第87話 魅惑の酒宴と深夜の保護者
※二話同時更新の一話目になります。
この屋敷は公爵家が使用する予定だったこともあり、主人の部屋は相応に豪華な造りで、客を招くための居室と寝室、そして衣装部屋、書斎に分かれている。
「ご主人様、お酒の種類はいかがなさいましょうか」
ベアトリスがメニューを出してくる。どんな酒があるかは理解しているが、彼女としては俺を可能な限りもてなしたいのだろう。
「じゃあ、たまには霊命酒にするか。二人とも好きだろう」
「っ……よ、よろしいのですか? 今酒蔵にある霊命酒は、一滴ずつが同じだけの黄金に匹敵すると言いますのに」
「飲まずに置いておいても、このラベルの霊命酒は五十年を超えると味も効能も変わらないんだ。もっと熟成できる種類もあるんだが、まだお目にかかれてない」
五十年ものでもベアトリスの言う通りの価値はあるし、魔力を使う職業の人間は喉から手が出るほど欲しがるものだ。依頼を達成させるために客に飲ませることも、おいそれとできない貴重品である。
しかし今日の晩餐会において二人はよく働いてくれたし、ヴェルレーヌは少し心労があるように思うので、可能な限り労ってやりたい。
「むぅ……霊命酒か。確かに私の大好物ではあるが……そんなものを飲ませてもらっては、またご主人様に大きな恩が出来てしまうではないか」
ヴェルレーヌはメイド服のまま、ヘッドドレスは取っている。いつも仕事を終えると夜は黒エルフの姿に戻るのだが、今夜は白エルフのままだった。
「最初に俺の店に来た時、一番高い酒を出せと言ったのは誰だった?」
「む、むぅ……持ち合わせで足りると思っていたのだ。魔王国の通貨として使っている金属がアルベインで価値がないなど、想定外の事故であって……」
「魔力を蓄積できる金属ですから、専門のところでは、アルベインの通貨に交換できると思います。錬金が発展していれば、価値が高くなったと思うのですが」
「エルセインは錬金が発展してるのか。確かに、竜騎士たちはなかなかいい装備をしてたな」
俺は装備にさほどこだわりがないので、無銘の剣ばかりを使っている。剣精の模写ができるようになったので、さらに実物の剣を持つ必要は薄れてしまった。
しかし可能性という意味では、『蛇』以上の敵が現れた時のためにも、装備品の改善にも着目すべきだろう。パーティの中でただの革鎧を主に使っているのは俺だけだ。
「……私がご主人様たちに討たれたあと、国内ではアルベインに報復をとの声もあったのだが、私はその声を力で抑えることしかできなかった。私が敗れた相手に、魔王国が総勢を上げても勝つことはできない。しかしもう少し上手い方法で国を束ねることができていれば、今頃は相互に交易などを行うこともできていただろう」
ヴェルレーヌが言わんとするところは、アルベインとエルセインには相互に特産物があるので、交易できれば両国ともに豊かになるということだろう。
俺もそう思うのだが、今までは国同士の交渉にこれ以上首を突っ込むのはどうかと思い、静観してきた。しかし向こうから、その関係を動かす行為に出てきたわけだ。
「魔王が代替わりしてもいきなり攻めてこないのは、ヴェルレーヌの影響力が残ってるからだろう。まあ、あまり気に病むなよ。俺もジュリアスの挑戦を受けたが、戦争をしようってわけじゃない。いい方向に転がしてみせるさ」
「……良いのか? ご主人様は、表に出ることはしたくないのでは……私のせいで不本意なことをさせるわけにはいかない」
「俺は本気で不本意な時は、全力で逃げるからな。今回は俺にも考えがあって動いてるわけで、何も申し訳ないと思う必要はない……さて、今日は真面目な話は店じまいだ」
俺はベアトリスが持ってきたグラスをヴェルレーヌに渡すと、霊命酒の栓を抜き、彼女のグラスに半分ほど満たした。
「……前に飲んだものより、色が澄んでいる。それに……何という芳醇な香り……」
「香気を吸うだけで魔力が……あ、熱い……ご主人様、身体が……っ」
