第三十七話 イリーナを守る為には
「◇☆※♯◎▽!……」
どうやら脳と言うのは余りにも衝撃的な光景を目にすると活動を停止してしまうようだ。
先程からアリフィアは言葉にならない声をあげているが、ローラは気にする事なくイリーナと唇を重ね続けていた。
暫くして、ようやく我に返ったアリフィアが戸惑いの表情でローラの元へと詰め寄る。
「なな、何をしてるんですか! 私もまだした事ないのに、イリーナちゃんとキキ、キ、キスなんて羨ましい事を!」
アリフィアは二人を引き離そうと近づくが、ローラは普段のぼんやりとした表情とは違う厳しい視線を向けて制止する。
「イリーナちゃんを助けたいんでしょ? だったら私に任せて」
唇が離されると同時にイリーナは大きく息を吸うが、その直後にはまたローラの唇で口を塞がれてしまう。
大きく息を吸っては数十秒間強制的に吐く事を止められる。
そんな不規則な呼吸を何度も繰り返していれば余計に苦しくなると思うのだが、何故かイリーナの容態は徐々に回復してきているように見える。
「まさかこれって治療なの? ラウラ先生、こんな治療をする病気なんてあるんですか?」
「いえ……私にはエレオノーラさんが何の目的で、その……唇を重ねているのかは分かりませんけど、イリーナさんの容体を見る限りは治療で間違いないのかと……」
どれほど時間が経ったのか。
イリーナの容態が少し回復してる事を確認すると、ようやくローラは唇を離して普段の穏やかな表情へと戻った。
「ごめんなさいねイリーナちゃん、急にこんな事をしてぇ……」
「いえ……」
「もう大丈夫だから、後はゆっくり息を吸ってぇ、ゆっくり吐いてぇ……」
「は……はい……」
イリーナが落ち着いてきた事で安心したのか、アリフィアがローラに質問をする。
「イリーナちゃんのあの症状は何だったんですか? あんなに苦しそうな姿を見るのは初めてなんですけど、何か悪い病気だったりするんですか?」
確かに先程とは比べ物にならないくらい呼吸は安定しているように見えるが、何が原因なのか分からないことには気が気でない。
もしかすると知らないうちにイリーナは重い病に掛かっているのではないか……そんな不安が頭をよぎる。
「んとねぇ、イリーナちゃんは悪い病気に掛ってる訳じゃないわよぉ、心に負担が掛かって呼吸をしすぎただけだからぁ」
「呼吸をしすぎた? それのどこが悪いんですか?」
ストレスにより呼吸が荒くなり、二酸化炭素が多く排出される事で起きる『過換気症候群』……。
それに対する専門的な知識や単語はこの世界には存在せず、ローラが皆にした説明も『吸う空気と吐く空気は成分が違う』『吐く回数が増える事によって体内である成分が減ってしまう』『呼吸を止めて体内で減った成分を増やせば症状は治まる』と言った大まかなものでしかなかった。
その知識も過去の治癒魔術師が残した書物を読んだだけであり、実際にその症例の患者を目にしたのは今回が初めての事なのだが、即座に治療へと応用できたのはローラの医師としての才能に他ならない。
だが医術に詳しいローラならともかく、他の者がそんな記述を理解するのは難しく、ラウラやアリフィアには疑問の表情が表れている
「息を止めるのが治療なんだとしたら、手でお口を押えてもいいんじゃないんですか? どうして、その……キスを……」
アリフィアはイリーナの唇を奪われた事が余程ショックだったのか、納得がいかない表情で詰め寄った。
「苦しくて死んじゃうかもしれないって怯えてるのにぃ、手で押さえちゃったら死への恐怖が余計に強くなって呼吸が荒くなっちゃうでしょ? だから咄嗟にお口で押えたのぉ」
「でも……だからって」
アリフィアはまだ納得いかない表情を見せている。
その時ラウラが隣に居る村長に気を遣う様に質問をしてきた。
