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第85話 グランドマスターとエルセインの黒竜


 ヴェルレーヌと師匠、二人と入れ替わりで部屋に入ってきたのは、武装していないレオニードさんとカスミさんだった。


「おう、元気そうで何よりだ。ちゃんと飯は食えてるか?」

「まだ起きたばかりじゃ、食事はこれからじゃろう。ディック、館の女主人がそなたのために回復祝いの準備をしておったぞ。やはり慕われておるのう」


 カスミさんは東方の民族衣装を好み、今日も着ている。服の袖で口元を隠すと何とも艶っぽさがあった。


(何か今日は、みんな微妙にめかしこんでるような……回復祝いって、もしかしてパーティ的なものを開こうとしてるのか?)


 そんな派手なことをされては落ち着かないのだが、ベアトリスが俺のためにと考えてくれたのならば、無粋なことは言いづらい。


「ははは、警戒してる顔だな。回復祝いってので、大勢集まってくるのが照れるわけか。まったく、強いわりに奥ゆかしいやつだ」

「お、奥ゆかしいっていうのはやめてくださいよ。俺には似つかわしくなさすぎる」

「そなたのそういったところが、これ以上なく人望を集める要因になっておる。目立ちたがりも人の上に立つ者の器ではあるが、人にも好き好きがあるのでな。私は、ゆかしい男のほうが好みじゃな」

「カスミさん、それはいいんだけど……いや、良くないけど。その着崩し方は色々危ういぞ。目に毒ってやつだ」


 襟元を締めることもできるはずなのに、胸が際どく開いている。レオニードさんは片眉を吊り上げ、あごに手を当てて、とても楽しそうに俺を見た。


「ほほう、ディックもお年頃か。堅物だと思ってたが、そろそろ硬軟併せ持つときが来るのか? こりゃ、うちの孫もうかうかしてられねえな」

「ディックも多少は女に興味があるのじゃな。もはや私程度では、歯牙にもかけられぬと思っておったがの」

「ま、孫って……レオニードさん、何でそうなるんですか。カスミさんも、俺と手合わせしたいって言ってたのはどうしたんだ。歯牙にもかけないとか、そんなことは……」


 まっとうな返しをしているつもりが、レオニードさんが大げさに肩を竦めて息を吐いた。カスミさんは微笑んでいるままだ。


「おまえさん、まだ自分がしたことの自覚がねえみたいだな。宰相も国王陛下も、もうおまえに意見なんてできやしねえ。いや、向こう百年は、ディック……おまえほどの英雄は現れはしねえだろうよ」

「だからこそ……いや、もはやディックの器が大きすぎて、到底見合わぬ役職かもしれぬが。グランド・ギルドマスターとして、私たちの上に立ってはくれぬか」


 グランド・ギルドマスター。かつてギルドを創始した師匠だけが、その称号を冠していた。


 俺が十二番目のギルドを選んだのは、表舞台に出すぎることをしたくなかったからだ。

 しかしこれから、王都のギルドは再編しなくてはならない。機能を失い、統制の取れなくなった幾つかのギルドは、ほかのギルドに組み込むか、新しいギルドを作ってまとめ直すか――いずれにせよ、ギルド全体を主導する立場の人間が必要だ。


「……白の山羊亭のマスターも、一時は『冒険者危機』を危惧して過激な行動に走っていたが。それでも、能力はある人間だ。彼女が往年の聡明さを取り戻すなら、俺としては相応の役目についてもらいたいんだけどな」


 王都における冒険者の仕事が減り、一部のギルドの存続が危うくなり、汚れ仕事に手を出さざるを得なくなった事態。それを俺たちギルドマスターは『冒険者危機』と呼び、宰相ロウェへの報告文書にも用いた。


 白の山羊亭のマスターであるエトナ・フェルドールは、王国の近衛兵による監視をつけられながら、白の山羊亭が犯した不正の贖罪を行っている。今回の迷宮探索における冒険者の指揮については、全権を俺たちに移譲していた。


「あいつはグランド・ギルドマスターの座に、自分が座れるなんて思っちゃいないさ」

「エトナ殿は、かつてはレオニード殿との一騎打ちに勝ち、白の山羊亭の権勢を強めた女傑であるのにのう。今となっては、すっかりしおらしくなってしまった。ディック、白の山羊亭に乗り込んだ時、何が起きていたのじゃ?」


 師匠の素性については広めるわけにいかなかったので、レオニードさんとカスミさんも彼女の正体は知らない。


 千年前から生きていて、ギルドの創始者であり、『灰色の道化師』として各地に伝説を残していたと言っても、二人ならば信じてくれるのだろうが――不老不死の存在だということを、師匠はあまり知られたがらない。だから、言うべきではないと思う。


「まあ、話すのが難しいことだってのは重々分かってる。俺としちゃ、エトナの毒が抜けたのは悪いことじゃねえと思ってるんだ。ディック、お前はいつも俺にはできねえことをやってのける。まったく、感謝しかねえよ」

「い、いや……俺は、白の山羊亭のマスターとは直接戦ったわけでもないし、大したことはしてないですよ」

「レオニード殿は娘のように年の離れた女子おなごに、どうやって接して良いかわからなかったのじゃな」

「そう言われても仕方ねえなぁ。俺ぁ、不器用だからよ。だが若いころは、女泣かせのレオニードさんって呼ばれたもんよ」


 彼の渋い容姿からすると、若いころは確かに女性に人気があっただろうし、浮名も流しただろう。凄腕の冒険者とは、往々にしてそういうものだ。俺のギルドには身持ちの固い男女がそろっているが。


「ま、エトナのことはディックに任せとくぜ。いっそ一旦ヒラの冒険者にしちまって、ディックのとこで再教育してやってくれや」

「また面談してみます。SSランクの優秀な人ですから、道を踏み外さなければ、必ずギルド全体に貢献する人材だと思いますよ」

「ふふっ……何だかんだと言っても、やはりディックはやり手じゃのう。やはり、私はそなたの下について働きたい。藍の乙女亭の意向は伝えたからの」

「もちろん黒の獅子亭もそうだぜ。グランド・ギルドマスターと公表しなくてもいいが、王都のギルドをまとめてくれるとありがたい。銀の水瓶亭の仕事に支障がない範囲で構わねえよ」


 公表しなくてもいい。その点で自由に裁量を与えられるのならば、俺のポリシーに反する『人に流されている状況』にはならずに済む。


 グランド・ギルドマスターになったことを公表し、対外的に俺が王都のギルドの旗印になるべきという考えもあるのだろうが、そうしなくても十分にギルド全体に対して貢献はできるだろう。


「レオニードさん、カスミさん。全てのギルドマスターの意見が、等価であるべきだと俺は思ってる。自分のギルド員のことを最大限に考えて、他のギルドとのバランスを取れれば、それだけで最良の結果が出る。これからも連携してやっていきましょう」

