第三十五話 村人の前で起きた奇跡
人質となっていた子供の手を引きながら、イリーナが教会へと戻って来た。
扉を開けるとラウラがその音に反応したのか、心配した表情で入口の方へと駆け寄ってくる。
「大丈夫でしたかイリーナさん? 先程エレオノーラさんから簡単な説明は聞いてはいるんですけど」
「あ、ラウラ先生! 私も子供達もこの通り怪我一つしてませんから大丈夫ですよ」
「そうですか……良かった……」
明るい表情で話すイリーナの姿に安心したのか、ラウラは安堵の表情を浮かべながら大きな溜息を洩らした。
一方イリーナは何か気になる事があるのか、注意深く教会の中を見渡している。
「ねぇラウラ先生、アリフィアが連れてきた子供はどこに居るんですか? あの子の怪我はかなり酷い状態だったと思うんですけど」
「あぁ、あの子なら奥のお部屋で横になっていますよ、エレオノーラさんが治癒の魔術を施してくれたので怪我の方は綺麗に治っていますから、あとは少し眠れば元気になるそうです」
「良かった~、アリフィアが行った後もずっと気になってたんですよ……それにしてもあの怪我を完治させるなんて、ローラさんの治癒魔術は凄いですね」
「えぇ、医学的な知識だけを比べるなら他のお医者様の方が上だと思いますけど、魔力の量を含め総合的に見れば、エレオノーラさんほどの治癒を施せる魔族はかなり希少だと言えますね」
過去の歴史を振り返ってみても、この村では今回の出来事ほどの惨事が起きた事は無く、ローラも自分の実力を知らずに過ごしてきたのであろう。
それ為に、同年代の友人達に比べ自分の魔術は劣っているのだと過小評価をし、自信を持てずにいたのかもしれない。
「それはそうと、あの子の応急処置はイリーナさんが行ったのですか? 的確な処置で止血がされていたとエレオノーラさんが驚いていましたよ……もしもあの処置が無かったら大量の出血で命の危険もあったそうですからね」
「そ、そうなんですか?」
「どの血管の血流を止めればいいのか、それを的確にイメージ出来ないと使えない治癒魔術だとか」
(そうなんだ……レオニードって剣術や魔術の他に医学的な知識もあったのね)
ラウラはイリーナが医学的な知識を本等から独学で習得したのだと思い誇りに感じていた。
だがイリーナは応急処置の魔術を使ったのが実はレオニードであると……敵である人族なのだとラウラに伝えて良いものか考えていた。
敵対している人族から受けた魔術には何かしらの罠が隠されているのではないか、そんな不安を村人に与えてしまわないかを心配していたのだ。
しかしアリフィアや人質となっていた子供達がある程度の事実を目撃している以上、全てを嘘で誤魔化す訳にもいかない。
イリーナはレオニードの目的や彼が転移者である事など、まだこの世界の住人には信じてもらえない事柄だけを隠し、彼が使った治癒の魔術には何も問題がない事を丁寧に説明することにした。
「そうですか……中央都市で噂になっている人族がそんな事を……」
「はい、私が見た限り彼が行った魔術には不自然な所は無かったと思いますので、この先も心配いらないかと」
「でも、その人族の目的は何なんでしょうね? 治癒の魔術を使えるのに、人族ではなく魔族の子供を助けるなんて……」
ラウラは腑に落ちない様子で首を傾げている。
だがレオニードが信じるに値する者だと説得するには、イリーナ自身も彼と同じ地球の記憶を持っているのだとラウラに伝えなけらばならないだろう。
イリーナがどう説明すればいいのか考えを巡らせていると、不意に教会の外から女性の叫ぶ声が聞こえてきた。
「お願いです! 誰か夫を助けて下さい!」
声の主を確かめようと外に出てみると、担架に乗せられた血まみれの男性と、傍で泣き崩れている女性の姿がイリーナ達の目に飛び込んできた。
男性の傷は酷く、今まで教会で治療してきた者の中で最も重症ではないかと思われる。
両足と右手は見当たらず、かろうじて残されている左手は原型を無くすほど挫滅していた。
更に頭部や腹部にも多数の裂傷が見られ、素人目にも手の施しようが無いように思える。
ラウラは急いでローラの他にも治癒魔術を使える者達を呼ぶが、誰もが男性の容態を見て首を横に振る事しか出来なかった。