「息を多く吸っているのに苦しくなり……呼吸を止めると逆に楽になるのはどうしてなのか理由はよく分かりませんけど……イリーナさんがそう言った症状を発症した原因とされる『心の負担』と言うのは……やはり……」
ローラも村長に遠慮をしていたのか暫くは答えるのを躊躇していたが、やがてゆっくりと頷き、原因について話し始めた。
「イリーナちゃんが心を痛めていたのは、村のみんなが魔王様の生まれ変わりだと崇め、イリーナちゃんの言葉に全てを委ねても良いと……そんな重圧を背負わせてしまったからですぅ……」
その言葉を聞いてラウラは司祭様と顔を見合わせた。
「司祭様、やはりこの旅は間違いだったのではないでしょうか」
「私も今その事を考えていました……この子達はどれほど強大な力をその身に宿していても、心はまだまだ未熟なのですから、中央都市の養成所へは送らずに街の教会で我々が守るべきではなかったのかと……」
重い空気が部屋を埋め尽くす。
イリーナが魔王と同じ魔術を使える以上、この先も同じ問題が起きるのは明白である。
なのに幼い心に負担を掛けたまま進む事が本当に正しいのだろうか。
村長は勿論のこと、ラウラや司祭様もイリーナに掛ける言葉を見つけられずに居た。
「イリーナちゃんはどうしたいのぉ?」
沈黙の時間が続く中、ローラが小さな声で呟いた。
イリーナはその答えを言ってしまってはいけないと、両手で口を押えながら首を横に振る。
簡単に嫌だと言えない負担が再び襲い掛かってくる。
ローラは震えながら呼吸が荒くなってくるイリーナを優しく抱きしめ、耳元で囁いた。
「大丈夫よぉ……心配しなくていいからゆっくりゆっくり息を吸って、落ち着いて私の言葉を聞いて」
「…………」
「イリーナちゃんはお話をするのが怖いんでしょ? どんな言葉にも……たとえそれがどんなに酷い言葉だとしても、みんなが従うかもしれないって、そう思ってるんでしょ?」
「…………」
「迂闊な事や無責任な事は言えないって……自分の感情だけで話しては駄目だって思ったら、誰でも怖くなって言葉を失ってしまうもの……でもね、ここには司祭様やラウラ先生やアリフィアちゃんが……イリーナちゃんが信頼できる人が居るんだから、本当の気持ちを話してもいいのよ」
イリーナは両手で口を押えたまま声を出さないが、目に涙を浮かべながら何度も首を縦に振った。
「昨日みたいな事があった時に、魔王様の力が無くて誰も守れない方が良かった?」
「……ううん」
「大怪我をして死にそうだった人を助けない方が良かった?」
「……ううん」
「イリーナちゃんの力を使って村を救えたのが嬉しかったでしょ? みんなを守る力があって良かったって思ってるでしょ?」
「……うん」
「これからもその力を使って多くの魔族を救いたいって、そう思ってるんでしょ?」
「……うん」
「それでいいのよ……どんなに凄い力を持っていても、イリーナちゃんは魔王様じゃないんだから無理をする必要なんて無いのよ……信頼できる先生やお友達と一緒に考えて、悩んで……そしてイリーナちゃんが正しいって思った事をすればいいのよ……」
力に対する不安が完全に消えたと言えば嘘になるが、ローラの言葉は恐怖に捉われていたイリーナの心を少しだけ軽くできたように思える。
イリーナはローラに縋り付くように顔を寄せ、無言のまま何度も何度も頷いた。
だが、それでもラウラの表情からはまだ不安の感情が読み取れる。
今後も同じ問題が起きた時にどうすれば良いのか、その答えが見つからない。
自分が傍に居る時なら対処出来ても、中央都市の養成所に送り届けた後はイリーナの傍に寄り添う事は出来ない。
いくら考えても街の教会へと引き換えし、司祭様の元で見守る考えしか思い浮かばない。
「司祭様……やはりこの旅はここで中止にして街へ戻りましょう」
「そうですね、それが一番良いと思います」
ラウラと司祭様はイリーナを街へ連れ帰る事を決意した。