「おう、よろしく頼むぜ。病み上がりで悪いがよ、今日は大いに飲もうじゃねえか」

「シュトーレン家の当主殿が、夕食の席に招待されておるというではないか。レオニード殿は高い酒が飲めると嬉しそうにしておるが、私は少し緊張してしまうのう」


 ベアトリスにシュトーレン家の当主であるプリミエールを招待するようにと言っていたが、今夜来ることになっているとは……病み上がりとはいえ、体調は万全なので、夕食の席で話をするくらいは問題ないが。


 『蛇』を討伐したあとの王室と貴族の動きも聞けるし、ちょうどいい。ベアトリスには後で褒美でもあげたいところだ。


 ◆◇◆


 面会に来る人も途絶えたので、俺はヴェルレーヌが用意してくれたガウンを寝間着の上から羽織り、階下の様子を見にきた。ミラルカたちは他の客室で待っていたが、今は席を外しているという。


 マナリナ、ティミスの王女姉妹は、やんごとなき身分であるというのにベアトリスの指示を仰いで厨房に入り、晩餐会に向けての支度を進めていた。


「ディック様……っ、ああ、よくご無事で……お会いできるときを、一日千秋の思いで待ち望んでいましたわ」

「お久しぶりです、ディック様。このたびのご活躍、騎士団にも名声が聞こえております」


 マナリナとティミスは、ブルネットの長い髪を結んで、三角巾をつけている。王女二人にこんな格好をさせてしまうとは、職業に貴賤はないとはいえ、恐れ多い気分だ。


 そしてもう一人、赤髪の凛とした女性が、ほかの二人と同じように三角巾とエプロンを身に着けて手伝っている。オルランド公爵家に仕えているキルシュだ。


「ギルドマスター殿、オルランド家当主マーキス公より、言伝を預かっております。このたびは王都の存亡に関わる大儀を見事に果たされたとのことで、オルランド家からも褒賞を出したいとの仰せです」

「久しぶりだな、キルシュ。マーキス公は、手柄を取られたなんて言ってなかったか?」

「そ、そんなことは決してございません。マーキス様は一昨日からでしょうか、急に方針を変えられて……迷宮探索については、無理に手柄を上げようとせず、ディック殿たちの指示に従うようにと仰っていました」


 キルシュは恐縮した様子で言う。やはり、アイリーンに頼んでマーキスに釘を刺してもらったのが効いていたようだ。


「キルシュさんは、ディックさんのギルドに転属したいと言っていましたわね。今、お願いしてみてはいかがですか?」

「っ……そ、それは、私の希望であって、ディック殿の手を煩わせるわけにはいかないので、現実的には不可能であると……」

「いや、そんなことはないけど。貴族の護衛も悪くはないが、うちのギルドにも面白い仕事はあるからな」


 キルシュはBランクの実力を持っているので、同等の冒険者と組んで仕事をすれば問題なくこなせるだろう。


 オルランド家が貴族として堕落しているとは思わないが、マーキスは私情に正直すぎるところがあるので、真面目なキルシュには仕えづらい主人かもしれない。ヴィンスブルクト家といい、なんとか国王陛下に再教育を命令してもらいたいくらいだ。


 シュトーレン家のプリミエールが最も公爵としてふさわしいように思うが、彼女は彼女で、ベアトリスを召喚しておいて、死霊を呼び寄せてしまうと分かったらこの屋敷ごと放棄した家の人間であり、そのあたりの事情は一度ぜひ聞きたいところだ。


「ディック様、私もお忍びで、学業のあいまにギルドのお手伝いを……」

「マナリナお姉さま、王女であるあなたがみだりに外出されたら、国王陛下もご心配されます。その点、私は騎士団の百人長として、任務への協力を冒険者ギルドに依頼することはそれほど不自然ではありません」

「っ……ティミス、そんなことを考えていたの? 私に内緒で銀の水瓶亭に出入りして、ディック様とお近づきになろうなんて……だめよ、ディック様は忙しいんだから」

「も、申し訳ありません、お姉さま。ですが私の目的は、正確にはデューク・ソルバー殿にお会いすることで……」


 ティミスはかつての護衛であったライア、マッキンリーに時々会いに来るので、実はマナリナより来店する頻度が高い――というのは、姉妹の仲を保つためにも黙っておいた方がよさそうだ。デュークが俺とばれたときには、ティミスの好意がどうなってしまうか想像がつかない。


「……ディック殿は、やはり人気がおありになられる。マーキス殿も側近の方々には慕われていますが、私はやはり……」

「部下としては、上司を選べる自由は欲しいところだよな……と言うと、何か偉そうだけどな。俺のところで働きたいと言ってくれるなら、素直に嬉しい。歓迎するよ」


 マナリナとティミスの姉妹がそろって「あっ」と声を出す。それは、俺がキルシュに右手を差し出したからだった。


 初対面では気が強そうな女性だと思ったが、キルシュはたおやかに微笑むと、俺の手を意外なほど控えめに握った。


「……よろしくお願いいたします。実は、もうオルランド家には辞表を出してきていたのです」

「そうだったのか。背水の陣ってやつだな」

「ええ。本当は、ヴィンスブルクト家を辞したときに、ディック殿の元で働きたいと言うつもりだったのですが……機会を逃してしまいました」


 キルシュは手を離すと、落ち着かなさそうに耳を触り、髪をかき上げる。前に見たときはオルランド家の家令として男性物の服を着ていたが、今日は女性物の服を着ており、改めて見ると新鮮な印象を受ける。


「ディック様のもとには、やはり自然と人が集まりますわね……これは、うかうかしていられませんわ。ミラルカにも相談しないと」

「お姉さま、それよりもお手伝いを再開しなくては」

「二人とも、料理のたしなみは……これから勉強するのか。うちのベアトリスなら、丁寧に教えてくれると思うが」


 俺たちの話を聞きながらも料理の手を止めずにいたベアトリスだが、スープの味見をしてほしいらしく、俺が近づくとひと匙すくって出してきた。


「マスター、お味見をお願いできますか?」

「……うん、いいんじゃないか。一角鹿の骨付き肉は煮込みすぎると獣臭さが出るから、もう出した方がいいだろう。ダシを取った後の肉は骨から外して……おっと、俺がやってもいいのか?」


