第72話 嵐の凶刃といにしえの秘蹟
※二日続けての更新になります。未読の場合は前日分からご覧いただければ幸いです。
「ハハ……ハハハハハッ! 勝ったぞ、オレは賭けに勝った! ディック・シルバー、オレを殺さなかったことを後悔するがいい。お前の守った女どもを、今から八つ裂きにしてやる……ハハハハハッ!」
哄笑するクライブの姿を注意深く観察し、サクヤは包帯の下の素顔を見抜く。
「脱獄者を、この迷宮に送り込んだ者がいたようですね。人間同士で争っている場合ではないのに」
サクヤはクライブの顔を知っていた。白の山羊亭の命令で、赤の双子亭を襲撃し、紫の蠍亭のギルドマスターに重傷を負わせた罪で、騎士団に捕らえられ、投獄されていた男。
その男が、どうやって迷宮に入ったのか――六階に転移する人員の中に潜り込めたのか。
あの場にいた、貴族の護衛たちのパーティか、あるいは他のギルドのパーティに、素性を隠してあらかじめ入り込んでいたからだ。
ギルドタグを偽装したのか、探索隊の選抜担当者が、クライブに買収されたのか。レオニードやカスミが手を引いたとは思えない以上、疑わしいのは貴族だ。
だが、どちらにせよ、この場を切り抜けなければならない。シェリーは耳につけたピアスに触れ、ディックに助けを求める念を送る。
話しかけるような余裕はなかった。クライブは、すでにシェリーたち全員を巻き込む規模の魔法を発動させようとしていたからだ。
リーザが巻き込まれれば致命傷になる。そう判断したゼクトは、思考する前にスライサーを投擲する。
「『逆風』ッ!」
「くっ……!」
クライブは詠唱を変え、スライサーを風圧で押し返す。投具系の武器の相性が悪いと察すると、ゼクトは次の対抗手段を講じようとするが、クライブは風の煽りを食ってよろめくリーザを狙い、持っていた武器を繰り出そうとする。
「鞭とフレイル……お前ら姉妹と似たような武器で殺してやるよ……オレが受けた痛みと屈辱を、存分に味わえ!」
クライブの手に持つ武器は、鎖の鞭――その鎖の一つ一つに剃刀のような刃が付けられた、拷問用の道具だった。鞭として打ち据えるだけで肌を切り刻まれ、激痛に悶え苦しむことになる。
「――させませんっ!」
クライブの死角を突いて肉薄したサクヤは、蹴りを繰り出して攻撃を妨害する。クライブは舌打ちし、リーザに攻撃することなく、サクヤの蹴りを片手でブロックして後ろに飛び退る。
「足癖の悪い獣人が……その足から切り裂いてやるよ……!」
クライブは悪態を吐き、風の精霊の力を鞭に纏わせる――すると鞭は、予想もつかない軌道で動き、まるで生き物のようにサクヤに襲い掛かる。
「ぅっ……!」
サクヤは敏捷な身のこなしで回避しようとするが、避けきれずに浅く斬撃を受ける。革製の鎧の肩の部分を斬られ、鮮血がにじんだ。
「サクヤさんっ……!」
「リーザさん、来ないでください! あなたは伏せてっ……!」
「――うぉぉぉっ!」
サクヤとリーザが逃げる時間を稼ぐために、ゼクトが斬り込む。投げれば風で防がれてしまうのなら、直接斬りつければいい――クライブはしかし、鞭を流動する剣のように使いこなし、ゼクトの接近を阻む。
「そうだよなあ……ッ、オレは決して弱くなんかない……SSSランクの化け物どもにも、いつか手が届く存在なんだ! オレは強いだろ、そうだろっ! なあ、なんとか言ってくれよ!」
クライブは喉が嗄れるほどに声を荒げながら、鞭を風の力で操り、ゼクトにあらゆる方向から斬撃を繰り出す。それを一歩も引かずに受けきるゼクトだが、実力が拮抗して進むこともできない。
(同格の相手ではあるが、奴はあの武器にまだ慣れていない。それでも俺は、奴に一撃も浴びせられないのか……!)
