第73話 騒がしい湖畔と野営の準備
シェリーたちが発見した祭壇については、このまま放置して他の冒険者たちが手を出すのは危険だと考え、周囲から見えないように封印して隠蔽しておくことになった。
師匠が祭壇の周囲にある石柱に、魔力を込めた指先で魔法文字を記していく。その柱同士を結ぶようにして結界が生じ、師匠が許可した人間しか見ることはできなくなった。
「あ、あの、マスター。助けに来てくれて、ありがとうございます。私、何の役にも立てなくて……」
リーザは遠慮がちに声をかけてくるが、俺はそのとき、自分の顔がこわばっていることに気がついた。
クライブは六階層に転移した人員に紛れていて、奴は行動を起こすまで、注意深く俺たちの目を欺いた。脱獄してからここに至るまでに何があったのか分からないが、容貌が変化しすぎていたため、誰も気が付くことがなかったのだ。
ゼクトがいれば早々苦戦する相手もいないと思っていたが、同じSSランクでは相性次第で歩が悪いこともある。そして最初から殺す気で来ている相手を、同じだけの殺意を持って相手にすることも、普通の人間ならそうそうできることではない。
それが理由でゼクトが同格の相手に遅れを取ったのならば、責めるべきではない。
しかしリーザもサクヤさんも、クライブに圧倒されたことで、すっかり萎縮してしまっている。俺はそんな時、彼らに何をしてやれるのか。
答えはさほど難しくはなかった。こんな時だからこそ、俺は石像のように硬い顔をしていてはならないのだ。
「気にするな。盗賊は宝箱を開ける、罠を外すっていうのが仕事だ。安全を確保して同行するだけで、十分役目を果たしてるよ」
「っ……マスター……」
未だに、相手の気持ちをほぐすとか、優しい言葉をかけるとか、そういうことは性に合わないと思う。
相手に気づかれないままで、目的を遂行させてやることを是としていたのに、最近はその主義を曲げてばかりだ。
それもこれも、この迷宮があまりに過酷すぎるからだ。そして、迷宮探索に関わる人物を、無条件で信用しすぎたということもある。
ロウェ、オルランド、プリミエール。おそらくこの三者の誰かが、意図的かそうでないのか分からないが、クライブを探索要員に組み入れた。SSランクの実力を持つ人物が素性を隠してやってきたら、普通は経歴を慎重に確かめようとするはずだが、クライブの偽装が完璧だったのか、それとも脱獄犯と分かっていて戦力に加えたのか。
いずれにせよ、シェリーが一度は重傷を負ったことを考えると、迷宮探索に参加している全ての人々に思惑があり、それを尊重すべきだなどという温いことは言っていられない。
俺たちが迷宮をひたすらに潜り、後続の人々は転移魔法陣を維持してもらう。俺たちが潜っている間に、上階に戻るための魔法陣が使えなくなるリスクを排除する。その基本を忠実に守ることが、結局は一番の近道だ。
「ゼクト、サクヤさん。今回は不測の事態だったが、二人の力は今後も必要になる。今は六階に戻って、藍の乙女亭のギルドマスターに、俺たちは無事だと報告しておいてくれ」
「……承知した。すまない、敵に遅れを取ったからといって、心を乱している場合ではないな」
「マスター、シェリーさんとロッテさんはどうするのですか?」
シェリーの胸に浮かんでいた蛇の紋様は、今は消えている。そこばかり見てはいけないというのもあるが、俺の目の錯覚ではなく、確かに一度浮かんでいて、時間の経過と共に消えた。
彼女については、目覚めるまで様子を見ていたいということもある。八階層に降りて、コーディたちと合流し、少し休んでシェリーの回復を待ちたい。
「ディックさん、私もついていかせてください。力不足を知らしめたうえで、こんなことを頼むのがばかだってことは分かっています。それでも……このまま帰ったら、私……」
ロッテはシェリーに付き添っていたが、彼女が無傷であると分かると、次第に落ち着いてきた。目はまだ赤らんでいるが、いつもの気丈な光が戻ってきている。
「一応、無理はしないほうがいいと言っておくぞ。俺は下に降りるが、9階層と10階層を抜けて、11階層の魔法陣まで辿り着いてから脱出するつもりだ。上に戻って帰還するほうが安全だが、先に進むこともそれ以上に重要だからな」