 ベアトリスの料理のレシピは、うちの店のレシピ本から書き写したものなので、俺の頭にすべて内容が入っている。そのため、勝手に体が動いてしまった。


「回復のお祝いに、はりきって準備をしていたのですが……マスターがお料理する姿も、さぞ素敵なのだろうなと思うと、見ていたいという気もします」

「この格好で料理をするのは何だがな……じゃあ、俺も少し手伝うよ。途中からは任せるからな」

「はい、マスター」


 嬉しそうに言うと、ベアトリスは俺にエプロンを渡してきた。ベアトリスに料理を教えるときに使っていた、黒一色のシンプルなものだ。


 俺はガウンを脱いでベアトリスに渡し、代わりにエプロンをかけて帯を締め、用意された材料からメニューを想起し、メインディッシュに取り掛かるべく料理用ナイフを握った。


 ◆◇◆


 俺はマナリナたちに一人一品ずつ料理の作り方を実演しながら教え、あとをベアトリスに引き継いで、いったん外に出てきた。


 魔法で身体の周りの気温を調整できるとはいえ、料理をしているときは使わなかったので、少し汗をかいてしまっている。


「……風呂でも入るか」


 俺のギルドハウスの居住空間にある風呂は、さほど広くはない。この屋敷の風呂は、もともと貴族が従者と一緒に入るための仕様で設計されているので、十人が同時に入っても狭さを感じないくらいだ。


 たまには昼間から足を伸ばして風呂に入り、さっぱりとしてから晩餐会に出るというのもいいんじゃないだろうか。


 ヴェルレーヌと師匠、シェリーとロッテ、魔王討伐隊の4人の姿を見ないが、何か用事でもできて席を外していると思われる。


(気を失ってる間に着替えさせられたと思うと、顔を合わせづらいな……まあ、レディのたしなみとして、裸を観察したりはしてないよな)


 パーティ全員の力を借りた、いわば拘束解放リミットバーストのさらに上の段階――レギオンドラゴンの名を借り、『集約解放レギオンバースト』とでも言うべきか。

 戦闘評価を瞬間的に3~4倍に跳ね上げられるようだが、反動も大きい。一晩寝れば回復するようだが、使うたびに倒れていては話にならないので、リスクを取り除く方法を模索したいものだ。


 そうすると、仲間たちに協力を要請してレギオンバーストを試すことになるわけだが、修練中に気を失ったら目も当てられない。


 しかし、皆の魔力を体に取り込むというのは、誤解を恐れずに言うならとても心地の良いものだった。他人の魔力といっても、信頼している相手のものならば、異物ではなく自分の魔力と親和性があるように感じる。


 感情と魔力には相関性があると言われているが、親密さも影響してくるのだろうか。デューク・ソルバーの名義で研究したいことがまた一つ増えたので、後で書き留めておくとしよう。


 ◆◇◆


 誰かが宿泊するときには、屋敷の風呂は昼過ぎから準備されている。ベアトリスは俺がいつ起きてもいいように、湯を張っておいてくれていた。


 湯にも鮮度というものがあり、風呂に湯を張ったままでそのまま置いておくと良くないので、地方によってハーブを入れたり炭を入れたりと手法は異なるが、湯を綺麗に保つことが推奨される。


 俺はギルド員の療養施設としてこの屋敷を使いたかったので、風呂の湯を循環させて浄化する機構を敷設した。貴族の一部はすでに取り入れている手法だが、水精霊と火精霊の力を宿した魔石を用いて、浄化と追い焚きを行えるようにするのだ。


(まあ、金はかかったけどな……魔石の安定供給源を作りたいもんだが)


 王都の技術発展に寄与したいとまで思ってはいないが、便利な技術があるのに庶民に全く行き渡らないのは勿体ないと思う。


 それは置いておいて、俺は服を脱いで浴室に入っていく。一応腰にタオルを巻き、熱めの湯を浴びてから身体を洗っていく――すると。


「……ん?」


 胸のところに、竜のような紋様がうっすらと浮かび上がっている。蛇と戦った後に出てきたようだが、こすっても消えない。


 しかし「消えろ」と念じると、紋様は見えなくなった。そして俺は気が付く――レギオンドラゴンの能力を、コアを持ち歩かなくても「使える」という気がする。


(……魔物の能力を習得したのか。一回使えば原理は分かるから不思議じゃないか)


 コアなしでも能力を使えるのなら、強力な魔物を倒した時のコアを集めていけばいずれは――と、少年のように強さへの求道心が疼いてしまう。


 そういえば、コーディの光剣を借りたときに、剣精の力を用いる固有精霊魔術も、やろうと思えばある程度再現できるのではないかという手応えがあった。


 俺は身体を流し、湯船にざぶりと浸かったあと、剣精の力――光を操る能力を用いて、ある魔法を試みた。


(――自分の周囲の光を屈折させて、姿を見えなくする。透明化インビジブル……なんてな)


 光にはいろいろと利用の仕方がある。剣精が光を操作する理論が頭に入っていれば、応用は幾らでも効きそうだった。


 そして俺の試みはうまくいき、すぅ、と自分の姿が見えなくなっていく。


 『隠密ハイディング』と組み合わせれば、完全に気配を絶つことができる。もし俺がじきじきに潜入任務を行うことがあれば、これは役に立ちそうだ。


 ミラルカの陣魔法は、まだ彼女の展開速度に追いつかない。レギオンバーストを行っているときは、ミラルカに陣の展開を任せ、それを受け取って利用することができたので、斬撃に破壊陣を乗せることができたが、独力では難しそうだ。


 他の皆の能力についてもある程度できそうだが、ユマの浄化だけはなかなか真似できない。鬼神化、召喚もアイリーンやヴェルレーヌと魔力接続を行わないとできないので、俺も万能ではないということだ。


「パーティの皆に感謝……だな」


 誰も聞いていないところで礼を言っても仕方ないが、俺は湯に浸かりつつ、透明のままで一息つき、そこで浴室の扉がカラカラと開くのを目にした。


「ふぁ~、目覚めのいい朝はやっぱりお風呂だよね~。もうお昼過ぎだけど」

「何を言ってるのよ、さっきまでディックがいないって慌てていたくせに」

「ディックさん、どちらに行かれたんでしょうか?」

「さっきまで厨房にいたらしいけどね。料理の指導をして、ふらりとどこかに行ってしまったそうだよ」


 俺は浴槽の奥で座したままで、次々と入場してくる彼女たちを、湯気に阻まれつつもしっかりと見てしまった。


 もちろん、透明化を解けるわけもない。呼吸すら難しい状況で、獅子の形の給水口からじゃぶじゃぶと注がれる湯の水しぶきを横っ面に受けつつ、生きてここから出るすべを全力で模索し始める。


(みんな、俺の着替えの存在には気が付かなかったのか……なぜ王国最強の面子がそろっているのに、こんなところで警戒を緩めるんだ。全く、なってないぞ)


「ここのお風呂って気持ちいいんだよね~。できれば毎日入りたいくらい」

「あ、あの……アイリーンさん、全く隠さないんですね。私は少し恥ずかしいです」

「僕もちょっと恥ずかしいね。皆でお風呂というのは初めてだから」


 コーディはそう言いつつも、胸のガードがゆるく、いつもサラシでどれだけきつく固めているのかという部分が、危うく――いや、ほぼ見えてしまっている。


 ミラルカはガードが固く、ぴっちりと上下にタオルを巻いていた。それでもへそは見えているが、ユマは大きなタオルを巻いて、四人の中で最も露出が少なかった。


(観察してる場合か……っ、出来る限り罪を軽減しろ。ばれないに越したことはないとはいえ、常に最悪の場合を想定しろ、俺!)


