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第六十三話 急がば回れの気持ちで

 身体強化の魔術を施された走竜は凄まじい速度で野山を駆け巡り、手綱を持つだけの行為でさえ乗り手の体力を容赦なく奪っていく。

 集落を出てどれ程の時間が経ったのかは分からないが()はすっかり落ち、イリーナ達を取り巻く世界は深い闇に支配されている。

 だが走竜は夜目が効くのか、それとも野生の獣ならではの勘なのか、迫りくる木々を巧みに避けながら疾走を続けた。

 

(何なのこれ? 風の抵抗ってこんなにも凄いものなの?)


 イリーナはこれ程の速度での移動を経験した事がない……。

 いや、正確には前世で父親の運転する自動車での移動を体験してはいるが、それはあくまで『快適な車内』での経験であり、身体に直接風圧を受けるような状態は今回が初めての事だった。

 その為に風の抵抗が及ぼす疲労や心痛は想像すら出来ず、予防の為の対策が一つも取れなかったのは仕方が無いのかもしれない。

 多少は体力に自信があったかもしれないが、全身に力を込めるような緊張状態を常時続ける事など不可能である。

 とは言え、風よけの為に前面に空気の壁を作りたいが、一瞬でも手綱を離せば後方へと吹き飛ばされる現状では手指による魔術が使えない。

 今はただ、一時(いっとき)でも早く一つ目の村へ到着を願う事しか出来なかった。


「両の腕に蓄積した……分解し疲労を軽減……脳内に……分泌してストレスを緩和……」

「ローラさん?」

「体内に溜まった水分……再吸収し……空腹による不快感……脳への信号を遮断……」


 闇に包まれ見えはしないが、最後尾に居るであろうローラの詠唱が僅かに聞こえる。

 ローラ自身も経験がない過酷な状況では身体にどのような症状が出るのかは分からない。

 その為に自分の身に起きた症状を参考に治療する事しか出来ず、予防の魔術を発動する事は無理なようだ。

 しかし今は彼女の魔術だけが唯一の救いだと言える。

 手綱を掴む腕が痺れる前に全快して握力が戻り、腰骨が痛みで悲鳴を上げる前に緩和され……更には空腹や尿意といった生理現象による不快感でさえもその都度軽減されていく。

 もしもここにローラが居なかったら……とても口では言い表せないような惨状が待っていたに違いない。

 イリーナはローラに感謝すると同時に、次の村に到着してからの対策を考えていた。


「イリーナちゃん! 前に明かりが見えてきたわ!」


 先頭を走っていたアリフィアが大声で叫ぶ。

 空が少しづつ夜の衣を脱ぎ始めた時、イリーナ達を乗せた走竜はようやく一つ目の村へと到着した。


「ようこそおいで下さいましたイリーナ様、補給の準備を整えてお待ちしておりました」

 

 村に住む魔族は総出で歓迎の準備をしている。

 並ぶ者の表情はイリーナの役に立てる事に対し、心の底から喜びを感じているようであった。

 そんな様子からは想像できないが、以前にイリーナ達が立ち寄った時、この村の惨状は目を覆うものがあった。

 人族との戦いの場となり多くの魔族が手足を失う大怪我を負い、荒らされた田畑や家屋を修復する労力も無く、ただ静かに滅びていくのを待つだけの状況だったのだ。

 それをイリーナの手指魔術によって救われたのだから、皆の想いは感謝などと言った単純なものではなく、笑って自らの命を投げ出せるほどの信仰心になっていたのだろう。


「事情は全て霊獣からお聞きしましたので村の中で一番早い馬を三頭ご用意しております、それと念の為にお食事とお風呂の準備も整えておりますが如何なされますか?」


 村長と思われる男性が挨拶と共に要件を伝えてきた。

 イリーナ達が一刻も早く出立しなければいけないのは理解しているが、仮に何を要求されても対応できるようにと、考えうる全ての準備をしていたようだ。


「有り難うございます、皆さんのご厚意に感謝致します」

「勿体ないお言葉です、私達が今こうして生きて居るのはイリーナ様のお陰なのですから」


 イリーナの感謝の言葉は何物にも代えがたい褒美だと感じているのであろう、村の者はみな喜びの涙で頬を濡らした。


「色々と準備して貰えたのは嬉しいけど、どうするのイリーナちゃん? まだ旅は半日しか経ってないけど、今のペースが速いのか遅いのか私には分からないし」


 アリフィアは補給をするべきか、先を急ぐべきかを判断できず、イリーナに指示を仰いだ。

 ローラは治癒魔術の連続使用で疲労していたが、イリーナの意見に従うと決め沈黙している。


「そうね、まだ半日しか経ってないけど……でも、その半日で分かった事もいっぱいあったわ……焦って先を急ぐあまり、何も対策をしなかった自分が本当に情けない……今回の事だって、もしローラさんが居なかったらどうなってたか……いくら感謝しても足りないわ」

