第39話 吹雪の幻狐と武神の神髄
アルベイン王国において、『洞窟』と呼ばれるものには二つある。一つは階層を持たない、自然発生的な地形のひとつとしての洞窟である。
もうひとつは2層以上の階層を持つ、『迷宮』と呼ばれることもあるものである。これは自然発生したものではない場合があり、人や魔物の手で作られたものであったり、精霊が意志をもって迷宮を作るということもある。
氷の洞窟は、元は魔物が作った地下迷宮が、支配者を失って放置されたのちに、水の精霊が住み着き、環境が変わっていったという成り立ちを持つ。
洞窟に精霊力が満ちると、その環境に合わせた生物が集まってくる。魔物もそうで、もともと生育する環境を追われたりしたものは、必死で自分に適応した住処を探すのである。
もしくは、環境に合わせて適応し、変異を起こす者もいる。代表的なのは小鬼である。
ゴブリンは環境に応じて『凍てつく小人』『火走りの小人』などに変異し、対応することが可能である。適応できずに命を落とす者もいるが、数が多いので、変異を起こしたあとのゴブリンはふたたびある程度の数まで増える。
氷の洞窟の一階層には、ゴブリンが数十体の群れを作って住んでいる。彼らは果敢にも冒険者に襲い掛かるが、Cランクの冒険者で撃退できるほどの強さで、Bランクもあれば脅威にはならない。毒などの特殊攻撃を使うことも、現状ではない。氷の洞窟の周囲の環境では、毒を採取することはできないからである。もしゴブリンが外に出てきて害を及ぼしている場合、冒険者ギルドではCランク以上の討伐依頼として告示される。
一階層に住む他の生物は、人を襲う習性を持たないので、放置してよい。フローズンスライムがたまに見かけられるが、これは氷の洞窟の東にある、湖のほとりの村で珍味として珍重されている。調理に手間がかかるので、素人が食べることはお勧めはしない。売ると金にはなるが、捕獲しようとすると、Bランク相当の実力がなければ、死ぬことはないがやられてしまうかもしれない。
フローズンスライムはスライムらしく、相手を捕らえて、装備を溶かして食べるという習性を持つ。動物性のものを捕食することはなく、無機物を食するだけなので、たまに冒険者が捕まって大変なことになっている。その場合は捕まっているのが男性であっても女性であっても、塩をかけてやって助けるべきであろう。フローズンスライムは塩をかけるとなぜか嫌がり、逃げていくのである。
塩がなければ、ほかの方法は――それは想像に任せる。筆者からはおすすめはできない、救助したところで微妙な空気になってしまう可能性が否定できないからである。
二階層に降りたところでよく遭遇するのが、雪狼である。狼でありながら氷結のブレスを吐いてくるため、Cランクの冒険者では全滅する可能性がある。必ず10体近くの群れで襲ってくるので、その数でブレスを吐かれては被害は甚大である。先手を取り、確実に仕留めて数を減らし、ブレスの被害を抑えなくてはならない。安全を期すにはBランク以上の冒険者でパーティを組む必要があるだろう。
彼らは一度戦いを挑んで敗れた相手には二度と襲い掛からない。そのため、ほかの魔物が雪狼たちを従えているということがある。その場合は、平均Bランクのパーティならば深追いはしないほうがいい。
雪狼を従えている者は、Aランク以上の戦闘能力を持つと考えられる。これが事故の原因になるため、冒険者ギルドでは、氷の洞窟での二階層以降の依頼に『潜在的危険度:Aランク以上』の注意書きを記載するべきである。
銀の水瓶亭によって定期的に氷の洞窟の環境確認が行われているため、このような事態は起こりにくいが、絶対に無いとは言いきれない。