「魔力で実体化してるベアトリスには刺激が強いか。それならブレンドにしてもいいぞ」
「い、いえ……せっかくですから、そのままでいただきます。あっ、ま、まずは少しだけで……一口でも恐れ多いくらいですので」
ベアトリスは恐縮しつつ、俺の盃を受ける。そして、青と金の瞳で注がれていく酒を見つめる――すでにほろ酔いぎみの表情だ。
「で、では……ご主人様には、魔王様……いえ、ヴェルレーヌ様から……」
「ふふっ……順序を決める必要などない。私たちはご主人様の……と、二人で呼んでいると何かご主人様を誉めそやして、堕落させようとしているようだな」
「俺はそんなにちょろくはないつもりだが、一理あるな」
「……では、ヴェルレーヌ様は『ディック様』とお呼びされますか?」
「い、いや……呼び捨てでいいんじゃないか。魔王に敬語で呼ばれるのは、ただでさえ落ち着かないんだ」
我ながら、今さらすぎるというか、ヘタレなことを言っていると思うが、ヴェルレーヌは呆れもせず、機嫌よく微笑んでいた。
「そう言われるともっと動揺させてやりたくなるが、ご主人様以上の敬意を込めた呼び方を思いつかないから、勘弁しておいてやろう」
「なぜ得意げなんだ……まあいいが。とりあえず、今日はお疲れ様」
「お疲れ様でした、ご主人様、ヴェルレーヌ様」
「うむ」
ベアトリスの前では、微妙にヴェルレーヌが魔王時代の尊大さを取り戻す気がする。しかし口調はこうだが、酒を飲むときの仕草は、店に来る客の誰よりも決まっていた。
「んっ……この身体の内側から染み渡る滋味。他の酒では得られぬ恍惚感……まさに命の源だな」
「美味しい……で、でも、とても濃いです……一口だけで、身体が……」
ベアトリスの青白い肌がほんのりと赤くなる。熱くなった頬を冷ますように頬に手を当てる仕草が何とも可憐だ――と、俺も少々酒のせいで緩んでいるようだ。
「ふぅ……こんなに濃密な魔力の込められた液体を身体に入れるのは初めてです」
「む……そういえば。ご主人様は、あえて魔力の補給を薬や食べ物で行わなかったのだな……やはりご主人様も、立派な殿方ということか」
「い、いや、そんなつもりはないぞ。ベアトリスがその方法がいいと言うから……」
「……ご主人様は、お判りになりませんでしたか? はじめて褥で肌を合わせたとき、私の心臓は、野山の小うさぎのように高鳴っておりました。命に等しい魔力を分けていただくのですから、殿方には、当然求められるままのご奉仕をするものとばかり……」
「ほう……やはり、そのように魔力を供与したのだな。その時のご主人様の様子について、ベアトリスはどう感じたのだ……?」
「お、おい、もう酔ってるのか? ……な、なんだその何とも言えない感じは」
これくらいで酔うわけがないのだが、疲れたときは回りやすいとも言うし、まして五十年物の霊命酒ならばヴェルレーヌが酔ってもおかしくはない。
彼女は濡れた瞳でグラスに口をつけ、こくん、と霊命酒を飲むと、これ見よがしに足を組み替える。スカートが長いので何も見えはしないが、仕草の全てに普段の倍は色気を感じる――これが、元魔王の本気ということなのか。
「……ご主人様の鼓動は、肌を触れさせた最初だけ早まって、すぐに落ち着いていきました。きっと、これまでもそうやって自制をされてきたのだろうと思います」
「そんなことが聞きたいのではない。ご主人様は、本人が言う通り、女性と深い仲になったことがないのかどうか……それが肝要だ」
「くっ……そんなに大事なことか? 肝要って言うほどのことじゃ……」
「私にとっては重要なことだ。攻め崩そうとしている砦のことは、一つでも知っておきたいものだろう」
ヴェルレーヌの目は据わっている。最初は俺から護符を返してもらうためなら何でもするという体で転がりこんできたのだが、もしかしてかなり前から、俺の女性経験について気にしていたということだろうか。
「わ、私には……まだ、寄り添って就寝させていただいただけなので、分かりかねます」