「――『影の槍』!」
事態を打開するために、ゼクトはクライブの足元の影を利用し、影の槍を発生させる。しかしクライブはそれを察して飛びのき、さらには風の力でゼクトたちを押し戻し、再び距離を開く。
――翻弄されている。このままでは押し切られる、そうゼクトが凶兆を覚えた時には、クライブはすでに勝負を決めにかかる魔法を発動させようとしていた。
「一人ずつ相手をするのは面倒だ……全員吹き飛ばしたあと、切り刻んでやるよ。風の精霊よ、我が声に応え、荒れ狂う力で蹂躙せよ。『砂漠の竜巻』!」
竜巻が起こったのは、パーティの中心だった。隠れていたリーザを除いて全員が巻き込まれる。
「姉様っ……きゃぁぁぁっ……!」
「ロッテ……っ!」
シェリーは竜巻に巻き込まれる前に、妹の名前を呼ぶ。そしてピアスを握り、ディックのことを想った。
(……ごめんなさい……私、何もできなかった……)
迷宮で脅威となるのは、長い時を経て変異した魔物だけ。
そう思っていたシェリーたちは、探索隊の中の裏切りによって、全滅の憂き目に遭った。
「ハハハハッ……ハハハハハハッ……! ああ、愉快だ……やはり戦いはこうでなくちゃあならないッ! 圧倒的な力で押し潰し、ねじ伏せ、奪う! それが強者の醍醐味というものだ!」
竜巻に打ち上げられた者たちが落下し、地面に叩き付けられる。しかし、クライブは確実に倒したという手応えを感じず、違和感を覚えた。
シェリーとロッテは祭壇の上に倒れている。彼女たちの元に歩いていこうとしたクライブは、足首を掴まれる――倒れているゼクトが体を起こし、クライブを睨みつけていた。
「そうか……おまえが影の力で、落下の衝撃を緩和したのか。お優しいことだな……!」
「ぐぁっ!」
クライブはゼクトに蹴りを入れて転がす。まだ全員が生きており、一人はランクが低いとはいえ、無傷で隠れている。しかし、クライブはリーザには興味を示さず、姉妹のもとへと歩いていく。
シェリーとロッテにはまだ意識があった。衝撃を全て緩和されたわけではなく、起き上がることも困難なほどに全身が痛む。
(ディックさんの役に立てたら……そんなこと、おこがましかった……だけど、姉様だけは……っ)
ロッテは立ち上がる。朦朧とした視界の中、フレイルが届く距離に、クライブが立っている。
「――やぁぁぁっ!」
振り上げたフレイルを、ただ目の前のクライブに振り抜いて叩き付ける。その直線的な動きを見切ると、クライブは前のめりになったロッテの胸倉を掴み、締め上げた。
「あっ……あぁぁっ……!」
地面に足がつかず、ロッテは吊られたままでもがく。しかしその身体は満足に動かず、弱弱しい蹴りがクライブの身体に当たるが、彼は笑みを崩さなかった。
「生意気な女だが、顔と体だけは大したものを持ってるな。ハハハッ!」
屈辱のあまりに、ロッテはもがきながら涙をこぼす。必死で蹴っているのに、クライブにはまるで通じていない。
SランクとSSランクの埋めがたい差。それを前にして、ロッテは深い絶望を覚える。ゼクト一人ならクライブを倒せたかといえば、それも分からない――相性が悪すぎるからだ。
「……私は、どうなっても、いい……お姉様は……お姉様と、みんなは……っ」
「……ああ? 誰にものを言ってんだ。命令するのは俺の方だよなぁっ!」
「きゃぁっ……!」
クライブはロッテを放り出し、倒れたところに鞭を振りかざし、打ち据えようとする。
――しかし、妹の前に、シェリーが立ちふさがる。彼女はロッテが捕まっている間に、気力を振り絞って立ち上がっていたのだ。
「……なんだその目は。状況が分かってるのか? 泣きわめけよ、命乞いをしろよ!」
「……ロッテは私が守る。絶対に……っ」
シェリーは震える声で言う。クライブの怒りに歪んだ顔が、狂気の笑みに変わっていく。
「かわいい妹を守るために、おまえに何ができるんだ? 自分で決めて、行動してみろ」
「っ……」
「姉様……逃げて……私のことはいいから、逃げて……」
ロッテの悲痛な声がシェリーの耳に届く。クライブは鞭を構えたままで、シェリーを見ている。
クライブがなぜ、赤の双子亭を襲ったのか。それは白の山羊亭の命令だからというだけではなく、明確に、シェリーとロッテの姉妹を狙っていたからだった。
力に任せ、女を支配してきた。そんな相手に屈することなど、決してできない。
しかし今ロッテを、仲間たちを守るには、シェリーが払うことのできる代償は一つしかなかった。
――だが、それさえもクライブは待たなかった。
その鞭が動き、シェリーを打ち据える。装備が切り裂かれ、ロッテの顔に、姉の流した鮮血が飛び散った。
「――姉様ぁぁぁあぁぁっ!」
「どのみち全員死ぬんだよ。オレにとっちゃ、死んだあとでも大して価値は変わらないんでな……ハハハハハッ……!」
クライブが笑う。ロッテの心を黒い憎しみが染め上げていく。
シェリーは祭壇の床にうつ伏せに倒れ、刃のついた鞭で打ち据えられた傷の深さを示すように、鮮血が広がっていく。
ゼクトが、そしてサクヤが立ち上がっている。だが、余力を残したクライブに対する決定打はない。
クライブが笑いながら、倒れている姉に手を伸ばそうとする。ロッテはそれを目の前にしながら、動くことができない。
(ディックさん……助けて……姉様を、助けてください……っ!)