 俺はとぷん、と音もなく水中に潜った。給湯口の近くだと微妙に熱く、魔法で熱を緩和すると透明化に影響が出るかもしれないので、水底に張り付いたまま移動し、給湯口から離れる。


 洗い場から見て浴槽の奥にいるので、あえて奥の方に入ろうとされない限り、俺は生きながらえることができる。水中でも酸素の供給を得るなどというのは、水精霊に干渉できるなら至極当然のたしなみであり、のぼせさえしなければ無限に潜水可能だ。ちなみに密かに浴室を出るのは無理だ、戸を開けるときに気づかれてしまう。


 しかし考えてみれば、ユマなら俺の存在を魂の波長で感知してもおかしくないのだが――俺はユマの力を借りたことで、彼女の魂検知すら免れるほど隠密能力を増していたのか。こんなことで気が付くというのも想定外だ。


「ミラルカもユマちゃんも、背中流してあげるからタオルはずしたら? 解放感あって気持ちいいよ」

「あ、あなたは常に解放感に満ち溢れているじゃない……ブラだって、本当は毎日しないと良くないのよ」

「私はまだ必要がないって母に言われるんですけど、そんなことないですよね?」

「そろそろ必要かもしれないね……と、僕が言うことでもないかな」

「コーディの解放感が一番すごそうだよね~。私がさらしなんてしてたら、本気出しただけでばりばりって破れちゃいそう」


 アイリーンの鬼神化ではじけ飛ぶサラシ――ありそうな光景だ。しかし、外の会話が水中でもこれほどはっきり聞こえるとは。俺が異常な集中力を発揮しているからだとでもいうのか。


 結局ミラルカとユマはタオルを外し、身体を洗い始めたようだ。アイリーンが背中を流しているのかまでは分からないが。どうやらコーディはほかの三人とは離れた位置にいるらしい。


「それにしてもディックったら、女の人の知り合いが来すぎだよね。ちょっと目を離すと知らないうちに増えてたりするし」

「あの藍の乙女亭のマスターは、ディックとどういう関係なのかしら……何か、思い入れがあるみたいだったけど」

「彼女は盲目になった今でも、剣聖ブレードセイントとしての向上心を絶やさずにいるからね。自分より強いディックは貴重な存在なのかもしれない」

「ディックさんが慕われていること、私も自分のことのように嬉しいです。そうして絆で結ばれあった魂を、約束の地へいずれ……」

「あなた、また病気が……いえ、それでこそユマなのかしらね。でもうっかりベアトリスを浄化してはだめよ、ディックに怒られてしまうわ」


 うっかりで浄化されてはベアトリスもたまらないだろうが、そういったミスがないのはユマの優秀なところである。


(しかし……怒られてしまうわ、って。俺に気を遣うなんて、いよいよミラルカらしくないというか……なんだこの感じは……)


 水に侵入する光の屈折率も操作できそうなので、外の光景を見ることはできるのだが、それでは覗きになってしまう。


 俺が偶然透明化しているところに彼女たちが入ってきたならば事故だが、俺の意志で彼女たちの裸を見たとなると、それは故意となり、俺は軽蔑される。


 ――見たいという感情を殺せ。俺は水であり、水は俺だ。無心だ、無心に……。


「それにしても……はぁ。あんなの見たら、ディックと顔合わせられないよね……」

「ど、どう見てもあなたは喜んでいる顔じゃない……破廉恥だわ」

「……とてもよく引き締まっていらっしゃいましたね。お父様みたいに身体が大きいわけじゃないのに、すごく強靭そうで……」

「ディックは常に、騎士団員が毎日行う鍛錬の数倍の負荷を身体にかけているんだよ。それで涼しい顔をしているんだから……こちらは追いつきたいと思っているのに、そうさせてはくれない。全く、僕らはとんでもない人物とパーティを組んでしまったものだね」


(追いつかれたくないというんじゃなくて、油断するとすぐ身体が鈍るからだが……みんながしたいなら、負荷をかけてもいいんだがな)


 しかし女性に俺と同じ筋肉負荷をかけたらどうなるかと思うと、そうそう実行には移せない。ミラルカとユマは鍛錬になるどころか、筋肉痛で寝たきりになるだろう。


「……でもあの人がしていることは、やっぱり必要だったのよ。ディックがディックでなかったら、私たちは生き残れていなかったわ」

「ほんとにそうだよね。私って詰めが甘いって言うか、SSSランクなのにそれなりの働きができてないっていうか……いつもディックにピンチを助けてもらってる」

「彼は器用貧乏と言うけど、僕たちの専門以外だと決して真似できない高い水準だからね。意外に勉強家だし……彼が読んでる本を貸してもらったけど、難しくてびっくりしたよ」

「それなのに、努力なんてしてないっていうふうに振る舞うんですよね。ディックさんは謙虚が服を着て歩いているような人です」


 水と一体化し続けて、このまま俺がいないと思っている四人の称賛を聞き続けていたら、さすがの俺も勘違いをしてしまいそうだ。


「……やっぱりディックしかいないよね、私みたいな向こう見ずをもらってくれそうな男の人」

「それは……そうかもしれないけれどね。彼にも選ぶ権利はあるから、これから必死に悩むんじゃないかしら」

「ミラルカも、あまり否定しなくなったね。昔はディックのことを、逆立ちしても誉めないってくらい仲が悪かったのに」

「それが、そうでもないんですよ。討伐を終えて帰るときには、ミラルカさんはディックさんを信頼していましたし、ディックさんが王都からいなくならないかってすごく心配をして……」


 それは仲間だから多少は心配したのだとか、いつものミラルカならそう言うところだと思うのだが――全く違っていた。


「……だって、ディックがいなくなった後に、魔王と同じくらい大変な危機が訪れたら、私たちは満足に戦えないと思うわ」

「え、そういう方向なの? ディックが遠くに行っちゃったら寂しいとかじゃなくて?」

「そ、そんなことを言ったら、ディックは子供っぽいって笑うじゃない。私は彼より二つ下だけど、年下には見られたくないの」

「私も……4歳も離れていますけど、しっかり大人として見てほしいです」


(……年下ってことを気にするそぶりなんて、無かった……よな)