「……本当にそうなのか? ご主人様の手管に気を失わされ、気が付けば朝になっていたということではないのか」
「そ、そんなことは……ないはずです。ご主人様、いかがですか?」
「俺はギルド員には手を出さないぞ。それと、仲間もそういう目で見るのは良くないしな。コーディも俺を警戒してたわけだし、築いた信頼というやつは崩せない……といったところで、分かってもらえるか?」
「質問に答えていないな。ご主人様は童貞か否か、と私は聞いているのだ」
「ぐっ……そ、そうだったとしたらどうする。偉そうなことを言ってるわりに、と思うわけか。それは少々、仲間に対する思いやりが……ん?」
女っ気がないのは自業自得で、俺の積極性の問題なのでヘタレと言われても否定しないのだが、なぜか二人が俺を見る目が変わっている。悪い方向ではなく――むしろ喜んでいる様子だ。
「……そ、そうか。これまでも、それとなく聞いてはいたと思うのだが、こうして改めて確かめると嬉しいものだな……」
「ご主人様……それだけ女性から慕われていても、仲間、そしてご友人として大切にされているのですね。魔王討伐隊の方々の心中を思うと、少し切なくも思いますが……」
「ま、まあ……憎からず思ってくれてるとは思うが……いや、だからといって調子に乗ったら怒られそうだしな」
「ふふっ……難しいものだな。ご主人様に大切にされるのは嬉しいが、それだけで終わってしまうようだと焦ってしまうだろう。私がそうであるように……」
――そう言ってヴェルレーヌは胸元を緩める。そしてふぅ、と物憂げな吐息をつくと、霊命酒を一口飲み、そして席を立った。
「……弟のことで私を慮ってくれて、とても嬉しかった。この感謝を、どうやって伝えればいいのか……それを考え続けている」
「む、胸を開けすぎだ……み、見えそうだから、とりあえず仕舞ってだな……」
「見えてもいいからこうしているのだ。ディックが悪いのだ……私をこんな気持ちにさせたうえに、嬉しいことを言うから……」
それは、先ほどの質問のことを指しているのだろうか。女性は経験豊富な男を好むと聞いたことがあり、俺もそういうものだと思っていたが――どうやらそれは、誰でもそうというわけではなかったらしい。
「ご主人様……お酒を全然飲まれていません。私たちとでは、美味しくないのでしょうか……」
「そ、そんなことはない。文句のつけようもなく美味いが、少しずつ飲んだ方が長く味わえるというかだな……」
「……では、私たちがご主人様に飲ませるというのはどうだろうか」
たまに店に来る恋人同士が、記念日などで深酒をしたときに、しているのを見たことがある――酒の口移し。
こともあろうに、ベアトリスも席を立ち、ヴェルレーヌと二人でそれをしようとする。
「ま、待て、二人とも……いきなりそれは……っ」
「「……んー……」」
口移しで飲ませるというのは口実で、二人がキスをしようとしている。勿論俺からどちらかに応えるなど、できるわけもなく――動かずにいるうちに、両側から同時に、頬に柔らかい感触が触れる。
「んっ……ふぅ……やはりご主人様は優しい……」
「私にはまだ早いと思われているのですね……もっとご主人様のために尽くして、自分を磨かなくては……」
「……十分に大胆なことをしてるけどな……くっ……」
「……そんな声を出されては止まれなくなるではないか……ベアトリスも……」
「はい……もう少しだけ……」
(く、唇でキスをしなければ……ここまでは特に問題ない……わけもない……)
自覚していながらも、二人に首筋にキスされ続ける。魔王と、六魔公の一つの子女――二人にこんなことをされていると、まるで吸血でもされている気分だ。
「ふふっ……なかなか愉しいものだな。こんな愛らしいご主人様を見られるとは……」
「はい……癖になってしまいそうです。他の方々には内緒ですね……」
他の皆が、俺がこんなことをしてると知ったら、さすがに距離を置かれそうだが――それも止む無しといえるだろう。酒のせいにして片づけるには、色々と甘受しすぎた。