「はい、分かっています。敵の実力を見定めて、戦えそうな相手とだけ戦います。これ以上、足を引っ張りたくありませんから」
「……足を引っ張ったとか、そんなことは全くないぞ。みんなと一緒に、よく頑張ったな。この祭壇は、きっと『蛇』についての手がかりになるはずだ」
そう言って、俺はロッテの頭を撫でた。戦いの後で少し乱れていた髪を、回復魔法を応用して戻してやる。
すると、ロッテは俺を見たままでふるふると震え始めた。
「……ばっ」
「ば?」
「ば、馬鹿じゃないですか! 私はっ、私はっ、男の人なんて大嫌いでっ、ディックさんのことだって、姉様が認めているから仕方なく……っ」
「そんなことは分かってるさ。すまないな、子ども扱いは良くなかったか」
「こ、子供って……そういうことを言ってるわけじゃ……もう、ありがとうございますっ!」
怒りながら礼を言われるというのは、そうそうない経験だった。ロッテは自分の手でも髪を整え、姉の元に戻っていく。
それを見ていたサクヤさんとリーザが、落ち込んでいたことをひととき忘れて笑っていた。
「あはは……マスター、頭にぽん、でくらくらきちゃうのは、よっぽどの場合だけですよ?」
「憧れが募ると、そのようなこともあるでしょうか。マスターはただ、ロッテさんを励ましたかっただけだと思いますが」
「下心はまったくないんだけどな。それにしても馬鹿と言われるとは、俺もまだまだだ」
頭を掻くと、ゼクトも珍しく、かすかに笑みを浮かべていた。今回のことで責任を感じて後に響かないかと思っていたから、立ち直りが早いのはいいことだ。
「俺より一回り若いというのに、男としての器ははるかに上だな。まったく、恐れ入る」
「俺なんてまだまだだよ。一生まだまだかもしれないが」
「またそういうこと言って……お願いですから、ちょっとくらい自分の価値を認めてですね……」
「それがマスターの美徳であり、敬愛すべき点ですから、問題はありません。では私たちは上階に戻り、待機しましょう。おそらくクライブは、途中までは巡回部隊と一緒に行動していたはずですから、彼らに対する説明も必要です」
急にクライブがいなくなったことを、彼らがどう思うか。この場限りの仲間だったのなら、さほど気にしないかもしれないが、実力のある者が行方をくらませれば、不安になる者もいるだろう。
「事の顛末は、俺からあとでカスミさんに報告しておく。今は、クライブは死んだとだけ伝えておいてくれ」
「はい。承知しました」
「あっ、彼を倒したあとに落ちてきた魔石なんですけど……ディックさん、どうぞ」
リーザは魔石を俺に渡してくる。それを見て、俺は目を疑う――これは『デーモンロード』という魔物が落とす魔石と寸分違わない。
デーモンロード自体が、もし出現すれば小さな都市なら容易に崩壊させてしまうほど強力な魔物だ。SSランクのクライブが魔物に変化したので、高位の魔物となったのか――どちらにせよ、クライブを魔物に変えた可能性のあるあの祭壇は、危険極まりない。
しかし、あの祭壇はシェリーの傷を癒しもした。あの蛇の印と『ベルサリスの蛇』に関係があるとすると、楽観視はできないが、血を捧げたシェリーに対して、祭壇が力を与えたのだとも考えられる。俺はそのことについて、師匠に意見を聞くことにした。
師匠は祭壇の外で、眠っているシェリーに付き添っている。先ほどと違い、師匠の様子は普段通りに戻っていた。
「師匠、シェリーの身に何が起きたんだ? 分かる範囲でいい、教えてくれないか」
師匠は他のメンバーにはまだ聞かせたくないと考えているのか、俺にすぐ近くまで来るように促した。シェリーに膝枕をしている師匠に近づくと、彼女は俺の耳元で、小声で囁く。
「ディー君の考えてるとおり、シェリーちゃんは『蛇』の力を借りちゃったんだよ。あの祭壇は、『蛇』の分霊を封印してあるものだったの。それが、シェリーちゃんの血に反応したんだと思う」
「っ……それは……シェリーが、蛇の力を宿したってことか?」
「そうだと思う。でも心配しないで、邪悪な気配は感じないでしょう? シェリーちゃんが私たちの敵になったっていうことはないはずだよ」