 やはり女心を知るには、俺はまだ経験が足りないようだ。ミラルカが突っ張っていたのは、俺が年上ということを意識していたからということなのか。


 ユマは初対面の時は9歳だったし、俺から見ると子供だったことは否めないが、彼女の保護者のような気分でいたことも、敏感に感じ取られていたようだ。


「シェリーちゃんたちもディックのこと好きみたいだし、そろそろ焦っちゃうよね」

「……まだ、大丈夫だと思うわ。ディックは受け身みたいだし、周りの人たちもそうだから」

「ヴェルレーヌ店長は? ディックと暮らしているけど、本当に何もないのかな」

「ないと思います。ディックさんの魂に触れたのでわかります」


 何もないのは事実だが、そろそろ俺がヘタレのようなので、これ以上黙って聞いているとやっぱりつらいというか、なぜ俺は透明になってしまったのだろう。


「ディックさんの魂は複雑な色ですが、まだ穢れを知らないきれいな魂です。それは人の踏み入れていない白雪のようなものです……ああ、もう一度彼の魂に触れたい……」

「……男性って、それでずっと我慢できるのかしら。ディックの動向をよく見ていないと、たがが外れてしまうかもしれないわ」

「はは……僕から見ていると、君たちのほうがよっぽどたがが外れたら怖いけどね」

「はぅっ……い、言い返せない。でもそういうこと考えないより、考えてるほうがよっぽど健全だと思わない?」


 アイリーンに誰も反論しない。聖職者のユマですら――いや、今の会話だと、むしろユマが最も自分に正直なような気もする。


「コーディだって、鍛錬してるときにディックに見られちゃったんでしょ?」

「っ……そ、それは……鍛錬の時は、男女は関係ないからね。彼しか見てないのなら、別にいいんじゃないかな」

「別にいいなんて、そんな顔はしていないわ。ディックをあまり挑発してはだめよ、彼だっていろいろ我慢しているはずだから」

「ミラルカさんはもっと我慢していると思いますが……私はそろそろ、皆さんが正直になるといいなと思うんです。魔力だけでなく、魂で触れ合い、言葉以上に分かり合うのです。約束の時はすぐそこに来ています」


(すぐそこなのか……い、いいのかそんな。魂の触れ合いって、とても清純な意味に思えないんだが……)


「それにしても、リムセさんが同居してたら、そのうちディックもころっといっちゃいそうだよね」

「……年上の女性には弱いみたいだけど、特に彼女には弱いのよね。ディックは甘えたくなるような人がいいのかしら」

「僕らもディックが背中を預けられるような立場にはなりたいものだね。リムセリットさんは、そういう位置にいると思うから」

「……お胸も大きいですし、銀色の髪もきれいですし。女性としてかなう気がしません」


 突然師匠を女性として評価されると、何か物凄く気恥ずかしく、罪悪感を覚える。


 水浴びをする彼女の裸身を見て、異性への意識に目覚めてしまった――その気持ちは今でも引きずっていて、師匠を抱きしめるときにも葛藤があった。


「でも……そういう色々は抜きにして、これからもっとリムセさんとも仲良くなれるといいよね。ディックが慕ってる人なんだから」

「そうね。彼女がどんなふうにディックに影響を与えたか、とても興味深いと思っているわ……そろそろ湯船に浸からない?」


(っ……ま、まずい……!)


「広いお風呂っていいよね~。私の実家の近くにも温泉が湧いてたんだけど、泳げるくらい広くって。こーんな感じで」

「アイリーン、泳ぐのは……もう、あなたって人は」


 アイリーンが俺のいる方向に泳いでくる。そして俺は、透明のままで視線を上げる――視界に入るものは、水中の泡などでところどころ遮られているが、完成された女性武闘家の均整の取れた裸身だった。


(……すごい。すごいという以外の語彙を全て失いたい)


 すいすいと泳いできて、俺のいる場所までやってきた彼女は、浴槽の内壁に手をつく。そして、絶妙に俺のいるところをまたいで足をついた。


「アイリーン、はしゃぎすぎよ」

「ごめんごめん、つい広いお風呂を見ると楽しくなっちゃって」

「私もお気持ちは分かります。誰もが無邪気な子供に帰るとき、何も知らなかった頃の自由な魂を取り戻すのです」

「僕はこの温度だと、すぐのぼせてしまいそうだね……」


 みんな付き合いが良く、泳いできたアイリーンの近くで、肩まで湯に浸かる。


 今顔を上げれば――しかしそれをしたら、俺はこのパーティの一員として、自分を許すことができなくなってしまう。


 だがあえて言うのならば、誰にも聞かせられはしないが、俺の本音は――。


(……見ないなんて、男として終わってるだろ? 俺はギルドマスターであると同時に、一人の健全な男でありたい)


 俺は顔を上げようとする。気が付かれなければ罪ではなく、誰も傷つかない。しかし本当にそうか? 認めよう、俺は罪を犯そうとしている。しかしこれは、俺の人生に必要な罪なのだ。


 長い間、俺は自分の若さから目を逸らし続けてきた。そんな青い日々も今日で終わりだ。


「皆さん、大変ですわ……っ、北東の空から、何かが王都に向かって飛んできています!」


 顔を上げようとする一瞬前に、マナリナの声が浴室に響いた。


「北東……エルセリア魔王国のある方向ね。みんな、着替えて表に出ましょう」

「そうだね、出来る限り急がないと。マナリナ王女殿下、お伝えいただきありがとうございます」

「ちゃっちゃと片付けて、お屋敷に戻ってこないとね。ユマちゃんはどうする?」

「私も一緒に行きます。もし魔王軍でしたら、敵意の有無は魂を見て判断できますから」


 四人が連れ立って風呂から上がっていく。俺も沈んだままではいられないので、小さく水音を立てて立ち上がった。


「……誰もいないのに、水音がしたような……きっと、気のせいですわね」


 マナリナが独りごちて出て行ったあと、俺は透明化インビジブルをようやく解除する。なんとなく腕組みをしたままの姿で、先ほどまでの天国と地獄について振り返る。


 こういう事故もあるので、思い付きで魔法を試してはいけない。特に風呂で透明化するのは危険なので、今後は禁じ手としたい――勿体ないなどとは決して思っていない。


 そんなことより、空から来るものが敵かどうかだ。エルセイン魔王国が、ヴェルレーヌがいなくなった件で俺をマークしていないかと考えたことがあったが、本当にそうだったという可能性は否めない。とにかく、ヴェルレーヌには同行してもらった方がいいだろう。


 ◆◇◆


 四人が着替えて脱衣所を出て行ったあと、髪を念入りに乾かしてから服を着て、俺は屋敷の前庭に出てきた。


「ディック、僕にはあの距離でも視認できるんだけど、あれは黒竜だよ。魔王国に生息している竜だね……そして、誰かが騎乗している。けれど、魔王国の旗を挙げているね。どうやら戦争を仕掛けてきたわけではないみたいだ」