――そう、心から願ったその時だった。
「……あ?」
驚いたような顔をして、クライブが自分の手のあった場所を見ている。
クライブの手首から先は、斬り落とされていた。鮮血が散る前に、叫び声を上げようとしたクライブは、その首を掴まれてねじり上げられる。
そこにいるのは、ロッテの知っているディックではなかった。
燃えるような怒りを目に宿している。彼が本気で怒っている――それを見て、ロッテは恐ろしいとは思わなかった。
ディックが来てくれた。広い砂漠を駆け抜け、助けに来てくれた。その姿は、ロッテにとって勇者そのものだった。
◆◇◆
「ぐぁぁぁぁっ、あぁぁぁっ……!」
クライブ・ガーランドがシェリーに手を伸ばす姿を目にしたとき、俺は迷わず能力の抑制を解放し、遠距離から魔力の斬撃で奴の腕を斬り飛ばしたあと、次の瞬間には接近して首を掴んだ。
シェリーと念話で話したあと、7階層に戻ってきた俺と師匠は、サンドワームを倒しながらシェリーたちがいる場所を探した。
もっと早く辿り着いていれば、そう後悔しても遅い。シェリーは重傷を負い、他の皆もまともに戦える力は残っていなかった。
「なぜお前がここにいる。答えろ……!」
「ぐぅっ……うぅ……当ててみろよ……魔王討伐隊の勇者様なんだろ……? ぐぁぁぁっ……!」
「大方想像はついてる。だが、お前に答えさせる。殺すのはその後だ」
「ディー君……」
一度チャンスを与えたのに、なぜだという偽善を口にするつもりはない。俺はクライブを牢に送り、そこから先のことは王国の裁きに任せた。
クライブがもし解放されれば――あるいは脱獄すれば、何を考えるかは明白だった。シェリーとロッテのことを考えるなら、俺は赤の双子亭でこの男と戦ったとき、再起不能にしておくべきだった。
師匠はシェリーに駆け寄り、傷の治療を始めようとする。しかしシェリーの身体を起こそうとして、師匠の瞳が見開かれる――彼女の傷の酷さが、これ以上なく伝わってしまう。
「ハハ……ハハハ……ッ、顔を、そして体を打ち据えてやった……消えない傷がいくつも残るだろうな……おまえが来るのが遅かったからだ、ディック……そうだ、これは全部お前の……うっ……!」
歪んだ顔で俺を罵倒していたクライブに、異変が生じる。俺はその様子の異常さに、奴の首から手を離すが、クライブはよろめいて座り込み、その場で頭を抱える。
「な、なんだ……この、声は……っ、やめろ……っ、俺は、俺のままで……うがぁぁぁぁぁっ!」
何が起きているのか、俺は目の前の光景を理解できず、ありのままを見ているしかなかった。
クライブの身体が変化している――骨格が変わり、筋肉が膨れ上がり、その頭から角が突き出す。斬り飛ばした腕は再生し、あまつさえ、背中には翼が生える。
その姿は、もはや人間ではない。クライブの肉体は、悪魔と化していた。
変化は一瞬の出来事だった。苦しんでいたクライブが、顔を上げて俺を見る。皮膚が黒く変色している――それは、まるでこの迷宮で変異したゴブリンのようでもあった。
(人間が、迷宮の中で魔物と同じように変異する……そんなことが……それとも、クライブが何かの条件を満たしたのか……?)