「私は大丈夫だからぁ、気にしなくていいのよぉ」


 急がば回れの諺ではないが、急いでいるからこそ冷静に判断しなければならないのだとイリーナは痛感した。

 だからこそ、この村で対策できる事は全て行えるよう意見を出し合う必要がある。

 イリーナはアリフィアに気付いた事を言うように即した。


「じゃあ私から言うけど、まずは空気抵抗ね! あの前からくる風はなんなの? あんな風は台風でもありえないでしょ? ローラさんが癒してくれなかったらすぐに手が痺れて、今頃は後ろに吹き飛ばされて粉々になってたわよ」

「うんうん、あれは凄かったわよね……」


 最初にアリフィアが意見を言い始めたが、半日のうちに感じた不満がよほど多かったのか、話が終わる気配がなかった。

 聞いていた者もその過酷さに同情の色が濃くなっていく。


「まず空気抵抗だけど、出発の時に手指の魔術で私達の前に空気の防御壁を作るわ、あとは……もし手綱を離しちゃっても落ちないよう鞍に固定するのと、前を照らす明かりを作るのと、おしりの下に衝撃を吸収する空気のクッションを作るのと……あとはそう、大声で叫ばなくてもお話が出来るように、私達の間に特殊な糸で回線を繋ぐわ」

「叫ばなくていいのは助かるけど、お話って……走ってる最中に話す事なんてある?」

「なに言ってるの! 凄く大事な連絡があるじゃないの!」

「……??」


 イリーナの表情は真剣そのものだったが、アリフィアには事の重要性が伝わっていない。


「さっきはローラさん自身の感覚を基準にして消去されてたけど、何度か『早くして! もう限界!』ってなってたでしょ?」

「え?……あ、あぁ~!」


 アリフィアはここまで聞いてようやく問題の大きさに気づき、顔を赤く染めた。


「だから今後は危ないかな~って思ったらすぐに『止まって』って連絡出来るようにしないと」

「そ、そうよね、それは凄く大事よね」

「でもぉ、あまり休みすぎちゃうと到着が遅れるんじゃないのぉ? お手洗いに行く回数ならぁ、私が体内の水分を調節……」

「あぁああぁああ!」


 イリーナ達の意見にローラが反論しようとしたが、アリフィアが慌てて遮った。


「ちょっとローラさん! 村のみんなが聞いてるから言葉を濁してたのに、どうしてハッキリ言っちゃうんですか!」

「えぇ? 別に恥ずかしい事じゃないわよぉ、お小水は誰でもする事なんだからぁ……それにお小水ってぇ、色や匂いなんかで健康状態も分かる優れものなのよぉ……まぁアリフィアちゃん達の体調を管理する立場から意見を言わせてもらえればぁ、魔術で水分を取り除くよりもぉ、自然に排出して見せてくれた方がちゃんと判断できて助かるわねぇ」

「あぁあぁあぁあ! もう!」


 医療に携わる者にとって生理現象の説明は極々当たり前の事であり、アリフィアが何に恥じらっているのかローラには理解し難いものだった。


「えぇ~っと……ローラさんの心配は分かりますけど、多少の時間の遅れは大丈夫だと思いますよ」


 高速で走行する馬や竜の前方に風除けを作れば、当然、乗り手だけでなく竜そのものも風の抵抗を受けなくなる。

 そうなれば必然的に走る速度そのものも上がり、休憩の為に取った時間を取り戻す事も容易である。

 

「それに同じずっと姿勢をしてると、エコノミー症候群とか色々体に不具合が生じてきますからね、定期的に休憩を取った方が最終的には早く目的地に到着できるんですよ」

「エコノミ? 何それ?」

「私も知りたいわぁ、教えてイリーナちゃん」


 うっかり発した言葉にアリフィアとローラが興味津々で喰いついてくる。

 

「詳しくはまた時間がある時に説明するから、まずは出発の準備をしましょ」


 イリーナは用意された食事が無駄にならないよう箱に詰めて馬上でも食べられるようにし、その後は思いついた問題点を全て手指魔術で補いつつ次の村へと旅立った。



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