「それよりディック、どこ行ってたの? 髪の毛サラサラになってるけど」


 アイリーンに突っ込まれるが、俺は強気で押し通ることにした。説明したらどうなるか、考えただけで頭痛がする。


「細かいことは気にするな。魔王国から使者が来たのか、それとも……ヴェルレーヌ、どう思う?」

「むぅ……もしかしなくともあれは……しかし、それはあまりにも浅慮すぎる。何かの間違いだと思いたいのだが……」


 ヴェルレーヌは言葉を濁している。つまり、心当たりがあるということだ。


「光剣でいつでも威嚇できるように準備しておくよ。もし攻撃を仕掛けてくるなら、王都の民に被害を出すわけにはいかない」

「ああ、念のためにそうしてくれるか」


 コーディは、遥か遠くの空から近づいてくる黒竜に手をかざす。この距離でも命中させられるのが、彼女の「ホライゾンバレット」の恐ろしいところだ。


 黒竜は5匹で編隊を組んでおり、均等な距離を保って飛んでくる。竜の背に乗っているのは、エルセインの民――鎧をまとったダークエルフだ。


 やがて黒竜は、王都を見下ろす上空で翼をはためかせて滞空する。騎乗者は魔法で声量を強化し、王都全体に、少年のよく通る声が響き渡った。


『アルベイン王国に属し、エルセイン十二世女王と戦った者たちに告げる! 我はエルセイン十三世なり! 先代女王を返してもらうぞ!』


 ――エルセイン十三世。つまり、ヴェルレーヌの後を継いで魔王になった弟。


 魔王になるということは成人しているのだろうが、その声は少年のものだった。ダークエルフであるがゆえに、年齢に比べて身体の成長が遅いのだろう。


『もし返答がなければ、これより五騎の黒竜によって、王都アルヴィナスに黒炎の雨を降らせる! そうしたくなければ、我が姉……十二世女王を負かした者たちは出頭せよ! 我は騎竜戦によって魔王国の屈辱を晴らし、女王を奪還する!』


 騎竜戦――この国では行われていないが、竜との関わりが深い国ではよく行われるという、いわば決闘だ。竜に乗った者同士が競って勝敗を決し、勝者は敗者に条件を飲ませたり、国によっては竜騎士の昇進試験として行われることもあるという。


 ヴェルレーヌはどんな反応を示すか――と思っていると。彼女は俺の方を見て、一瞬だけ頼るような目をした。


 王都の民に、ヴェルレーヌが魔王であることを知られてはならない。もし広く知れ渡ったら、彼女は王都に居られなくなる。


「よし……みんな、そこで待ってろよ。ギリギリの距離だが、『返事』をしてくる」

「ディー君、気を付けてね。あまり刺激しちゃだめだよ」

「……すまない、ご主人様。私のことは、無理をして匿わなくてもいい。これは、私が放置してしまった問題なのだから」


 これまでは、ヴェルレーヌは魔王国を出奔した経緯について詳しく説明せずに避けてきた。おそらく、ヴェルレーヌの弟は姉が戻ってこない原因が、俺たち魔王討伐隊に敗北したことにあると思っているのだ。


 そしてヴェルレーヌは、弟が自分を迎えに来てしまうとは思っていなかった。だからこそ、俺に迷惑をかけたくないという顔をしている。


 ――だが、先代女王の責任というものがあるとしても、彼女は俺のギルドにとって必要な人材であり、簡単に抜けてもらっては困る。


「ヴェルレーヌ、最初に言わなかったか? 俺のギルドに入るときに」

「あのときは、私が無理を言って転がり込んで……」

「違うぞ。忘れてるみたいだが、ちゃんと言ったはずだ」


 戸惑っている様子のヴェルレーヌを見て、俺は苦笑する。


 いつも俺に対しては元魔王らしく不遜な態度を見せているのに、弟が来た途端に、申し訳なさそうにしおらしくしている。そんなのは、全く彼女らしくない――最も、元からヴェルレーヌは、強いばかりの女性でもないと分かっていたが。


「俺のギルドに所属した以上は、マスターの俺が納得しない限りはよそにはやらないぞ。たとえギルド員の家族が迎えに来ても、そのルールには従ってもらう」


 ヴェルレーヌの深い紫の瞳を見据えて言う。彼女は目をそらさずに見返していた――そして、ふと疑念に至ったという顔をする。


「……では、ご主人様が納得したら、私は帰らなくてはならないのか?」

「なんだ、調子が出てきたじゃないか。並々ならぬ覚悟で出奔してきたんだ、俺から大事なものを取り返す前に帰るわけにはいかないだろ」


 思いつめた顔をしていたヴェルレーヌが、次第に落ち着いていつもの余裕を取り戻す。彼女は久しぶりに笑うと、自分の胸に手を当てて言った。


「……思い込みが少し激しいが、私にとっては大事な弟だ。お手柔らかに頼む」

「ああ。任せとけ……じゃあみんな、少し待っててくれ。挨拶をしてくる」


 戦闘中の短距離の転移でも相当な難度だと感じていたが、今は一つ壁を破ったという感覚がある。王都の上空、飛竜が豆粒に見えるほどだが、俺は身体の周囲の気圧を魔力で調節しつつ、一気に『飛ぶ』。


(おっと……飛ぶ前に。魔王にまだ、俺の正体は明かせないからな)


 ――転移瞬速ワープブースト縮地ゼロディスタンス――


「っ……な、なんだ、いつの間にっ……!」


 五頭いる竜のうち、一頭――エルセイン十三世の護衛が騎乗している竜の頭の上に乗らせてもらい、俺は姿を現した。


(めちゃくちゃ高いな……落ちても何とかなるが……)


「貴様……なんだ、その仮面は! 我は先代女王の身柄を返せと言ったのだぞ!」

「これは申し訳ありません、魔王様。私はセバスと申しまして、王都の屋敷で執事をやっております。以後お見知りおきを」

「ふざけたことをっ……どうやってこの高さまで上がってきた! 魔法で空を飛べるとでもいうのか!」


 黒竜に騎乗したエルセイン十三世は、ヴェルレーヌの弟だということが納得できる容姿をしていた。声変わりすらしておらず、見た目は十歳前後の少年に見える。


 俺の経験則では、現魔王の冒険者強度はSSランク級に届いている。ヴェルレーヌが王位を譲るだけあって、相応の実力を備えているようだ。装備は軽装だが、魔王らしくマントを羽織り、頭には角つきの兜を被っていた。


 そして俺が頭に乗せてもらっている黒竜に騎乗しているのは、ヴェルレーヌよりは年下に見えるが、俺と同い年くらいに見える女性騎士だった。持っている黒い槍は三又に分かれており、なかなか質のいい武器のようだ。


「怪しい仮面をつけた蛮人め、我が王を侮辱するか。エルセインが誇る近衛騎士の槍で、串刺しにしてくれる!」

「おっと、やめておいた方がいい。戦う気はありませんが、ここで攻撃されると、あなたを気絶させて竜を操らなくてはならなくなる。落としはしませんが、それなりに危険ですよ」