「……絶対に言うなと言うのも、ロクデナシのようだしな……俺はどうすればいいんだ」
「口止めのために、もう少し可愛いご主人様を見せてくれればいいのだ……それで私たちは、一時的には満たされるのだからな」
「……同じくらい、渇いてしまいそうですが。ヴェルレーヌ様は、大丈夫ですか?」
「問題ないということにしておこう。ご主人様が同居してくれなくなったら、困ってしまうのでな……」
そんなことを言いつつ俺の頭を抱えてくるヴェルレーヌ。
これで二人の生活に戻ったら、俺は陥落せずにいられるだろうか。これ以上、自制する理由もないように思えてくるが――。
「っ……そ、そんな野性的な目もできるのではないか……不意打ちはだめだ、胸が苦しくなる」
「ディック様……あぁ……あなたはどうしてディック様なのですか……?」
そして挑発に乗りかけると、逆に臆病になる二人。自分で胸を開けておいて真っ赤になっているヴェルレーヌも、ベアトリスも、こうなれば女性としてより、俺にとっては庇護する対象になってしまうのだった。
――もちろんそれは自分に対する言い訳であり、頬にキスされた時から、今夜はろくに眠れなくなることは決まっていた。
◆◇◆
酒が回ってきたヴェルレーヌとベアトリスが衣装部屋で着替え、待っていろと言われたので逃げるわけにもいかず出迎えたが――二人とも、大人しい寝間着を着ていた。
「……あまり誘惑しようとすると、逆に敬遠されてしまいそうなのでな。しかし、諦めたわけではないぞ」
「ご主人様も、お召し替えをされますか? それでしたら、お手伝いを……」
「あ、ああいや。ちょっと酒で身体が火照ったから、夜風で冷ましてくるよ」
「むぅ……では、私はベアトリスと休むのか。ご主人様を抱き枕にしようと思ったのに、私の野望はいつ叶うのだ」
「明日の朝になって恥ずかしくなっても、俺は責任が取れないぞ……じゃ、じゃあな」
「お休みなさいませ、ご主人様」
ベアトリスは送ってくれたが、ヴェルレーヌは拗ねたままだった。悪いとは思うが、今抱き枕にされたら俺の忍耐も本気で危ない――何しろ酒が回っているのだから。
(霊命酒の酔い方は普通の酒と違う……普段飲まないから知らなかった)
そんな酒を口移しで飲ませられるなどという、ただれた酒宴を行ってはただでは済まない。首などにキスされていては、印象に変わりないような気もするが。
酔っているときに風呂に入るのは危険だというが、二人に抱きつかれているうちに汗をかいてしまった。
一応泊まりを想定していたので、客室に放り込んでおいた着替えを取りに行く。衣装部屋に俺の服もあるが、今さら取りに行くのも格好がつかない。
夜でも明かりの数は減ったとはいえ、魔法の燭台で廊下はある程度照らされている。 窓から外を見ると、空は良く晴れており、月や星の姿がよく見えた。
この大陸全土に伝わる話だが、『生きている星』という伝説がある。空に浮かぶ星の中には、自らの意志で動いている神の化身が混じっており、地上の人間を見守っているというのだ。
その話を聞かせてくれた上の姉は、生きている星を見つけたら願い事をすると叶うらしいと言っていて、流星を見ては願い事をしていた。流星はすぐ消えてしまうので生きている星とは違うというのが、下の姉の意見だ。
(……それもただの伝説じゃないかもしれない。この世に起こりえないことは無い、そう分かってしまった今となっては)
兄や姉に、いつか帰ったら土産話をすると言って故郷を出たが、どれくらい信じてもらえるものだろうか。魔王を倒したと手紙で伝えても『生きてるならいったん帰ってきなさい』なんてずれた答えが返ってくる家族だ。
ヴェルレーヌの弟も、そういった感情で行動したのかもしれない。姉に頭が上がらない俺としては、少し、ほんの少しだが、気持ちは分からなくもない。