「……ないはず、か。シェリーが起きるまで、注意して見てないとな」
シェリーは静かに寝息を立てている。そこで破れた胸元が目に入り、俺は慌てて目をそらした。
「ディー君、さっきは本気で怒ってたけど、よかった。いつものディー君に戻ってくれて」
「……ごめん。どうしても許せなくても、もう一度くらいはチャンスをやるべきだったのかな」
「あのまま私たちが来なかったらどうなってたかを考えたら、仕方ないと思う。ディー君がやらなくても、私がやってたよ」
当たり前のように彼女は言う。そして俺の手にある魔石を手に取り、眺めながら言った。
「こんな姿になっても、まだ殺してやるとか言ってるもの。ユマちゃんに浄化してもらったら、少しは落ち着くんじゃないかな」
「魂の声が聞こえるのか。それなら、俺は憎まれてるだろうな……」
「ううん、それより女性への執着がすごいかな。持ってるだけで頭が痛くなってきちゃうくらい」
師匠に石を返される。俺もやり方を聞けばクライブの怨嗟でも聞こえるのかもしれないが、聞こえないほうがいいこともあるだろう。
「ディー君は自分を責めたりしなくていいよ。辛い荷物だったら、私が半分持ってあげる。全部でもいいよ」
「……いや、俺はそこまで繊細じゃないから、心配いらない」
「そう? 私なんかより、ずっと優しいと思うんだけどな。それは間違いないよね」
微笑みかけられても、今は上手い答えを返すことができない。優しいやつは人を殺さない、そんなことを言っても師匠を困らせるだけだ。
――と、そんなことを考えていると、師匠が困ったように微笑んでいる。
「こういう時、私よりも他の子たちの方がいいんだよね、きっと……あとでそそのかしてあげなきゃ」
「そそのかす? 何か不穏なことを言ってるな……」
「ううん、何でもない。ディー君、お得意の女の子運びの時間だよ。下の階までシェリーちゃんを背負っていってね」
「あ、ああ……背負うより、この姿勢だと抱き上げた方がいいかな」
シェリーの身体に負担をかけないように支えつつ、抱え上げる。お姫様抱っこというやつだが、脱力している相手を運ぶにはコツが必要だ。
「……ん……」
「シェリーちゃんが起きるまで、やっぱりまだしばらくかかりそうだね。ディー君、私たちがワームを倒すから心配しなくていいよ」
「ああ。それじゃ、下まで護衛を頼む」
「「了解っ!」」
師匠とロッテが少し前を進み、その後をついていく。幸いにも、ワームの索敵範囲に引っかかったのは一度だけで、問題なく撃退することができた。
◆◇◆
八階層に入ると、俺たちがそうだったように、ロッテも周囲の景色の変化に驚いていた。
だが、何やら湖の方が騒がしい。というか、俺の思ってもみない、肌色率の高い光景が湖畔を彩っていた。ロッテがまず、俺より先に疑問を口にする。
「あの……どうして皆さん、装備を脱いでるんでしょう?」
「予想はつくがな。湖にいたアクアランが、『雨乞い』でもしたんじゃないか?」
「あ、だから地面が濡れてるんだね。それで、アイリーンちゃんが怒ってるのかな」
湖で華麗な泳ぎを見せているのはアイリーンだった。下着だけになって飛び込むとは、さっきまでアクアランのいる水は飲めないと言っていたというのに、思い切りがいいものだ。
「せっかく見逃してあげたのに、恩をあだで返すなんてっ! ぷはっ! 待ちなさーいっ!」
臆病な性格に見えたアクアランたちだが、どうやら根に持つタイプのようで、湖岸にいるアイリーンたちの上ににわか雨を降らせて復讐し、それでみんなずぶ濡れになったということらしい。
ヴェルレーヌもまた、メイド服がびしょ濡れになったからか、下着の上に肌着を一枚着ているだけの格好で、火球を作ってみんなの服を乾かしていた。ユマ、コーディ、ミラルカも疲れた表情で座っている。
「……むっ、戻られたぞ。お帰りなさいませご主人様。食事にするか? それとも私か?」
「その格好で言われると、それなりに後者を選びたくなる気もするが、大変だったみたいだな」
ヴェルレーヌだけでなくみんな下着か肌着だけの姿になっているので、俺はどこを見ればいいのかと視線を曖昧に動かしつつ言う。すると、ミラルカが恥ずかしそうにこちらを省みた。