「なっ……き、貴様ぁ! 近衛兵の筆頭たる、このイリーナ・ビュフォンを嘲弄するか!」

「イリーナ、突け! そんな無礼な仮面男は突いてしまえ!」

「そうよ、お突きなさい! あなたの猛々しい槍で貫くのよイリーナ!」


(よく見たら、近衛兵が全員女性だ……そして全員、魔王より年上とは)


「はぁぁっ! ……あれ?」

「だから、やめておいた方がいいと言ったでしょう。私は魔王陛下と話がしたいだけです。邪魔をしないでいただきたい」


 俺は指二本で、全力で突き出された槍の穂先をはさんで止めた。そのまま引っ張ると、すぽっとイリーナの手から槍が抜ける。


「そ、そんな……私の戦闘評価は1万とんで24、エルセイン騎士でも随一の才能と言われて……」

「陛下っ、この男は危険です! 一時撤退し、体制を整えましょう!」

「そうです、魔王陛下のご無事こそが、エルセイン国民の最たる願いで……」

「ええい、やかましい! ぴいちくと囀るだけならば初めからついてくるな!」


(魔王も苦労するな……部下との実力差が離れすぎて、護衛になってないぞ。六魔公から連れてきた方がよかったんじゃないか?)


「はぁっ、はぁっ……すまぬ、見苦しいところを見せた。ふざけた姿をしているが、おまえは只者ではないようだな」

「私はただの執事ですが、ヴェルレーヌ様とは面識があります。彼女は、この王都においては先代魔王であることを伏せている。陛下、僭越ながらご提案がございます。陛下の提案する騎竜戦をお受けする代わりに、ヴェルレーヌ様の素性は明かさないでいただきたいのです」

「……姉上は、素性を隠してでもこの国で暮らしたがっているのか。あの勇者たちに脅されているのではないのか?」


 やはり俺たち魔王討伐隊は、エルセイン魔王国においてはあまり好感を持たれていないらしい。仕方のないことではあるが。


「彼女には彼女の考えがあり、この王都に滞在していると伺いました。魔王陛下の姉君を想うお気持ち、察するに余りあります。ですが、ヴェルレーヌ様のお気持ちもどうかご勘案いただけないでしょうか」

「おまえは……一体、姉上の何なのだ?」

「私はヴェルレーヌ様が、どのように王都で暮らされているかを知られる立場にある者です。彼女が直接魔王陛下とお話されることも必要かと思いますが、魔王討伐隊はヴェルレーヌ様を脅してはいませんし、彼女と敵対してもいません。ですが彼女の身柄を引き渡せとおっしゃるのならば、騎竜戦に応じる用意はございます」


 現魔王は俺の言葉にじっと耳を傾けていた。そしてふっと目を閉じ――やはり、ヴェルレーヌと姉弟なのだと感じさせる言葉を口にした。


「むう……何か、たばかられているようにも思うが。仮面の男よ、おまえは嘘をついてはいないようだ。アルベインの強者には、変わり者が多いようだがな」

「恐れ入ります。このような装いでしか御目に触れられませんこと、平にご容赦願います」

「いや、装いというのならば、魔王国にはもっと派手な者も、奇妙な姿の者もいるのでな。見た目で判断してはなるまい」


 なかなか素直な少年だ――だからこそ、姉のことを真っすぐに心配して、ここまで来たのだろう。国王自ら手勢を連れて来ることの危険を理解した上で。


 現魔王の乗る黒竜は、エルセインが所有する中では最も優れた竜だろう。その竜と、競ってみたいという気持ちがある。もちろん負けるつもりはない、全力で勝負して、ヴェルレーヌを俺のギルドに残す。


 今去ってもらわれては、色々と困る。いつか護符を返さなくてはと思っていたのに、そのタイミングを逸したままでここまで来てしまったし、ヴェルレーヌがいる前提で、銀の水瓶亭の酒場部門が安定しているのだから。


「……では、姉上に伝えよ。私が勝ったら、エルセインに帰国してもらう。あのような書置きだけでは、私は……ジュリアスは、納得などできないと伝えてくれ」


 ジュリアス・エルセイン。魔王国の王族が持つミドルネームを除くと、それがヴェルレーヌの弟の名前のようだ。


「かしこまりました、必ずお伝えいたします。騎竜戦の日時については……」

「我らはこれより、国境向こうの砦まで戻る。七日後、太陽が天の中心に上がる時刻に、アルベイン領内の北部渓谷まで来られよ。エルセイン側は私が代表として戦う」


 渓谷での騎竜戦――つまり、竜をどれだけ上手く飛ばせるかを競うレースだ。


 アルベインには一名も選手などいない。七日で俺が騎竜技術を磨くか、適性を持つ人物を育成するしかない――現実的なのは前者だろう。


 俺にはワイバーンに始まり、竜種に乗った経験があるのだから。


「アルベイン側も代表を選抜し、必ず日時通りに北部渓谷に向かわせます」

「あっ……ま、待てっ! 仮面の男よ、私と勝負しろ! この屈辱忘れてなるものかっ!」


 イリーナに槍を返してやると、彼女は元気を取り戻して俺に喧嘩を売ろうとする。


 近衛兵では引き抜きは難しいだろうが、久しぶりに骨のある、欲しいと思う人材に出会えた。エルセインとの関係は、何とか今よりも友好にしていきたいものだ。


「それでは、失礼いたします……ジュリアス陛下」

「待て、どうやって戻るつもりだ……何っ……!?」


 俺は後ろに跳躍し、落下しながら転移魔法を発動する。『超加速』と『減速』、この二つを組み合わせることで、擬似転移が可能となる。


 色々とエルセイン王には言いたいこともあるが、俺は相手が提案した条件を飲んだふりをしてやっただけで、勝ちを譲ってやる気など毛頭ない。


「ご主人様っ……!」


 屋敷の前に戻ってくると、ヴェルレーヌが駆け寄ってくる。俺は仮面を外し、親指を立てた。


「交渉は成立した。アルベインとエルセインの代表同士が、北部渓谷で騎竜戦をする。向こうの代表は、国王ジュリアスだ」

「……弟は、魔王国では騎竜においては右に出るものがいない。だがアルベインには、竜騎士が存在しない……あの子は国の中しか見ていないから、そんなことも知らないのだ」

「まだ色々と若いって感じはしたな。だが、アルベインの国王陛下と直接話して交渉されるようなことになると、かなり面倒になる。国と国との話し合いになるくらいなら、俺のところで丸くおさめた方がいいと思ってな。ヴェルレーヌのことは、俺のギルドの問題なんだから」