しかし俺が騎竜戦に出るとして、仮面をつけて出るとしても、どう名乗ればいいのだろう。デューク・ソルバーの名がこれ以上有名になるのも本意ではない――目立ちたくないから偽名を作ったのに、偽名が有名になってどうするというのもある。
名前はもう一つ作ることにして、国の代表同士の戦いなので、国王陛下に一言伝えておく必要があるだろうか。ここはコーディの力を借り、国王陛下に騎竜戦の代表者として、仮面の救い手の一人(つまり俺なのだが)を推薦してもらうことにしよう。
今後の予定が決まると気持ちが軽くなってきた。俺は自分の客室の扉を開け、居間を抜けて寝室に向かう――そして。
「すぅ……すぅ……」
「すやぁ……」
「…………」
ミラルカ、アイリーン、コーディが、それぞれ寝ていた。コーディはあろうことか、床に座りこんで寝てしまっている。
部屋に戻ってきてから飲んでいたようで、ベッドサイドのチェストに酒瓶とグラスが置いてある。全員着替えるのも忘れて、それぞれの姿で寝入っていた。
(このまま朝まで放っておくと、風邪を引くからな……どうするか)
酔っ払いへの対応は慣れている。回復魔法で酒を抜くことはお腹に手を当てないとできないので、ほぼ自分にしか使えない方法だ。
着替えさせるのは無理なので、とりあえずしっかり毛布をかぶせてやることにする。まず俺はアイリーンに近づき、ベッドから落ちかけている彼女をどうしたものかと考える。
いろいろ考えたが、抱き上げるのが一番手っ取り早い。これだけ気持ちよさそうに寝ているなら起こさずに済みそうだが、アイリーンが好むドレスはスリットが深すぎて、普通に寝ているだけでも非常に俺の教育に悪い。
少し緊張しつつ、アイリーンの背中の下に腕を入れて、担ぎ上げてベッドの中心に下ろそうとする――すると。
「んん……」
(うわっ……!)
アイリーンが寝ぼけて抱きついてくる。その力が尋常ではなく、俺はベッドに手を突きつつも、柔らかいものの上に顔面を着地させられた。
(ぶっ……!)
「……すやぁ……」
(なんだその寝息は……そ、それより、この状態は……っ)
アイリーンの胸で顔面の型でも取られているような状態――これでよく彼女は圧迫されて苦しくないものだと思う。それより問題として息が全くできない。
(こんなことでこの魔法を使うとは……『水中呼吸』……!)
空気を取り入れなくても呼吸ができるようになるという魔法。これがてきめんに効果を発揮し、俺は息をしてアイリーンに気づかれることなく、腕が緩むのを待ち続ける。
(……な、長い……寝相も悪い……!)
アイリーンの足が動いて、俺の身体を蟹ばさみにする。もうどうにでもしてくれという状態なのだが、見事に極められていてこちらから動けない。げに恐ろしき武闘家の本能である。
(し、死なないが、このまま行くと身体のどこかを折られる……!)
「んぅ……」
アイリーンは俺の髪の感触がくすぐったかったらしく、ようやく解放してくれる。
顔面に残る胸の感触――よく見たら、ベッドの上に、苦しくて外したものとおぼしき下着が置いてあった。上だけは外していたらしい。
そのサイズは大きな蜜瓜がすっぽり入ってしまうほどで、目を疑ってしまう。俺の顔面を受け止めるくらいに大きい――ヴェルレーヌがおそらく勝てないというだけのことはある。
そのヴェルレーヌと同等の実力を持つらしいミラルカも、上着を脱いで、アンダーウェアのみとなっている。服を着ていても紐が見えないようにということか、肩紐のないタイプの肌着。飲んでいて熱くなったのだろうが、とても直視できるものではない。
「すー……すー……」
毛布さえかけて寝てくれればよかったのだが、肌着がめくれてお腹が少し見えている。胸のところに布地が引っ張られ、持っていかれているので無理もない――と、分析している場合ではない。女性がお腹を冷やすのは良くないと師匠も言っていた。
しかし毛布の上に寝てしまっている場合、どうしたものだろうか。俺の持つパーティ向けテクニックであるところの、グラスを倒さずにテーブルクロスを引き抜く技の要領でいけるだろうか。
(3、2、1……!)