万が一のことはいつでも起こりうるのだ、と肝に銘じておく必要がある。
―― 『銀の水瓶亭』作成 迷宮攻略資料 氷の洞窟編 第一章より抜粋 ――
「……俺たちは事前に聞いてたから良かったっすけど、けっこうヤバいですね、あのスライム」
「スライムはろくなものではない。飼い慣らすことができれば、廃棄する装備品などを食べさせることができて、重宝するというが……」
「ライアさん、スライムに嫌な思い出でも?」
「わ、私ではない。昔、スライム退治を頼まれた時に……いや、そんな話をしている場合ではない」
「その話はまた今度聞かせてもらおうかな……みんな、もう一回ゴブリンたちが来るよっ!」
薄暗く視界の悪い洞窟の中でも、アイリーンはまったく苦にしない。索敵を得意とする獣人のライアが驚かされるほど、彼女の感覚は鋭敏だった。
洞窟の壁には、高い位置にゴブリンが身をひそめるための穴が開いている。そこからある者はこん棒や凍てついた短剣を振りかざして飛び降り、ある者は投石して攻撃してくる。アイリーンはミトンを嵌めた手で飛来物を打ち払い、リゲルはゴブリンの攻撃をいったん回避したあとに反撃し、無傷で撃破する。マッキンリーはゴブリンのいる穴に火炎弾を叩き込み、飛び出してきたゴブリンをライアが一刀で切り伏せる。彼女は返す刀で、地面に降りて走りこんでくるゴブリンを突きの一撃で仕留めた。
ゴブリンの魔法使いが前方に姿を現したところで、それまで様子を見ていたゼクトはつぶやくようにして呪文を詠唱する。ゴブリンメイジの持つ、松明の役割を果たしている木の杖の明かりが、引き連れたゴブリンたちの影を濃くする――彼はそれを見逃さなかった。
「『影縛り』」
詠唱の直後、ゼクトが視認した『敵の影全て』に魔法の影響力が生じ、ゴブリンたちが体勢を崩す。
ゴブリンたちの上半身は動くのに、足が動かない――影に縫い留められているのだ。
「――ライア、松明は斬っちゃだめ! 他の場所を狙って!」
「っ……!」
アイリーンだけが、ゼクトが何をしたのかを理解していた。ライアは反射的に指示通り動き、ゴブリンメイジをかばうために前に出てきたゴブリンを切り払い、メイジまで突き進み、突きを繰り出す。
ゴブリンメイジが動きを止め、燃え盛る杖を取り落としかかる。リゲルは走りこんでそれをキャッチするが、アイリーンはもう『影』を保つ必要はないと判断し、蹴りで火を消した。
「おおっ……姐さん、もう消していいんですか?」
「うん。キミの職業って、相手の影に干渉する魔法が使える……っていうことなんだよね?」
「そうだ。今は手出しする必要はないと思ったが、これくらいはしても邪魔にはならんだろう」
「ええ、助かりました。相手も死にもの狂いですから、捨て身で突っ込んでこられると手傷を負う可能性がありますし」
「何してるのか全然分かんなかったっすよ……つまり、どういうことなんです?」
「敵の影に魔法をかけて、足を地面に縫い留めてる……ってことですかね? アイリーンさん」
「うん、正解。それを戦いの中で判断できるようになったら一人前だね」
リゲルがおお、と感心し、マッキンリーは少し得意げにする。それを横目で見つつ、ライアはゼクトに尋ねた。
「この魔法を使えば、氷狐を捕獲するのは容易なのではないですか?」
「ゴブリンならば容易にかかるが、あくまでも初歩の技術だ。俊敏に動き回る『あれ』に通じるなら苦労はしていない」
ゼクトの言葉にアイリーンはそうそう上手くはいかないものだ、と肩をすくめる。
捕獲を行うには、捕獲対象と同じランクの者が複数でパーティを組むか、単独ならば1ランク上でなくては難しいとされている。