重い沈黙の世界が続く中、アリフィアがローラへと詰め寄った。
「何とか出来ないんですかローラさん!」
「私の魔力量では……ううん、たぶんこの世界のどこを探しても、この傷を治せる魔術を使える魔族は居ないと思うの……」
「そんな……じゃあイリーナちゃんは? イリーナちゃんの手指魔術だったら治せるんじゃないの?」
アリフィアは期待を込めた視線を向けてくるが、イリーナは諭すように答える。
「アリフィアは魔術の基本も忘れちゃったの? どれだけ強力な魔術が使えても、私には医学的な知識なんて殆ど無いもの……どんな手順で治療を進めればいいのか……どの部分をどうすればいいのかが分からないと治癒魔術は使えないわ……」
絶望にも似た空気が漂う中、何かを思いついたのかアリフィアがローラに話かけた。
「そうだ……もしもローラさんがこの傷を治せるくらいの魔力を持っているとしたら、どんな順序で治癒を施しますか?」
「え?」
予想もしていなかった質問をされたローラは何も答えられないままでいた。
アリフィアはそれでも構わず話を続ける。
「ほら、私が馬車で気持ちが悪くなった時にイリーナちゃんは色々と治療してくれたでしょ? 自律神経がどうとか、ツボって言うのを刺激すればどうとか」
「うん……でもあの時と今では状況が違いすぎるわ」
「でも、イリーナちゃんは私には分からない難しい言葉を説明してくれたでしょ? 医学の事が全く理解できない訳じゃないでしょ? だったらローラさんに治療の方法を説明してもらって、それをイリーナちゃんが手指の魔術で実行すればいいんじゃないの?」
アリフィアの言葉にローラが不安そうに聞いてくる。
「本当にそんな事ができるの?」
アリフィアの考えは理解できる。
イリーナは前世で人体模型や骨格標本を見た事があるし、医学に関する写真や資料を目にした事もある。
この世界に来てからも魔族の事を知る為に本を読み漁り、知識は蓄えてきたつもりだ。
だがその知識がどこまで役に立つものなのか、確信を持てないでいた。
「お願いです! あなたは魔王様と同じ力を力をお持ちだとお聞きしました! 何でもお望みの物を……私の命を差し出しても構いません! だから……お願いですから夫を……」
イリーナに縋り付き泣き崩れる女性の姿が不安の全てを消し去った。
(目の前に助けられるかもしれない命があるのに私は何を躊躇ってるのよ……この力はみんなを救う為に使うって、そう決めたんじゃなかったの? ここで何もしないで諦めたら、全てを救おうと努力してるレオニードに会わせる顔が無いじゃない)
決意を固めたイリーナにはもう迷いはなかった。
「ローラさん、どうすればいいか私に教えてもらえますか」
「う、うん……」
イリーナは少しでも治癒魔術が成功するように、詳細なイメージを必要とする箇所はローナに担当してもらい、そしてローラの魔力量では出来ない事を自分が請け負おうと考えていた。
ローラの指示は的確で、イリーナに映像としてのイメージを思い浮かばせるのに十分であった。
(本に描かれたイラストを見る限り、腕の構造は魔族も人族も大差なかった筈……ローラさんの説明でも全く分からない名称は無いし、このイメージで大丈夫よ……きっとうまく行くわ)
その日、教会に居た者は全員が奇跡の光景を目の当たりにする事となる。
横たわる男性の肘関節から先の部分を形成しようとローラが説明を始めた。
尺骨、橈骨、豆状骨、舟状骨、有頭骨、大菱形骨、有鈎骨……。
ローラがゆっくりと説明する部位の名称がイリーナの記憶していた映像と重なっていく。
すると、失われていた腕が徐々に姿を現し復元されていった。
「ローラさん、次の指示をお願いします」
「うん……次はねぇ……」
どれほどの時間が経ったのだろうか。
失われた手足は全て元通りに復元され、裂傷は消え、足りない血液は生成され……。
いつしか男性は命の危機を乗り越えていた。
「うまくいって良かった~……」
全ての治療を終えた時、イリーナは安堵と疲労の表情を浮かべ、その場に座り込んでしまった。
その様子を間近で見ていた村人の心の中には、崇拝にも似た感情が込み上げてきている。
もう誰もがイリーナは魔王の生まれ変わりなのだと信じ、疑う者は一人も居なかった。