「――ガァァァァッ!」
変わり果てた姿となっても、クライブは風を操る力を保持していた。
しかし、俺はクライブに力を使わせなかった。人間以外に変わり果てても、俺の仲間を、シェリーを傷つけたことを許すわけにはいかない。
――『斬撃回数強化』――
魔力で強化した剣を振り抜き、俺はクライブを斬る。振り抜いた剣が無数の斬撃を生み出し、クライブに襲い掛かる――しかし、硬化した皮膚を貫くことはできても、深手を負わせるまでには至らない。
青い血液を飛散させながら、クライブの傷はすぐに塞がっていく。ドラゴンキマイラにも近い再生力――生半可な攻撃では、再生を止めることはできない。
「ディー君、もう一度仕掛けてっ! 『回復速度鈍化』!」
師匠の魔法によってサポートされる――発動まで時間がかかるが、師匠の放った魔力がクライブを包み、その細胞の再生を停滞させる。魔法による毒のようなものだ。
「――グォォォォォッ!」
咆哮を上げ、クライブは竜巻を起こし、防御と攻撃を同時に行おうとする。自らが起こした風の中では影響を受けないのか、生えたばかりの翼で飛び上がり、竜巻の中で羽ばたきながら俺を見下ろす――しかし。
俺には、竜巻をものともせずに奴を斬る方法があった。
魔力によって質量のある残影を生み出し、転移によって瞬時に敵の前に送り込む。
離れている敵を、『既に斬り終えている』。必要時間をゼロにして移動する転移魔法は、結果から過程を逆算することを可能にする。
S4ランクに達するための手がかりとなる技。独力による転移を極める――俺は、そのための道程の半ばにいる。
――修羅残影剣・『転移瞬烈』――
瞬きの後には、俺の残影がクライブを斬り、奴の後方の中空を駆け抜けていた。戦いは呆気なく、明確な形で終わりを迎える。
クライブの悪魔と化した肉体が斜めに切り裂かれ、師匠の魔法で再生を遅らされ、繋がることなく両断される――そして、奴が生み出した竜巻が消え、二つに分かれたクライブの肉体は跡形もなく消失し、砂の上に魔石が幾つも降りそそぐ。
(終わった……のか)
SSランクの冒険者が、魔物に変異すればより強くなると考えられる。それでも、今の俺には届かなかった。
クライブの遺した、刃のついた鞭。俺は斬撃を浴びせてそれを寸断し、使い物にならないように破壊する。
「ギルドマスター……済まない、俺がついていながら……」
「……謝ることはない。ゼクト、サクヤさん、少し待っててくれ。助けに来るのが遅れて、すまなかった」
二人は俺の言葉を受け、辛そうな顔をする。俺は二人に回復魔法をかけると、シェリーの治療に向かった。
――だが、理解を超えた出来事は、まだ終わっていなかった。
シェリーの足元にある、蛇を描いた魔法陣が、淡く発光している。そして、師匠がシェリーの上半身を抱き起こしたまま、全く動かずに俯いている。
やがて、魔法陣の光が静まる。俺はシェリーの傷を治療しようと、彼女の傍らに膝をつき、その姿を見た。
――倒れているシェリーから広がっていた血だまりが、消えている。そして、シェリーがクライブに負わされたはずの傷は、まるで最初から無かったかのように消えていた。
「……どういうことだ……師匠が、治療したのか?」
シェリーの顔についた血は残っている。俺はそれを拭くが、シェリーは失血していると思えないほどに血色がよく、その頬には赤みがさしていた。
「姉様っ……あぁ……良かった……姉様ぁっ……!」
ロッテはシェリーに縋りついて泣く。よほど安堵したのだろう、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている。
師匠は顔を上げても、しばらくは遠いところを見るような目をしていた。そのうちに顔を上げると、俺の顔を見るなり、かすかに微笑む。
「……良かった。シェリーちゃんが、無事で」
師匠の回復魔法が、完璧にシェリーの傷を治癒させたと考えたかった。しかし俺には分かっていた――俺たちの回復魔法では、消せる傷と、そうでない傷がある。
そして、クライブの変化。俺たちの目の前で、奴は魔物に変貌を遂げた。
蛇の図柄を描いた魔法陣の発光。シェリーが流したはずの血が、魔法陣の上に流れた分は、どこかに失われている――そのことから、俺はあることを連想させずにいられなかった。
シェリーの血を代償にして、魔法陣が効果を発現した。クライブを魔物に変え、シェリーの傷を癒した力は、そこから来たものなのかもしれない。そう考えても、もう一度血を捧げて、魔法陣を発動させるという気にはなれなかった。
今は、シェリーの胸が穏やかに上下し、彼女が無事でいることを喜びたかった。
たとえその切り裂かれた服から覗いた胸元に、蛇の形をした小さな印が刻まれていることに気が付いてしまっても。