「魔物との格付けが済んだと思っていたら、追い払ったことを根に持たれていたというだけよ……こちらを見ると、命の保証はできないから、私たちと一緒にいたければ目隠しをしなさい」
「こんなことで足止めを食っている場合じゃないのに、今回の僕たちは、水難の相でも出ているのかな。一度浄化でもしてみたほうが……ああそうか、ユマがいるから大丈夫か」
「私がいてもお天気は雨になっちゃいますけど、浄化ならいつでも承ります♪」
ぼやくコーディに、ユマはいつもと同じ、癒しの微笑みを向ける。コーディは俺が戻ってくると思ってか、濡れたにもかかわらずサラシを外せなかったようだ。もうちょっと遅く戻ってきた方が良かっただろうか――というわけにもいかない。
「それより、指摘していいものか私どもも激しい動揺によって失念していたのだが。シェリー殿はどうしたのだ? お姫様抱っことは穏やかではないな」
「七階層の探索をしてて、新しい発見があったんだけど……探索隊に紛れ込んでた敵に襲われたの。無事といえば無事なんだけど、上の階に戻すよりは、起きるまで私たちが見ている必要があるから、ここで少し休ませてあげてね」
「む、そうか。今回の探索では、念のためと思い、簡易キャンプの道具を持ってきたのだ。水気を防ぐ敷き布の上に、天幕を張るだけのものだがな」
「そんなものまで……そのバスケットの容量を拡張する技術が、本格的に欲しくなってきたな」
「ふふっ……ではそのうち伝授するとしよう。そうか、私にもご主人様に教えられることがあったのだな」
ヴェルレーヌは嬉しそうに言うが、露出した褐色肌がどうしても目に入り、目のやり場に困ってしまう。特に下の方は、いつも穿いているというガーターストッキングを脱いでおり、素足の脚線美がとても健康的だ。胸の豊かさは、改めて確かめるまでもない。
「……ディックさん、いけませんよ?」
「わっ……気配を消して近づいてくるとは、なかなかやるな。ユマ、何のことだ?」
「魂が桃色に染まっています。桃色は、いけない色なのです。人間の欲望の中でも、僧侶がまず初めに断ち切るべき肉体の欲……色欲です」
「す、すまない……修業が足りなかったな。俺もユマと同じとまではいかないが、心を清めるにはどうしたらいい?」
「それは……じょ、浄化がいいのではないでしょうか。私の手にディックさんの魂を委ね、お鎮めすることによって、桃色の想念は昇華し……あぁ、なんて素晴らしいのでしょう……」
師匠が「お年頃なのかな」とつぶやいていたが、俺もそうなのではないか、と内心で同意しておく。そしてユマもヴェルレーヌとあまり変わらない格好で、発育しきっていないとはいえ、見せられると確実に目の毒である格好だ。なぜこうも、シャツの下から覗く太ももというのは、男の想像力を限界まで引き出すのだろう。いくらギリギリまで布のようなものが見えなくとも、穿いてないということはありえないのに、それでも人はもしかしてという期待をしてしまうのだ。
「ディックさん、姉様を運んでいただいてありがとうございます。そのあたりに降ろしていただければ、私が付き添っていますので」
「あ、ああ……頼む。いや、俺はやましいことは考えてないぞ?」
「そう自分で言ってくれるあたりは、誠実だと言えなくもないですけど。目が泳いでいて、大変だとは思いますし、少し同情もしました」
ロッテは初めじっとりと俺を見ながら言うが、半分は冗談だったようで、我慢できずにくすっと笑う。
「ふふっ……すみません、笑ってしまって。皆さんを見ていたら、安心してしまったみたいです」
「ああ、それは良かった。良かったらシェリーが起きるまで、何か食事でもして体を休めてくれ。11階まで、二人にもついてきてもらうからな」
「はい、分かりました。ディックさんをパーティのリーダーとして、どんなことにでも従います。姉も目覚めれば、私と同じ気持ちでいてくれると思います」
「こちらこそよろしく頼む」
これで一時的に俺のパーティは総勢9名となった。俺以外全員が女性で、湖畔でキャンプをしつつ食事をするなどと、活動的な充実した休暇でも楽しんでいるのかと自分でつっこまざるを得ない。
