなので家事への理解はあるし、できる』『子供も好き。 でも急がないし、いなくても構わない』などと説得をされ、付き合うに至った。
そこから結婚が決まるのも、早かった。
彼は副業を持っていた。
結婚を機に会社を辞め、そちら一本に専念することにしたようだ。
しかもその仕事はネット関連個別事業……外に出る時もあるが、主に在宅ワーク。『家事ができる』と言うだけあり、忙しい時以外は家事もやってくれている。
こんないい旦那がいるだろうか……否。
「──そういう訳だから。 アナタももっと奥様を大事にした方がいいんじゃない?」
結婚して一年。
元彼が不倫を匂わせたお誘いをしてきた。
聞いてもないのに出てくる嫁への愚痴。
そして私の心配するフリをして、働いていない(ように見えるらしい)ウチの旦那への邪推を、マウントと共に。
頭にきた私は、今自分がどれだけ幸せで、彼がどれだけ優れた男かを聞かせてやった。
「大体私は仕事が好きなの。 なんならアナタの言う通り、彼が専業主夫になるつもりで私を狙ったのだったとしても、構わなかったわ。 ああでも、アナタみたいにやらないくせに家事や育児を楽だと思ってる人には、その価値はわからないでしょうけど」
ついでに『まとめたゴミのゴミ出しなんて小学生でも出来るのに、ドヤ顔で家事をした気になられても困るのよね!』とかも言っておいた。
コイツはどうでもいいが、奥様の為に。
どうせゴミ捨てただけでドヤっているに違いない……もし五年前に判断を間違えていたら自分自身がああだったのかも、と考えると余計に気の毒でならない。
まあ幸いなことに、奥様はまだ若いので。
サッサとそのあたりに気付かないと、そのうちアッサリ捨てられるのではないかとも思う。
私は4年越しで、どうしてもあの時言いたかったことを言った。
「知ってる? 無洗米なら米と水を炊飯器に入れて、ボタンを押すだけで炊けるのよ。 家事が大変なのは、同時に色々やることがあるからなの。米ぐらい、食べたきゃ自分で炊きなよ」
そう言って去ったが、まだ言い足りないくらいだった。
──元彼にはああ言ったけれど。
私も旦那があの時『専業主夫になります!』とか言っていたら、きっと引いたと思う。
今はそんな価値観クソで、双方の事情に見合ったかたちで良いようにするのが一番だと思うが、それはあくまでも綺麗事だ。
社会制度や風潮は自分の力じゃどうにもならないし、個人の事情すら運不運に左右される。
元彼が結婚する際に感じた漠然とした不安は、かたちを少し変えて、今も存在する。
(子供ができたら……)
仮に自社の福利厚生がしっかりしていても、仕事のブランクによる痛手は大きい。
それでも、産休をとり復帰できればまだいい方。
日本のお国柄、会社にある制度でも社内の空気から使えていない……それもよく聞く話だった。
仕事が順調な今、私はちゃんと妊娠を喜べるのだろうか──
わからない。
その癖年齢的な焦りからか、同時に『子供が欲しい』と強く思うようにもなっていた。
モヤモヤしながらパンを買って家に帰ると、旦那は既におかずを作って待っていた。
魚介のアヒージョと、サラダ。
ウチのいつものサラダは、サラダと言っても普通のサラダに非ず。オニオンスライスはマストで、あとは色んな具材がそれぞれ別皿に乗っている。
好きな具を、パンに合わせる為である。
晩酌をしながらバゲットを切り分ける。飲んでいるうちに少し、元彼のことを思い出した。
頭にはきたが別に、不幸になって欲しい訳では無い。
そう思えるのは今、幸せだからだ。
「あっ」
旦那は気付かぬうちに、リベイクしたバゲットの上に私の好きな具ばかりを大量に乗せたものを、目の前に置いていた。
「上手く食べられなくてこぼしちゃうよ」
「こぼれたらお箸で取って食べればいいよ」
彼は、そう言って笑う。
……聞かないけれど、私の悩みを漠然と知っているのかもしれない。
回りくどくてロマンチストな旦那様は、私が皿にこぼした具を食べさせてくれたあと、グラスにワインを注いだ。
2025/10/30
今更ながら再びランキングに入ったので読み直したら、結構酷かったので手直ししました。
婚約より結婚の方が話の流れ的にスムーズなので、そこは変更してあります。