氷狐の強さはSSランクに相当する。それを抑え込めるとしたら、このパーティではアイリーンしかいない。
絶対に失敗できないと、アイリーンは気を引き締めなおす。
そのとき、間近に迫った二階層から、強烈な冷気が吹きつけてきた。風に乗って飛ばされてきた白く冷たいものが、一行の肌に触れて消える。
「これは……雪……?」
「二階層にとどまっていたか……四人とも、油断するな。おそらく、この先に……」
「おいおい……一匹だっていう話じゃなかったのか? なんだ、あの群れは……!」
二階層に降りる下り坂。その先の広い空間に、白い獣が群れをなしている。
――雪狼。その集団が円を作って何者かを囲んでいる――まるで、崇めでもしているかのように。
「あれが、氷狐……雪狼の群れを従えているのですね」
「この迷宮のボスになっちゃってたみたいだね。ありうるとは思ってたけど。こうなると、やっぱり三人にも頑張ってもらわなきゃ」
「ういっす! 姐さんは氷狐に集中してください! 俺たちはこっちに来た雪狼と戦います!」
「あまり近づかれるとキツイな……ライア、マッキンリー、よろしく頼むぞ」
「分かっています。ブレスをまともに受けると凍傷を起こしかねませんから、気を付けてください」
ライアとリゲルが武器を構える。マッキンリーはその後ろで、アルバレストに火炎弾を装填した。
「3、2、1……行くよっ!」
アイリーンが駆け出し、ゼクトがその後ろに追従する。雪狼のうち何体かはゼクトの『影縛り』で動きを止め、彼の投擲したスライサーで一網打尽にされる――しかし、飛ぶように駆けて地面に足をついていない瞬間にすり抜けた雪狼たちは、獲物とみなしたリゲルとライアに数体で飛びかかる。
「速ぇぇっ……だがっ!」
リゲルが剣を一閃、雪狼の一匹が怯む。そこにマッキンリーの火炎弾が着弾し、燃え上がって雪狼たちが怯んだ瞬間に、ライアが踏み込んで、鞘から抜き放った刀で二体をまとめて切り払う。
彼らが戦えていることを確認し、アイリーンは暗がりの中に浮かび上がる、氷狐の姿に向かって高く跳躍する。
ゼクトの目には、アイリーンの跳躍は高すぎるように見えた――しかし理解する、彼女はあえて天井に届くように飛んだのだと。
氷狐の目が空中のアイリーンを捉え、銀色の輝きを放つ。そして巻き起こった氷雪の嵐で、アイリーンの視界が遮られる――しかしそのまま、彼女は赤く輝く魔力で全身を覆って防護しながら、洞窟の天井を蹴って反転し、氷狐を強襲する蹴りを放った。
「シュペリア流格闘術奥義……『天崩破山脚』!」
天井にヒビが入るほどの踏み込み――『震雷』を入れ、その力をすべて、氷狐に向かう推進力に変える。
――しかし回避不能のはずの蹴りが空を切り、氷狐のいたはずの地面を砕き、巨大な穴を穿った。
(さっきの雪の嵐は、攻撃じゃなくて目くらましのため……!)
ぞくり、とアイリーンは鳥肌が立つような感覚を味わう。次の瞬間、ゼクトの投げ放ったスライサーが、アイリーンの視界を奪い続ける吹雪の中を駆け抜けていく。
ギィン、と音を立ててスライサーが弾かれる。吹雪に紛れて姿を消していた氷狐が、一瞬だけ姿を現し、再び雪に溶け込むようにして消えてしまう。
「この吹雪が続く限りは、『目以外』であれの居場所を知るしかない」
「そういうことだよね……っ!」
氷狐のことを事前から知っているゼクトの方が、気配を感知することに関しては慣れている。しかしそんな彼でも、氷狐に近づくことはできていない。
(どうやって捕まえれば……ううん、何とかしなきゃ。ディックに頼まれたんだから……!)