「……それで、不利な戦いだとわかっていて、騎竜戦などと……」


 本気で案じているヴェルレーヌを見て、俺は笑う。


 不利だと思うような戦いなら、俺は初めから受けていない。勝機があるどころか、勝つつもりしか初めからない。ヴェルレーヌの家族も納得した形で彼女を自由にさせる、もっとも近道がこの方法だったというだけだ。


「……ご主人様、もしや……騎竜戦について、何かの好機だと考えているのか?」

「それもあるが、一番は自分で納得して退いてもらいたいってだけだ。相手が挑んだ勝負で負ければ、こちらの出した条件は全部受け入れるだろう」


 ヴェルレーヌを王族の責務から解放する。それが、俺がジュリアスに求める条件だ。


 彼女は本来ならば、王族という立場から逃れられない――しかし現在のエルセイン王が認めるなら、事情は変わる。


「わ、私は……勝手に、ご主人様のところに転がり込んで……そこまでのことをしてもらうようなことは、まだ何一つできていないのに……そんな私のために、なぜ……」


 俺のギルドハウスに居候して、護符を返してもらうためと言って働き始めた。


 それを俺が本当に迷惑だと思っていたと、ヴェルレーヌには仮定だとしても、思ってほしくはないものだ。


「ディックは『勝手に』人を自分のところに住まわせるほど、考えのない人じゃないわ。騎竜戦なんて新しい戦いに乗ったのも、勝機があると思っているからでしょう。この人は、そこまで計算しないと動かないわ」

「またミラルカが心にもないこと言ってるー。ねえコーディ、私たちの友達って、どうしてこう素直じゃないのかな?」

「アイリーンも人のことは言えないけどね。もちろん僕もだけど」

「ディックさんは、ヴェルレーヌさんが本当に必要だと思ったから、店主のお務めを任せているんです。それは、一目見ればわかることです」

「……し、しかし……私は、ご主人様にそのように評価されたことなど……」


 評価はしているし、信頼もしている。だがそれを、俺はヴェルレーヌに褒めるという形で伝えたことがあっただろうか。


「……あー……なんだ。俺がカウンターで飲んだくれてられるのは、間違いなくヴェルレーヌのおかげだ。見ててわからなかったか?」

「むぅ……も、もう少し素直なふうに言えないのか。褒められている気がしないではないか……」


 それは俺の悪い癖なので、平に容赦を願いたい。いずれにせよ、ヴェルレーヌを今帰らせるわけにはいかない、それが雇用主としての俺の判断だ。


「ディー君、雇い主だから簡単に手放せないとか、素直じゃないこと考えてるでしょ」

「当たらずも遠からずだが……わかりやすいからといって、当てるのはやめてくれ」

「それよりディック、魔王が一時撤退してくれたのはいいけれど、王都の民が混乱するかもしれない。問題はないと知らせないといけないね」


 コーディは騎士団長として、王都の混乱を懸念している。俺も何か手を打つか――と考えたところで。


 夜に訪問してくるはずだった、シュトーレン家の馬車がこちらにやってくる。少し離れたところで停まると、中から従者を従えて、プリミエールが降りてきた。


「少し早い時間になりましたが、お話したいこともありましたので、時間を繰り上げさせていただきました。ディック・シルバー殿……先ほどの飛竜ですが、魔王討伐隊の方々が撤退させたのですか?」

「シュトーレン公爵、一つ頼みたいことがあります。王都の民に、エルセインの黒竜が襲ってくる危険はないと伝えてはいただけませんか。俺たちギルドよりも、貴族の方々が知らせた方が、王都の人々は安心するでしょう」

「あなたがそう仰るのなら……承りました。当家の者に伝令を出させます。あなたたち、ディック殿のお話は聞いていたわね。すぐに王都じゅうに、危険はないと知らせなさい」


 プリミエールの家来たちが、忠実に命令を執行するべく散開する。俺の指示に一も二もなく従ってくれるのは、『蛇』討伐の件を評価してくれているからだろう。


 そして彼女は俺に近づくと――こともあろうに。家来が見ていないとはいえ、膝を突いて頭を垂れた。


「王国の危機を救っていただいたこと、シュトーレン公爵家の当主として心より感謝を申し上げます。当家からも、できうる限りの褒章を出したいと……」

「頭を上げてください、プリミエール公。俺にはそれよりも、貴女に確かめておきたいことがある。この屋敷をかつて所有していたこと、そして……シュトーレン家がベアトリスを召喚したことについて」

「……いずれは、こちらから赴いてお話しするべきと思っておりました。召喚魔法の研究は私の父が推進していたことですが、父の責任は私の責任でもあります。ベアトリスには、本当に申し訳ないことをしました。どれだけ謝罪しても、許されることではありません」


 プリミエールは再び頭を下げる。俺は振り返り、遠くから緊張した面持ちで見守っていたベアトリスを呼んだ。


 ベアトリスはプリミエールに近づくと、自らも地面に膝をつき、その肩に触れた。


「私はシュトーレン家との契約に基づき、この屋敷を守っていました。でも今は、ディック様の眷属となっています。そして、それをこれ以上のない幸せだと思っている。私は決して、シュトーレン家を憎んでなどおりません。あの召喚が、今につながる運命を導いてくれたのですから」

「……ベアトリス……ごめんなさい。私、あなたに何もしてあげられなかった……」

「泣かないでください……あなたは本当に優しい女性です。私は今でも、プリミエール様に憧れています。鏡のように綺麗な心を持った方、どうか笑ってください」


 初めから、二人の間にはわだかまりなどなかった。プリミエールはベアトリスを嫌って屋敷を捨てたのではなく、集まってくる死霊に対抗する手段を持たなかったというだけだ。


 まだ若くして当主となり、三公爵家の一つを背負ったプリミエールの重圧は、並大抵のものではなかっただろう。


 王都のギルドは、今となっては貴族に比肩しうるか、それ以上の力を持っている。だが、王族や貴族を排斥して支配権を得ようとは思っていない。貴族が暴走して戦乱を導こうとすれば俺たちが動くしかないが、プリミエールならその心配はないだろう。


 やがてベアトリスに手を引かれ、プリミエールは立ち上がった。


「この国の民を守ってきたのは、間違いなく魔王討伐隊の方々です。私たち貴族は、どれほども力になれていない……しかし、ディック殿は……いえ。ディック様は先ほど、私たちに役目を与えてくれた。そのことへの感謝を忘れず、自らの地位に恥じぬよう、少しでも人々のために尽くしたいと思います」


 俺はその言葉を、公爵としての今後のありかたを宣言するものとして、ただ好意的に捉えていたのだが――。


 考えてみれば、公爵家すら、俺の方針によって動かせるということになってしまったわけで。


 いつの間にかこの国の実権を握りつつある事実に、本当にいいのかと思いつつも――これ以上俺の名前が表に出ていかないよう、プリミエールに後で根回しをしておこうと思うのだった。


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