シュッ、と一瞬で毛布を引き抜き、無事にミラルカの身体に毛布をかける。上手くいったので、俺は何かをやり遂げた気分で、かいてもいない汗を拭った――すると。
ミラルカは暑かったらしく、毛布を自分から剥いでしまった。またふよふよと揺れる胸を上下させながら、すやすやと寝息を立て始める。
お腹は隠れているので良しとすべきか――胸もあまり出ていると風邪をひきそうなのだが、俺にできることはもうない。寒くなってきたら勝手に毛布をかぶるだろう、また近づいて抱きしめられたりしたら、もう色々と限界を超えてしまう。
次にコーディを見て、俺はまたも試練を強いられる。もう風呂に入った方がいいのではと思うが、パーティの後で風邪を引かせては微妙だ。だからといって、友人が酔って床に座り込み、サラシを外した胸元が開いている状態でも、ベッドに運ばなければならないのだろうか。
「……ん……ディック……?」
「っ……あ、ああ。コーディ、起きてたんだな。寝るときはちゃんとベッドに……」
「うん……さっき話してたんだけど、この部屋の先客は、ディックなんだってね……そこのかばんを見て、アイリーンがディックのだっていうから……」
「まあそうだが、部屋を間違えたなら仕方ない。俺が他の部屋に……」
そう言いかけると、コーディの言葉が途切れて、じっと俺を見つめてくる。
その無言の圧力――酒のせいか、彼女にしては珍しく目が潤んでいる。
「……昔は、宿のベッドが足りないときは、僕と一緒に寝てたじゃないか。こんな時くらい……昔みたいに……」
「そ、それは、今はちょっと無理が……コーディ?」
コーディはまた寝てしまう。ベッドを背にして座り込んでいた彼女だが、前かがみになり、ボタンの外れているシャツがめくれそうになる。
(なんて無防備な……騎士団長が女性と知れたら騒ぎになるっていうのに。これは、騎士団の集まりで飲ませるわけにはいかないな)
こんなことで独占欲を発揮する自分もどうかと思うし、コーディが今日のような席以外で飲みすぎることもないと思うが、心配なものは仕方がない。
俺はコーディを抱えてベッドに寝かせる。彼女が身体を鍛えていても、俺の腕には軽くしか感じない。胸元が開いているが、その近くに手を持っていくこともできないので、上から毛布をかけるだけにとどめた。
(……俺は一体何をしてるんだ。三人の保護者か何かか)
意識が朦朧としているとはいえ、コーディに戻ってこいと言われてしまった。同じベッドで寝て朝になったら、何と言われるか――まあ、俺も酔っていたからよく覚えて無くてな、と言えば済むことではあるか。難しいが、聞いてしまった以上は無視はできないというのが俺の性分だ。
◆◇◆
着替えを持ち出して外に出る。すると、他の部屋から明かりが漏れているのが見えた。
あれは師匠の部屋だ。ユマがいなかったので、夜分に師匠のところを訪問しているということだろうか。
(ああ……気になる。俺は一体何をしてるんだ? ふらふらと女子の部屋を移動しまくって、これじゃ不審人物じゃないか)
何か話をしているのだ、というくらいで片づけて風呂に入るべきだろうが、気になって仕方がない。師匠とユマという組み合わせも珍しいし、ドアが空いているということは、秘密にしたいわけでもないということで――悩むのも面倒になってくる。
「師匠、こんな時間まで起きてるのか? そろそろ寝ないと明日に響くぞ」
師匠の部屋のドアを叩いてから声をかける。すると、中から楽しそうな声が聞こえてきて、師匠が顔を見せた。
「そろそろ来ると思った。ヴェルちゃんベアちゃんから逃げてきたんでしょ? 思ったより頑張ったみたいだね」
師匠も私的な時間を過ごすモードに入っており、髪をバレッタでまとめて寝間着の上に薄手のガウンを羽織っている。奥からさらに顔を見せたのはユマで、師匠と同じようなスタイルだった。