「っ……後ろだ、回避しろっ!」
「くっ……!」
アイリーンは飛びのくが、突風のような激しさで氷結のブレスを吹き付けられ、身体の一部が雪の塊に捕らえられてしまう。
すでに吹雪が膝まで積もり、武闘家として最も重要な足さばきの自由が利かなくなる。
このままじわじわと体温を奪われ続ければ、どうなるか――。
わずかならず命を脅かされている。そう感じた途端に、アイリーンの胸の中には、今までにない感情が湧き上がった。
「……キミならあたしたちのところまで来られるかな。やっぱり、難しいかな……?」
ゼクトはスライサーを構える。次にアイリーンに攻撃するために氷狐が姿を現せば、その時は――影撃士としての最大の攻撃を繰り出し、氷狐に深手を負わせるつもりでいた。
「手は出さなくていいよ。あたしに任せてって言ったでしょ?」
ゼクトの手が止まる。この状況で何を言っているのか、いくらアイリーンが強者とはいえ、凍結させられてしまえば動きの自由は利かず、氷狐の次の攻撃をまともに受けてしまう。
強者が強者たりえるのは、生命力が無尽蔵であるからではない。敵の攻撃をまともに受けず、被害を最低限にする立ち回りができてこそなのだ。
運が悪ければ、どれほど強くても勝負を落とすことはある。それは無理もないことだ、ゼクトはそう思いながらも、ぴくりとも動くことができなかった。
――ゆらり、とアイリーンの体を包む赤い魔力の発露が、その量を増す。
彼女の桃色の髪の色が、真の紅に近づいていく。その瞳から放たれる赤い光に、ゼクトは子供のころ以来感じたことのなかった思いを味わっていた。
恐ろしい。
決して、触れてはならない。ゼクトは微動だにもできないまま、アイリーンの魔力が爆発的に膨れ上がるさまを見ていた。
「……妖艶にして、鬼神……アイリーン・シュペリアなのか……?」
アイリーンの体を凍結させていた氷が解けていく。もはや必要ないというように、アイリーンは羽織っていたコートを脱ぎ捨て、ドレスだけの姿となった。
彼女の体からあふれる魔力の密度は、あまりにも高すぎた。その短く目立たない角からは、赤い稲光がほとばしり、彼女の周囲の雪は存在することも許されず、球形に蒸発している。
「これでやっと自由に動けるよ。ごめんね、大人げなくて」
鬼気迫る姿に似つかわしくないほど、アイリーンは穏やかに微笑む。
そしてゼクトが一度瞬きをしているうちに、アイリーンの姿はそこから消え、離れた位置に移動していた。
後ろを取られた氷狐が高い声を上げ、尾を振るって氷の刃を放つ――しかしアイリーンは素手でそれを受け止め、握りしめて粉々に砕く。
今の彼女に攻撃を通すことができるのは、同じSSSランクの者だけ。
氷の狐はそれでも最後の抵抗を試みる――野生の目覚めた獣は、命を賭してでも住処を守らなければならない。
しかし、もうその必要はない。アイリーンはただの手刀で、氷狐の首につけられている首輪を断ち切る。
「――マッキンリー!」
「っ……当たれええええっ!」
リゲルとライアが雪狼を退けているうちに、後方にいたマッキンリーは、ちょうど麻痺弾を装填したところだった。アイリーンの声に応じて麻痺弾を放つ――回避のために動こうとする氷狐は、足が地面に縛りつけられていることに気が付く。
影縛り。ゼクト自身が通じないと言ったはずの魔法は、氷狐がアイリーンに気を取られて動きを止めたことで、その効果を発揮していた。
氷狐の身体に、麻痺弾が着弾する。すると、少しの時間を経て、侵入者への敵意に満ちていた瞳が閉じられ、その身体は動きを止めた。
その体長はアイリーンでも抱えあげられるほどに小さい。この獣が、吹雪を御して暴れまわっていたのかと思うと、彼女は苦笑してしまう。
「こんなかわいい狐さんに、ひやひやさせられちゃったんだ……あたしもまだまだだね」
アイリーンの姿は、すでに元に戻っていた。ゼクト以外の誰も、彼女が先ほどまでどんな姿をしていたのかを見ていない――吹雪が吹き荒れていたからだ。
「……『影縛り』を解く。もう、必要あるまい」
ゼクトが魔法を解くと、氷狐はその場に横たわる。そして、アイリーンの見ている前で、その姿が変化していく――人の姿へと。
眠っていても明らかなほどその容貌は整っていて、肌は辺りに積もった雪と変わらぬほど白く、幼さを感じさせる見た目ながら、アイリーンの目からはユマと比べると一回り発育が進んでいるように見えた。
――発育状況などより、それ以前に。アイリーンは脱ぎ捨てたコートを拾って羽織りつつ、目を瞬かせてゼクトに尋ねた。
「……お、女の子だったの……?」
「これを見て男だと思うのか?」
ゼクトはこともなげに言うと、自分の外套を脱いで少女にかける。アイリーンはまだ理解が追い付かず、寝息を立てている少女を呆然と見つめる。
後からやってきたリゲル、ライア、マッキンリーもまた、氷狐の正体を見て驚きの声を上げ、それでようやくアイリーンは、目の前の事実を受け入れることができたのだった。