「ご主人様、このテントはギルドから持ち出したものなので、作り方もご主人様が詳しいのではないか?」
「ああ、そうか。って、これは俺の秘蔵のキャンプセットじゃないか」
「そうだったのか? ご主人様の部屋のチェストから出してきたのだが。いや、ご主人様の部屋から、いかがわしいものを探そうとしたわけではないのだぞ」
「そんなものは簡単に見つかる場所に置くわけがないだろう。というか人の部屋の家探しをするな」
いかがわしいというより、崇高な人間の官能的感覚について書きしたためた芸術作品ならば存在するが、それなら女性に読ませても問題ない内容なので、俺としては見つかっても開き直りたい所存である。
王都において大人向けに流通する本を「いかがわしい本」と表現するのだろうが、写本の生産数に限りがあるのと、個人の出版のみで作られる本しかないことで、かなりの貴重品となっている。人気作品が出たとしても、写本職人が一冊ずつ手で写していくので、職人の数にも限りがあるため、一つの本は月に百冊作れればいいほうだ。人気本は必ずしもそういった系統のものだけでなく、教育書や魔法書などもあるので、王都において年間で作られる本が1万冊としても、そのうち娯楽書は千冊余りだけなのである。
俺が所持しているのは最近出てきた覆面作家の作品で、『夕暮れ屋敷の女主人』という小説なのだが、これがなかなかよくできている。女主人のもとを訪れる一人の男がとても鈍感で、どんなにもてなしても、身体を張ってアプローチをしても、まったく女主人の気持ちに気づかないのである。
リーザから紹介されて読んだが、女性向けといえど喜劇調で書かれ、艶のある場面を官能的に、かつ誠実な筆致で描き出すその文章力には、男でも楽しめる普遍性があるといえるだろう――と、脱線してしまった。
「ヴェルレーヌの趣味に合うか分からないが、適度にいかがわしい小説でよければ貸してやるよ」
「むっ……そ、それは、どれくらいいかがわしいのだ? あくまでも文学的に許された描写の範囲内で書かれているということだろうか」
「いや、そういった部分はやけに丁寧に書かれているぞ」
「ほ、ほう……くっ、なぜ私を誘惑しているのだ。私はご主人様の秘密を握り、それをもとにじわじわと外堀を埋めていくつもりだというのに。これでは立場が逆転してしまうではないか……っ」
「まあ、俺たちもそれなりに年頃だっていうことかな」
「年頃というか、私は成熟した大人であるという自覚があるのだが……むぅ……ご主人様と同列であることは否めなくはある……い、いや、私は女王を務めていたので仕方がなかったのだ。決して女として魅力がないわけではないはずだ、求婚者はそれなりにいたからな」
お互いにそういうことに縁のない人生を送ってきてしまったということで、特に恥じ入る必要も無いだろう。俺もギルドマスターを務めてきたので仕方がないのだと言い訳をしたい。
しかし、求婚者とは。ヴェルレーヌの魔王時代に、魔王国の上流階級の男性たちは、誰が女王の夫になるかと争っていたりしたのだろうか。その求婚を受け入れずにうちの店で働いてくれているというのは、やはり、男としていずれは何らかの責任を――と、真剣に考えかけたところで。
「ディック、僕も手伝うよ。この支柱を伸ばして張るんだろう?」
「私は今動けない状況にあるから、とりあえずこちらを見ずに作業をしてちょうだい」
「ミラルカさん、私をかばっていっぱい濡れちゃいましたからね……その節は、お世話になりました」
そういう理由で、ミラルカは下着まで乾かしているというのか――いや、見てはいけない。ミラルカの白い背中をまじまじと観察などしたら、冥府の入り口が開いてしまう。
ドワーフの技術によって作られた、伸縮式の機構を備えた金属の支柱、防水の天幕と敷き布。簡易キャンプセットというより、冒険者が喉から手が出るほど欲しがる野営具だ。俺も手に入れるのには結構苦労したし、大枚をはたいた。
それがこんな形で役に立って僥倖だ。ヴェルレーヌが持ち込んでくれたことに感謝しつつ、俺はアイリーンがばしゃばしゃと泳ぐ水音を聞きながら、湖畔から少し離れた木陰にテントを設営し始めた。