「こんばんは、ディックさん。顔が赤いですけど、お酒は過ごすといけませんよ?」
「ああ、明日に響きそうなら魔法で何とかする。俺こそ悪いな、明かりが点いてたもんだから気になって」
「そんなこと言って、ユマちゃんがいないから心配だったんでしょ」
「俺の行動を読まないでくれ。というか、三人を俺が使ってる部屋に案内したのは……」
師匠は楽しそうに笑っている。この人は……昔から、突発的にこういう悪戯を仕掛けてくるのは変わっていない。
「い、いえ……違うんです、ディックさん。広いお屋敷ですし、皆さん酔っていらっしゃいますから、念のためにディックさんも一緒がいいと思って……」
「魔王討伐隊だから怖いものなし、って安心してちゃだめだよ。防犯対策は常にしておいた方がいいんだからね」
「まあ、それはそうか。ベアトリスも酔ってるからな……彼女は結界に誰か入れば気が付くし、ユマも……ん……?」
魂探知ができるユマがいれば、確実に屋敷への侵入者に気が付くだろう――と思って、ユマの顔を見て、俺は違和感に気が付いた。
その直後、ユマはなにげなく俺に近づいてきて、いきなり背伸びをして首に腕を回してくる。
「ちょっ……ユ、ユマ、一体何をっ……」
「はぁ~、私って、私って、全然駄目なんです……皆さんと比べたら全然ディックさんのお役に立てなくて、もう、私はっ、こんなどうしようもないのでっ、何とかしなくてはと思いましてっ」
「お、落ち着けっ……気を確かに……し、師匠! 見てないで助けてくれ!」
「ディー君、せっかくだからユマちゃんと、プリミエールちゃんの悩みを聞いてあげて」
ユマ一人ならばまだしも、中にもう一人いる――気が付くと、部屋の奥に、夜は夜のヴェールで顔を隠したプリミエールの姿が見えた。
「私がディックさんの、お役に立つには、どうしたらいいのですか。もっと役に立たないと、お会いする機会が減ってしまいます。そうしたら私は、私はっ、夢の中でお会いするしかなくなってしまうのです。それは、嫌です……ひっく……」
ユマは泣いているわけではなく、間違えて飲んだ酒が回りに回ってこうなっているらしい。酔い覚ましをしない師匠の思惑も分からないではないが、俺はもう風呂に入ってこの悶々とした気持ちを洗い流したいというのに、こんな状態のユマに絡まれながら悩み相談をしなくてはならないのか。
妹のようなユマだが、こうやって抱きつかれると、子供扱いは全くできない。しかしこの感触は――アイリーン、ミラルカと違い、成長期向けの締め付けが優しい下着をつけているようだ。正面から抱きつかれると腹筋に当たってはいけないものが当たってしまう。
「ユマちゃん、すごく活躍してるじゃない。ディー君もそう思ってるよね」
「あ、ああ。もちろん、ユマは無くてはならない存在で……」
「……でも、おふろでディックさんが隠れていた時も、一瞬気が付きませんでした。ディックさんの魂を見落としそうになるなんて、私はっ、私は、聖職者失格です……っ」
「いや、あれは俺がありえない場所にいたから悪いんであって……し、師匠、笑顔が怖いからじっと見ないでくれ。俺は別に破廉恥なことを考えてたわけじゃ……」
「ディー君、何を慌ててるの? 私、何も考えてないよ。今のところはね」
思い切り考えてるだろ、と声を荒げることもできない。師匠の笑顔には種類があって、今は怖い笑顔だ。この顔を見た後には絶対何かされる、もう分かりきっている。
部屋の奥からプリミエールがこちらの様子を遠慮がちに見て、会釈をする。俺はとりあえず絡んでくるユマをなだめ、借りてきた猫のように抱えると、悩み相談が何事もなく終わるようにと祈りながら部屋に入っていくのだった。




